大佗坊の在目在口

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豊橋 赤石寺から全久院・臨済寺へ

2017-10-24 | 

鎌倉時代、源頼朝が三河守護安達盛長に命じて堂宇を建立した三河七御堂の一つであると伝える赤岩寺を訪ねる。
  
三河七御堂は雲谷の船形山普門寺、財賀の陀羅尼山財賀寺、門谷の煙巌山鳳来寺、五井の龍田山長泉寺、饗庭の青龍山金蓮寺、丹野の御堂山全福寺・廃寺。赤岩寺の山号が赤岩山という。赤岩山赤岩寺の正式な呼び名はなんというのだろう。訓読みで「あかいわ」音読みで「せきがん」、日本語は難しい。
 
 
 
このお寺、古くは赤岩山法言寺と称し、神亀三年(726)、行基により創建されたと伝わる。天安元年(857)弘法大師空海の高弟杲隣上人により中興し、文武天皇勅願の真言宗道場になったという。豊橋の路面電車の終点、赤岩口駅の先から静岡県湖西市大知波に向かう県道が4号豊橋大知波線で、お寺が近くなると多米という地名が増えてきた。最近、多米という姓に見覚えがあったが、見た場所が思い出せなかったが、お寺を出た瞬間、に三島から箱根に向かう国道1号(東海道)の途中、にある山中城で、秀吉の小田原征伐で討死した北条勢の中に箕輪城主多米長定の名を思い出した。三河多米氏は氏姓氏家系大辞典によると「多米氏は吉良に住む鷲尾五郎時秀戦死の後、その子孫元益が多米邑に移住し多米を称号とす」とある。武蔵の多米氏と同族なのだろう。
曹洞宗の全久院に向かう。山号は仙壽山、開山は克補契嶷禅師、永正十一年(1514)、戸田憲光が父親戸田全久の菩提寺として二連木城(大口公園付近)の西側に建立、憲光の孫戸田康光は牛久保城(豊川市牛久保町)へ移った為、天文十五年(1546)牛久保にも全久院を建立、二連木を墳墓地とした。
 
 
戸田康長の正室松姫(智勝院・徳川家康の異父妹)の菩提寺で、智勝院の墓がある本堂裏手の墓地の一角に案内してもらったが、五輪塔の前にある水鉢にある林喜左衛門というのは誰なのだろう。
 
戸田家の墓域にも智勝院の石塔があつた。
 
 
 
境内に柴五郎題字による碑があった。
 
 
現地では暗いのと苔で最初の二行が殆ど判読できず誰の碑だか分からなかった。写真でも一部分しか読めなかったが、会津藩士大戸直道の養子(?)大戸直則の碑「大戸君之碑」で、直則病死の三年後、名古屋住の長男直春(陸軍二等主計正)が柴五郎に碑題字を依頼したもので、大戸直則は歩兵第九連隊第二大隊第二中隊少尉で参加、西南の役熊本木ノ葉で負傷、其の後日清、日露之役に従軍、従六位勲四等の叙勲を受け少佐で退役している。後配小野木氏との婚姻届けは歩兵第五旅団長乃木希典によって上申されている。大戸氏の出自は信濃滋野氏とも海野氏の系流ともいわれ、上野先方衆大戸城主として武田信玄に仕え、武田家滅亡後、保科正之に仕えたという。本名字は浦野氏、地名をとって大戸氏をも称したという。会津藩諸士系譜には浦野氏で記載されている。
臨済寺に向かう。
 
 
正保二年(1645)旧吉田城主小笠原忠知公が、筑州杵築より吉田に移封の際、繋がりの深かった宗玄寺を寛文四年(1664)、吉田に移転し京都五山大本山東福寺二百四十世虎伯大宣禅師を勧請し萬年山臨済禅寺と改め、小笠原家の菩提寺として歴代吉田城主 小笠原忠知公・長矩公・長祐公・長重公四代の廟所がある。
 
 
宗徧流の始祖山田宗徧の墓
 

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