6月10日(月)の夜、リサイクルショップ(ベクトル)を展開されている会社さんが主催されている、「ベクトル大学」で「てっぺん」の大嶋社長の講演を聴かせて頂きました。大嶋社長のお父様は、大嶋社長が10歳の時に亡くなられたそうですが、父の分まで楽しんでしっかりと生きていらっしゃいます。私自身、この年になっても両親の死をどのように受け止めるか、確固たる結論も出せずにいましたが、大嶋社長は素晴らしいと思います。また、講演の中でも「死」について問いかける場面がありましたが、答えることができませんでした。これからは、もっともっと、「生きる意味」を自分に問いかけ、周りの方のお役に立ち、喜んで頂ける生き方をしたいと強く思いました。
頑張りまっせ!!
■カキナーレ:若者の本音ノート/114 心の成長 /京都
◆自己理解、他者理解
◇父の最後の贈り物
私の家は母子家庭である。私が中学3年で高校受験を控えていたとき、父は
脳卒中により急逝した。前日まで元気に過ごしていた父。その父が寝る前、普
段は言わないのに「おやすみー」と私に声をかけてくれたが、私は反抗期の真
っ最中。返事はしなかった。
母にも冷たくあたっていた。言ってはいけないこともたくさん言ってきた。
今思うととてつもない親不孝だった。兄は大学受験に失敗し、姉はすでに結婚
していて実家にはいなかった。家族の絆は今にもぷっつりと切れそうで、ばら
ばらになりそうな家族を、父は必死に繋(つな)ぎ止めていたのではないかと
、今になって思う。
次の日、父は亡くなった。ばたばたと葬儀の段取りが行われ涙を流す暇もな
かった。父の亡骸(なきがら)を目の前にしても、今にも起き上がりそうで全
く実感がわかなかった。それは家族みんな同じ思いだったようで、葬儀の段取
りをしてる最中から一通り終わるまで、家族の誰一人涙を見せなかった。
葬儀が終わり、ようやく落ち着いた頃、久しぶりに母の夕飯を食べた。その
日の献立はギョーザ。父の一番好きな料理だった。母はギョーザを作りながら
泣いていた。私が何も聞いてないのに、母はタマネギを切ったからと言ってい
た。兄も私も台所に来て夕飯の手伝いをした。その日の夕飯は、いつもよりも
ちょっと塩分が多めだったように思えた。
夕飯が終わると、兄は何も言われずとも食器を洗った。私は少し散らかって
いた部屋を片付けた。兄も私も、これからは俺たちが母さんを支えていかなき
ゃならない、という思いは同じだったのである。
不謹慎かもしれないが、今にして思えば、父の死が私たち家族の絆を取り戻
してくれたのだ。そして、それは今までで一番大きくて、特別で、大切な、父
親からの贈り物になったのである。(09年大学2回生A君)
◇
反抗期は親も大変だが、子供も同じように大変だ。今回のカキナーレの筆者
・A君は、反抗期の最中、父親が急死するという不幸に遭遇する。だが、母を
中心に兄弟が結束し、現在は大学2回生となった。第三者からみたら何の問題
もない孝行息子に見えるが、実は彼には、何としても克服しなければならない
課題があった。
それは思春期の自分や急死した父について客観的立場から問い直すことだ
った。と言うのは、反抗期中の彼と父とは全く意思の疎通がなかった。その上
父が急死したため、父やその死の意味を知ることもなく来てしまったからだ。
しかし、その課題克服にはどうしても、自己理解、他者理解が必要だった。
それはまた、人間の成長に不可欠だった。だが、彼は高校時代のことは書いて
はいないが、この数年間の心の成長はめざましく、大学2回生の今、思春期の
自分や父を冷静に観察する第三者の目をしっかり身につけている。
次に、そんな彼の成長ぶりをみていきたい。まず思春期の反抗期の自分につ
いては、次のように冷静に自己分析する。両親にも冷たくあたり、言ってはい
けないこともたくさん言ってきた、とてつもない親不孝だったと。
また、父の死についても、次のように意味づける。「不謹慎かもしれないが
、……それは今までで一番大きくて、特別で、大切な、父親からの贈り物にな
ったのである」と。特にここで大事なことは、「父の死」が自分への最後の「
贈り物」だった、と認識していることだ。なぜなら、これによって彼は、家族
の絆のために一心に生きた父の意志や、そんな意志を伝えようとした「父の死
」の意味を知ることができたからだ。「父の死」を扱ったこの作品が暗くない
のは、この「贈り物」の比喩が効果的だったからだろう。なぜか希望さえ感じ
られる。<深谷純一(元大学非常勤講師)>
毎日新聞 2013年04月18日 地方版