ミャンマー 基礎知識

高山正之氏の 短い3コラム

これを 見ないで ミャンマーは 語れません

真珠湾を見た男 世界はみんな腹黒い

ミャンマーの悲劇 どこかの国が「いい子」のせいで

ミャンマーには国の指導者の配偶者は外国人ではだめという憲法の規定がある

それに 宮崎正弘氏の 解説
スーチー・・・土着のウルドゥ語を満足に喋れず、夫は外国人

そうすると これも 納得 ↓
渡部亮次郎
スーチー抵抗の狙い

そして 現状は
週刊新潮 07、10,11 元ミャンマー大使 山口洋一 氏
より 抜粋
 ・・・・
"軍政、軍政"と批判されているミャンマーの軍事政権は、ポル・ポト政権下のカンボジアやマルコス政権時のフィリピンとはまるで異なります。
 
しかし、日本を含め、欧米のメディアはミャンマー政府に対し決して好意的な報道はしません。・・・・
 
例えば.今回の反政府モの規模について、日本の全ての新聞は10万人と報じてきましたが、テレビ映像を確認する限り、明らかに誇大な数字です。・・・・
メディアは、反政府運動の規模を5~6倍、酷いときは10倍にしたわけですですから10万人規模のデモという数字は甚だ信憑性に欠けるのです。

日本のメディアは、ミャンマーの国営放送が繰り返し、「NLDD(スー・チー女史が率いる政党)が市民に金春払ってデモに参加させている
デモ隊が投石し、武器を奪おうとしたので、治安部隊が止む無く発砲した」 と、放送していることを、殆ど伝えようとはしません。

実際、デモを行っているのはいわゆる一般市民ではなく、言葉は悪いですが、その多くは無頼漢や与太者、失業者などで、NLDから全銭の提供を受け、動員されているのは事実なのです。
また、ある地方では、僧侶が治安部隊を僧院に押し込め、その車に火を放つといった、およそ「平和的な抗議活動」とは思えない振る舞いを見せたそうですが、このことも日本のメディアではまず報じられないのです。

 日本のマスコミは、「軍政は政治犯を釈放すべさだ」 と、主張していますが、ミャンマーには純粋な意味での「政治犯」は1人もいないというのがミャンマー政府の立場です。無論、中にはデモや集会を開いて逮捕された者はいますが、これは、「道路や公園などの公共の場所で5人以上の政治目的の集まりは禁止」「屋内おける50名を超える政治集会は許可制」 という古くからある法律に違反したとして、検挙されたケースです。違法デモを行った者を逮捕するのは、法治国家としては当たり前のことなのですが、メディアは軍政がやることは全て怪しからんと報道する・・・
 
この法令を逆手に取ったのが軟禁中だったスー・チー女史で、彼女は、自宅に広大な庭があるのに、わざわざ演説集会を自宅前の道路で開き、野次馬を集めて政府を挑発しました。 治安当局が集会を庭で開くように指導しても聞き入れず、もし取締りを行おうものなら、「民主化を妨害している」 と、国内外のメディアに声高に叫んて見せたのです。

 欧米メディアは、この20年間、彼女を、ミャンマー民主化の「希望の星」として扱ってきました。しかし、ミャンマー報道の中で、受け手にもっとも大きな誤解を与えているのが、この硬直的な評価なのです この認識が大間違いである・・・・
元々、ミャンマーはビルマという国名でした。19世紀初めにイギリスから戦争を仕掛けられ、植民地となったこの国は、世界中にあったイギリスの植民地の中でも、もっとも過酷な支配を受けた国として知られています。


アメリカと結託

この頃、スー・チー女史が民主化の[希望の星」だったことは確かです。しかし、17年を経た現在、再び、選挙が行われたとしたらどうでしようか。
 
欧米や日本のマスコミは、今も変わらず、彼女のことを「希望の星」として扱っていますが、ビルマ人の彼女に対する感情は、この間に大きく変化しました。それは、スー・チー女史がアメリカから、資金的、物的な援助を受け、さらに政治的な指示を仰いでいることが広く国民に知られてしまったからです。実は、イギリスの植地時代の苦い経験から、ビルマ人ほど外国勢力との結託に嫌悪感を抱く国民はありません
 
スー・チー女史は、私が大使時代、アメリカの国務長官だったオルブライトと朝な夕なに連絡を取り、軍政に抵抗するよう指導され、アメリカの政府や支援団体から資金や物資の提供も受けていたのです。
 
かつて、ミャンマー政府は国内外の記者を集めた会見の席で、スー・チー女史宛にアメリカから違法に運ばれてきた通信機器を国境で差し押さえたことを発表しました。が、この事件は国外では殆ど報じられることはありませんでした。
 その場には日本人記者もいたので、後に、記事にしなかった理由を尋ねると、「本社が期待しているのは、ミャンマーの首都が、反政府運動の闘士たちの血の海になっているというような記事です」 と、彼が答えたことを覚えています。

 もう一つ、スー・チー女史の人気に翳りが見えたのは、彼女が政府に対して反対のための反対を唱えていることが次第に明らかになってきたからです。
軍政打倒を叫ぷスー・チー女史の口から具体的な国家ビジョンを聞いたことは、 一度もありません。それに気付いた多くの国民は彼女に失望し、スー・チー離れや反スー・チーという感情が国民の間に生じたのです。
 その証拠に、96年、ヤンゴン市内でスー・チー女史の乗った自動車が.暴徒に囲まれ、立ち往生する事件がありました。彼女の身に危害が及ぶ寸前、警官が暴徒を排除し、守ったのです。怯えた彼女は政府に自分の保護を要請しました。ですから、自宅前に警官が3~4人、警護に当たっていたその後の軟禁には、閉じ込めると同時に守る意味合いも含まれている・・・・

軍政の実態は・・・・
 88年当時、国内では18の少数民族が、反政府の武力闘争を繰り広げていました。首郡に住む市民でさえ、日常的に銃声を耳にしていたぼどの激しい内戦たったのです。軍政の最大の功績は、この血で血を洗う内戦をほぼ全面的に終結させたことです

 私は、99年、国内最大のインセイン刑務所を視察したことがありますが、そで見た光景はおよそ軍事政権下とは思えない、のんひりしたものでした。この刑務所では、囚人は1日に2回、お風呂に入ることが許され、週1度は家族と面会できます。たとえ政府が外国人に良いところを見せようと取り繕ったとしても、実際の刑務所を見れば、雰囲気は掴めるものです。

 また、ミャンマーでは年間に5~6人の死刑判決が下されますが、現在の軍政が誕生して以降、執行された例はない とのことでした.政府高官も暮らしぶりは概ね質素で、汚職や腐敗も絶無とは言いませんが、軍事政権としては稀なくらい、少ないのです。

・・・・ぼぼ毎年5%以上の経済成長を維持してさたごとも、国民の信頼を得る原因の一つとなりました。

「踊り場の民主主義」
 
これらのことから、現在のミャンマー国民の大半は、軍事政権を容認し、命をかけてまで反政府運動を行おうとするものなど、ほとんどいないのです。 
・・・・
ミャンマーの一般国民は、現状をベストとは思っていないものの、民主化への中間段階としては仕方がないものと捉え、容認しているのです。 
・・・・軍政は、まず民主主義の準備期間、つまり一定限度の軍による政治への関与を残した「踊り場の民主主義」を作り、ワンステップ置いた後に、最終段階へ進んで行こうと考えているのです。

そしてミャンマー国民は、それを理解しているのです。
・・・・
しかし、現状のミャンマーへの欧米や日本の対応に鑑みるに、政治面での"国造り"には横槍を入れる一方、側面支援すべき援助や貿易の面では締めつけを行い、あるべき姿とは全く逆です。 ミャンマー政府は今、 一生懸命「国造り」を行っている最中です。
 
こうした実情を正しく見極め、まずは、スー・チー女史が善玉で政府が悪玉、という時代劇のような構図でミャンマーを報じることを止めるのが、国際社会として心得るべき第一のステツプではないでしょうか。

 

 

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