老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

1989年(己巳年、生まれ)の持つ性格

2007年03月31日 | Weblog
今年誕生日を迎え18歳

平成元年生まれの人の性格                         

知恵分別があって、一芸に達する                      

豊かな天性を備えています、しかし                     

癇癪(カンシャク)も強く、人を罵倒して                     

思わぬ失敗をしがちです。                         

移り気の面もあり、浮き沈みの多い                     

生涯となりがちですが、                          

じっくりと腰を据えて精進すれば                       

希有の出世をして名声を揚げる。 


日記@BlogRanking
 

結婚線NO.11

2007年03月30日 | Weblog

                              

          恵まれた結婚生活を送れる相                                                    

          恵まれた幸福な結婚を示しています

          尽くし尽くされ愛情豊かな

          生活を営まれるでしょう。

                 日記@BlogRanking

 


最古の吉野山風俗図

2007年03月29日 | Weblog

                                

桜の名所として知られる奈良県の吉野山の姿を描いた。狩野派のびょうぶ絵が、戦後行方が分らなくなっていた。 

そのびょうぶが2年程前愛好家が米国で発見し購入していたらしく、十月特別展で一般公開されるらしい。       

十六世紀後半安土桃山時代の作品とみられ、寺院の姿などから、吉野山を描いた風俗図としては最古の可能性が高いと言う。

水墨で描き彩色しており縦1.5メートル横3.4メートル、吉野の山々に囲まれた金峯山寺と参拝道を中心に、

花見で酒を酌み交わす人々や、茶店で休憩する旅人の姿などを生き生きと描かれているらしく、拝見したいものである。

尾張徳川家に伝わっていたものが売却され、1940年代以後は行方不明になっていたもの。吉野の風俗図としては、

豊臣秀吉の花見を描いた十七世紀初めの(吉野花見図屏風)重要文化財がこれまで最古とされていた。

 http://blog.pr.arena.ne.jp/cgi-bin/in.cgi?mine3938"><img

 


徳島と聞けば阿波踊り

2007年03月29日 | Weblog
毎年見る桜なのに春の声を聞くと、桜の開花が待ち遠しい。そして花の下に行くと心が安らぐ、見知らぬ人にも声を賭けてしまう。心が浮き浮きしてくるのだろう。徳島に生まれ、ここで育っているから、随分ながく御世話になっている。徳島と言えば阿波踊り、これも桜と同様、毎年大勢の観光客で賑わいます。踊りや、音楽に興味があるわけでもない、阿波踊りだけは見たいと言うのでもなく、徳島に住んでいるから毎年繰り返し、何十回何百回と見せてもらっている。

それだけなのに、踊りの期間、家で食事中など、テレビでこの踊りを見ていると、箸を持つ手がいつの間にか鼻のの上にいる。そんな阿波踊り。阿波踊りには歌があります。その歌がよしこのです。此のよしこの、変えることなく、魅力を引き立て、まもり育ててきた、よしこのの第一人者が徳島にいます。お鯉さんこと多田小餘綾(タダコユルギ)さんです。今年100歳を迎えられました。現役です。

この3月27日県郷土文化会館で100歳を記念したコンサートがありました。よしこのを継ぐ仲間達(芸妓)は祝舞を。直弟子達60人による、よしこのの歌を演奏し、二部は、お鯉さんのよしこのに合わせて、有名連の踊り子達が阿波踊りを披露。百歳を向えるお鯉さんを祝った。お鯉さんとよしこのは昭和6年日本コロンビヤーでのレコード収録から現在。  県民栄誉賞、名誉市民に選ばれています。

阿波よしこの・・・・・
ハアラ エライヤッチャ エライヤッチャ
ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ
(以下はやし略)
阿波の殿様 蜂須賀さまが
今に残せし 阿波踊り
笹山通れば 笹ばかり
猪 豆喰て ホウイ ホイ ホイ
笛や太鼓の よしこのばやし
踊りつきせぬ 阿波の夜
踊る阿呆に 見る阿呆 
同じ阿呆なら 踊らにゃソン ソン

他に阿波小唄・せきぞろ・かみじ・柳の雨・手拍子揃えて等、

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現実にあって形の無いもの

2007年03月25日 | Weblog
形の無いものを無くす事って出来るのかなアー。難しいですね、虐めもその一つだと思います。ある県の調査では、小学生39%、中学生35%が虐めを受けた経験がある、又現在も小学生26.8%、中学生18.4%が虐めを受けているとの結果です。そして誰にも相談したことがないと言うのも、小、中学生合わすと92%と言う数字になっています。ここに子供が虐められた事があるかとの保護者えの調査では、子供との意識のずれがかなりあるようです。

子供が虐めに遭っていても気づかない親であったり、教訓の言葉が虐めと受け止めてしまうお子さんも居たりするようです。もう60年も昔の事なんですが私が小学校に入ると間もなく先生の差別が始まりました。女の先生でしたが、みすぼらしい私は特に嫌だったのかも知れません。父は私が3歳の時軍隊へ5歳の時亡くなりました、義務教育を受けている4人の子供、同じ仕事をしても男性の6割程度、母一人の働きでは食べるだけでやっと。

教科書も無料などと言うのは随分後の事。あの時の先生でなくても確かにみにくい人の子、だったと思う。それだけなら他の学級にも居たはずだし。そして前向きな母に育てられた私、落ち込む事もなかったと思うのですが、皮肉なことに耳が不自由だった。これもずーと後になって検査で分ったことなのだが、生れ付き音が伝わる細胞が崩れていて、音として聞こえても、言葉としてまとまらない、何度言われても分らない馬鹿だったので、

2年生から先輩が卒業する中学3年になるまで虐めが続けられました。長い期間だったので洋々な事がありました、特に五年生の時の事は辛くて死にたいと思ったこともありましたが、育ててくれた母や姉達を残して死ぬ事は虐め以上に辛いことで、これは出来ませんでした。短い期間でしたが戦時中、長男は家族や地域の人を守らなければならないから、しっかりしなければ駄目だと言われて来たからかも知れませんが?

今虐めに関してはいろんな所で各先生方が議論をされています。虐めもここまで拡大したのかと言うのが実感です。確かに、態度を変えたり、勇気を出せば解決するような事も沢山あるようです。虐められる側にも問題があるとおっしゃる先生方の言葉はここを見ているのでしょうが、この言葉にも問題があるのではないでしょうか? 

学校や人の見ている所でいじめは起きない、本人に何の責任も無いことさえある。と言って人に相談しろと言われても出来ないこともある。私も状況から親には話せなかった。人の心が作る無形の問題、ここまで広くなった今、無くすことなど考えても無理だと思う。少しでも少なくする事を真剣に考えてほしい、其れには、健康な身体に健全な精神が宿る、の言葉通り、どんなことがあっても絶えられる精神力を養うこと。

それに自由と平等と権利だけが先走りしている現代だから。自由と平等と権利には責任が伴うことをしっかり自覚してもらわなければ。未成年だ、責任能力が無かった等々、その言葉の影に解決できる問題が潜んではいないだろうか。議論している大人達、子供の事を本当にわかろうとしているのか名文句の競い合いでは困る。

そして今虐めにあって苦しんでいる人がいたら伝えてあげたい。どんなに辛いことがあっても、どんなに苦しくても、死を選ぶことは大変な間違いです。楽を選んで苦しい時に死ねば苦しみもそこでとまってしまう。解決にはならないのです。耐え抜いてください、苛める側より幸せです。後に分ります。耐え抜いた時、身に付いた精神力は誰にも真似の出来ない貴方だけの宝物になります。幸せにつながるものです。    

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姿形ある物

2007年03月25日 | Weblog
姿形ある物はいずれ壊れるか滅びるもの。、、先生と呼ばれる方が愛用されている湯飲茶碗などでも、宗教団体などの女性の方などは其の湯飲みを扱う時はとても気を遣うそうですが、其れでも何らかの理由で壊れます。花形時代を過ごした蒸気機関車のような物から、(都)等のようなものまで、其れが地球、太陽までも姿あるもの全て?

太陽が熱、光を失い、現在の地球程、小さくなっている姿を見るのは七百七十億年とか言っていました。受け止め方はいろいろでしょうが、もっと早く変化が現れるものに、地球に水がなくなり陸ばかりになるそうです。だから科学者達この広い宇宙、地球とおなじ星が有るのではないかと考えて探しているそうです。早く見つかれば良いですね? でも私達そこに地球がもう一つあったとしてもどうするでしょう。

其処には生物もいることでしょうし、挙止されたら、知らない方が良いかも、それともミサイル? 人工衛星など多くなると、不要になった物、砕いて棄てる宇宙のゴミ、地球の表面に集まっています。これも多くなると太陽の光も、さえぎります。こんなに恵まれた地球に住んでいるのですから、太陽が続く限り、この地球に人が住み続けられる環境を保持していかなければ。、、、、

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1980年(庚申年、生まれ)の持つ性格

2007年03月22日 | Weblog
今年誕生日を迎え27歳
昭和55年生まれの人の性格          

神経質で、感情の起伏が激しい性格です。
極端から極端え走りがち、
相手を裏切るような事も有るようです、

しかし 理想家肌の人ですから、
自己の欠点を慎めば良い協力者が得られて、
立派な仕事を成し遂げれます 

庚申は納音で柘榴木(じゃくりゅうぼく)
外に現れず、内に蓄える木の気を表現し、
事ある場合に備えている形を例えたもの。


かやぶき屋根

2007年03月22日 | Weblog

                                       

徳島県剣山のふもと、平家の残人が隠れ住んだと言われる山深い所にある。五十数軒と言われるから大きなです。渓深い生活から食料を求めて先人達が少しずつ上に登り日夜開拓を続け、現在このにある一つ一つのものに、長い歴史と厳しい環境に生きてきた人の知恵が滲み出ています。

二千五年に国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選ばれています。全国にかやぶき屋根は沢山残っていますが、北陸方面等と少し違うところは急斜面なので敷地が十分確保出来なかった事も有るのでしょうか、全体に小柄のようにも思いました。 かや屋根は葺き替えの煩雑さな゛どから1950年以後にほとんどの家の屋根がトタンで覆われました。

今年、この三好、東祖谷落合地区の古民家のかや葺き屋根を保存しょうと、国や県の補助を得て50年代ごろの景観を目標に修復を進めるそうです。今月24日からかや集めのため広くご協力をお願いしています。一軒の屋根の葺き替えには約一トンの萱が必要だそうで、まとまった所に無くなっただけに、多く集めることは大変な作業だと思います。

私の故郷でも何軒かかやぶき屋根は残っています。もちろんトタンで覆われています。 小さい頃叔父がかやぶき屋根の職人でしたので当時、後一代はこの職人も必要だと言って若い人に教えていた事がありますが、その後このでは、かや屋根を葺き替えた家は無かったように思えます。つまり、30年以前に葺き替えられた貴重なものです。

何で、かや屋根と其の構造なのか?   地震、台風、積雪、雨風などにも絶えられる素晴らしい知恵が潜んでいます。夏はとても涼しいですし、冬でも暖かいです、それに、葺き替えの期間が比較的こ長いと言う事と、なんさ言っても材料が自分たちで確保出来たと言う事だと思います。村全体がかや屋根であった時代は、萱野と言って、萱ばかり生える広い山を作り。

春、今頃でしょうか、村全員が集って山焼きをします。後にはウドやワラビが沢山生えていましたが少し小さいので土地の人は行かなかったようです。とにかく子供の頃は広い山に感じました。秋はキジ等の産卵地で、のどかな風景も浮かんできますが、話が方向を変えて居るみたいですね、 この広い山を屋根の大きさ等で面積を決め、個人が他の木など生えないように管理し。

毎年刈り取った萱は屋根裏などに保管して、必要な量が確保出来た頃には葺き替えしなければならない、時期になっていたり。必要以上にならない山の面積であったり、屋根の葺き替えは村人みんな無償でしたので、一年に何軒も葺き替えがあると生活にも影響するので毎年一個ずつと順番のようにもなっていました。みんなが持ち寄った知恵の生活でした。

 


阿波の十郎兵衛

2007年03月18日 | Weblog

 

 

 

 

徳島に住んでいて徳島県と言えば貧乏県のイメージがあります。今も解消したわけではないのでしょうが、何でそのイメージを持ったかと言うと、子供の頃、路面電車が無いのは全国で徳島県と、後一県だけ、と言う事だったからだろう。作らないまま時代が過ぎて、道路のレール撤去費用を使わず済んだのもこの二県だけ、一喜一憂。さてこの徳島県、全国的に名の知られている事も沢山あります。

是非一度徳島にお出で下さいね。 そしてその一つ、阿波十郎兵衛、講演が今年も十郎兵衛屋敷後で始まっています。父の名は十郎兵衛、母の名はお弓、両親を探し歩く巡礼姿のお鶴、母と名乗れず泣く泣く追い返す母お弓、の物語をさまざまにアレンジしたもの、読、琵琶、舞踊、浪曲から落語、腹話術に仕立てたもの、音楽など、ギターを乗せての講談まで、なをも、原作とは違った。十郎兵衛に殺されたお鶴が息を吹き返し、親子で巡礼の旅に出ると言う改作まで出来ているらしいが。

他でも十郎兵衛が我が子と知らず。お金がほしさに、お鶴を殺してしまったと言う筋書きにもなっている。あまりにも有名な物語なので、涙を誘うためのものか、さなかではないが。こんな事は、この物語に限らず,歴史上の人物などでも少しずつシナリオが変わって行ってるもので、時がたつほど元はそのままでも色は変わると言う事でしょうか。ここで、この物語のあらすじを紹介してみます。阿波徳島家老(桜井主膳)の預かる重宝(国次)の名刀が盗まれ、家臣の(板東十郎兵衛)と言う、は名刀を取り戻すため、(錦十郎)と名を変え、盗賊の仲間となり、妻お弓と共に大阪の玉造に隠れ住んでいた。 十郎兵衛が留守の時、かわいい巡礼姿の子が訪ねてくる。身の上を訪ねると三才の時徳島に残してきた我が子お鶴。

その場で名乗り抱きしめたい思いにかなれるが、この子に難をかかる事を恐れ、涙ながらに追い返す。二度と会えないと思い後を追う母、お弓。この場面を阿波人形瑠璃、傾城阿波の鳴門、有名な一節だ。後に板東十郎兵衛。妻お弓も徳島に帰り現在の川内町に住む。 当時徳島は藍、製塩産業に奘励したため米不足となる。お米は外から買わなければならないのに、幕府は食料の買い入れを禁止していた。食料の輸入は密輸。板東十郎兵衛は密輸の検査役であり、川口裁判改め役であったのだが。部下の不正がばれて、今から三百年程前、元禄11年11月21日十郎兵衛の長男以下男子3人と共に処刑される。妻お弓と、娘お鶴は病死と記されている。   

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