家から五分ほど歩いたところにある敷島神社。
子供の頃の遊び場であり、初詣の場所、志木の夏祭りの御輿の収納庫があり、子供達の七五三のお祝い、また厄日のお払いなどをしてもらった神社である。特別大きな神社ではないが、私にとっては、とても身近な神社である。
神社にある狛犬。小学生の頃、この上に跨ってよく遊んだものだ。
この神社にある「田子山富士」は 「ふるさと埼玉史跡100選地」である。
ここには、「田子山富士塚」の案内板が建てられている。
「この富士塚は、古墳と言われてきた「田子山塚」の上に盛土をして築造されてものです。
富士塚とは、富士山を模して築かれた人造の小山で、主に江戸時代から明治時代にかけて築造され、県内だけでも約百基の富士塚が現存し、市内では、このほかに一基羽根倉の浅間神社にあります。
田子山富士築造の発起人は、後に富士講の先達となった高須庄吉で、富士山を大変崇敬していました。
庄吉は、この地を散策中に富士山に入廷したといわれる十瀧房承海の曆応三年(1338)の逆修板碑を発見し、大いに感激して同志を募って築造に着手しました。
工事は、明治二年(1869)十月から五年六月にかけて行われました。
塚は、高さ十二メートル、樹木や岩石の配置に工夫がなされており、富士山に模して登山道・人穴・胎内・烏帽子岩・釈迦割石や富士山から運んだ溶岩などが置かれ、頂上の祠の中には木花咲耶姫命が祀られています。また塚のふもとには、浅間神社の祠があり承海の逆修板碑が祀られています。 志木市教育委員会」
「山の規模もさることながら、特に石造遺物の数と種類、細工は他の富士塚と比較しても並はずれて優れており、当時の引又河岸や富士山信仰を知る上で欠かすことのできない貴重な文化財である。なお、「富士塚」としては県指定第1号であり、市内における県指定文化財としても第1号である。 志木市ホームページ」
この田子山富士の麓にはひっそりと「すみれ」が咲いていた。白いのは、散った桜の花びらである。
こうした富士塚は東京は神田にもあったから、結構、関東各地に沢山あるのかも知れない。頂上から必ず、富士山が見えるように作られたという。この頂上から富士を見た記憶はないが、昔は私の家の二階からも見えたし、志木小学校の教室からも鮮やかに富士が見えた。お隣の町は、富士見市でもある。だから作られた当時、ここからも見えたことは確実である。
現在は立ち入り禁止なので確かめたわけではないが、多分、頂上に立っても今は、周りに多くのビルが建ったので見えないだろう。
それにしても、この塚を作るのに三年近くもかかっているのは驚きだ。昔は、この塚程度のものを作るのに、ずいぶんと労力を要したのだ。
こちらの写真は、敷島神社からはだいぶ離れた志木市羽根倉にある「羽根倉浅間神社」の富士塚である。
ここの敷島神社周辺で武蔵野丘陵(左側)は終わり、新河岸川へと崖地になっている。こうした地形に富んだ地に富士塚や神社は建てられたのであろう。
新河岸川の右岸の遊歩道を歩いて帰る途中、写生をしている人に出会った。隣町の朝霞市三原に住んでいるという。「地元の黒目川はずいぶん描きました。でも、志木市のここは、ソメイヨシノがすでに散ってしまって、ちょっと寂しい」という。でも、こうした景色を水彩で写生するのも優雅な趣味であると思う。
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子供の頃の遊び場であり、初詣の場所、志木の夏祭りの御輿の収納庫があり、子供達の七五三のお祝い、また厄日のお払いなどをしてもらった神社である。特別大きな神社ではないが、私にとっては、とても身近な神社である。
神社にある狛犬。小学生の頃、この上に跨ってよく遊んだものだ。
この神社にある「田子山富士」は 「ふるさと埼玉史跡100選地」である。
ここには、「田子山富士塚」の案内板が建てられている。
「この富士塚は、古墳と言われてきた「田子山塚」の上に盛土をして築造されてものです。
富士塚とは、富士山を模して築かれた人造の小山で、主に江戸時代から明治時代にかけて築造され、県内だけでも約百基の富士塚が現存し、市内では、このほかに一基羽根倉の浅間神社にあります。
田子山富士築造の発起人は、後に富士講の先達となった高須庄吉で、富士山を大変崇敬していました。
庄吉は、この地を散策中に富士山に入廷したといわれる十瀧房承海の曆応三年(1338)の逆修板碑を発見し、大いに感激して同志を募って築造に着手しました。
工事は、明治二年(1869)十月から五年六月にかけて行われました。
塚は、高さ十二メートル、樹木や岩石の配置に工夫がなされており、富士山に模して登山道・人穴・胎内・烏帽子岩・釈迦割石や富士山から運んだ溶岩などが置かれ、頂上の祠の中には木花咲耶姫命が祀られています。また塚のふもとには、浅間神社の祠があり承海の逆修板碑が祀られています。 志木市教育委員会」
「山の規模もさることながら、特に石造遺物の数と種類、細工は他の富士塚と比較しても並はずれて優れており、当時の引又河岸や富士山信仰を知る上で欠かすことのできない貴重な文化財である。なお、「富士塚」としては県指定第1号であり、市内における県指定文化財としても第1号である。 志木市ホームページ」
この田子山富士の麓にはひっそりと「すみれ」が咲いていた。白いのは、散った桜の花びらである。
こうした富士塚は東京は神田にもあったから、結構、関東各地に沢山あるのかも知れない。頂上から必ず、富士山が見えるように作られたという。この頂上から富士を見た記憶はないが、昔は私の家の二階からも見えたし、志木小学校の教室からも鮮やかに富士が見えた。お隣の町は、富士見市でもある。だから作られた当時、ここからも見えたことは確実である。
現在は立ち入り禁止なので確かめたわけではないが、多分、頂上に立っても今は、周りに多くのビルが建ったので見えないだろう。
それにしても、この塚を作るのに三年近くもかかっているのは驚きだ。昔は、この塚程度のものを作るのに、ずいぶんと労力を要したのだ。
こちらの写真は、敷島神社からはだいぶ離れた志木市羽根倉にある「羽根倉浅間神社」の富士塚である。
ここの敷島神社周辺で武蔵野丘陵(左側)は終わり、新河岸川へと崖地になっている。こうした地形に富んだ地に富士塚や神社は建てられたのであろう。
新河岸川の右岸の遊歩道を歩いて帰る途中、写生をしている人に出会った。隣町の朝霞市三原に住んでいるという。「地元の黒目川はずいぶん描きました。でも、志木市のここは、ソメイヨシノがすでに散ってしまって、ちょっと寂しい」という。でも、こうした景色を水彩で写生するのも優雅な趣味であると思う。
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