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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ゼロ・ダーク・サーティ

2013-02-27 22:01:48 | 映画(さ)
評価点:86点/2012年/アメリカ/158分

監督:キャスリン・ビグロー

プロパガンダ映画といわれても仕方がない、すばらしい完成度。

2011年9月11日。
アメリカの同時多発テロが勃発、アフガニスタン攻撃への契機となった。
アメリカ政府が目指したのはテロの首謀者とされるオサマ・ビンラディンの確保なしい殺害だった。
幹部とされる人間を片っ端から盗聴し、確保し、拷問していた。
しかし、一向にビンラディンへの情報は手に入らず、CIA分析官たちは手を焼いていた……。

ハート・ロッカー」での鮮烈が記憶に新しい、キャサリン・ビグロー監督の最新作。
主人公が、爆弾解体男からテロ首謀者の情報分析女へ変わった。
アカデミー賞など、数々の賞にノミネートされながら、実際にはそれほど目立った受賞はなかった。
一つには非常に微妙な題材を扱っているという点にあるだろう。
また、この映画は拷問を助長しているだとか、オバマ政権のプロパガンダ映画だの言われて、政治色が濃い映画として扱われてしまった。
大統領選挙もあり、映画としては不本意な扱いを受けたことは確かだろう。

ちなみに、タイトルの「ゼロ・ダーク・サーティ」は、軍事用語で、午前0時30分のことを指し、ビンラディン捕獲計画が実行された時間を示しているらしい。

日本人にも記憶が新しい、ビンラディンの暗殺を描いた作品で、観るべき作品の一つだろうと思う。
ただし、心臓に悪い展開ばかりが続く。
覚悟が必要な映画でもあることは、予備知識として知っておくべきだ。
彼女が一級の映画監督であることは、前作とこの作品で証明された、ということは間違いない。

▼以下はネタバレあり▼

プロパガンダ映画は、私も嫌いだ。
思想をぶつけるために映画はあるのではない。
映画そのものを見るために、映画があるのだ。
映画の手段化はもっとも私が忌み嫌うものの一つだ。
それが、商売であっても、思想であっても同じことなのだ。

この映画は本国で様々な論争を巻き起こしたという。
パンフレットのインタビュー記事でも、そのことをうかがわせる質問がいくつかあった。
この映画を観れば、その論争がほとんど意味がないことが分かる。
同時に、この映画の完成度のゆえに、この論争が起こったのだろうということが想像できる。
そもそも、完成度の低い映画が世の中を動かすことはありえない。
完成度が高いからこそ、問題にされるのだ。
この映画が、政治的に何らかの問題があるということ、それが元にオスカー像を逃したというのなら、この映画にとってこれ以上の名誉はない。
タブーを犯すことは、芸術にとって最大の賞賛とイコールなのだ。
なぜなら、見た人間に大きな〈異化〉を与えたのだから。

そのくらい、この映画は観るものを虜にする。
CIA分析官は、戦場で第一線に立つわけではない。
それなのに、異常な緊迫感を突きつけられる。
それは、まさにこのマヤという分析官と全く同じ位置に立たされていることを意味する。
きわめて高い〈同化〉効果を発揮しながら物語を体験する。

この映画が実話かどうか、証言を元に積み上げられたものかどうか、ほとんど問う必要はない。
だって面白いんだもん。
そこに真実か、虚偽かどうかを問うこと自体がこの映画への冒涜のような気さえする。

それはともかく、私たちが知るビンラディン捜索は、一向に手がかりがない、遅々として進んでいない印象があった。
そして忘れた頃に「ビンラディンが殺された」という報道が流れた。
けれども、そこには大きな紆余曲折があった。

拷問を禁止する世論、仲間の死、アメリカと敵外国との関係性など、すべてがCIA分析官たちに影響を与えている。
そして、マヤ(ジェシカ・チャスティン)はまた一つ、「引けなくな」っていくのだ。
マヤは物語中盤でこんな話を技師たちに話す。

「多くの仲間や友人たちが死んだ。だから生かされた私はこの仕事をやりとげる責任がある。」
「もしビンラディンがいたら、私のために奴を殺して」

テロを取り締まれば、再び報復があり、それが血の連鎖として永久に続く。
だからどこかでその連鎖を打ち砕かないといけない。
私たちはジャーナリストがそう話すのを聴いて、「確かにその通りだ、戦争は止めて対話を進めよう」と考えてしまう。
けれども、この映画を観たときに、そんな単純化した、方程式みたいな論理で問題が解決するとは到底思えなくなる。
彼女が突き動かされたのは、悲しいほど強い使命感だ。
そこに恨み、悲しみ、怒り、そんな単純な気持ちではない。
ある意味、強迫観念といってもいい。
その彼女に、「戦争の善悪」「殺し合いの論理」「復讐の論理」などという机上の空論を立ち上げても何の意味もない。

彼女にとっては、テロの善悪ではない。
そこにあるのは、生きるかどうか、死ぬかどうか、というもっと基底的な、存在論的な意志が働いている。

それをうまく、痛いほどよくわかるように切り取られている。
この脚本には舌を巻くしかないし、下を巻いている間に、物語に引き込まれている。

私がこの映画に惹かれる理由は、彼女が強い主体性をもっていることにあるのではないかと思う。
自分自身の意志の強さを貫けない、貫きにくい現代にあって、彼女は何かにとりつかれたようにビンラディンを追おうとする。
そこには、ヒロイックとも言うべき強い主体性を持っている。

だが、彼女だって万能ではない。
ビンラディンを仕留めたあと、どこに行くのか、と告げられてただ沈黙のまま涙する。
彼女は「どこにも帰ることが出来ない」ことにようやく気づくのだ。
ビンラディンのいなくなった今、戦場に戻ることは出来ない。
かといって、彼女の生きていくべきところは、本国アメリカにもない。
復讐を遂げたのかもしれない。
けれども、そこに達成感のようなものはない。
ただ、虚しい安堵感があるだけだ。

ここまで一緒にビンラディンを追ってきた観客には、その重みを十分に受け止めることが出来る。
机上の空論では何も語ることができない、虚無感が広がっている。

この監督が秀逸なのは、音の使い方だと私は思う。
映画全体を貫く、不穏な音、銃声、爆音、静寂、そして駆り立てるようなサウンド。
特に、突入の、リアルな恐怖と緊張感は、下手なアクション映画よりも重厚感がある。
絶対に失敗できないという隊員たちの使命感がひしひしと伝わってくる。
それはひとえに主観と暗さを重んじたカメラワークだけではなく、音の使い方がすばらしかったのだろう。
だから、仕方がない。
おもしろいのだ、この映画は。
題材は重いものがあるが、それでもおもしろい。
そのことを無視して、この映画の記号性を語ることはできないだろう。

私たちはそれでも冷静にこの映画に描かれていることがどのような意味を持つのか、ということについて真剣に考えなければならないだろう。
プロパガンダかどうか、そういう表層的な議論をしても、マヤやジェームズ(「ハートロッカー」の爆弾処理班)の悲しみをぬぐうことはできない。
戦争は反対するべきだから、といって彼らを断罪したとしても、それは思考停止に過ぎない。
この映画が訴えてくるものを、しっかりと受け止めたいものだ。


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