こころの平和から社会の平和へ

水島広子の活動報告や日々思うことを述べさせていただきます。この内容はメールマガジンで配信しています。

政治における「メンツ」と政策

2008年03月10日 | オピニオン
日銀総裁と道路特定財源という二つのテーマで国会が「空転」しているが、流れを見ていて、政治文化の問題を改めて痛感している。

日銀総裁はさておき、道路特定財源については、多くの国民が問題を感じている。特に、衆院審議を通して明らかになってきた「常軌を逸した無駄遣い」を目にして、このまま道路特定財源を守っていくべきだと考える人はまずいないだろう。

ところが、与党を中心に「それでも道路は必要だ」「地方切捨てだ」というような声が出てくる。これは政策論の明らかなすり替えであり、一般財源化した上で、地方分権の中、何に優先的にお金を遣うかは地方が決めていけばよいことだ。その地方が「それでも道路は必要だ」と思えば、一般財源から道路を作ればよいだけのことだ。地方切捨てでもなんでもない。

こうした政策論議は、どんどん進めていくべきだし、進めれば進めるほど国民の政治意識は高まる。自分たちが政治に関心を持つことがなぜ必要なのか、ということも本当に理解できるようになってくる。
政策論議を活性化するのは、まさに野党の役割であり、与党による「政策論のすり替え」を鋭く指摘して、論議を正しい軌道に乗せていく必要がある。

衆院審議は、その役割をよく果たしたものだと言えるだろう。

ところが、強行採決という「手続き」から流れが変わる。
気づくと「政治を混乱させて国民の利益を損なっているのは野党」というような空気ができてくる。私もかつて選挙区でそのような批判をたびたび受けた。
今回も、すでにそのような空気が作られ始めている。
「本来は与党が仕掛けたことなのに」という悔しさは、野党議員が常に抱くものである。民主的な手続きを先に放棄したのは与党の方なのに、応援してくれるはずの有権者が案外冷たい、ということはよく経験されることだ。

これは、強行採決という「手続き」を境に、主役が政策論議から「メンツ」に移るために起こることだと言える。
私ですら、先日新聞で「民主党の幹部が『衆院で強行採決をした与党が謝罪してこなければ先に進めない』と言った」という記事を読んで、かなり呆れた。
進めるべきなのは政策論議であり、与党と野党の「メンツ」問題は国民の利益とは何の関係もないからだ。


国会が紛糾していくうちに国民が飽きてくるのは、政策論議から「メンツ」へ、という主役の変化と直接関係している。「メンツ」の応酬を見ていると、「政治は関係ない」「自分が関心を持ってもどうせ変わらない」という気持ちになってくる。政策論議を聞いていたときには「自分の問題」だったのに、「メンツ」問題になってくると「勝手な政治家たちの問題」に変わってしまう、という構造である。


ところが実際に、政治を動かすエネルギーは「メンツ」だということは、私も政治の場にいて痛感したことだ。いかにして相手の「メンツ」をつぶさないかが、国会で成果をあげるためのポイントとなる。


確かに日本の社会はまだまだ「メンツ」が重要な構造になっているので、その代弁者である政治家たちが「メンツ」を中心に動くというのは仕方のないことなのだろうが、ここで野党が「怖れの綱引き」から手を放して、「メンツではなく政策を」という姿勢に徹することができれば、どれほど日本の政治文化が変わるだろう、と思っている。道路特定財源は、まさにそのための理想的なテーマだと思うのだが。


なお、「石原銀行」(新銀行東京)も、どれだけ「メンツ」から脱して政策論議ができるか、という重要なテーマだ。ポイントは都議会の対応になるわけだが、「どちらが正しかったか」という「怖れの綱引き」をするのではなく、現状に合わせた柔軟な政策論議が行われることを強く希望している。



お勧めの本 「武装解除」

2007年12月22日 | オピニオン
異例ではありますが、ぜひ読んでいただきたい本がありますのでお知らせします。
すでに注目されている方も多いと思いますが、現在東京外国語大学教授の伊勢崎賢治さんが書いた本です。

武装解除 紛争屋が見た世界 (講談社現代新書) 
伊勢崎賢治著
740円(税別)

伊勢崎さんは、国際NGOに身を置き、シエラレオネ、東チモール、アフガニスタンで紛争処理を指揮してきた現場の人間です。アフガニスタンの北部同盟に武装解除させるという、不可能に思われたことを実現した奇跡の人です。

新テロ特措法をめぐり、ますます「何も知らない人たちの空論」が激化している中、ぜひ現場の本当の事情に触れていただきたいと思います。

私はかねてから「平和主義というのは、理想主義ではなく老練な現実主義だ」という持論がありますが、この本は精緻にそれを示してくれる良書だと思います。
伊勢崎さんとは先日CS放送でご一緒させていただきましたが、醸し出される雰囲気が平和ですてきな方でした。

なお、アフガンでの伊勢崎さんの活躍を可能にしたのは、日本が長年にわたり培ってきた信頼によるものだということです。私自身も中東や北アフリカを旅行して、その厚い信頼を一般の人たちから常に感じてきました。「日露戦争、ヒロシマ、ナガサキ」というキーワードが、日本を特別な立場に置いてきたのです。伊勢崎さんは「アフガンでの日本は、国連以上に中立性を感じてもらえる存在だった」とおっしゃっていましたが、米国の戦争への追従姿勢を国際社会に示すことによってその信頼を数年間で壊しているのが現状です。独特な信頼感を生かしてこそ、独特で有意義な国際貢献ができたはずなのですが、本当に貴重な財産を失ったと思いますし、それを取り返すためのかなりの意識的な努力が必要だと思います。

安部総理辞任と自民党総裁選

2007年09月17日 | オピニオン
昨日、アメリカ人の友人から電話があり、次のようなことを質問されました。

こちらの新聞に、「日本は高ストレス社会」というタイトルで、安倍首相、朝青龍、過労サラリーマンのことが書いてあったが、よく教えてほしい。

私は意外な感じがしました。それは、日本では、安倍首相の辞任問題は、どちらかというと世間知らずのお坊ちゃんの資質として語られているからです。

もちろん、安倍さんに首相としての資質がないことは先刻承知のことです。とにもかくにもそういう人が表舞台から去ってくれたことは日本にとって良かったと思います。

また、「お坊ちゃん世襲議員」については、拙著「国会議員を精神分析する」にも書かせていただきましたが、今回指摘されているような、いろいろな問題があるものです。

それでも、安倍さんのことを「お坊ちゃんだから」ということで片づけようとしている風潮には、やや懸念を感じています。

安倍さんは、ある意味ではタカ派の典型のような人ですが、問題解決の方法として「圧力」を好みます。相手の言い分を聞かずに「自分こそが正しい」という姿勢を貫く人です。

官房副長官時代に、小泉さんと菅直人さんの党首討論の場で、さかんに下品な野次を飛ばしていたのをよく記憶しています。(世間では「お上品」として通っていたようですが、野次はとにかく下品でした)
通常、野次は議員の仕事で、政府関係者は静かにしているのが礼儀なのですが、安倍さんはどうしても我慢できなかったようです。

「この人はいつも自分が正しくないと気がすまない人なんだな」と、強く感じました。

この姿勢は、首相としての仕事にも、そして、最後の辞任会見にすら、表れていたと思います。

だから、多くの人が指摘しているように、国民への謝罪がなかったのでしょう。

「お坊ちゃん」であっても、自分だけが正しいわけではないということを知っている人はたくさんいます。
世間知らずであっても、とにかく人の意見は聞いてみようと思っている人もたくさんいます。

安倍さんのこういう姿勢は、「お坊ちゃん」だから、というよりも、その思想体系が攻撃的だから、というふうに見たほうが妥当です。

自分だけが正しいと信じて他人のことを攻撃している人は、実は自信のない人だと思います。
常に自分の正しさを証明していないと安心できないのです。

そして、自分の正しさを証明するために、常軌を逸した行いをした指導者は、ヒトラー、スターリン、ポルポトを含め、過去にたくさんいました。

今回の安倍さんの突然の辞任も、その「常軌を逸した行い」のひとつと考えればわかりやすいものです。

たまたま安倍さんは側近に「恵まれて」いなかったため、他人への攻撃の装置を作ることができず、自分自身への攻撃という結果の方が目立ったということでしょう。

でも、他人への攻撃の装置を作れた人たちも、安倍さんと同じように、ひどいストレスを自分自身に加えていたと思います。
いくら敵を排除しても安心できない、というのがその症状のひとつでしょう。

今回のことを単なる「お坊ちゃんバッシング」に終わらせることなく、政治家としての攻撃的な姿勢を見直す結果につなげることができれば、と思っています。

なお、自民党の総裁選ですが、「派閥談合」でできあがった福田さんを批判する向きに、不思議を感じています。

なぜなら、自民党というのは、そうやって出来上がった組織であり、そのやり方を変える(民主的な方法で物事を決める)ということになると、自民党の存在そのものを否定するようなことになってしまうからです。

地方組織からすべて、自民党というのはそうやってできあがっている組織なのです。

選挙の時も、町内会などの長が「○○を支援する」と決めたら、皆が従う、というのが自民党の「古きよき伝統」であって、日本の伝統的なやり方にマッチしているのです。

談合を熱く批判している自民党関係者も、自分自身の足元を見れば、日頃から談合的な暮らしをしているのです。

このようなやり方にはプラスの面もマイナスの面もあり、変えていこうと思うのであれば、単に批判して破壊するだけでなく、そのような「社会的伝統」を今後どういう形にしていきたいのかを考えなければ、小泉さんがやったように、社会は壊れていくだけでしょう。
この点をしっかりと踏まえないと、政治を本質的に変えていくことはできないと思っています。


大人社会が最大の教育

2006年11月07日 | オピニオン
ここのところ、教育について考えさせられる出来事が、いつにも増して続いている。

来週にも衆議院を通過すると言われている教育基本法改正案、今度は中学にも波及しそうな「必修漏れ」騒動、そして、ここにきて一段と顕在化しているいじめ自殺。

「必修漏れ」騒動に対する、世にもお粗末で不可解な決着に首をひねり、いじめ自殺については、最近の日本ではお定まりの「犯人さがし」にため息をつき、そんな中、全く関係のない教育基本法の改正を最重要課題だと思い込んでいる首相と、それを中心に回っている国会に違和感を覚えているのは私だけではないと思う。

「必修漏れ」については、少なくとも一定期間、自分たちの教育方針が正しいと信じて生徒を従わせていた学校側は、なぜきちんと発言しないのだろう。受験を多分に意識していたとはいえ、必要な教育だと思って提供していたのなら、そう言えば良いはずだ。そうすれば、これほどの不信感が現場に生まれることはなかっただろう。子どもたちにとって、何の科目を学んだかということ以上に、自分を教育していた人たちの人間としての姿勢は大きな意味を持つ。そこに人間としての真剣さを感じるか、ご都合主義を感じるかで、その後の人生に与える影響は大きく異なるだろう。

また、子どもたちは何もサボっていたわけではないのに、望まない時期に突然の補習をしなければならず、まるで罰を受けているかのようだ。本来は、サボっていたどころか、教育を受ける権利を侵害された被害者として位置づけられるはずだ。

文部科学省も、教育を所管しているという自負があるのであれば、そのような全人的な教育にどうして配慮できないのだろうか。それこそが、「こころの教育」「生きる力」なのではないだろうか。

学習指導要領というメンツを守るために、まるで罰のような補習が組まれ、政治家の圧力によって時間数がディスカウントされる、などという解決策は本当にいびつだ。これを機に、高等教育の意味やあり方を見直し、意見が対立する人たちの調整をどのように行うかを子どもたちに示すことができれば、日本の教育が飛躍的に成長する絶好の機会になったはずだと思う。そうやって前向きに捉えずに「大変だ」と後ろ向きに捉えたため、結局、いつもと同じように、大人たちの都合が見えないところで調整され、子どもたちがそのツケを払わされることになった。
 
いじめについては、いじめを議論している今の社会の姿勢そのものが、実はいじめの構造に陥っていると思う。

人間は、現実を冷静に直視することが怖いとすぐに「犯人探し」を始めるものだが、私は、ここで直視を避けられているのは、大人たち自身に潜む「いじめ心」なのではないかと思う。ここ数年、特に顕著になってきている「バッシング」は、いじめそのものである。少しでも弱みを見せた人、少しでもミスを犯した人に対して、「あの人は間違っている」と徹底的にバッシングするのである。

子どもたちがいじめる理屈も、それと大差ない。結局、大人社会が、弱みを見せた人に襲い掛かるような構造を変えられない限り、いじめはなくならないと思う。

もちろん、実際に起きたいじめにどう対応するかという制度を考えることは重要だ。そういう意味で、教育委員会の存在の是非も含めて、組織や制度を議論することは必要だ。だが、どれほど制度をいじろうと、それはいじめの撲滅にはつながらない。

いじめる子ども、それを黙認する子どもは、いずれも「怖れ」によって動かされている。いじめる子どもの多くが、家庭で広い意味での虐待をされているという事実もある。その「怖れ」を認識して癒していくことなくしては、問題は根本的に解決しない。私も、被害者にとっても加害者にとってもいじめの特効薬であるアティテューディナル・ヒーリングの考え方を引き続き広めていきたいと思っている。

だが、そうした子どもたちへのアプローチとともに、まずは私たち大人自身が、ひとたび「悪者」と決まると相手の事情をいろいろな角度から考えてみることもせずに一方的に非難するなど、何らかの形でいじめの土壌作りに加担しているのではないか、と振り返ってみることが重要であると感じている。

「必修漏れ」にしても、いじめにしても、大人社会がこの問題とどう向き合うか、ということが、現在の教育に対する最大の解決策になると思う。
 
ふと、子どもが米国で通っていたチャータースクールを懐かしく思う。担任の先生との個人面談のときに、日本の親である私は「英語が不十分なのでクラスにご迷惑をおかけして・・・」というようなことを言おうとしたのだが、先生は、他の子どもたちが読書をしている時間に英語が読めないうちの娘に何をさせているか、などを一生懸命説明して、英語が不十分だからと言ってうちの子どもが教育の権利を奪われていないということを一生懸命説明してくれた。明らかに、子ども個人が教育の主役として位置づけられていた。文化の違いがあるとは言え、折にふれて子どもを抱きしめて愛情を示してくれたことも、子どもにとっては温かい思い出なのだそうだ。人間としてのコミュニケーションが大切だということは教育の場であっても(場だからこそ)重要なのであって、それを阻害しているものが何なのか、見極める必要があると思う。
 

A君と北朝鮮

2006年10月11日 | オピニオン
うちの子どもの友達に、いわゆる「特別な配慮を必要とする子」がいる。仮にA君としよう。

我が家によく遊びに来るが、うちのカレーが大好きで、「おいしい、おいしい」とおかわりしてくれる。うちの子どもたちと遊んでいるときのA君は、本当に優しい良い子だ。マンションの防火扉にいたずらをした嫌疑をかけられて泣いてトイレにこもってしまったうちの子どもをかばって、マンションの管理人さんに事情を説明してくれたこともある。

一件落着して戻ってきた彼が、トイレにこもって泣いているうちの子どもに「もうだいじょうぶだよ、出てきてもだいじょうぶだよ」と優しく声をかけていた彼の姿が忘れられない。

さて、そんな優しいA君なのだが、学校で姿を見ると全く別人だ。暴れて、教室のドアを蹴飛ばしている。先生の指示に全く従わない。

クラスメートからは「またあいつだよ」という目で見られ、非難されている。
まじめにやっても勉強はよくわからない。クラスメートから馬鹿にされ、立ち上がって暴れる。他人に暴力を振るうこともあるのだが、よく見ると彼の目は涙がいっぱいだ。どうしたらよいかわからなくて、やけくそになって暴れているのがありありとわかる。

担任の先生はまじめな先生で、「それ以外の子どもたち」とはうまくやっている。でも、A君からは「死ね」などと毒づかれて、持て余している。
時々、A君の手を押さえつけて、
「A君。先生は○○しろと言いましたね。どうしてできないんですか。そんなに難しいことですか」
と強い調子で怒っている。
私は目撃したことはないが、子どもたちの話によると、時々体罰ともとれることをするそうだ。

こうなるとますます彼は逆上して暴れてしまう。クラスメートからはますます馬鹿にされる。地団太を踏んで泣き叫ぶ。このような「特別な配慮を必要とする子ども」であるA君を見ていて、ふと北朝鮮のことを考えた。

北朝鮮首脳にA君のような優しさがあるかどうかは疑問だが、怯えてやけくそになって暴れている国に対して、
「○○さん。私たちは××しろと言いましたね。どうしてできないんですか。そんなに難しいことですか」
と正論を強い調子で言うことに、どういう効果があるのだろうか。北朝鮮は「特別な配慮が必要な国」なのである。

他の生徒や保護者が見ている前で、生徒をきちんとコントロールできているところを見せなければという先生の「メンツ」に、馬鹿にされたままではおさまらないA君の「メンツ」。
これを収められなければ学級崩壊するのではないかという先生の「恐怖」と、ここで素直に言うことを聞いてしまうとそのままなめられるのではないかというA君の「恐怖」。

ここでも「怖れ」の綱引きが行われている。どちらかが怖れを手放さない限り、事態は取り返しのつかない方向に進んでいく。また、怖れは周りに伝染し、A君を口汚くののしることすら正当化されるような雰囲気が生まれていく。

先生とA君の関係では、怖れをまず手放さなければならないのは、もちろん教育者である先生の方だろう。これは誰でも納得できる話だと思う。

では、「特別な配慮が必要な国」北朝鮮の場合はどうなのだろう?
政権が崩壊することだけを恐れ、米国からの攻撃を恐れている政権が「怖れ」を原動力に行動していることは誰の目にも明らかだろう。その「怖れ」をさらに煽るアプローチは、危険な方向にしかつながらないはずだ。また、北朝鮮がまず態度を改めるべきだというのは、先生ではなくまずA君が態度を改めるべきだと言うのと同じくらい、現実を見ていない考え方だと思う。

何を甘いことを言っているのだ、これだけ手を尽くしても破壊的な行動しかとれない北朝鮮ではないか、という意見が出てくるかもしれない。でも、一番のカギを握りながらこの間一貫して一対一の協議に応じてこなかった米国ひとつみても、「手を尽くした」とはとても言い難い。すでに米国ではブッシュ政権の怠慢を問う声が上がっている。

怖れにエネルギーを供給するのは他者の怖れだ。まずは、私たちが、「怖れ」の綱引きから離脱しなければならないのではないだろうか。

これは北朝鮮に対して何もするなと言っているわけではない。「怖れ」を動機に行動すべきではないというだけのことだ。

そもそも、A君に対する先生の「怖れ」の背景には、A君のような子をどうやって理解し扱ったらよいかという専門知識の欠如がある。先生にはぜひそれを学んでほしい。そして、各国首脳、特に安倍首相にも、そのような専門知識を学ぶことで怖れを手放してほしいものだ。その専門知識を「外交」と呼ぶのではないだろうか。