こころの平和から社会の平和へ

水島広子の活動報告や日々思うことを述べさせていただきます。この内容はメールマガジンで配信しています。

退院支援施設

2007年01月31日 | 活動報告
この4月から施行予定の精神障害者「退院支援施設」構想をめぐって、当事者によるシンポジウム「精神障害退院支援施設を考えるシンポジウムの集い 『人間として誇りと希望を持って生きていきたい - 精神障害者退院支援施設は嫌です - 』が本日参議院会館で開かれました。私もシンポジストとしてお招きをいただいたので、出席いたしました。

よくご存じない方もいらっしゃると思いますので、簡単に説明いたします。

ことの発端は、「7万2千人の社会的入院患者」でした。

日本の精神科病床の異常な多さは、国際的にも群を抜いています。
諸外国が障害者を地域に返す取り組みに力を入れ精神病床数を激減させていた頃、日本は反対に精神病床を増やしていきました。そして、病床の多さに比べて人手は少ないので、「精神科特例」という仕組みまで作りました。精神科病床だけは他科に比べて人員配置が少なくても良い、という決まりです。

病床あたりの人員配置が少なければ、それだけ「医療密度」が下がります。結果として、良質の医療を提供して早く退院できるように努力することが難しくなります。そして、精神障害者は長期入院をするのが当たり前になってしまい、地域で普通に暮らす障害者が増えず、偏見も解消しない、という構造が放置されてきました。

医学的理由によって入院しているわけではない「社会的入院」患者が、7万2千人はいると言われ(この算定方法にもいろいろと問題があるようですが)、厚生労働省は、心神喪失者医療観察法案など乱暴な法案を通す引き換え条件として「社会的入院を10年間で解消する」と約束したのです。精神障害者をめぐる様々な「問題」の多くが、実は低いレベルの精神医療を放置していることによるものだという私たちの指摘に基づいてのことでした。

10年の期限が刻々と近づいているのに、その後も遅々として状況が進まないので、一体どうするつもりだろうと思っていたところ、今回の退院支援施設構想が出てきたわけです。

さすがに反対が強かったため昨年10月の施行は見送られましたが、この4月からは何とか施行しようとしているようです。

この「退院支援施設」では、病棟を改装して看板を架け替え、医師や看護師が生活支援員に変わり、患者は「退院」扱いになります。が、定員は20~60名で4人1部屋で良く、人員配置も高くなく、利用期限は「原則」2~3年とは言うものの結局は病棟が形を変えただけの「終の棲家」になるのではないか、ということが危惧されています。なぜかと言うと、精神障害者が地域に戻れない要因はもっと別のところにあるわけですし、そもそも本当に退院を支援して施設を利用する人がいなくなってしまったら経営が立ち行かなくなるからです。少し考えてみれば、この構想が大変おかしなものであることがわかります。

今日のシンポジストの中には、大阪のさわ病院の澤温院長もおられました。さわ病院のような質の良い精神科病院は、現在の制度の中でも、実に活発にノーマライゼーションに取り組んでおられます。他方、人権感覚に乏しく患者を囲い込むことで収益を上げている精神病院も残念ながらまだ多数存在しています。

今一番のテーマは、こうした病院間の格差をなくすためにも、精神障害者を地域に返すことが経営上もプラスになるような仕組みを作ることです。経営のことを考える経営者を責めることはできません。患者を囲い込んでいる限り安泰に暮らせて、努力すればするほど赤字になるような現在の制度がおかしいのです。

また、地域の受け皿ということで言えば、退院支援施設に余計なお金を投資するのではなく、小規模グループホームを作ったり、公営住宅の一定割合を精神障害者に割り当てる、というような対応が必要です。退院支援のためのハコモノは、努力するほど存在が危うくなる自己矛盾的な存在になってしまいますが、地域に根ざしたハコモノは投資する価値があるでしょう。

心のバリアフリーはなかなか進みませんが、偏見解消のためには、とにかく共に生きることが重要です。障害があろうとなかろうと人間は人間なのですから、共に生きる中で共有できることが多くなります。そのためには、少々思い切ったポジティブ・アクションが必要です。

すでにこうした取り組みが成功している先進例がいくつかあるわけですから、それを厚生労働省も学んで、有効な投資をすべきです。

また、「7万2千人を10年で」という数値目標だけが一人歩きしてしまった結果、こんなにおかしな構想に追い詰められてしまうのですから、なぜ社会的入院が問題とされたのかという原点に返るべきです。

シンポジウムで発言したのですが、行政を責め、「とんでもない」と怒っても、結局はおかしな制度が実現してしまうということが繰り返されています。
このあたりで、先進例から学びながら、行政も民間も力を合わせて前進できるような新しい気運を作る必要があると思います。
「怖れ」をテーマにしている私からみると、いろいろと考えさせられることの多い一件です。

なお、精神障害者のノーマライゼーションは、決して「一部の特別な人たちのかわいそうな話」ではありません。心のバリアフリーは、たとえば、現在社会的に大きな問題になっているいじめや格差とも深い関連があります。精神障害者が地域で生き生きと暮らせる社会が実現すれば、その地域で育つ子どもたちも他人とのつながりを大切にしながら生き生きと育つことでしょう。

政権与党とメディアと野党

2007年01月27日 | 活動報告
本日、「愛川欽也のパックインジャーナル」に出演しました。

安倍内閣支持率低下を中心とした国内政治の話題、イラク増派をめぐるブッシュ対アメリカ世論、ゼネコンの談合問題、米朝会議、「納豆」データ捏造問題、と、それぞれが番組全部を費やしても良いようなテーマばかりでした。

今日はかねてから注目していたニューヨーク市立大学の霍見芳浩教授ともご一緒できて良かったです。ハーバード大学でブッシュ大統領を教えた経験のある霍見先生は、政権誕生当初からブッシュ政権を一貫して批判されています。学生時代のブッシュ氏が「人が貧しくなるのは、怠け者だからだ」と言っているのを聞いて、人間としての浅さに愕然としたそうです。

今日のテーマは多様でしたが、ほとんどのテーマを貫く一つの大きな論点が「メディアのあり方」だったと思います。

ここのところは事務所費等をめぐる「政治とカネ」問題が連日報道されて、またまた政治のイメージを下げているのですが、私は「おなじみの違和感」を覚えています。何についてかと言うと、閣僚など政府の中枢にいる人たちの疑惑と、野党である民主党の疑惑が、全く対等か、あるいは、民主党の方が問題であるかのように報道されているのです。民主党の方が問題であるという根拠は、「自分たちが襟を正さずに、政府与党を攻撃できるか」ということのようですが。

実はこの同じパターンで、過去には年金騒動で菅さんが代表辞任に追い込まれたこともありました。

政府与党には、二つの役割があります。
一つは、公権力を持つ政府としての役割です。この場合、対立する相手は、権力の行使を受ける国民ということになります。
もう一つは、与党という政党としての役割です。この場合、対立する相手は、取って代わり得る、野党という政党になります。

国民、そしてその木鐸たるメディアは、二つの目を持つ必要があります。
一つは、公権力を監視する目です。これは、自分たちに権力を行使する相手を見る際に、絶対に必要な目です。
もう一つは、政権を選択する目です。自民党が良いのか民主党が良いのか、二つの政党を比較する目です。

後者においては、自民党と民主党は対等ですから、「自民党もどうしようもないけれども、民主党もだらしがない」という議論は成立します。両者の政策や政党としての体質は、どんどん比較すべきです。

でも、前者については、あくまでも公権力対国民なのです。権力を監視する際には、野党もその一つの道具として監視に参加すべきなのです。

私はこちらの要素がすっかり忘れ去られているような気がしてなりません。

今朝の朝日新聞の朝刊の社説は、1つめが「いくら徳目を説いても」と、疑惑に対処できていない安倍首相を批判し、2つめが「今度は小沢氏に聞きたい」と、さらに疑惑が残っている民主党を批判しています。両者が対等に論じられているところに、違和感を覚えるのです。

「民主党が政権交代可能な政党として認識されている証拠」などとおだてられることは簡単ですが、政党対政党という軸しか認識していないということになります。

民主主義社会では、市民は公権力をきちんと監視する義務がある、ということが忘れ去られてしまうのは危険なことです。

こういう風潮づくりに貢献しているのは、メディアも大きいですが、当の民主党もそうだと言えます。よく、「対立路線か、対案路線か」が党の路線の争点になっていますが、この二つを対立する二つの概念のように捉えているところがそもそも間違っていると思います。前述したように、公権力の監視と、政党間の競争というのは、二つの異なる軸なのですから、それぞれにおいて役割を果たせばよいのです。もちろん、前者においては、国民と共に公権力を監視する「対立路線」をとればよいわけですし、後者においては政党として自民党と競争する「対案路線」をとればよいだけの話です。

「対案路線」だけが政権交代を可能にする、という思い込みは民主党がここのところかかっている一種の病気のようにも思います。

今日のパックインジャーナルでは、「メディアは与党に厳しく、野党にちょっと甘いくらいでちょうどバランスが良いのだ」と皆さんがおっしゃっていたので、安心しました。

メディアと言えば、年末年始滞在していたマレーシアの英字新聞では、フセインが処刑された日の記事で、「我々は、アメリカがイラクに侵略してからもたらされた悲惨な被害を忘れてはならない」と書いていました。毎日のように「アメリカがイラクに侵略」という表現を読んでいる人たちと、何となく小泉・安倍路線を支持している日本人とでは、この問題に関する認識が異なるのも当然だろうと思いました。