この「浄瑠璃くずし丹波音頭」については 2006-06-24 このブログでふれていますので興味ある方は読んでみてください。
江戸時代に流行した浄瑠璃、その名作の名場面を盆踊りの音頭に採用したもので、丹波一円で踊られているそうです。ある京の僧(仁和寺の?)とも言われるがその起源は全く分かっていないとのことです。
丹波各地で踊られていると書きましたが、美山や亀岡、園部などでも踊られるが、ここ京北がダントツに盛んだそうです。最近は指導者良きを得て音頭とりさんも増えているそうです。私は盆踊りはあまり好きではありませんのでよく分からないのですが、この踊りは肩より上には手を挙げることはないそうです。従って阿波踊りの様な踊り方は優雅でないという意識が見え隠れします。
ちなみに昨年の8月の京北夏祭りでの音頭をカメラに収めたのでアップします。
石井さんご自身も音頭を取っておられるますね。トリをとられるからには相当な腕前いや喉前なのでしょう。
石井さんの不思議は、何故京北で一番保存されているのか、ということでした。
江戸時代に流行した浄瑠璃、その名作の名場面を盆踊りの音頭に採用したもので、丹波一円で踊られているそうです。ある京の僧(仁和寺の?)とも言われるがその起源は全く分かっていないとのことです。
丹波各地で踊られていると書きましたが、美山や亀岡、園部などでも踊られるが、ここ京北がダントツに盛んだそうです。最近は指導者良きを得て音頭とりさんも増えているそうです。私は盆踊りはあまり好きではありませんのでよく分からないのですが、この踊りは肩より上には手を挙げることはないそうです。従って阿波踊りの様な踊り方は優雅でないという意識が見え隠れします。
ちなみに昨年の8月の京北夏祭りでの音頭をカメラに収めたのでアップします。
石井さんご自身も音頭を取っておられるますね。トリをとられるからには相当な腕前いや喉前なのでしょう。
石井さんの不思議は、何故京北で一番保存されているのか、ということでした。
あの哀調のある囃子詞「アラ、ヨーホイセーノ、ドッコイセー」は、「良い穂にして、沢山(やっと)つくれ」の意味との事と教えてもらいました。そこに何か意味があるのでしょうか。北桑の昔は穀倉だったのか、それとも稲作で苦労したのか・・・。
昨年の音頭取りの石井・河原林両氏の名はよく目にしますが、最後の佐藤輝夫君は、私の1年後輩で昔の遊び仲間です。私の随筆でも名手の小学生が居たと書いていますが、彼のことです。最近は交流が無いので、音頭取りの名人になっていることは、今回のmfujinoさんのブログで初めて知りました。私にも先見の明があった・・・?。
「浄瑠璃崩し」の盆踊りは後半には躍り方が変わって、かなり難しくなります。それを小学生の彼は、見事な手振りで踊っていました。浴衣姿で法被りをした彼が団扇を片手に、大人達に混ざって踊る仕草が今も目に浮かびます。
以前から、丹波踊りを一度は見に行きたいと思っているのですが・・・。
盆踊りの起源は空也上人や一遍上人が始めた踊り念仏が起源とされているのが一般的です。現在でも方々に残された踊り念仏は必ず太鼓を中心に輪踊りであり、精霊迎えや送り盆などに行われるわけです。或いは極端な例ですと、新盆のところだけで盆踊りがある地域があります。踊り念仏では輪踊りする踊り手が鉦を持って、それを単純に叩きながら踊るのです。難しい教義を優しく諭すように踊られたものですから、踊りと言っても複雑ではないのが本来であったのでしょう。
それぞれに合いの手が入るのも特徴の一つです。これがそれぞれに素晴らしい雰囲気が出ていいものですね。
それが近代になりますと、「口説き」と呼ばれるように、歌謡に時流に合った踊りや歌謡がつくもので、ここの盆踊りは口説きの典型で、非常に近代的と申せましょう。お国歌舞伎は口説きの盆踊りから発展したもので、エロチックで踊り手が遊女になったりしたものでした。それをご禁制にしたがために、野郎歌舞伎と言うようになって、現在の女形が誕生したのです。歌舞伎はカブキモノから発達し、いつしか歌舞伎を当て字が使われるようになったのです。ですから、ここの盆踊りは歌舞伎以前の盆踊りではないかと十分に予測出来ます。
日本一美しい盆踊りは、秋田県の湯沢から入ったところに、西馬音内(にしもない)と言う地域があるのですが、そこの西馬音内の盆踊りが最も美しい盆踊りだと、僕は信じています。余り派手な服装になったので、継ぎ接ぎの和服にさせられました。「がんけ」と言う特別に哀調を帯びた曲など、特別に美しい踊りです。一般路上でやるから、輪踊りではないと一見そう見えますが、何々ちゃんと輪踊りになっていて、端っ子はちゃんと左右道端の踊り手が繋がっております。
尚越中八尾の風の盆は、本来の盆踊りではなく、オワラが全国に散らばって、その地その地独特に発展したものでした。精霊送りの意味合いが非常に薄いのが特徴で、哀調帯びた美しい踊りなのですが、豊年満作を予祝したものになったのではないかと推察しています。ここのは輪踊りになっておりませぬ。
又踊りと舞の相違は足が跳ねるか跳ねないかの相違と言われています。跳ねるのが踊りで、跳ねないのが舞だと。能は舞ですが、石橋連獅子なんか飛んだり跳ねたりしますけれど、一般的には能は跳ねない印象があるでしょう。
それから金箔で作られた灯篭の作り物の笠を被って踊られる山鹿灯篭は立派な盆踊りです。輪踊りで、それはそれは美しい幽玄な踊りとなっております。郡上八幡の盆踊りも立派な盆踊りです。やや口説き掛かった多彩な歌謡と踊りがあって、こちらも踊り念仏から発生し、より近代化されたものでしょう。
いつか是非山国の盆踊りを見学してみたいものです。無論師匠の本田安次先生は歌謡も舞踊もすべて取材し、著作の一つ「風流(ふりゅう)」の中に精査された資料が存在しています。風流とは浮流、或いは浮立とも言われ、飾り物が煌びやかに大袈裟に飾られる特徴がありますが、飾り物風流となれば、踊り念仏から、やや豪華さを増し、お盆を中心に開催されますが、或る面ではショー化したものになっています。
更に大切なことは、輪の中心に、太鼓や三味線や鉦や笛などの楽隊がつくのは、輪踊りでは当然のことですが、古くは必ず火を燃やして行うのが盆踊りの初期と申せましょう。
いずれにせよ興味津々と言ったところです。真冬のある火祭りと言い、素敵な祭事が多く残ったものですね。山国の大きな魅力の一つでしょう!
演目を見て驚きました。「関取千両幟猪名川内の段」、もしかして猪名川政右衛門のことでしょうか?池田市の日本酒、緑一を買いに行く蔵元の真ん前に寺があり、そこに政右衛門の墓があります。どのような話なのかもの凄く興味が湧きます。
その他の演目も含めて、このような浄瑠璃が語られる盆踊りは本当に楽しそうです。
祖父が毎晩「情なやコナさんや~~~」と浄瑠璃を語りながら床につきました。まるで芝居を観ている様に声色を変えて、10分もすれば、鼾にかわっていましたけど。
さあ、「浄瑠璃くずし丹波音頭」今も踊れるかしら?
誤解があるといけないものですから、改めまして。貴所の盆踊りは歌舞伎以前のモノではないかとご指摘をさせて戴いたのは、多分原形が既にあったのではなかろうかということであります。演目から観ますと、すべて新しい演目ばかりですから、江戸初期とは考えておりません。古いカタチとは音頭であるということです。それは独唱のカタチを取ることで、密教で言うならば声明のようなカタチを指し、「音頭取り」などの言葉から発想される通り、主役を相勤め、一人で歌う形式のこと言っています。浄瑠璃に、チカラを借りた背景は、その時代時代の要請(流行)ではなかったでしょうか。
徘徊堂さまが仰られている常盤御前の行方ですが、「吾妻鏡」では常盤御前を捉えたので、どうしましょうかと言う問い合わせだけで、後は書籍類では、ようとしてはっきりしていないのが事実ではないかと思われます。墓石は鹿児島市、飯能市、前橋市、岐阜県関が原町など多数あちこちにありまして、義経を追い掛け、侍女と捜し歩いたと言う話もあります。ただ本当の事実を炙り出すのは、資料的にはなかなか困難かと思われます。
それと猪名川名跡の大阪相撲がありましたので、ひと言。現役時代大変な人気力士だったそうです。大金を賭ける賭け相撲のNo1だったようです。そのために身上が潰れたとか、真しやかにあるようです。又「関取千両幟猪名川内の段」は、それらしい岩川で浄瑠璃には登場しています。但しこの出し物は櫓太鼓を、曲弾きで演じられる三味線が本当は見所聞き所です。相撲を通じた夫婦善哉のような賢妻おとわ(歌舞伎ではおせん)とのお話で、お金にまつわる悪党と、それに肩入れした敵役の相撲取り千田川との一騎打ちの相撲の段で出来ておりますが、今は中央の演目では余り演じられなくなった浄瑠璃です。但し地方に残る田舎浄瑠璃には四箇所ほど立派に登場しております。猪名川の本名は本来は稲川であるはずで、実家の酒蔵では銘酒「猪名川」のお酒が売っていたと言う説があります。お墓のことですが、旧大淀区にある共同墓地に、確かに猪名川政右衛門の名でお墓があります。南浜墓地と言う場所で、大塩平八郎のお墓があることでも知られている共同墓地です。実際にいた人物とフィクションの人物を重ね合わせて、より多くの効果を上げようとする手法はよくあったことで御座いましょう。事実の話では、千田川と対する時はいつも満員札止めとなり、猪名川は相撲巧者で激しく、だから贔屓筋も多かったと言われています。だが風采は色が黒くて平々凡々だったようです。浄瑠璃「関取千両幟~」の岩川のモデルとなり、現代にもその名は伝わっているのですが、名跡部屋としての格式が結構高かったと考えられます。歿年は墓の左側面に書かれてある通り、「寛政十二庚申歳十月九日」です。なお猪名川の墓石名は池田市にある西光寺にもあるようです。こちらは全く調べておりません。
田舎里山の盆踊りを格上げするために、浄瑠璃節の本を種に持って来たのが、事実ではなかったでしょうか。地方史研究家に、よく見受けられることですが、我が郷土を格上げしたいと言う意欲は、例えば寺社の看板にその多くが見受けられると考えております。それは歪曲でも何でもなく、事実古来よりあったことでありました。本日2度も寄らせて戴き、長談義を大変失礼に思います。処々もしや失礼の段がありましたなら、決して悪意はないものと、どうかお許しをお願い申し上げます。
佐藤輝夫さんは小さい頃から大人に混じって輪に入っておられたのですか。余程お好きなのでしょうね。上の写真に出ている人達は京北で音頭取りとしてはそうそうたる人なのだと思います。久保善嗣さんは詩吟の先生でもありますし、この丹波音頭のでもあるようです。河原林成吏さんは永年丹波音頭保存会の会長を務められていました。表装師さんとしての話を京都新聞の「窓」に投稿されてましたが、読者から、その表装もし未だ納めてないなら見せて欲しいなどの反応があるそうです。氏は「大杉太鼓」の創始者でもあることは最近知りました。
ちょっと的はずれのコメントになりました\(. . )
一度是非当地の盆踊りを見に来て下さい。そして石井さんの不思議への答えを出していただけましたら御礼に鮎をたっぷり召し上がっていただくことも考えております。
我が母は盆踊り大好きであちこちハシゴをして踊り歩いていましたが、私は踊りというものには全く縁がありません。
お爺さまは毎晩大夫気取りで浄瑠璃を語っておられたのでしょうね。
北桑は浄瑠璃が盛んだったのではというのは、美山の茅葺き博物館のなかにあの大夫が着る裃が展示されていたことと、長柄大夫の石碑が美山の河内谷にあるのを見てからです。
返事になってないですね( ^_')