めご の ひとりごと

ほぼ ひとりごと と おぼえがき

小野但馬守政次@おんな城主直虎

2017-08-20 | みる
花總まり(佐名)の出演が終わり、直虎と小野但馬守政次の関係が好きて見ていたのに~。

史実通り死ぬことはわかっていても、死亡フラグがたったここ4回はせつなかったな。

・・・・・

第30回「潰されざる者」7/30

「俺を信じろ。信じろ。おとわ。」
お~。惚れた(笑)。

第31回「虎松の首」8/6

井伊家・家臣みんな政次のことわかっていた・・・。

第32回「復活の火」8/13

直虎を想う政次の碁のシーン、政次の癒し なつ とのシーン・・・せつない。

「私は幼き時より 伸び伸びと振る舞う おとわ様に憧れておったのかもしれん。それは今も変わらぬ。
殿をされておられる殿が好きだ。
それは身をていたしてお助けしたいと思う。
その気持ちを何かと比べることはできぬ。
生涯消えることもあるまい。」
「なれど それとは全く違う気持ちで そなたには側におってほしいと思う。
そなたを手放したくはないのだ。」

小野家の者も政次をわかってくれていた・・・嬉しい。

第33回「嫌われ政次の一生」8/20

「嫌われ松子の一生」のパクり・・・どんなタイトルだよと思いつつ、高橋“一生”をかけてるのは座布団1枚。

政次時世の句
白黒を つけむと君を ひとり待つ
あまつたう日ぞ 楽しからずや

これ創作だよね
「あまつたう」を耳で聞くと「尼つたう」に脳内変換されて、座布団1枚あげたくなる・・・。

政次に引導を渡す・・・経をあげるのかと思ったら・・・そうきたか・・・。
ひとおもいに逝けるよう、自分の手で逝かせようと・・・。

「地獄へ落ちろ 小野但馬 地獄へ
ようも ようもここまで我を欺いてくれたな
遠江一 日の本一 の卑怯者と未来永劫語り伝えてやるわ」

政次が直虎がわかってくれたと微笑むのがせつない・・・。

「笑止 未来など
もとよりおなご頼りの井伊に 未来などあると思うのか。
生きぬけるなどと思うておるのか。
家老ごときに 容易くたばかられるようなおろかな井伊が
やれるものならやってみよ。
地獄の底から 見届け・・・」

未来永劫語り伝える者と地獄の底から見届ける者・・・お互い永遠に想うと言ってるように聞こえる・・。

政次は偽虎松の首の時に地獄に行くと言っているが、直虎も政次の件で地獄行き・・・一緒・・・と思うが、政次が追い返すんだろうな(直親は天国でニコニコしてるんだろうな)。

・・・・・

高橋一生ってWikipedia見ていたら
「スウィングガールズ」の吹奏楽部部長だった!
そういえば指揮してたり、楽器に吐いてたりしてた(笑)。
個性的な顔で、こんなに人気でるとは思わなかったな。
「おんな城主直虎」の“しの”も出てたね。

ダイハツ「ミライース」のCMで「おんな城主直虎」の亀之丞(子役)と政次共演してたんだ・・・。

そして「レ・ミゼラブル」のガブローシュもしてたのか(私が観たのは何年のだろう)。

★★★★★
Wikipedia高橋一生より

スウィングガールズ(2004年9月11日) - 山河高校吹奏楽部の部長 役

レ・ミゼラブル(1991年) - ガブローシュ 役

ダイハツ工業『ミライース』(初代 2011年 - 2013年、2代目「いつものしあわせ」編 2017年5月 - 、藤本哉汰と共演。)

★★★★★
NHK公式ホームページより

高橋一生インタビュー

大河ドラマは歴史上の人物を描きますから、どうしてもラストを知りながらお芝居を進めていくことになります。僕が演じた政次も史実に照らすと、当然のことながら最初から分かっていました。ただ、そこで意識しすぎてしまうと逆算して芝居をする精神状態になってしまう。生きているうちは、演じるうえでも逆算するのは違うのではと。終わりを意識せずにその場で起きていることだけを考えて演じさせていただいていました。
史実は変えることができませんし、時代劇である以上は作品の根底に流れているものです。でも史実はさまざまな出来事の切り取りでしかありません。そのとき政次が何を感じて行動していたのかまでは伝えてくれないのです。ですから僕は見ている人の想像力を刺激し、豊かになっていけばいいなと思いながらお芝居をしていました。
それに僕にとっては現場で作られているものがすべてなんです。脚本の森下さんやプロデューサーの岡本さんをはじめ、スタッフ、出演者が作り出そうとしているものが答えなので、自分なりの解釈を極力なくした状態で、いかに作品の一部となれるかを意識していました。

そんなふうに政次役を演じてきましたが、8月20日のタイトルは「嫌われ政次の一生」。台本をいただいて、そのタイトルを見ただけで「最後まで“嫌われ政次”でいることを貫いたんだな」と感慨深いものがありました。

政次を演じていると、周囲の方々からはよく「辛いでしょう」と言われるのですが、実はまったく苦しくないんです。むしろ、井伊のために尽くす政次から生きている実感を得るときがあって…。その瞬間はことごとく俳優をやっていて良かった、その場にいられて良かったという2つの感覚が同時にあったように思います。そんなふうに直虎の現場では、俳優としてお芝居をしてきたなかで、いまが最高だと思える瞬間が何度もありました。それはもう、死んでもいいと思えるほどの瞬間でした。

なかでも幼なじみ3人で井戸端に座って話した場面は「このままずっとやれればいいのに」と幸せをかみしめた初めてのシーンでした。物語上は直親が駿府に呼び出される前日で、このシーンが最後の別れになってしまうのですが、そんなことを全く考えずに、ただただ3人でいた幸福な時間を、僕としてではなく政次として過ごしました。第4回までで描かれた子ども時代の3人の関係性を実際に現場でも見られていたので、役としての幸せがより実感できたことも大きかったと思います。

政次は当初、直虎に思いを寄せていながら井伊に仇(あだ)なす者かのような振る舞いをしていました。のちに政次の本心は直虎に伝わりますが、やはり好きな人を欺くというのは苦しかったでしょうし、言いたくもなってしまうと思います。でも決して本心を明かさなかった政次は、とてもいい男だと思っています。
直虎をめぐっては、まず直親の存在があり、次に龍雲丸が現れました。直親に対しては三浦春馬さんが僕よりもはるかに背が高くて顔も素敵なので、彼とお芝居をしているだけで直親に対する思いが成立する気がしました。10年ぶりに再会したシーンでは、脚本から演出、衣装、メイクにいたるまで、政次のコンプレックスが自ずと炸裂するように組み立ててくださっていて。僕は現場に立っただけで彼の素敵さに圧倒され、「笑顔がまぶしいな」という気持ちになっていきました。

その後に訪れた直親の死は政次にとって、直虎への思いという部分においても大きな出来事だったのではないでしょうか。僕は人が死ぬということは肉体がなくなるだけで、生きているときよりずっとそばにいると思っているんです。政次のそばにはいつも直親がいる。そうなるともう、直虎に思いを伝えようにも、伝えられない。いつも井戸端に行って直親に相談しなければいけないでしょう(笑)。それって政次にとってはキツいし、無理だと思います。生前、直親に直虎と一緒になる可能性を聞かれた政次は「私はひとりでよいです」と言いましたが、亡くなってからは直親と直接話せない分、自らの気持ちにひとりで向き合わなければいけなくなってしまったような気がします。

龍雲丸については「くだらぬぞ、但馬」というセリフが、政次の思いを象徴していると思いました。2人はまるで対照的で、政次が直虎のそばにいなければならないと当たり前のように思っているとしたら、龍雲丸はそれを当たり前とせず外れている人。その対比は面白いと思いました。この先、龍雲丸と直虎がどのように描かれていくのか、楽しみです。

また、政次と直虎のシーンで印象的に使われていたのが囲碁。実は囲碁のシーンでは、すごくポジティブなことを話しながら、辛辣(しんらつ)な攻め方をしているようなことがよくありました。動きの少ないシーンだけに、盤面で起きていることと考えていることの差異が面白く、手の打ち方で状況も次々に変わってくるので、対局を含めてどれだけエキサイティングな会話ができるかを意識していました。

龍潭寺に行くと、小野家代々の墓は直虎と同じところに建てられています。もうそれだけで小野家が心底嫌われていたわけではなかったことが一目瞭然なんです。歴史は出来事の切り取りでしかないし、どうしても勝者が英雄化されるので、そういう観点から小野家が嫌われていたという史実が残ることになったのでしょう。でも井伊谷という小さなコミュニティーのなかで、あんな形でお墓があり、塚が点在し、神社として祭られていることを知って、政次は“政(まつりごと)”をしっかりやった人間だったんだと信じられました。
大河ドラマは長丁場ですから、自分のなかで役についてそしゃくできる時間も長くなります。演じるのはあくまで僕自身で、そこから煮出すときに、どういうアプローチをかけるかというのはその都度変わっていきました。そんななかでもブレなかったのは、脚本の森下さんが描いてくださった政次像。決して雄弁ではなく、沈黙を選ぶ男です。そうした政次の性格は実は僕がやってみたいと思うお芝居ともちょうどリンクしていました。どれだけ抑え込んで内面を隠すか、座しているだけでどこまで表現することができたのかなと思っています。
長い間、演じてきたからかもしれませんが、そんな政次の在り方は美しいと感じています。寡黙で何を考えているのか一番親しい人ですら分からないくらいの人間って好きだなと。すごく雄弁な役をやらせていただく機会があったら、雄弁ってやっぱりいいなと言うかもしれませんけれど(笑)。

政次にとっての最高の選択

ずっと政次と寄り添って歩いてきたので、演じている間は思考が同化していて役と自分をかい離するのが難しくなっていました。扮装してその場にいるとどうしても政次のことを客観視できなくなってくる。無理矢理引きはがして政次のことを見ようとしても、どこかで「忍んで」とか「こらえて」と思ってしまうんです(笑)。特に政次の生涯が終盤にさしかかってからは、少しずつそれが加速していってしまった感じです。

そんななかで政次は最期が近づくにつれて、少しずつ小さな覚悟を固めていきました。それこそ囲碁をやっている人間なので、同時進行で5手も6手も先を考えていたはずで、どれを最悪の選択にするか、どれを一番いい選択にするかを常に見定めつつ動いていたと思います。そしてどの案を使おうと、自分にとって好ましくない結果に終わることも辞さない構えだったのではないでしょうか。その果てに政次が選んだのは、最後の瞬間まで“嫌われ政次”を全うするというものでした。それは一見悲劇に見えるかもしれませんが、彼にとっては最高の選択だったと思っています。
いまだに思考が同化しています

「おんな城主 直虎」では約1年、政次役を演じさせていただきました。これまでも大河ドラマへの出演経験はありましたが、今回は特別な感慨深さがありました。クランクアップしてからも現場を去りがたく、ご挨拶が長くなってしまったので「早く帰んないかな」と思われたんじゃないかな(笑)。

オールアップの瞬間は、みなさんがワッと集まってきてくださいました。ムロさんなんか普段着で走っていらしたし(笑)、「直虎さんが胸に飛び込んできた」と思ったら持ち道具の男性スタッフさんが直虎のふん装をして僕の胸に飛び込んできたりして盛り上がりました。ものすごい勢いだったので、僕もスタッフさんを受け止めながら「もうちょっと手加減してくれても…」なんて思いつつ(笑)、改めてみんなが一緒にいる空間を楽しんでいられたことを実感していました。そして同時に、政次としての僕自身はもうここにはいられないんだという何とも言えない喪失感でいっぱいになってしまったんです。もっと言ってしまえば、それまで毎週のように来ていた台本が来なくなる。そういうことも含めて「終わってしまった」というさみしさがありました。

政次と一緒にいた時間が長かったので、いまだに思考が政次と同化しているようなところがあり、クランクアップしてからもなかなか終わったという感覚がないまま進んでいます。クランクアップ当日の夜も、お風呂に入りながら「そういえば終わったんだな」と、とってもさみしさがこみ上げてきてしまい、政次のことをずっと考えていました。

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