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2012.10.04 90代の元職場の上司のこと(第2話)

この方は、日本に帰って士官学校で勉学し、卒業後、将校として岩国で120名の兵を
束ねて鉄道警備隊の任務に付いていました。
岩国小学校の一部が仮宿舎として提供されていたそうです。
大きな任務は鉄道や駅舎などが爆撃を受けると、皆を率いて修復に当ることでした。
線路や駅舎が爆撃を受けて破壊されると、いち早く復旧する必要があるのです。
怪我人への薬の補給、及び早急に医者や看護婦を運んで来る必要があるので、鉄道は
命綱だからです。

その頃、飛行場で使うアルコールを砂糖から生成していました。
ある日、海岸べりで砂糖の荷揚げなどの仕事に従事していました。
荷揚げ作業を監督していた時、大きな稲光がしたので始めかみなりかと思った。
でも、こんなに天気が良くて一面の青空なのに、何故かみなりが鳴るのかと不思議に
思っていると、2分半経ってからものすごい爆音が聞こえた。
あわてて屋上に上がってみると、廣島の方面に大きなキノコ雲がぐんぐん上昇していた。
何があったのかと、廣島、呉などあちこちに電話をしても架からない。

何かが起こったのだ、とにかく、機関車の石炭を積むところに12名の兵を乗せて
(12名と言うのが1個小隊の単位だった由)廣島へ向かった。
廿日市市迄来ると、どの家も廣島側のガラスが全部割れていた。
機関車の車にかじり付いてくる女性がいたので、乗せてあげて走っていると、突然女性が
飛び降りた。どうしたのかと思っていると、駅の切符売り場でドミノの様に重なって倒れ
て死んでいる人々の中に自分の夫を見付けて、目玉が飛び出し割れた頭の夫を両腕で抱き
大声でわめきながら、飛び出た脳みそを、手でわしづかみにし、頭に戻そうとしていた。

さらに進むと、線路はあめの様に曲がり、枕木は吹っ飛んでいて汽車は進めなくなった。
2派に分かれて廣島へ歩いて行き、重なる死者と燃える家々の凄まじい地獄の中を進んだ。
途中「兵隊さん、水、水、水くれ」と苦悶の顔と絞る様な声々。
水筒を口に寄せるや、飲む力はもはや無く、安心してか殆どの人が「お母さん」と一声を
残して成仏された。

ようやく市内に入った時は、投下後3時間経っていた。
すべてが壊れ吹っ飛び、焼けただれている。一面おびただしい死者である。
被爆3時間以内で、動いている人は一人もない。うめき声が聞こえるのみであった。
みんな黒こげで、男か女か分からない。馬が電信柱に引っ掛かっている。
想像を絶するすさまじい光景だった。
川という川は、水を求めた人の死体で埋まり、それが満ち潮や引き潮で、重なったまま
動いている。地獄を見ている様であった。
そのまま、黒い雨に濡れながら、全力で救援を続けた。

その後の人生で、放射能の影響が、身体のいたるところへ出て来た。
脚に出て来たこともあった。小児科と婦人科以外、すべての病院に通った。
いまでも、海藻類は摂取出来ない。

終戦後は元の職場に戻り勤務し、その後多くの部下を育て、定年後も求められて要職に
ついておられました。職を辞してからは、広く社会貢献をしておられた人生でした。

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以上は、ご本人にお聞きして、書き取ったことを纏めたものです。
日頃の忙しさで、あれほどパニックだパニックだと騒いでいた私でしたのに、又この方
のことを伝えねばならなくなり、この第2話を書きました。

その上、「原爆のことを書いたものを、あんたに渡していなかったかな?だったら渡し
たい。」ということで、ご自分の書かれた文章の載った文集を届けて下さいました。
そして、その時、なんと!衝撃的なお話を聞いたのです。
これは、誰にも話したことはないそうで、今回は駅の待合室でお会いして、ざっと
お聞きしただけなので、メモもなく私の頭にあるだけですので、忘れないうちに纏めて
おかないと、そのまま消えてしまうお話です。しかし捨て置けないお話なのです。
本当に私は、いつまで仕事そっちのけでキリキリ舞いをしているのかしらと、自分に
あきれつつ、次回は第3話として、その衝撃的なしかし素晴しいお話を纏める予定です。

又しても、忙しくなりました。向こう岸がどんどん遠のきます。
私が「せっかく悩みを聞いて頂いて楽になると思ったのに、また新たな課題ができて
逆になりました。」と冗談で苦情を言いますと、その方はアハハと笑っておられました。
でも、その方に責任はありません。私が勝手に、これは記録に残しておかねばならない
と決心しただけですから。
急がないと! ぐずぐずしているとお聞きしたことを忘れてしまいます。
済みません。よかったら次回もお付き合い下さいませ。


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コメント
 
 
 
おひさしぶりです (ひらの)
2012-10-05 11:04:25
岩国におられたので山口弁なのでしょうか。
広島の原爆では、私の母は16歳で爆心地から2,3キロのところで被爆しました。私は母に当時のことを聞いてみたことがありますが(「語り部」のかたがたの仕事をテレビで紹介していたからだと思います)母は「父親が岩国から(岩国に実家がありました)来れるところまで電車で来て、それからは歩いて迎えに来てくれた」「いろんなものを見たよ」と言ったきり、話してくれませんでした。
母が認知症になってしまった最近になって母の妹から聞いたのですが、母は看護学校の学生だったせいか、父親が迎えに行ったとき、原爆で亡くなった人々の遺体を焼いていたそうです。おそらく、きちんとした葬儀用の焼却場ではなく、野焼きのような光景だったのではないでしょうか・・・
私には話してくれない、話せない悲惨なものものを母は見たのでしょうね。

90代のこのかたは、わが身を病みながら語り部として尽くされて、ほんとうに勇気のある立派なかたですね。
 
 
 
山口県 (みずえ)
2012-10-05 12:40:23
ひらのさん
お久しぶりですね。
そうです。この方は、山口県生まれの方です。

>90代のこのかたは、わが身を病みながら語り部として尽くされて、ほんとうに勇気のある立派なかたですね。
そうですね。お話をしに行かれている事は知っていましたが、そういう事だったのかと今回始めて知りました。
又、続きを書きますので、ご覧になって下さいね。次は岩国のことが出て来ます。
 
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