風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ゲバラの見果てぬ夢(上)

2017-10-14 23:47:39 | 日々の生活
 キューバ革命の立役者の一人、チェ・ゲバラがボリビアの山中で捕えられ射殺されたのは、ちょうど50年前の1967年10月9日午後1時10分頃のことだったとされる。「上を向いて寝かされた彼の遺体の目は開いたままで、その表情は見る者にキリストの受難像を思わせた」(伊高浩昭氏の著書から)という(なかなか劇的な描写だ)。没後50年ということで、最期の地ボリビアでは追悼式典があった一方、故郷アルゼンチン中部ロサリオに設置された銅像を巡っては、右派系の団体が「共産主義の殺人者は公の栄誉に値しない」としてインターネット上で市に撤去を求める署名活動を展開し議論が起きていたともいう。
 多くの日本人にとっては、セピア色に褪せたやや遠い過去に(もはや歴史の一コマにさえ)映るのは仕方ないが、キューバ革命やミサイル危機やゲバラの死は、私が生まれてから地球の裏側で進行していた話であり、今もなおその強烈な生々しい記憶と共に生きている人たちがいる。ゲリラと言い、革命と言い、おどろおどろしさはあるが、負傷兵には味方も敵も分け隔てなく医療手当を施すのがフィデル・カストロの方針であり、従軍医師のときも指揮官のときも、ゲバラはこの戦場医師の倫理を守り続けたといったあたりは、小さなエピソードだが、現代のテロリストとは明らかに異なる、古き良き時代の反体制運動の理想と矜持を感じさせる。当時の時代背景を思うにつけ、革命に殉じたチェ・ゲバラには、保守の私でもその民族主義的信条と生きざまには同情的になる。というわけで、ここからは親しみを込めて彼のことをその愛称(綽名)のチェと呼ぶ。
 この夏、恵比寿ガーデン・プレイスで開催された「写真家チェ・ゲバラが見た世界」を、盆休みの徒然にふらっと見に行った。意外な人だかりに呆れてしまった気が短い私は、さっさと流し見して会場を出てしまったほどだった。郷愁を感じる(全共闘世代を中心とする)お年寄りばかりではなく、若い人も結構いて、今もなお人々を惹きつけるものがあるのを感じて、たまたま本屋で見掛けた比較的新しいゲバラ伝、「チェ・ゲバラ」(伊高浩昭著、2015年)を手にとって、読んでみた。三好徹氏や戸井十月氏のゲバラ伝も面白かったが、伊高氏はジャーナリストとして多くの資料を渉猟し、いろいろな証言を集めて、やや状況描写に冗長なところがあるが、ご本人曰く「実物大に近いチェを描こうとする新たな試みの一書」として、なかなか興味深い。以下、この本から印象深いところを拾ってみる。
 子供の頃から喘息に苦しめられ、サッカーやラグビーに興じて敢えて肉体を労わらずに痛めつけるようなところがあって、リルケの言葉「死は人生の暗い面にすぎない」を気に入っていたと言われるように、死を恐れず、むしろ危険を過小評価するのがチェのアキレス腱だったとも言われる。自身「私は穏健派ではありません。武器を手に敵を倒します」と母への手紙にしたためているほどだ。あるインタビューでは、「拳銃より吸入器を好む。喘息に取りつかれているときには沈思黙考する」と語っている。喘息は、彼の一生に大きな影を落とした。
 最初の妻イルダはチェの印象をこう描写している。「目鼻立ちは普通だが、全体的に美男子。見た目の虚弱さとは裏腹に男性的だ。いつも落ち着いているように見える。知的で、常に何かを観察している。やや思い上がった感じがしたが、後で、喘息の発作のため息をする際、胸を大きく膨らませないといけないのを知った」。フィデル・カストロの初期の革命運動の頃の同志カルロス・フランキは初対面のチェのことを「やや自己陶酔型で、中背、筋肉は逞しい。パイプを口にし、マテ茶を好んでいた。スポーツマンと喘息患者、スターリンとボードレール、詩人とマルクス主義者の間を往復していた」と描写している。
 その知的な面では、子供の頃から父母の蔵書に親しみ、「12歳にして18歳の教養がある」と父親に言わしめたのは、ただの親馬鹿ではなく、医学部を出た医者ながら学生時代にはイプセン、サルトル、パスカル、ネルーなどにも親しみ、後にコンゴ遠征には30~40冊の本を持ち込み、仲間から離れて読書に没頭する時間も見られたというし、日記や手紙の「書き魔」で、随筆や論文も多くものしており、キューバ革命が成功した後、国立銀行総裁としてのチェに会った哲学者サルトルに、「ゲバラ司令官は大変な文化人で、彼の言葉一つひとつの背後に黄金の蓄えがあるのを察知するのに時間は要らない」「今世紀で最も完璧な人間」と言わしめた。
 そんな彼は、ラテン・アメリカは「単一の混血主義者」だと公言するほど、シモン・ボリバルばりの理想主義を奉じていた。キューバ革命に参加したとき、ラジオ放送局のインタビューで何故キューバで闘っているのかと問われて「私の祖国はラテンアメリカ全体だ。だいぶ前からそう思い、どの国であっても、その解放のために戦うという民主的努力を払わねばならないと考えて来た。武闘以外に解放手段がないから戦っている」と答え、フィデルのことを「共産主義者ではない。民族主義の革命家だ」と答えている。その最後に「この放送を聴いている同胞にお別れする前に一つだけ言いたいのは、憲法や民主の大義をいまだに実現させることが出来ないでいるラテンアメリカの不幸な国々の人民のことに思いを馳せて欲しいということだ」。
 そしてキューバ革命が成就した1959年1月3日、メディアとのインタビューで共産主義者呼ばわりされたのに対し「従属を拒む者を一緒くたに共産主義者呼ばわりするのは独裁の古い手口だ」と反論し、「私は言われているような人間ではなく、自由を愛する者にすぎない。私は医者としてキューバに来た。この国に悪性腫瘍があったから、その除去を手伝ったまでだ。キューバ人への連帯を義務として戦った。外科用のメスと聴診器は手放した。一国民の心臓の鼓動を知るのに聴診器は不要だ。この革命戦争では、農民、労働者、知識人で構成する部隊が正規軍を撃破した。独裁者相手の戦闘で得た重要な事実だ」と答えた。次の目的を訊かれると、「革命に祖国はない。ニカラグア、ドミニカ共和国、パラグアイだろうか。もしブラジルが私を必要とするなら招いて欲しい。ポルトガル語を学ぶから」と応じた。その後のチェは、ペルー、ボリビア、アルゼンチンと陸伝いに繋がる三国のゲリラが同時に戦う「アンデス作戦」を構想する。
 アルゼンチン人は、ラテンアメリカで最も傲慢だと見做され、チェにもその傾向があったという。祖国アルゼンチンを離れてから、グアテマラに旅して革命家として目覚め、メキシコでフィデル・カストロと出会って、カストロについてキューバ革命を闘い抜き、予備演習のような位置づけでコンゴに遠征し、祖国アルゼンチン解放を夢見て、最期の地ボリビアで反体制の狼煙をあげたのだったが、どこにあっても、いくら熱意や善意を示しても、余所者扱いされるという意識が根づいていたようで、苦悩は深かったように思う。
コメント
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