老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

石だってこの暑さには苦しかろうに

2008年08月27日 | Weblog

前の日記と関連のあることなんですが、ここにも納得のいかない事が。私のいるすぐ北側には川が流れていて。

その川の水面と私達の地域はほぼ同じではないかと思われます。今は技術の進歩で立派な土手が出来ていて

破壊する事はまずないと思いますが、昔はこの土手、よく切れていたようで、写真にある石碑には明治32年9月と刻まれています。

大水害に見舞われ土手の破壊でこの地域、大きな被害と沢山の犠牲者が出たとの事です。その補修工事の

完成と共に当時の状況を石碑に刻み、再び災害の起こらない事を願って、犠牲者の霊をここにお祭りしてあります。

施工時に植えられたのでしょう。大きな松の木が茂って降りました。しかし、昆虫の被害に遭い、枯れてしまった後、

土地の人が植えたのでしょう、石碑を囲むように木が茂ってきました。写真に木の株がありますが、道路も直線でもあり、

大きく茂ってきても決して交通に差し支えがあるとは思えないところです。ところで、土手には木を植えたり、

耕したりする事は禁止されています当然の事ですが、木が大きくなると台風などの時、倒れて土手の破壊につながるからです。

勿論ここの木も人工的に植えた木なのでたぶん撤去の命令が出たのではないかと思います。全部切ってしまいました。


今から6年程前の事だったようにも思います。すぐ上にも祠だけでお祭りしてある所がありますが、ここにある木は

道路にかかっていますが、かなり古い物です。現在はこの土手全体かなり大きな木が沢山茂っていますが、当時はまだ小さくて

切る対象に成らなかったのでしょう。 この道路25㌔ほど登ったところに私の故郷があるのですが、見通しの悪い物は伐採されたり、

枝打ちをされていました。当時一度だけ見たことです。それにしても石碑を守る意味でも、犠牲者の霊を涼しい木の下で休んで頂くと

思う思いやりの意味でも、他の場所とは違うと思います。まして枯れた木の変わりに植えた物なのに何故許されなかったのだろう。

私は悔しい思いをしています。ゴミの不法投棄もごく一部の人のする事だと思いますが、そんな人達が何処にでもいると言う事も

残念なことですが、役所の仕事をされている方々も広い知識を持ってマニアル道理の指導でないことをお願いしたいものです。

逃げ柵

2008年08月26日 | Weblog


工場の近くにある県道、土手になつています。写真左なんですが、 この広場以前はもっと広く、大型車が何台か止められる所でした。

私も十輪が入れないのでここにレッカーを据え4屯車で出来た品物を 瀬戸って此処で積み替えたり。長距離に乗る運転手がここに大きな

車を止めて家に帰ったり。 いろんな人が便利に利用させて貰っていました。 しかし、その頃から心ない人がここに車を止めゴミを

不法投棄 していたようで、土手を補修した時、削り取り現在のように 幾らか狭くしました。その後は昼時などダンプカーが一列に数台

止まって、休憩をする光景が見られたものです。 この柵を作ったのは最近なんですが、既に車が当たったのか 曲がったものもあります。

どんな方が提案したのかなぁ?て 思ったりしながら通っているのですが、、、、、 この道路行き止まりでは有りません。


日本全国につながる道路の 一部です。こんな広場は数え切れないほど有ります。 確かに広場の方がゴミは捨てやすいかも知れません。

でもこの広場の上下にも何処にだって車は止められます。 私も車を止めて撮影しています。 木の下には沢山のゴミが投棄されています。

車を止めれば危険だとか、通行の邪魔になるとか、そんな時間帯に ゴミを捨てに来る人はいないと思います。深夜なんでしょうが

それでも、捨てた自分のゴミはすぐ見えなくなる木の中、草の中を 好むようです。そこで、この柵一個曲げれば車は入れますので、

補修も必要ですし、車が入らなければここにも草や木が伸びます。 今この土手、写真右です。自然生えの木が大きく伸びていて

不法投棄しょうとする者には好都合になっています。 この土手の木を切って見通しの良い奇麗な土手にする方が不法投棄

防止に役立つと思うのですが、しかし、ここまで大きくなった木を全部切ると なれは大変な仕事になるので、結局逃げ柵となったの

でしょうが 木は益々大きくなりますから大きな費用も必要になりそうです。

辛い辛抱、悲しい我慢

2008年08月23日 | Weblog

孫、何人もいます。その孫を見ていると、遠い記憶がよみがえり心が痛みます。 子供が小さかった頃は生活に追われ

子供にはは何もしてあげられなかった事です。 それどころか、苦し紛れに叱ることが多かったようにも思います。

でも私の母もそんな気持ちを持ち続けていたのではないでしょうか。 昔と現代では随分生活環境も違いますが何時の時代の

親も、 子を思う気持ちには変わりはありません。 子供にしてあげられない事は親にとってとても不敏なもので、 ずーと

心に残っているものですね。でもこれで良しと切り捨てるべきだと思う。 父、戦死6人子供姉妹だったし母は男勝りで

弱音など吐く事のなかった人でした。 それが姉たちも嫁ぎ、私と妹3人の生活になった頃、冬の寒い日、遠い親類に

母の変わりに私が行くことになり、家を出るとき、寒そうな私を見て、後取りの私でもあり、年が、いてか 

弱気にも成っていたのでしょう、本音を吐いてしまいました。 「上服がなくて可愛そう」この言葉です。「可愛そう」

親が子供に絶対に言ってはいけない言葉の1つだと思います。どんな家庭でも、どんな親でも、子供は其処でしか生きられない

事覚悟が出来ています。 して欲しい事、買ってほしい物それが当然として構わなければ其処に辛抱と言う大切な物が育つのです。

しかしその辛抱はまだ完全な物ではありません。自分は今何も考えず寒さだけを辛抱してこの服装で出かけようと思っている時、

可哀想の言葉で張り詰めたものが一気に崩れました。そして自分に惨めさを感じ涙を流してしまった事です。

ですから今まで我が家では、可哀想と言う言葉は使ったことはありません。 こんな言葉、ここに取り上げるほどの

事でないかも知れませんが、私の体験。この日は限ってはここから我慢に変わったことです。現代の人が良く切れると言います。

それは親達が子供に我慢をさせた結果ではないでしょうか。 我慢と辛抱の違いです。(心棒)簡単には挫けない、折れない、

しっかりした棒を心に作っていく事だと思います。一方(我満)しなさい。 我が儘心を親が抑えているに過ぎないのではないかと

思ったりします。辛抱と我慢字引での意味と違うと思いますが、私は教養が有りません。体験だけで話をしていますので腹立ちの方は

お許し下さい。器の大きくできている子、たまたま器の小さな子に我慢が多いと当然まけだしてしまいます。私も遠い過去のあの日、

我慢をして一人雪道を登りました。当然としいる心の時は楽しいことも思い出します、見る物も楽しく見えます。しかし我慢する事は

辛抱より悲しいです、心にも違ったかたちで残るものです。

再起動 フル回転のジィジェルエンジン

2008年08月16日 | Weblog

23才、絞り出すチュウブのように行く旅費だけで大阪に出て13年最後の4年間はグルーブでする請負仕事。低い木造工場の中で600~700㌔の真っ赤に

焼いた鉄を加工する仕事。汚れた空気の中で、夏、工場の中の暑さは、言葉には表せないです。遅くても3時には会社の風呂を上がり社を出る。

それから個人的にバイトなんですがバイトもだんだんエスカレート、最後には毎日新聞社の中で午前4時まで、(仕事は少しです)さすがに半年過ぎると

眠らないので頭の毛が抜け始め危険を感じバイトを止めました。48年からの石油ショック、タンカーの部品作りとあって本業にも影響が出始め、

50年長男が4年生、長女が幼稚園になるのを期に徳島に帰りました。何をすると言っても個人的には何の技術も身についていません。


その上お金を借りるにも条件が悪すぎです。家は有りましたが田舎の母が噂を気にするので当時これを担保に入れる事はどうしても出来きなかったです。

結局借りられるのは金利の高いレジャー資金、それを借りるにも書類作りに一年後、四苦八苦の末借りればすぐ返済が始まる。それで生活をして

いかねばならないし、道具だって買わなければ仕事が出来ていけません。最初の仕事は上手くいきませんでしたが成り行きで鉄工所に成りました。

この人生順序を追って書くとそこそこ厚さの本が出来そうですが、今回これを言いたかったのではありません。書きたかったのは上手くまとまりませんが

健康のことなんです。徳島に帰って再起動。師匠もいなければ勤めた事のない仕事。仕事を頂ければ勿論納期はある。まともな製品で納めなければならない

。時間いっばいかかって納品の時はクレームがつかないか心は冷え切っています。納めれば請求通りのお金は頂けるか? 次の仕事は? 365日心が安まる

時がなかったように思いいますが、仕事を一つ一つ完成さす喜び、健康であった事が全てのことを吉に振り向けることが出来たと思います。

そしてそこに家族がいて、世間にどれほどもまれても、仕事を始めた後悔など一度もない。一直線に進んでこれた今思えば楽しさも苦しさも

人生の最高期だったか?。 たまに少し早く帰ると幼稚園児だった娘が ピールピンを又に挟み栓を抜いて注いでくれたものだ。その娘も今では3児の母。

その孫が来春は中学生、私がくたびれるようになったといっても不思議ではないのですがまだまだ元気です。建設関係の仕事にたずさはって30年ほど組合で

家族みんな毎年検診を受けるのですが、私だけは沢山ある項目のなかで基準からはみ出す数字は毎年一つもありません、異常なし、です。


ここ数年は身体を動かさないので肥満体に気をつけなければいけませんが、それほどメタボを気にする体質でもないので、このことに関しては今の所のんきです。

でも身体は不思議な物ですね。大阪にいた頃は年1~2回高熱を出していましたが徳島に帰ってから20数年は風邪など引いた事がありません。

いや風邪かな?と思ってもいつか直っています。その代わりなんでしょうか。2年に一度位一ヶ月以上しんどくて仕方がない我慢した上に間違いなく

病気だろうと検査を受けるのですが、今まで数回とも異常なしです。そしてその声を聞くと少しずつ元気になって来たんです今までは。不思議です。

これが「言いたかった本文なんですが」、いくら元気でも年齢を増すと予想外のことが押し寄せてくるものて゛病気ではないのですが今年は6月から変に

暑さが身体に応えます、元気が故に無理をしたパソコンでの首の痛みと目の疲れがこの夏をとても不愉快にしており。8月初めの奉納鑑定も終わり募金の送金も

済ませばやろうと思っていたことも未だに手つかずなんです。 でもこのままではありません。まだまだやります。 が今しばらく。

7月にも昼間眠たくて仕方がない。睡眠不足くでもない。疲れているわけでもないので今回も検査を受けました。今回は名の売れた病院で昼間眠たいのは危険と

心配してくださっていたのですが、結果は何もないと言うことでした。まだ少しは眠たいですが。それにしても私の身体は変わり物のようです。

食べたものが即エネルギーに変わる体質らしく昔の兵隊さんのように何日も食べずに歩む事は出来ない体質のようで、燃料さえ切らさなければ止まる

ことのないまさにジィジェルエンジンだったようです今までは。毎日熱戦を繰り広げている北京オリンピック、日本からは576人の選手が参加していますが、

良い結果を残す人、無念に終わる人、プロと又違ったチャンスの少ない大きな大会どの人をみていてもここまでの努力を思うと涙が出てます。。