あなたは写真家になれるか

自分にとって写真とは何か、なぜ写真なのか、少しだけ前向きに考え楽しんでゆきます。

青の時代

2013年06月30日 | 写真


ピカソには青の時代が存在した。
ピカソではないが、ちょっとだけ青色にして見た。





ピカソの青と違って憔悴した本人の表情もない、悲哀の色と悲壮感ももちろんない。
自負心もない。
上手さもない。

ただ、真夏の前の海辺の2枚。

青と若干の緑だとこんなものか。

写真って、この程度のもので良いのだろうか。

良いのです。

楽しんで、色々と出して見ればそれが何かにつながるはず。

続けることこそ写真なのです。

皆さんも頑張って。

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赤いバラのような強い心と、緑の中の優しい精神

2013年06月26日 | 写真



薔薇のような情熱と強い心が写るのではないかと期待していた?
そんな思いを抱いてシャッターを切ることは、ほとんどない。
写真には、そのような感情を持ちながら期待してシャッターを押しても、
それが本当に写るとは限らない。
自分が使っているのは、カメラと言う機械なのだから。
感情なんてない。
カメラにあるのは、レンズを通して通過してきた光を素直に写す能力のみ。
何枚か写真を撮った。
その中から、選んで加工した一枚。
柔らかい光の中で、「赤いバラのような強い心。」を表現したつもりだ。
人は色んな生活の中で時に、この薔薇のような強い心を持って生きてゆかなくてはならない。






柔らかい緑の光の中で、いろんな精神的な感情が交差する。
情熱だけでは上手くいかない。
人は、日々交差する自分と自分以外の他人とのバランスを取って生きている。
この植物は、自然の中で自分なりに周りとの間合いを上手く取りながらここまで成長した。
写真も自分本位の写真ではだめなのだろう、自分の意見とそれまで生きてきた色々な思惑を背負って変化していくものなのだろうか。
人も自分の写真も、そうして成長し行くのもなのだろう。
それにしても、ささやかだが自分にとって緑の植物は心が落ち着く。
精神的な支えは誰もがいくつか持っている。
緑の中の優しい光は、私の精神的な支えの一つでもある。
毎日何かを思いながら、写真と自分との関連性を持考える。
そんな日々が好きだ。

この日一日全てに感謝しています。
有難う御座いました。
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EOS 6D

2013年06月24日 | 写真


昨日、EOS 6D と単焦点の40mmレンズをカメラ屋で見ました。

銀塩大好きな私ですが、多少心が動いています。

「写真はレンズで決まる。」・・・はずはないのですが。

レンズも表現の一部ですので、それに見合っていれば、レンズでも決まるかもしれません。

6Dと40mmの組み合わせ。

手に馴染んで良い感じでした。
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「明暗と色」

2013年06月15日 | 写真



今日は朝からパソコンで、「情熱大陸・金村修」を見ていた。

あの人も、特別だ。
私の好きな写真家の一人。

明るさと暗さ、カラーとモノクロと。

金村修の写真はそんな単純なものではない。
自分の感性で、気に入った写真。
当たり前だが、そんな写真しか選択しない。

ただ単純に、明るさと暗さ、色をもてあそんでいる私のこの手の写真とは
表現の種類と質が違いすぎる。

画面に写っている被写体の違いももちろんあるが、
それをのぞくと写真とは、明るさと暗さ、カラーかモノクロか、そんな単純な芸術だ。

もちろん他にも色々な要素が入り込むが、とりあえずシャッターを押せば写真は撮れる。

同じカメラを使って、同じ場所、同じような被写体を狙っても、絵と同じように
出来上がった作品は人それぞれ違う。

自分のスタイルとは何なのか。
はたして自分にスタイルはあるのか、もう一度自身に問うてみよう。

「明暗と色」は写真の要素のほんの一部にしか過ぎない。

もっと大切なものを見つけよう。







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梅雨の祭り

2013年06月14日 | 写真


梅雨時になると、近所で祭りがおこなわれる。
この神様は、雨が好きな神様らしい。
毎年、ほとんどの確率で雨が降る。

でも今年は、降らなかった。
ちょっとは「ぱらっと」降ったかなぁ。

画像は、子ども神輿に付いてゆく人の後ろ姿。

ピーカンに晴れた日。
神様の事を思って、せめて画像だけでもと梅雨らしくどんよりさせてみた。

と言うよりは、画像を暗く見せるのが、今ちょっとだけマイブームなのだ。
マイブームなんて言葉は今はあまり使わないか。

あまり暗くし過ぎると不快になる。
普通の明るさだと、この写真あまりにも退屈だ。
せめて、画像を暗くして何かが写っているのではないかと言う期待感だけは演出しておこう。

写真は、もっと華やかであるべきだと思うが、あまりにも普通すぎてしまった。
私の写真ライフと同じだ。

まあ、そのうちまた普通の写真に戻すか。




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雨。(見えない何者かを見る。)

2013年06月06日 | 写真

人は、天候に感情が左右される。
そう言う人が多いと思う。
「自分はそうでない。」っと言い切れる人はいないのではないか。

雨が降ると、色んな事を思う。思い出す。
人生の思いの数だけ、人は見えない何者かを背負って生きている。

この写真に何かが見えるわけではないが、人それぞれ思いは違うがこの写真に何かを期待して、
何かを見ようとするはず。

何が写っているのか。
その画像に隠された何かを探して、少し真面目にこの写真を覗き込む。

ウエブ上の写真は、画面の見る角度によって、画像が明るくなったり暗くなったりする。
上から見ると明るく見え、下から見ると暗い。
見る人の自由だ。

紙焼きのプリントはそうはいかない。
ごまかしは、きかないのだ。

写真は、紙に焼いてこそだろう。

見えない何者かを見たいのならば、
写真は、プリントを見るべきであろう。

その中に、その人が何者であるのかが見えるはず。
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見えている事、見えない事、見る事。

2013年06月04日 | 写真

目の前には、いくつかの見え方が存在する。

見えていると脳がただ認識しているもの。

目は開いていて対象を見ているが、脳が見ていると認識していないもの。要するに見ていないもの。

そして、見る事。脳が見ていると明らかに認識しているもの。

それ以外にも無数に見え方が存在すると思う。

ただ、被写体は見ることから始まる。
対象を見つめること、何が存在し、何がそこに見えるのか。

人は写真を撮るとき、確かに見ているはずだが写真には写ったものの、
見えていないもの見ていなかったものまでをも写し撮る。

まず、対象を見よ。

良く見よ。

見ることこそが、始まりなのだから。







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