百済旅行 二日目
2016年5月17日(火曜日)
{扶余/扶蘇山城}
扶余;ふよ プヨ BUYEO
扶蘇山城;ふそざんじょう プンサンソン
※(地名は分かっている範囲で、ひらがなで日本読み、カタカナで韓国読み、
出来ればローマ字で記載します。ハングルは未学習。)
百済が唐 新羅の連合軍に攻められ、滅亡してしまった、最後の都
扶余地区の観光です
クムさん(通訳さん)から、扶余はこの前の都 公州から高句麗に追われて
この地にやってきた、王様の名前で。地名としては、サビ;SAVI 泗?(サンズイに比)
が正統です。とのこと。コダワリがありそう。
落花岩で日本でも有名な、扶蘇山城を見て回りました。
ここ扶余の都を、唐と新羅の連合軍に攻められ、あっさり降伏し、
王と一族は捕まり、唐の洛陽に人質として連れて行かれてしまい。
そんなバカなと、残された残党が各地に散らばり、反抗を始めた。
周留城に立てこもった残党の一派が、倭国に救援を懇願してきた。
その要請に、 「それはそれはおイタワシヤ。」 と時の女帝 斉明天皇が
「どうか救援して欲しいと、はるばるやって来て願い出ている。その志を、
どうして見捨てることができましょう。」 (日本書紀より)と乗せられてしまった。
まさに、これが白村江の戦いの始まりです。
ここにある木造の建築物は、百済時代の物は残念ながら、存続されず、
近年に復元再興されたものです。
負けた側の文化は、壊され、闇に覆い隠されるのです。
白馬江;ペンマガン(錦江の上流名称)を見下ろします。
よく、不確かな歴史案内書などに、
「白馬江、別名 白村江のこと。」などと
よく調べもしないで、書かれていることが多い。
河巾が広く、流れも緩やかです。
韓国の旅行ガイドによく出てくる、落花岩の上で、
ここから、唐・新羅の連合軍に追い詰められ、三千人もの、女官達が、身を投じそれが、あたかも花が舞い落ちる光景として、語り継がれたと言われている場所です。
残念ながら、落花岩の上の、眺望台はこの日は立ち入り禁止になっていました。
扶蘇山城巡りは、なかなか厳しくて、距離も、高低差もあり、
運動不足の私には、かなり堪えました。
特に石段が厳しく、高さの不揃い、石段の大きさの不揃い、行き交うのも難しい、
手摺りもあまりなく、道幅の狭さに耐えながら、ゆっくり見学しました。
途中、遠足で来た、中学生(?)達の一団(二百人ぐらい)と行き交い、
行き交う人たちに、「アニョン ハセヨ」と言いながら階段を
登ってきたので、ハングル語ができない私は、仕方なく。
「こんにちは」と返しました。
10人ぐらいが一つのグループで
「アニョンハセヨ」
「こんにちは」
「…………?」(恐らく えっなんて??)
次のグループ
「アニョンハセヨ」
「こんにちは」
「コンニチハ?」
「イルボン?」 (日本人?)
つかさず
「コンニチハ」と返してくれる生徒も居ました。
頭の回転の善い子は、どこにでも居ますね。
この会話が十回ほど続きました。
この子達の、歴史教科書には。
百済が日本へおぼよした文化的影響について、丹念に例示しながら次のように述べられているようなんです。
「新しい文物を持って日本に渡った我が国の人々は、土着社会の日本人を教化し、日本の古代文明を形成発展させた。」
と教えられているそうです。
漢字の伝承、仏教の伝来ありがとうございました。
(新しい文物は、中国から朝鮮に伝わったものですよね。)
この泉の水は、若返りに効果があり、一杯飲めば1年若返ると聞きました。?
有り難く、一杯飲ませて貰いました。
観光船、船着き場
出発時間は決まっていなくて、客が7人以上乗ったら出発するとのことでした。
30分ほど待たされました。
河の流れは、ゆったりしていて、日本の琵琶湖遊覧船のように感じれました。
「落花岩」の名が赤いペンキで書かれていました。
落花岩、かなりの高さがあるよね。
{扶余/国立扶余博物館}
扶余地区で発見、発掘された貴重品が収納、展示されていました。
この地区の古墳からは、やはり残念ながら、敗者は闇に葬られる法則から
盗掘され尽くされていたため、収納された貴重品は少ないかなと思えましたが、
豪華な調度品も発見されており、日本の古墳博物館とは違った展示物を
見せていただけました。
丁度、日本人の団体観光客と一緒になり、そのガイドの案内が聞こえたのですが、
韓国人のガイドらしいのですが、その内容が余りに浅く、幼稚だと思えました。
声は大きいのですが、聞いている団体客は満足されているんだろうか?
きっと、百済観光に行こうという人は、古代史ファンが多いはず、
此の内容ならば、古代史ファンは落胆してしまい、百済旅行ブームが起こらない訳が
頷けてしまいました。
これから、百済文化の探求が進むことを望んでいる物としては、
少し心配してしまいました。
{韓山Hansan/周留城}
クムさん(通訳の)に努力してもらい、探して貰った、
州柔城;つぬさき、周留城;しゅうりゅうじょう チュリュソン に向かいました。
そこは、地方のごく普通の町?、村と言った方がいいかも。
遺跡とか観光とかには全く無縁の土地という感じでした。
勿論、土産物屋さんは皆無です。
畑の中に、山(丘)に向かう方向へ、しっかりした石垣が連なっていました。
何も整備されてはいない、石垣の連なり。
観光、見物の為の施設や、案内板 歩道がある訳でもなく、もちろ駐車場もなく、
ただ地元の人しか場所が分からない場所に、石垣がありました。
でもそれは、シッカリトした作りで、城壁の連なりだと確信できました。
此処に周留城が在ったのだ。
娘との LINEです。
「周留城発見しました。日本人では初めて来られたと地元の人が。」
「城の位置から、白村江の場所が確定できました。」
「三文歴史家、作家を追い越した。快感!! たまりません。」 (^-^)/~~
「変な人来たなと、思われてないかしら 笑」
「楽しそうで何より!」
地元の、元気なお爺さんが、丁寧に、説明していただきました。
(もちろん、ハングル語で。)
「城壁の石垣跡」
右側の山の連なりの向こう側が、錦江でその対岸が、群山です。
周留城跡から、錦江に行くには、山を避け、左回りに、向かっていたと思えます。
Google マップで、錦江まで、直線距離で、3~4km。山を避け、左回りで、
6~8kmぐらいでしょうか。
左側の山の向こう方面が、扶余になります。
「案内していただいた、地元の人と。」
「めっちゃ田舎やん。」
「田舎も田舎。今まで、この石垣は何だろう???だったようです。」
「地元に古い言い伝えがあり、百済と唐の最後の戦いがあったのは、
此処だと、つい最近確定したとのこと。」
「此処に来た日本人は、貴方が最初と言われました。」
「場所の地名は ハンサンHansan。
Googleマップで、大韓民国 hansan で検索できます。」
「通訳さんが、いろいろ連絡して探してくれました。」
「通訳さんは、最初、白村江の言葉も知らなかったそうです。
韓国では、学校で教えてもらっていないそうです。」
「百済を下し、天下を取った新羅が、百済の歴史を
全て闇に隠したんだよね。」
「まー、今の韓国が新羅系だしなー」
地元の人から、近くに周留城時代遺跡の石塔があると言われ、
探してみました。
感激!! ありました。
三重の石塔で、様式は昨日、扶余の定林寺跡に残っていた五重の石塔と
同じでした。
その脇に、壊れかかった寺跡もありました。
将に此処が、百済再興のための拠点であった確証です。
石塔はあまり大事にされているようには見えませんでした。
(放置されているとしか、思えませんでした。)
◎ ここは、今の新羅系 韓国政府は、あまり表に出したく無い
知られたくない場所なのでしょうか。
案内板も、歩道も整備されていませんでした。
石塔の右後ろに、壊れかかった寺院跡がありました。
その後ろ側に、先ほど見てきた、城壁跡が在ります。直線距離で、100mぐらいです。
(そこに行くのに、最短距離の道は無く、遠回りで、500mぐらい係ります。
{錦江}
錦江;きんこう クムガン
遂にやってきました。白村江です。
此方岸から、向こう岸の 群山に繋がる橋があり、河口堰を兼ねているようでした。
河口堰の向こう側が、錦江の河口で、その向こうは、東シナ海と言うわけです。
そう、西暦663年 倭国の大軍は、その当時は無かった(当たり前か?)、
河口堰方向から、こちらの岸に攻めていったのです。
河巾は、Googleマップで約1kmです。
青いトラックが走っている、後ろに見える山の裏側に、先ほど見てきた、
周留城跡があります。
錦江 郡山から
群山に架かる、河口堰を兼ねた、橋から、周留城跡方面を望む。
此方岸の、向こうに見える山の裏側に、周留城跡が有ります。
此方側から、攻めていった日本軍は、両岸に待ちかまえていた、
唐の巨大船団に、挟み撃ちにあい、無惨な歴史に。
{郡山 市内観光}
群山;ぐんざん クンサン
此処から、歴史探訪から、気分一転、観光地見物です。
この旅行の前まで、群山のことは、白村江に関してのみの知識で、
何も知らなかったのですが、今回案内してもらって、とても親しみやすい町だと思えました。
歴史的には、戦前に、日本人により、米(こめ)の搬出港として開発され、旧日本人街や、
船着き場から、貨物駅までの線路脇に、線路ギリギリに建てられた、町並が残されています。
此処だけでも、安いツアーが有れば、もう一度行きたい町です。
町並みの印象は、日本の京都府敦賀市や、富山県の高岡市、福岡県の門司市を
連想してしまいます。
貨物引き込み線路のきわ、ギリギリまでに建てられた、商店など。
話には聞いていましたが、凄い、でも面白い!!
いろいろなキャラクター店がありました。
「8月のクリスマス」のロケ現場跡。
私は見ていないのですが、そういう映画が有るのは知っていました。
韓国の、オバチャンが、きれいなお姉さんが、熱心に覗いていました。
ロケに使われたバイクがありました。
映画に出ていた、写真館だそうです。
中に入って、見学させてもらっていたら、案内の女性に、記念写真を撮りますよと言われて、シャッターを押してもらいました。
私の写っている上の、ビデオ画面が、八月のクリスマスの、最も
悲しい場面なんだそうです。
右に止まっている車は、映画の中で、駐車違反を取り締まっているパトカー(日本のミニパト)だそうです。
この後、旧日本人屋敷や、旧日本旅館、等を見て回りました。
日本人の観光客はおらず、多くの韓国の観光客が、物珍し気に、見て回っていました。
日本の旅行会社に、郡山を組み入れた、ツアーは見当たらないので、仕方が無いか。
百済、白村江、周留城と 郡山の旧日本人街を組合せば、面白いと思うんですがね。
にこまるツアーの、綾瀬はるかさん(仮名)
◎ 追伸。
気になっていた、「八月のクリスマス。」 TSUTAYAで レンタルしました。
日本で韓国映画ブームになった、きっかけとのことで、
久しぶりに、引き込まれる恋愛映画に、とても感激しました。
死期の迫った、主人公が、好きになった彼女にそれを告げられず、
それを知らない純粋な ヒロインは?
最後の、シーンには!!!
そのラストシーンを、知らなかったものですから、写真を撮っていた、
さっきの、かわいいお姉さんが、とっても興奮して、店の前の
ショーウインドウに飾ってあった、写真を撮りまくっていた
理由が分かりました。
後で知ったのですが、此の映画の日本版を、富山県の高岡市を舞台に
作られたのことで、営業の現役時代、この街にはお得意様が沢山あり、
よくお伺いしていた町ですので、雰囲気からストーリーによく
合っていると、納得してしまいました。
ところで、つまらないことが気になる性格の私。
タイトルの 「八月のクリスマス」 の意味が???
どなたか、是非ご教授ください。
◎ 百済観光ホテル
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2016年5月18日(水曜日)
今日は、昨日観光してきた、扶余の前に、百済の都があったところ
公州;こうしゅう コンジュ 百済時代は 熊津と呼ばれていた。
の観光です。
{公州Yunnju/宋山里古墳群}
百済の公州時代、歴代の王の古墳が集約して造墳されている場所です。
{公州/国立公州博物館}
{公州/公山城}
◎ ソウル ニュー国際ホテル
百済 白村江を求めて 4日目
2016年5月19日(木曜日)
自由時間
南大門訪問
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◎ 古代史 のんびり散歩
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