萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

インドを走る!part2 第33話「ガヤからパトナ 鉄道の旅」

2010年03月10日 | 自転車の旅「インドを走る!」

<マーケットのカリー屋さん。>

夕方、ブッダガヤからガヤのホテルに戻る。下の店でチャイを呑んでいると一日本人来る。カシミールのスリナガルから直接ここへきたらしく、暑さにまいっている様子。めしはステーションのレストランがうまいと教わる。夜、そこへ行ってみると彼が居た。二人で食事してから、彼の電車の時間まで話をしているとブッダガヤの話に及んだ。彼は昨日、あのチビ(日本の観光客相手に商売している少年)の一人の家へ行き、いろいろ話を聞いたらしい。

「あいつ等は日本人をバカにしきっている。日本人をカモにして金を儲けている。あの数珠なんかは、たかだか5~10RSぐらいのをバカな日本人に時には100ドルで売れるらしい。その数珠を大量に日本の信者達に送ってる日本寺の坊さんは『おまえ等は俺達のお陰で儲けているのだから、デリーからいい女を呼んで来い』といって呼ばせているらしい。

また、日本人の女は特別カモで、日本語で口説けば簡単に落ちるという。子供でも相手をするという。日本の女はすぐやらせてくれる、というのはブッダガヤでは有名な話らしい。それで彼女達は日本へ帰ってこう言うそうである。『あたしはブッダガヤで人生観が変わったわ』と。知らぬ人はこれを仏教の聖地のたまものと受け取るに違いない。仏教の退廃、ここに極まれりである。」

と彼は語った。私はある程度は予想していたが、そこまで酷かったのか、と思うと大変なショックを受けた。そんな日本の坊さんや女ばかりを見ていれば、あの地元のチビたちが日本人を侮るのも致し方無いではないか。

遥か昔、難行苦行の末、煩悩を振り払い釈迦がここで悟りを開き、「仏陀(=悟りの境地を持つ者)」となった聖地が、観光地化され強欲渦巻く日本人やらインド人達に汚されている。なんとも、皮肉なことだ。ラジギールの誠実に人生を見つめていた坊さんが気の毒になった。夜、ムシャクシャした気持ちを抱きつつ寝る。


1980年4月28日(月)

長かったこの旅も自転車での旅はこのガヤまでで終了だ。パトナまでは鉄道で戻る。もちろん、自転車も積んでいく。日本と違って、インドでは自転車もバラさずにそのまま積めるのだ。4月30日にパトナ空港からカルカッタまで飛行機で行き、そのまま、バンコック経由で成田へ帰る。もう、この旅も終わりだ。

早朝五時二十五分の列車に乗ろうとして、四時半ごろガヤ駅へ行き、切符を買って、自転車も持込みたい由を伝えると、オフィスのオヤジ、五時二十五分のには自転車は載せられないと言い出す。他の荷物が一杯で自転車を載せるスペースがないのだという。半信半疑であったが、七時発の列車ならOKというので、仕方なくその列車にする。

自転車持込代はいくらだと聞くと、自転車に荷札を付けなければ載せられないようなことを言っている。早口のヒンディーイングリッシュなので、意味がよくわからない。「こちとら、中学生程度の英語力しかないのだ。もっとゆっくりと分かり易く言ってくれよ」と内心思いながら、しつこく聞いていると、向こうもようやく丁寧に教えてくれる。

なんでも、ブリキ板にアドレス、ネーム等を書き込んでそれを自転車に取り付けて持ち込まなければならないらしい。なるほど、盗難や紛失防止策としてはもっともである。で、ブリキ板は何処にあるのか、と聞くとマーケットへ行けという。駅では用意していないようだ。不便なことだと思ったが、七時の発車時間まではまだ間がある。朝飯も食べていなかったので、マーケットのカリー屋に入って食事がてら店の主人に話すと空き缶を持ってきて広げてくれ、これでOKだという。

ブリキ板を持って駅に戻る。記入用のマジックかなんかを貸してくれるのかと思っていたら、ペイントで書かなければ駄目だ、という。ペイントは何処だと聞くと、また、マーケットだといいやがる。そのくらい用意しとけよ、インド人!

しぶしぶと先程のカリー屋に行き、ペイント屋のありかを聞く。教えてくれた場所まで行くがよくわからない。ウロウロしていると、そこへ「ハロー、トモダチ」と日本語で話しかけてくるインド人あり。普段ならいい気持ちはしないのだが、こういう時は利用する。

ペイント屋はどこだ、と聞くと、得意気に「ついてこい」と言って駅の方へ行く。駅の側にあるのかと思っていたら、彼氏、ウロウロしたあげく結局要領を得ず、わからないと言う。バカヤロー、気安く日本語を使うな!また、時間を無駄にしたではないか。

再び、教えてくれたペイント屋の場所に戻って、その辺りに居た人に聞くと、まだ、朝早いので開いていないという。「何ぃ~。俺はいつになったら列車に乗れるんだ!」と思ったが、考えてみればまだ朝の六時過ぎだ。大抵の店は開いてるわけがない。しかし、そんなことは駅員のオヤジだって判っているはずではないか。彼は私に嫌がらせをして、金でもせびろうとしているのに違いない。

憤然として、また、駅のオフィスに行く。ペイント屋は閉まってたぞ、と気色ばった顔で言うと、さすがに駅のオヤジも仕方ないと思ったのか、「通っていい」と言う。なんだと。ブリキ板には何も書かなくても乗れるのか。だったら、早く言えってんだ。この何十分間の苦労は何だったんだ。と腹が立ったが、残念ながらそれを伝える会話力がない。まァ、ゴネてまた乗れなくなってもいかんので、「いい」というのだからそのまま自転車を持ってホームへ入った。

パトナ行きは何番線かと聞くと五番だというのでそこまで行く。自転車は何処へ載せるのかと聞くと一番後ろだという。最後尾の車両が荷物を載せる所らしい。中に入ると、スリーパー(二段ベッド)はあっても座席はない。もう何人か板敷きのスリーパーの上に乗っていた。薄暗い車両に乗り込み、片隅に自転車を置いて鍵を掛け、スリーパーに上がり込んだ。と、まもなく列車が動き出した。インド人のやることだから、定刻過ぎても長々と待たされるのかと覚悟していたのだが、ちゃんと走り出したではないか。スリーパーにも寝転がれたし、まずはひと安心だ。

次の駅で車掌が乗り込んできた。私の切符を見て「君は列車を間違えた。君の切符はエクスプレスだが、これはラージエクスプレスだ。」といって追加料金と自転車代合わせて10ルピー取られた。ほんとかね。

車内は始めこそ空いていたが、段々と人が増えてきた。やがて、この車両にミルク屋がミルクとそれを運ぶ竹ざおを大量に持ち込んで来たので、たちまち満員スシ詰めとなる。寝ているどころではなく、壁の端に追いやられる。それでも私のところはまだいい方で、向こうのスリーパーでは人が折り重なっている。日本の満員電車は立っている状態のスシ詰めであるが、こっちは二段ベッドなので折り重なってのギューギュー詰めである。景色などは見えぬ代わりに人の足や背や顔が沢山みえる。地獄絵図のようだ。

おまけに、陽が段々と昇り、このこ汚ない木造車両の内側まで暖め始めた。人がビッシリなので風は通らぬ。気温の上昇と人いきれで非常に蒸し暑い。灼熱地獄だ。あげくの果てに、私の真上のスリーパーに座っている奴が屁をひとつたれやがる。板の隙間から下に居る私の辺りに匂いが落ちてきて籠もる。最悪だ。

拷問を受けているような、そんな空間に二時間半ほど押し込まれて、いい加減、我慢の限界だと思った10時ちょっと前。停車した駅にインド人達がゾロゾロと降り出す。もしや、と思い「ここはパトナジャンクションか」と側の人に聞くと、そうだと答える。助かった。やっと、着いた。地獄列車からようやく解放されたのだ。

やっぱり、疲れはしても自転車の旅の方が快適だと思い知らされたのだった。

                  (つづく)

インドを走る!について
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする