こころの平和から社会の平和へ

水島広子の活動報告や日々思うことを述べさせていただきます。この内容はメールマガジンで配信しています。

アメリカ報告5 ―― ゲイのカウボーイ映画

2006年01月31日 | 活動報告
 このタイトルに「?」と思われた方もいらっしゃるかと思いますが、実は、今アメリカで大変ホットな話題になっているのがこの映画です。

 Brokeback Mountainという映画なのですが、単なるカウボーイ映画かと思いきや、実はゲイの恋愛映画、というものです。なぜ話題になっているのかというと、アメリカでは、(ブッシュ大統領を見ればわかりますが)カウボーイというのは「男らしさ」の象徴。そのカウボーイがゲイだという設定そのものが、一部の人たちには受け入れがたいことになっているのです。

 聞くところによると、すでにユタ州ではこの映画を上映禁止にしたそうです。「そんなの憲法違反では?」とアメリカ人に質問してみましたが、「ユタでは14歳の少女との結婚が許されているのだ。あそこは私的クラブみたいな州だから、自分たちが決めれば何でも許されるらしい」との答えでした。
 とにかく、そのくらいに、赤の州(赤は共和党の色。赤の州というのは、大統領選でブッシュが勝った、保守的な州ということ。ちなみに、青は民主党の色で、カリフォルニアは青の州ということになります)を中心として反発が強いそうなのです。

 ただ、12月9日にたった6つの映画館(もちろん、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロサンゼルスといった場所の映画館)で封切られたこの映画は、先週は683軒の映画館で上映されるまでに広がってきています(それでも、人気映画に比べればまだまだ3分の1以下という規模だそうです)。サンフランシスコやニューヨークだけではなく、リトルロック(アーカンソー州)やバーミングハム(アラバマ州)といった南部の都市でも予想以上に多くの人が観たそうで、アメリカが今や単に「赤の州」「青の州」に分けられるわけでもない、ということを示しているようです。
 この映画が今年のアカデミー賞のオスカーを受賞する可能性が高い、ということになって、騒ぎが大きくなっているようです。オスカーを受賞すれば、もっと多くの映画館が上映するようになり、「アメリカにゲイが広がる」と懸念している保守層がいるとか。ゲイについて全く理解していないといわざるを得ませんが、それほど恐怖が強いようなのです。

 私はまだ観ていませんが、実際に観た人の話を聞くと、「とにかく素晴らしい映画で、偏見が全くなくなった」という人から、「陳腐なラブストーリー。ゲイに対する偏見はもともとないが、映画としてはつまらない」という人まで、さまざま。ただ、ゲイも要するに人を愛する人間なのだということを描き出し、これだけ社会的な議論を引き起こしたという点では、やはり優れた映画なのだと思います。機会があったらぜひ観てみたいと思っています。

アメリカ報告5 ―― コミュニティ・サービスとしてのアティテューディナル・ヒーリング(その2)

2006年01月31日 | アティテューディナル・ヒーリング(AH)
 前々回の報告で、アティテューディナル・ヒーリング・センターで提供しているグループのテーマをご紹介しましたが、グループがどのように運営されているかというところが、センターの鍵だと思います。

 グループは、ファシリテーター(グループでの話し合いを促進する人)数名と、参加者によって運営されます。精神療法や患者教育のためのグループなどでは、もっと構造化されていることが一般的ですが、アティテューディナル・ヒーリングのグループは、完全に自由参加で、いつでも誰でも参加することができます。何年にもわたって毎週参加している人もいる一方で、時々思い出したようにやってくる人もいて、人それぞれの形で参加しています。
 グループ参加は無料です。毎週水曜日の子どものグループだけは、さらに無料で夕食も提供します。あるレストランが定期的においしい料理を寄付してくれるほかは、センターの経費でまかないます。これはセンター始まって以来の伝統だそうです。
 
 ファシリテーターは、センターで規定したトレーニングを受けた人がなりますが、基本的にボランティアであり、さらに、「転移癌を持つ女性のグループ」であれば、自らも転移癌を持っている女性がファシリテーターをやっていたり、と、当事者であるケースも多いです。これは、まずは自分がグループに参加して救われたという体験から、アティテューディナル・ヒーリングの価値を実感し、トレーニングを受けて、ボランティアとしてファシリテーターを務める、ということのようです。

 このことからもわかるように、アティテューディナル・ヒーリングのグループは、治療グループではなくピアサポート(同じ立場の人たちの助け合い)グループなのです。ですから、サービスを提供する人とされる人という区別はありません。この姿勢は、アティテューディナル・ヒーリングのグループ運営のガイドライン(指針)を見ればもっとよくわかります。

 ガイドラインは全部で9項目あり、アティテューディナル・ヒーリングの原則12項目とともに、グループの始めに参加者が順番に読み上げていきます。12項目の全体は後日ご紹介したいと思いますが、ピアサポートのあり方をご理解いただく上で特に重要なものだけここで抜粋します。

★★★
2 ここにいる目的は自分たちを癒すことです。他人に助言をしたり誰かの信念や行動を変えたりするためにいるのではありません。自分をありのままに受け入れてもらえると、他人を受け入れやすくなります。

4 私たちはそれぞれが独特な存在だということを尊重します。大切なのはそれぞれの人のプロセスなのであって、それを裁くことではないと認識します。

6 生徒と教師の役割は入れ替えることができます。年齢や経験にかかわりなく、お互いが生徒になったり教師になったりします。
★★★

 第2項目で述べられている「助言しない」ということはアティテューディナル・ヒーリングの命のようなものです。正解はその人の中にあるのであって、それを自らが見つけ出すために支えるという姿勢が貫かれています。ある人の話に関連して何かを言いたくなったときは、その人に対する意見という形ではなく、あくまでも自分の経験から自分が話すという形をとります。
 参加者の意見を聞いてみると、助言されないという環境はやはりとても安心できるそうです。自分のプロセスを自分で経ていくことができるからです。ただただ愛情をもって聞いてもらえる環境、そして、助言に対して身構えなくて良い環境、これが自分のアティテュード(心の姿勢)を変えるためには必要な要素なのです。

 アティテューディナル・ヒーリングについては、まだまだ続きます。

アメリカ報告4 ――多様性に富んだカリフォルニアで感じること――

2006年01月23日 | オピニオン
 北カリフォルニアに落ち着いて1ヶ月がたちましたが、本当にこちらではストレスを感じることがほとんどありません。困難がない、という意味ではなく、不愉快な思いをしたり閉塞感を感じたりすることがほとんどないのです。

 なぜなのだろう、と、日本と北カリフォルニアの違いをここのところよく考えているのですが、その理由の中の主なものに多様性と言語があると思います。

 たとえば、日本にいるときには、他人から意見を押しつけられていると感じることや、「どうしてこういう失礼な言い方ができるのだろう」と不思議に思うことがよくあったのですが、こちらではほとんどそういうことがありません。こちらに長く住む日本人になぜだと思うかと聞いたところ、「日本はみんな同じだと思っているからでしょう。こちらでは、あまりにもそれぞれの背景が違いすぎて、単一の価値観を押しつけるなんてことは恐ろしくてできない」と言っていました。確かにその通りで、こちらでは、それぞれが違っているというところからすべてがスタートしますから、よく知らない人に「あなたはこうすべきだ」などという意見を述べることなど不可能です。(まったく余計な話ですが、私のセンターで働いているメリッサという若い女性はてっきりメキシコ人だと思っていたのですが、フィリピン人の母親とユダヤ人の父親を持つ人だということがつい先日判明しました。本当にこちらでは顔から人を判断することもできない、と改めて感じました。)
 また、こちらの人は本当に「余計なお世話」をしません。服装など、日本人の感覚からはギョッとするような人にしばしば出会いますが、良いときには「その服すてきね」などとほめますが、「何、その格好」などと非難している人はまったく見たことがありません。

 ただ、この話をすると、多くのアメリカ人が「それは面白い考察だ」と言う一方で、「でも、カリフォルニアの外に出たらぜんぜん違うよ」と、地域差を必ず指摘してくれます。アメリカの地域差はそれはそれは大きく、たとえば、死刑にしても、先日カリフォルニアでは76歳の人に死刑が執行されて新聞の一面に大きく記事が載りましたが(高齢ということで)、カリフォルニアは死刑執行の件数が大変少ない州(つまり死刑に対して慎重な州)である一方、テキサスなどは大変容易に死刑を執行する州だそうです。税金は高いけれども福祉はそれなりにしっかりしていること、労働組合の強さなど、大雑把な言い方をすれば、カリフォルニアはアメリカの中でもヨーロッパ型の州なのだと思います。
 ちなみに、リベラルなカリフォルニアは大統領選でももちろん反ブッシュの州でした。私の身近でも「ブッシュを弾劾せよ!」という靴下を履いた人や垂れ幕を窓からたらしている家を見かけます。先日、小学校5年生が「ブッシュは嫌いだ」と言うので、どこが嫌いなのかと聞いたら、「戦争をやっていることと、ホームレスの面倒を見ないこと」と言っていました。その意識の高さに感心して、あなたは特別な子どもなのかと聞いたら、友達ともそんな話をしているよと言っていました。
 リベラルなカリフォルニアの中でも特にリベラルなサンフランシスコはアメリカ政治独特の争点である中絶についても、中絶反対派の人たちの標的となっていて、近々大規模なデモが行われるそうです。当然、受けて立つほうも「選択の自由」を掲げて、大規模なデモを行うようです。この二つのデモが鉢合わせないように、警察は必死で知恵を絞っているという噂です。

 カリフォルニアは税金が高くてビジネスにならない、などとぼやく人もいますが(シュワルツネッガーが知事選に出たときの公約がそれだったそうですが、何もなされていないそうです)、基本的に、カリフォルニアの多様性を愛している人が多いようです。私もその一人です。

 カリフォルニアの場合は人間の多様性が一目瞭然なので誰もがそれを尊重しますが、日本では多様性がまだ事実として認識されていないところに問題があるのではないかと思います。人間は人それぞれ違っているもので、どの国の人も本当は多様なのに、それが当然のこととして認められていない社会では、「価値観の押しつけ」に苦しむ人が多いということではないでしょうか。

 もう一つの要因である言語ですが、ここのところつくづく日本語と英語の違いを考えています。日本語と異なり、英語は基本的に性別・世代中立的な言語です。また、関係の距離が言語に反映されることも基本的にありません。つまり、初対面であっても、性別がどうであろうと、世代の違いがあろうと、基本的に同じ言葉を使うということです。これがどういう結果につながるかというと、外的要因にとらわれずに、伝えたいメッセージの内容だけに集中できるということになります。これはなかなか心地よいもので、日本でしばしば感じる「どのくらいくだけた言葉を使おうか」という悩みからは完全に解放されています。もちろんこちらは英語を母語としない立場ですから、語彙など別の悩みはありますが・・・。

 なお、前回のメールマガジンに対して、私が感じている教育の「良さ」に共感してくださるメールをたくさんいただきありがとうございました。こんなに良い学校ばかりではないはずなので、アメリカの教育制度全体について包括的な報告をすべきだというご意見もいただきましたが、今回の渡米はあくまでもアティテューディナル・ヒーリング・センターでの私の研修兼ボランティアが目的で、アメリカの教育制度の視察に来ているものではありません。ですから、私の現在の生活からは、アメリカの教育制度の全体を論じるような余裕もありませんし、そのような意思もありません。皆さまにご報告しているのは、あくまでも一人の保護者として体験した事実ですので、決して包括的なものではありません。私が、アメリカの中でもおそらく最も恵まれている地域の一つであるカリフォルニア州マリン郡に住んでいるということも考慮に入れる必要はあると思います。

 ただ、教育とは結局、子どもなり保護者なりに及ぼす影響がすべてなのではないでしょうか。そして、他国の教育を当事者として経験できるというのは大変貴重な機会だと思っています。ですから、教育制度を大所高所から論じることよりも、ここでは、日常の些事をご報告していきたいと思っています。ご理解をいただければ幸いです。

 また長くなってしまったので、アティテューディナル・ヒーリングの続きは次回にしますが、日中のボランティアに加えて連夜グループに出席する上に、週末もここのところトレーニングが続き、宿題も多いので、なかなか忙しくなってきました。

アメリカ報告3―――コミュニティ・サービスとしてのアティテューディナル・ヒーリング

2006年01月14日 | アティテューディナル・ヒーリング(AH)
 子どもの学校が落ち着くまでは子ども中心に生活していたのですが、どうやら軌道に乗り始めたので、アティテューディナル・ヒーリング・センターでの研修兼ボランティアも本格的に始めました。

 これから少しずつご報告していこうと思いますが、まずはセンターの概観を述べたいと思います。創始者のジャンポルスキー博士も私も精神科医だということもあって、センターを病院や学究機関だと思われている方もいらっしゃるようですが、そうではなく、センターはあくまでも市民同士の助け合いの場としてのコミュニティ・サービスとして位置づけられます。

 センターはさまざまなサービスを提供していますが、その中心であるピアサポートグループ(仲間同士の助け合いのグループ)は、現在、以下のようなスケジュールになっています。

月曜日 10:00-12:00 慢性疾患と共に生きる
    17:00-19:00 Person-to-Person(特に病気などがあるわけではないが、自分の生き方にアティテューディナル・ヒーリングを取り入れたい人のグループ)
    19:30-21:30 Person-to-Person
    19:30-21:30 転移癌を持つ女性とその夫のグループ

火曜日 17:00-19:00 ゲイの男性のグループ
    19:30-21:30 致命的な病気を持つ人のグループ
    19:30-21:30 介護者のグループ
    19:30-21:30 配偶者を失った人のグループ

水曜日 10:00-12:00 加齢を考えるグループ
    10:30-12:00 転移癌の女性のグループ
    19:00-21:00 男性のストレス
    18:45-20:00 子どものグループ(第1週・第3週は病気を持つ子どもたち、第2週・第4週は近親者を失った子どもたち)
    18:45-20:00 上記の子どもたちの親のグループ

木曜日 10:00-12:00 Person-to-Person
    19:00-21:00 子どもを失った親のグループ
    19:00-21:00 HIV/エイズの人のグループ
    19:00-21:00 親しい人を失った人たちのグループ
 
長くなってきたので、また次回に続けます。

アメリカ報告3―――娘がチャータースクールに通い始めて」

2006年01月14日 | 活動報告
 下の子ども(4歳)は昨年からモンテッソーリの保育園に通っていましたが、上の子ども(7歳)は今年の新学期からチャータースクールに通い始めました。さすがに7歳になると、英語がまったくしゃべれずにアメリカの学校に行くことがどういうことかを理解できますし、娘の日本の学校には日本語をまったくしゃべれずに入学・転校してきたクラスメートも複数いますので、自分に何が起こるかを十分に予測していた娘は、「学校に行きたくない」とずっと不平をこぼしていました。ただ、先行して保育園に通い始めた弟を励ましているうちに、自分もしっかりしなければと思ったようで、観念して通い始めました。

 ところが、初日から、娘の学校観は見事に変わってしまいました。そして、今では楽しそうに学校に通っています。何といっても、先生や友達の温かい支えが大きいです。みんな、少しでも日本語を覚えて娘とコミュニケーションしようと努力してくれますし(「もうじき娘も英語を覚えるから大丈夫よ」と言っても、「ううん、私たちも日本語を覚える」と言ってくれますので、英語ができないということで人格が否定されるわけではないということを示そうとしてくれているのだと思います)、娘が一人にならないように、学校でも学童保育でも、友達が気を遣ってくれます。

 娘のいる2年生は学校で一番人数の多いクラスなのですが、それでも19人で、担任と副担任の先生が二人でみてくださいます(カリフォルニアは州法の規定によって、3年生までは20人以下学級とすることが決められています)。教室の構造は日本の学校とは違い、先生の立つ場所をぐるりと囲むようにクラスの全員が座ります。ですから、席が前の子も後ろの子もおらず、皆が顔を見合える状態で座っています。
 学校が始まる前に担任の先生からクラスの基本的なルールを教えていただいたのですが、

(1) 授業中にトイレに行きたくなったら、手を握った状態(グーの形)で挙手をすれば、ホワイトボードにイニシャルを書いて出て行って良い。

(2) 本当に具合が悪くなったとき(吐きそうなときなど)は、とにかく外に出るなりトイレに行くなりして良い。

(3) 水(教室に飲水用の蛇口がある)は、休憩時間のみに飲むこと。作業の授業中は飲んでよい。

(4) 授業中の態度に問題があれば、まずホワイトボードに名前が書かれる。さらに問題があれば、その名前にチェックマークがつけられる。このチェックマークが二つになると、名前が丸で囲まれ、休憩時間なしとなる。

(5) 授業中の態度がとてもよい場合には、机の上のシールに先生がしるしをつけていく。このマークが30個たまると、記念のシールがもらえる。

(6) クラス全体の態度がとてもよい場合には、教室の前に貼ってある紙にマークがつく。これが100個たまると、クラスでパーティーをする。

 というきわめて単純なルールに基づいてクラスが運営されています。単純だけれどもなるほどと思わされるのは、まず、生理的な問題で子どもに不当な我慢を強いていないこと。また、悪いことをした場合も、先生の感情ですぐに怒られるのではなく、きちんとしたルールに基づいて、自分がどのくらい「休憩なし」に近づいているのかを自分で確認できること。これらは実社会においてもとても重要な原則だと思います。なんだかわからないルールで不当に自分を押し込めるのではなく、納得しながら責任を取っていくことは重要だからです。
 
 もう一つ感心しているのは、学校の先生がよくほめてくれるということです。私が(日本風に)「娘はご迷惑をおかけしていないでしょうか」というようなことを言うと、「ちゃんとやっていますよ。あなたは娘が良い子だということを知っているでしょう」とむしろ諌められますし、「彼女は本当に賢いし、良い子です。彼女の担任ができることはとても幸せなこと。あなたは娘のことを誇りに思うべきです」などと言ってくれます。もちろん初めてのことなので、とても嬉しいですが、ここでも感心することは、子どもを親の付属物のように言わないで、独立した人格として扱ってくれることです。

 娘はこちらでも学童保育のお世話になっているのですが、学童は校長室とメインオフィス(職員室というものがないので、ここが唯一の全校的な場所。といっても、女性が一人いていろいろと事務的なことを管理してくれているだけですが)の隣という、学校の中心に位置していて、雰囲気は日本の学童とそっくりです。日本と同様、娘にとって学童はかなりくつろげる楽しい場所のようです。

 アメリカは先進国の中でも出生率のかなり高い国ですが、暮らしてみるとそれを肌で感じます。私が住んでいるアパートは、4世帯が一つのブロックになっているのですが、同じ階の2世帯に、娘と同じ年頃の子どもたちが住んでいます(つまり、一つの階の4分の3に学齢期の子どもがいる)。我が家を含めて3世帯の子どもたちが、それぞれの家を訪問しあいながら、あるいは、アパートのすぐ下にある公園で、仲良く(時にはケンカをしながら)遊んでいる姿は見ていて嬉しくなります。ここも多国籍で、隣の家はインド人、その隣は金髪のアメリカ人です。金髪の女の子が、隣のインド人の赤ちゃんを抱っこしてあやしている姿は、なかなか良いものです。もちろん、そんなアメリカでも、「昔は暗くなるまで外で遊ぶのが子どもの仕事だった。今は危なくてそんなことはできない」と年配者が嘆く姿は日本と同じですが。