「あなたはまだどこかで怒ってるのね、心のずっと奥底で」
『アイランド博士の死』とは『デス博士』を構成する要素にさまざまな操作を加えて
生み出された「姉妹作」であり、『デス博士』と直接の関連は無いものの、テーマ上は
明らかに「続編」にあたる作品である。あらすじについて、以下にまとめてみた。
外科手術で脳を分断されたニコラス少年が送り込まれたのは、景色が囁きかけてくる
不思議な島だった。潮騒も樹の葉擦れも動物の鳴き声も、全て島の語りかける声となって
彼に届くのだ。
自らを「アイランド博士」と名乗るその島で、ニコラスは他の「患者」であるイグナシオや
ダイアンと出会い、彼らの導きで島の本当の姿を目の当たりにしてゆく。
しかしそんなニコラスを待ち受けていたのは、彼らもアイランド博士も決して語らなかった
絶望的なまでに残酷な「真実」であった・・・。
この物語の読後感を率直に言うと、とにかくやるせなくて仕方がない。
SF的らしさたっぷりのキラキラした意匠はそこかしこに現われるものの、
一皮剥けばそこにあるのは過酷な現実だ。
華麗な人工世界を描きながら、そこにはヴァーリィの書くような甘い感傷の
入り込む余地はない。
そこは単に見てくれが美しいだけの、出口のない巨大な水槽である。
主人公はその中に閉じ込められ観察される、一匹の小さな魚。
そして小さな魚には時として、大きな魚の餌としての価値しかない。
もし彼が食われなければ、他のものが代わりに食われるのである。
ニコラスの怒りと悲しみが島に嵐を起こしても、それは所詮コップの中の嵐にすぎない。
後に残るのは風と波の音ばかりである。
砂を噛むような苛立ちとむなしさ、そしてやり場の無い怒り。
この物語を読むときは、自分の中から湧き上がるそれらの気持ちを素直に受け止めたほうがいい。
さもないと、本作のシンプルなメッセージを眼前で見逃すことになりかねないからだ。
(変に理屈をつけようとして首をひねっていたときの私が、まさにその典型例なのだが。)
十代のころに読んでいれば、もっとすんなりと共感できたのかもしれないと思う。
あるいは全然わからなくて投げ出してしまっただろうか。
『アイランド博士の死』というタイトル。それは確かに嘘でも間違いでもない。
しかしその一方、このタイトル自体がひとつの罠であるということも、また事実である。
博士自身が答えを明かす前に、このタイトルが意味するところを正確に把握できた人は
まずいなかっただろうし、その答えに納得できても気持ちの上では釈然としなかったという
読者も、また多かったと思う。
そして読者がこの物語の結末にたどり着いた時、最初にタイトルから想像していた所とは
あまりにも違う場所へ来てしまった事に気づかされたはずだ。
その時に感じた思いは、我々自身の人生に対する思いといささか似てはいないだろうか?
「これはおれの思ってた結末じゃないぞ」
「いっぺんだって、物事がうまくいったためしがねえや」
人生のどこかで、こんなセリフが頭に浮かんだ時はありませんか?
ポール・ニザンを読んだことは無いのだが、『アイランド博士の死』を読んだ後で
「青春が美しいなんて、誰にも言わせない」という有名なセリフを思い出した。
冷静に振り返ってみれば、確かに青春なんてそんなものかもしれない。
うまく立ち回ることに汲々とし、生きるためにへつらい、怒りも悲しみも忘れ、
いつしかそれを思い出すことさえも無くなっていく。
人々はそれを称して、「大人になる」というのだろう。これはそんな物語だ。
・・・でも本当にそれでいいのか?
そんなものは、人間と呼べないんじゃないだろうか?
それはイグナシオのロボットに、あるいはアイランド博士と同じものになると
いうことじゃないのか?
ウルフはこの物語の中で、そんな思いを込めたかのような描写も行っている。
「アイランド博士の死」という言葉を、この作品の中で使われている意味から
さらにひっくり返し、我々がそうあるべきと考える意味へと戻すこと。
ウルフは読者に対し、自らの意思でそれを成し遂げろと呼びかけているようにも思える。
そう、私たちはまだ怒っているはずなのだ、心の奥底で。
だから最後に「アイランド博士」を殺すのは、私たち自身でなくてはならない。
あるいはそれがこの物語の最後に残された、いまだ果たされない結末となるのだろう。
『アイランド博士の死』とは『デス博士』を構成する要素にさまざまな操作を加えて
生み出された「姉妹作」であり、『デス博士』と直接の関連は無いものの、テーマ上は
明らかに「続編」にあたる作品である。あらすじについて、以下にまとめてみた。
外科手術で脳を分断されたニコラス少年が送り込まれたのは、景色が囁きかけてくる
不思議な島だった。潮騒も樹の葉擦れも動物の鳴き声も、全て島の語りかける声となって
彼に届くのだ。
自らを「アイランド博士」と名乗るその島で、ニコラスは他の「患者」であるイグナシオや
ダイアンと出会い、彼らの導きで島の本当の姿を目の当たりにしてゆく。
しかしそんなニコラスを待ち受けていたのは、彼らもアイランド博士も決して語らなかった
絶望的なまでに残酷な「真実」であった・・・。
この物語の読後感を率直に言うと、とにかくやるせなくて仕方がない。
SF的らしさたっぷりのキラキラした意匠はそこかしこに現われるものの、
一皮剥けばそこにあるのは過酷な現実だ。
華麗な人工世界を描きながら、そこにはヴァーリィの書くような甘い感傷の
入り込む余地はない。
そこは単に見てくれが美しいだけの、出口のない巨大な水槽である。
主人公はその中に閉じ込められ観察される、一匹の小さな魚。
そして小さな魚には時として、大きな魚の餌としての価値しかない。
もし彼が食われなければ、他のものが代わりに食われるのである。
ニコラスの怒りと悲しみが島に嵐を起こしても、それは所詮コップの中の嵐にすぎない。
後に残るのは風と波の音ばかりである。
砂を噛むような苛立ちとむなしさ、そしてやり場の無い怒り。
この物語を読むときは、自分の中から湧き上がるそれらの気持ちを素直に受け止めたほうがいい。
さもないと、本作のシンプルなメッセージを眼前で見逃すことになりかねないからだ。
(変に理屈をつけようとして首をひねっていたときの私が、まさにその典型例なのだが。)
十代のころに読んでいれば、もっとすんなりと共感できたのかもしれないと思う。
あるいは全然わからなくて投げ出してしまっただろうか。
『アイランド博士の死』というタイトル。それは確かに嘘でも間違いでもない。
しかしその一方、このタイトル自体がひとつの罠であるということも、また事実である。
博士自身が答えを明かす前に、このタイトルが意味するところを正確に把握できた人は
まずいなかっただろうし、その答えに納得できても気持ちの上では釈然としなかったという
読者も、また多かったと思う。
そして読者がこの物語の結末にたどり着いた時、最初にタイトルから想像していた所とは
あまりにも違う場所へ来てしまった事に気づかされたはずだ。
その時に感じた思いは、我々自身の人生に対する思いといささか似てはいないだろうか?
「これはおれの思ってた結末じゃないぞ」
「いっぺんだって、物事がうまくいったためしがねえや」
人生のどこかで、こんなセリフが頭に浮かんだ時はありませんか?
ポール・ニザンを読んだことは無いのだが、『アイランド博士の死』を読んだ後で
「青春が美しいなんて、誰にも言わせない」という有名なセリフを思い出した。
冷静に振り返ってみれば、確かに青春なんてそんなものかもしれない。
うまく立ち回ることに汲々とし、生きるためにへつらい、怒りも悲しみも忘れ、
いつしかそれを思い出すことさえも無くなっていく。
人々はそれを称して、「大人になる」というのだろう。これはそんな物語だ。
・・・でも本当にそれでいいのか?
そんなものは、人間と呼べないんじゃないだろうか?
それはイグナシオのロボットに、あるいはアイランド博士と同じものになると
いうことじゃないのか?
ウルフはこの物語の中で、そんな思いを込めたかのような描写も行っている。
「アイランド博士の死」という言葉を、この作品の中で使われている意味から
さらにひっくり返し、我々がそうあるべきと考える意味へと戻すこと。
ウルフは読者に対し、自らの意思でそれを成し遂げろと呼びかけているようにも思える。
そう、私たちはまだ怒っているはずなのだ、心の奥底で。
だから最後に「アイランド博士」を殺すのは、私たち自身でなくてはならない。
あるいはそれがこの物語の最後に残された、いまだ果たされない結末となるのだろう。
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