Liberation of FREEDOM!

活動再開。いま関心があることについて書きます。

理論について

2013年03月12日 | 社会学
※以下に書いているのは8割方僕の妄想です。ちゃんとした裏付けがあるわけではありません。というか、これから古典を読んでいくなかで検証されるべき仮説です。



社会学の理論と言ってもいろんなタイプがある。

そもそも理論とは何か。佐藤俊樹は『社会学の方法』の冒頭で、理論とは「初期条件を入力したときに出てくる出力についての論理的導出」みたいな説明の仕方をしていたと思う。つまり、一定の条件を置いた時に、ある事柄はどのように帰結するか、についての説明である。

例えば、合理的選択理論でいえば、「人間は利害関心に基づいて効用を最大化するように行為する」という単純な初期条件を置く。その下で、ゲーム理論的なモデルを使いながら2人ないし多数の行為者が自分の効用を最大化する状況を考える。コールマンはそのような方法で、規範生成状況を理論化した。

さて、冒頭の問題に戻る。ひとくちに理論と言ってもけっこういろいろある。それらは、経験的世界を理論の中にどれだけ取り込んでいるか、という違いでざっくりと2通りに分けられるだろう。

1つめは、完全に理論の中で世界が完結するパターンの理論。「公理論をめざした」(佐藤俊樹)パーソンズやルーマンがこれにあたる。コールマンの『社会理論の基礎』もこれにあたるだろう。非常に少ない前提から出発して、社会のしくみ全体を分析していく。一般性・抽象性の非常に高い議論が展開される。シュッツとかもこれに入るかな。

2つめは、経験的世界を初期条件に取り込むタイプの理論。ベックの「個人化」、ボードリヤールの「シミュラークル化」などは、経験的世界で起こっている事象から着想を得て、そこから理論的・抽象的次元へとジャンプする(飛躍する)ことで生まれる理論だろう。
これは、経験的一般化とは次元を異にする。経験的一般化とは、観察された事象(たとえば、A地区の男性は女性より○○)を一般的にそうであるとみなす(日本の男性は女性より○○)ことであろう。一方、理論化はただ適用範囲を広げるだけではない。観察された事象の背後にある状況を抽象的なレベルで(経験的世界を離れて)組み立てていく作業である。
この作業を仮に「経験的理論化」と名付けよう。

経験的理論化に求められる作業は2つ。
第1に、理論的分析を精緻化すること。理論社会学がやってるような、抽象的レベルでの分析を深める。この初期条件を前提として○○を分析すると、A→B→Cと変化することが考えられ…みたいな(あくまで一例だが)。ここで何を分析したら良い研究になるかはよくわからん。
第2に、理論の妥当性の検証。経験的理論化が経験的世界を説明する理論である以上、これは避けては通れない。いや、もちろん理論社会学でも経験的世界との一致・不一致は常に考えらえるべきとは思うよ。マートンの「中範囲の理論」だって、調査のための小さな作業仮説と、抽象的な大きな理論を行き来するのを推奨しているわけだし。その点については、どちらの理論だって変わらない。
ただ、経験的理論化が持つ特殊性は次の2点である。すなわち↓

・経験的世界を説明する理論である。したがって、理論の説明対象に何らかの限定がかかっている。ボードリヤールにしてもベックにしても、議論は抽象的であるとはいえ、対象は現代社会という限られた対象である。場合によっては国も限定されるかもしれない(そんな理論は見たことないが)。一方、理論社会学のような営みは「社会」や「秩序」や「規範」などが説明対象であり、そのあたりに前提を設けることはない。結果的に近代以降の社会しか説明できないという可能性は大いにありうるが。

・説明対象に強い限定がかかっているがゆえに、それが本当に説明として妥当な理論かどうかは十分な留意が必要。それを示すためには、豊富な経験的証拠を提示する必要がある。



まあ、経験的な研究をするのであれば、目指すべきは経験的理論化でしょうね。


【2013/03/12追記】
理論の特性は何よりも第一にその一般性にある。
つまり、理論が指し示す対象は特定の何かでは決してないということだ。
例えばコールマンは「企業」とか「団体行為者」についていろいろ考察している。これは、「三井住友銀行」とか「東京大学」とかいった、特定のものを指しているわけではない。それらを含みながら一般的に成立すると想定している。

しかし、現実には当てはまらないケースも多いだろう。「例外のない理論はない」とも言える。
ではなぜこのような過度に一般的・抽象的な議論をするのか。理論はどうやって使えばいいのか。「社会学における理論の機能とは何か」。

この問いは、僕が簡単に結論を出せるものではないだろう。でも、自分なりに考えてみる。

ひとつには、予測という使い方がある。理屈で考えたらこうなるよね、っていう見通し。これは調査を設計するのに非常に役に立つ。
二つめに、比較と統合。異なるふたつのものを比べ、それらをまとめる上位概念みたいな使い方をできるかもしれない。

まだまだ理論の有用性はあると思うけど、とりあえずこんな感じ。
だからこそ、社会学の目的のひとつは理論の構築だし、理論はそれ自体でも研究されるべきだし、社会学の研究には理論を組み込んだ方がいい。そう思っている。

文化の社会学とカルスタ

2013年03月11日 | 社会学
それぞれの本の要約作業を遂行しつつ、両者のちがいを考えてみる。

まず、出版年にみる違い。「文化社会学」のほうは1994年、「カルチュラル・ターン」は2003年。英国カルスタ自体は80年代頃から興ってきているから、土台はあった。しかし、カルチュラル・ターンなるものが90年代末に起こったことを考えると、吉見が「文化社会学からカルスタへ」の転向を果たした理由はカルチュラル・ターンにありそうだ。

文化社会学 sociology of cultures は、「メディアや表現の世界に焦点を当て、文化の生産や消費を、そうした表象をめぐるコミュニケーションの重層的な過程として捉え直していく」という記述がもっともわかりやすい。
「コミュニケーションの重層的な過程」あたりは、文化をパフォーマティブにとらえていくカルスタと同じである。ポイントはふたつ。第一に、文化をそれ自体が統一的な何かとみなすような人類学的視点を解体し、プロセスの集積として考えること。第二に、単純な技術決定論やマルクス主義に陥らないこと。

正直、肝の部分はかなり同じな気がする。いちばんの違いは、権力作用への敏感さであろう。
文化社会学のほうが穏やかな文化観というか、歴史的な部分を十分射程におさめながら、文化の構成性と被構成性のダイナミックな相互性を考えていく。
一方、カルスタは行為主体の対立に敏感。グラムシのヘゲモニー論を視野に入れながら、「支配的な読み」「対抗的な読み」「オルタナティブな読み」などが織りなす文化を考える。文化が形成されてくる過程を徹底的に政治的な場として考え、そこでの権力の不均衡、不平等とかそういった闘争の結果文化が生まれてくるという過程として把握する。いや、文化が生まれてくるという言い方もミスリーディングかもしれない。カルスタにとって統一的な文化など存在せず、権力作用・闘争・読みの過程があるだけである(その結果としてある読みが支配的になることはありうる)。

結局、方法論として文化の社会学をとるかカルスタをとるかという選択は、論じ方として権力作用・闘争・読みという過程に敏感になるかどうか、の違いにすぎない。見えない抑圧構造を抱えているのであれば、それはカルスタ的な告発へと向かった方が良いだろう。一方でそうした「闘争の場」として捉えるのが妥当ではない文化的現象も少なくないはず。今研究していることは、どっちかといえば「文化の社会学」で行った方が良い気がする。まあ、それぞれの方法でやると扱う主題が変わる可能性もあるから、その辺は見通しを持ちながら考えていくことだな。

カルチュラル・ターン、文化の政治学へ

2013年03月10日 | 社会学
【序章】
<1.「言語論的=解釈学的転回」以降>

言語論的転回において登場した構造主義は、「文化を何らかの言語的な構造に基づく象徴と意味の統一体として理解する」(11)手法であった。ここからギアーツ人類学は、構造主義の言語論的テクスト理解をパフォーマティヴな出来事として再文脈化し、歴史化しようとした点で評価される。
しかし、ギアーツに対してはロサルドの鋭い批判を受けて吉見もコメントしている。「文化のパフォーマティヴな次元に留意しながらも、なお文化を制御機構を備えた同一性のシステムとみなすならば、緩く束ねられた日常的実践に生じる無数の軋み音を聞き落としてしまうのではないか。ギアーツの解釈学的パラダイムは、文化や象徴の地平を前景化させることで、権力や政治、諸々の抗争を象徴システムの論理に還元しているのではないか」(10)。

すなわち、文化のパフォーマティヴな次元に注目したことは評価できるが、結局それが統一的な文化を形成するという風に考えてしまうと、主流から排除された文化的実践の数々には目を向けられないことになる。そうではなくむしろ、「分裂し、抗争し、矛盾に満ちた複数形の文化、またそれらと記述する者との不均衡な関係を問題化することを通じてしか、今日では「文化」を語ることができない」というのが吉見のスタンスであり、カルスタの姿勢である。


2.社会理論のカルチュラル・ターン

1で述べたような文化概念の転換こそが、カルチュラル・ターンである。「文化は記号的に構成され、解釈され、さまざまな不平等、差別と排除を伴って政治的に構築されている。それは表象の戦場であり、この戦場では異なる次元の権力の力線が分節=接合されている」(13)「カルチュラル・ターンとは、まさにこのような知的=歴史的局面において、すでに述べた言語論的ないしは解釈学的転回を受けながら、現代の社会理論のなかに浮上してきた「文化」への新しいまなざしを指している」(13)。
そしてこのような流れの中で、文化への注目が集まっていくのである。


3.「文化」を問題化すること

以上を踏まえ、吉見は次のように言う。
「ここでいう「カルチュラル・ターン」とは、単に社会理論において「文化」が機軸的な役割を果たすようになってきたことを示すのではない。あるいはまた、現代の資本主義が、「文化」を通じて大きな変容を遂げつつあることだけを指すのでもない。さらにこうした「文化」の概念が、ロマン主義以来の本質主義や象徴システムとしての統一性から解放されて、無数にずれや亀裂を含んだ記号的な抗争の場として理解されるようになってきたことだけを指すのでもない。ここでの観点からするならば、これらのすべてを含みこみつつ、カルチュラル・ターンは、一連の文化マルクス主義の系譜を背景に、社会のなかでの「文化」という領域限定に対する異議申し立て、すなわち「文化」を社会の実践にかかわる脱領域的な問いの場として組み立てなおしていこうとする企図を含んでいるのである」(25)

そして、このような考えのもとに現れつつあるのがカルスタなのである。

メディア時代の文化社会学

2013年03月10日 | 社会学
【序章】
ここで言われる文化社会学は、形式社会学を批判したシェーラー・マンハイムなどの系譜に連なるそれとは異なる。

本書が批判するのは、素朴な技術決定論およびマルクス的下部構造決定論である。

技術決定論は、発明家によって生み出された技術によって文化的・社会的変容がもたらされるという考え方である。しかし、「新しい技術は、最初から新しい社会を生み出していく運動に内挿されており、社会の関数として形作られてきた」(6)のであり、技術が文化を作ったというよりは、文化のダイナミクスの中に技術が存在すると考えるべきなのだ。文化変容とメディアの媒介にしても、一方を他方に還元するのではなく、ともに過程として把握されなければならない。

20世紀以降のメディア論において、本書に通底する視座を持っていたのはベンヤミンである。「ベンヤミンにとって、新しいメディアを通じた文化生産のプロセスは、同時に文化をめぐるポリティカルな闘争の舞台でもあった」(22)。このようなベンヤミンの考え方は、その数年後に登場する『啓蒙の弁証法』における文化産業論の有効な批判にもなりうる。アドルノとホルクハイマーは独占資本による大衆操作を問題視したが、ベンヤミンはそのような一面的な把握には還元できないと考えていた。

さて、メディア時代にも有効な新しい文化社会学sociology of culturesを構想する上で、伝統的な文化人類学の文化概念を再検討する必要がある。すなわち、「人類学が前提としてきたような「文化」の一体性や一貫性を根底から問い直していく」(24)のである。
※この点についてはギアーツなどのポスト構造主義的な人類学の中ですでに浮上している問題である。

新しい文化社会学に至る系譜として、3つが考えられる。
・英国カルチュラル・スタディーズ
・フランス ポスト構造主義的
・アメリカや中南米など広く台頭している文化研究
このうち本書は1つめを詳しく扱う。


レイモンド・ウィリアムズの観点では、「文化社会学とは現代のさまざまな文化をめぐる知の合流点である」(26)。そこでは「文化の社会構成的な契機を重視する視点(構成する精神としての文化)と、文化を全体社会秩序による産物とみる視点(社会的生産物としての文化)が合流している」(26)のである。
ウィリアムズの定義する文化は三種類ある。
・文化を理想と考える定義
・文化を記録と考える定義
・生活様式の総体と考える定義
→ウィリアムズは3つめの定義にこだわった。彼は「文化と社会を切り離し、後者によって前者を説明しようとするさまざまな立場に反対」(27ー28)していた。マルクス主義文化理論は、それが下部構造決定論であれ、ロマン主義的なものであれ、社会と文化をはっきり分けているという点で批判されるべきものであった。そうではなく、「さまざまな実践の相互依存的な全体性」(29)という方針にすべきなのである。

ウィリアムズの研究を批判的に受け継いでいったのは、ホール・スチュアートである。彼はウィリアムズやトンプソンを「文化主義」、アルチュセールを「構造主義」として対比した。簡単にいうと、前者は構成するものとして、後者は構成されるものとして文化をとらえている。これらに対し、文化の構成性と被構成性の両方に目をやる必要があるのである。この点でウィリスの「ハマータウンのやろうども」は理想的な先行例である。

さいごに、エッセンスを述べた文章を引用。
「文化社会学は、たとえば家族社会学や都市社会学、
農村社会学といったいわゆる連辞符社会学の一分野として姿をあらわしつつあるのではない。それは、これまで制度化された社会学のなかでは周辺に押しやられてきたメディアや表現の世界に焦点を当て、文化の生産や消費を、そうした表象をめぐるコミュニケーションの重層的な過程として捉え直していく方法的な企てなのである」




文化社会学とは何か

2013年03月01日 | 社会学
文化社会学って、よくわからない。なんで「文化社会学」「文化の社会学」っていう表現が両方あるのか。
最近はこれを調べるのに四苦八苦していて、他のことが手に付かない…

文化社会学の出自は、相互作用を見ることで社会が理解できるとしたジンメルの形式社会学の批判である。どうも知識社会学の一派のような感じで出発したようだ。文化社会学がなぜジンメル批判になるのか…いまいちよく分かってないのだが、表面に現れた相互行為だけを見るのは一種の行動主義(もちろん当時はこういう領域はなかったのだろうが)であり、意味の世界にも目を向けないとあかんよ、ってことなのだろうか。
初期の文化社会学に関して個人的な理解の課題は
〔文化社会学はいかにしてジンメルを批判したか?〕
〔知識社会学の研究方法とは?〕
〔デュルケム流の文化をシンボル的な存在拘束性を持つものとして捉える方法は誰の文化社会学なのか?〕
の三つ。
ちなみに初期の文化社会学の論者にはアルフレート・ヴェーバーがいる。
江口豊「アルフレート・ヴェーバーの文化社会学について」http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/40059

で、最近は「文化の社会学」という表現もある。

長谷正人「文化の社会学の窮状/可能性」で長谷は「『文化の社会学』とは、ここでは限定的に、消費社会論やメディア文化論や若者論など、1980年代から90年代にかけて流行していたポストモダン的な社会学のことを指すことにする」と述べている。クリフォード『文化の窮状』から示唆を得た長谷の問題意識は、現代の文化が窮状にあるのではないかという点にある。筆者が冒頭で示している大衆文化の変遷は「近代的な大衆文化の時代→爛熟したポストモダン的な消費文化の時代→資本主義的利益のために作品を自動的に流通させる時代」という流れであり、確かに「ポストモダン消費時代」には文化の社会学は鋭い分析だったが、現代では大衆文化自体が隘路に立っているせいでそれも窮状に陥っているという。
資本主義的搾取への批判としてカルスタが出てきたが、長谷にとっては「同時にポストモダン社会学が持っていた『楽しさ』を喪失してしまったのではないか」と指摘する。楽しさを文化の主軸に据える長谷は、「近代社会の人間は『文化』をより濃密な楽しいものとして享受するために、自らすすんで資本主義と権力を自分たちの日常生活に対して自己疎外的に介入させてきた」と考えるべきではないかと問題提起する。

なかなか大胆な提起だが(突っ込み所も満載だが)、ここでは「文化の社会学」はポストモダン的な社会学(内田隆三、宮台真司、北田暁大初期)と定義されている。

有斐閣アルマの入門書『文化の社会学』は佐藤健二と吉見俊哉の編集で、これは読んでない。

『文化社会学の視座』(辻泉・南田勝也編)は入門書として方法論の意識が強いが、ここでの文化社会学は「文化を対象とする社会学」という程度のようである。ただし文化と一口に言っても2通りがあり、個別具体的な文化と、人間の営みとしての文化の両方を扱っている。

大野道邦『可能性としての文化社会学』においては文化は「外在拘束的なシンボル」という位置づけのようである。
このスタンスは佐藤成基にも通じている。→「文化社会学の課題ー社会の文化理論にむけて」
佐藤は「文化の社会学」を個別具体的な文化を対象とする分野で、○○社会学のひとつとして位置づけている。一方で文化社会学は社会的現実の意味構成を問う、○○社会学よりも理論的に一般性の高い領域として位置付けられている。

結局、文化の社会学と文化社会学の区別はけっこう適当らしい。同じと考えている人もいれば、分けて定義する人もいる。そもそも文化の定義にどこまで一般性を認めるか(人間の構築物はすべて文化であるとも言える)も人それぞれ。よくわかんないなあ。むやみに追求しないほうがいいのかな。


【追記 2013/03/07】
詳しいことは『メディア時代の文化社会学』に書いてありました。
簡単に言うと、A.ヴェーバーやマンハイム以来の「文化社会学」はcultural sociologyであり、近年出てきてカルスタと軌を一にするのはsociology of culture(s)であると。