大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

小河内衆杉田氏

2016-05-26 10:33:50 | その他

「湖水荘」は大津久バス停からバス停で一つ、青梅街道川野トンネルを出た中奥多摩湖バス停の傍なので、旧道を歩いて行くことにした。10mもない崖下はダムで堰き止められた多摩川の水が湛えられている。
 
小河内ダムの高さは149m、最大水深142.5m、ダム下の標高が408m、浄光院の標高が約539m、奥多摩駅標高が343mを考えると、西多摩郡奥多摩町川野という場所が多摩川の深い渓谷に挟まれた土地であることが分かる。
 
新編武蔵風土記稿に杉田氏の記載がある。「杉田某屋敷鋪蹟 村の西邊を云北條の臣杉田某の屋舗跡なり北条氏没落の後子孫民間に蟄居せしよりここに居れし今の農民次郎兵衛は舊家なれば猶舊家の條に辨せり」「百姓次郎兵衛 杉田氏にて村の里正なり 家系を閲するに杉田右近允重直武州多磨郡の内相馬保に住せりこの人杉田氏の始めなり按にこの邊杣保庄の唱あり杣保は相馬保をかきかへたりと云ことは已に前に辨したりさあらはこの人の時よりここに居りしなるへし、其子次郎兵衛尉入道淨泉北條氏直まで歴任していと長壽なりしことも家系に見えたりこは後にのする文書に入道殿とあるへなるへし其子次郎後に越後守と稱せしもの相馬保三ヶ所知行とあり又杉田清兵衛富久後但馬守なと云ものありこの外杉田氏を記せること連綿たり杉田越後守及杉田清兵衛にあたへし文書三通外に三田弾正えの文書一通を合せて家に蔵せるは後にのせり、」この文書により「舊くよりこゝに居りしことしるべし、北条氏没落ののち民間に下りしことは舊跡の條并せ見るべし」とあり、天正十五年の北条氏照朱印状写では「大途御弓矢立ニ候間 小河内衆之證人 此度召上候 然者十二ニ成子所持申候由 被聞召届候 彼子を惣置ニ御扶持可被下間 速ニ證人被進上 心易谷中之走廻可致候 此度抽而走廻ニ付而を 随望知行可被下旨 被仰出者也 仍如件」(奥多摩町資料集より)とあり、杉田氏は日原の原嶋氏と共に小河内衆と呼ばれる武士団を形づくっていたことが分かる。
 
歩いて5分くらいで数軒のドライブインがある中奥多摩湖バス停に着いた。連休の後だったからか、お店はすべてお休みだった。近くに写真でみた建物は在ったが、名字が違う表札で、残念なこと杉田重直子孫の方が経営していた「湖水荘」は無くなっていた。
 
帰りのバスの時間まで30分あるのでバス停脇の閉まっているドライブインを覗いていたら、不審者に見られたのか、奥から人が出てきた。親切にも浄光寺や「湖水荘」の杉田さんの事を教えて貰った。もっと詳しくお話を聞かせて貰いたかったが、11時51分のバスを逃すと、次は13時58分と2時間も空いてしまうので、もう少し調べがついたら再訪しようと定時に来た乗客の誰もいないバスに乗った。
北條氏の家臣にはもう一つの杉田氏がいる。蘭学事始で有名な杉田玄白の杉田一族で、北條家滅亡後、武州久良岐郡杉田村に戻った玄白の遠祖杉田主水次郎長安が創建したお寺が川崎に残っていた。近いうちに訪ねたいと思っている。

奥多摩旧川野村杉田氏


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奥多摩旧川野村杉田氏

2016-05-19 14:53:25 | 會津

西多摩郡奥多摩町川野は昔、武州三田領小河内川野村とも武蔵多摩郡川野村と云われていた。戦国時代、ここの地侍で三田氏に仕えた杉田一族は三田氏滅亡後、北条氏に仕え、武州北條領と甲州武田領の境目の地として武田方の小菅勢と対峙していた。以前、神尾伊予(保科正之生母静ノ方父親)を探していて、たまたま新編武蔵風土記稿記載の杉田一族の舘跡の在った川野村に浄光院という寺があった。この寺の名は保科正之の生母、静の院号と同じであり、江戸幕府領になってこの地を検知したのが竹村与兵衛、時代は大分異なるが、神尾伊予の娘が嫁いだのが竹村助兵衛、この夫婦の次男を会津藩は杉田家を継がせ藩士として召抱えた。杉田氏、浄光院、竹村氏と正之誕生のとき、生母静に関係する名前が川野村に揃った。

5月の連休のあと奥多摩に向った。東京駅から青梅快速で1時間22分、青梅駅での乗換時間1分でどうなるかと思ったが、立川方面発着と奥多摩方面発着が島式1面2線ホームの隣り合わせで便利だった。青梅線は大体1時間に1本4両編成で今の時季、ハイカーでかなり混んでいた。中年の女性ハイカーが多いのに驚く。それでも沿線の駅でぽつぽつ降りて、終点の奥多摩駅まで乗っていたのは20人程度だった。以前、氷川駅と呼ばれていたころ、日原鍾乳洞や御嶽にはよく来たが、昭和46年(1971)奥多摩駅に改称されてからは初めてきた。単線だったのも忘れていた。
 
バスは10人ほどの観光客を乗せて発車したが殆ど途中の奥多摩湖で降りてしまい、
 
 
杉田氏の菩提寺がある大津久まで乗っていたのは1人だけになってしまった。
 
奥多摩湖は昭和32年、多摩川を小河内ダムによって堰き止めて造られた人造湖でバスはこの湖の北岸を曲がりくねって走る。
 
大津久バス停から浄光院まで歩いて2・3分で着いた。新編武蔵風土記稿の浄光院記載では「金剛山と号す禅宗臨済派鎌倉建長寺の末寺弘安五年(1282)の草創なりといえども開山開基の人を傳へず」とあるが、青梅の史家齋藤真指によって明治十一年頃から編纂された西多摩郡村誌に「開基創建は文安二乙丑年(1445)杉田右近允平重直にて、開山僧は、壁芸良鐡禅師なり、寛正元庚辰年(1460)八月十二日死す、法名を、西勝院浄空道光居士と号す」とあり「庭上に、一株囲み九尺有余の垂り枝の梅あり、花盛りには、銀光燐然しして、馨香馥郁たり、以て、近隣の美観となせり」とある。小河内ダム建設により浄光院も高台に移転したようで、枝垂れ梅も奥多摩湖の底に消えてしまったようである。
 
 
墓域もお寺の裏側の急斜面に段々に造られていた。比較的新しい幾つかの杉田家の墓域があったが、家紋はすべて「三本杉紋」で会津藩士杉田家の「丸に左根笹紋」では無かった。
 
ご住職にお話を聞きたいと思ったが、今は無住のお寺さんみたいで、兼任のお寺を聞こうと両隣のお宅を訪ねたがいずれも不在で、仕方なく、いま在るかどうか分からなかったが昭和50年代に出版された「奥多摩町異聞」に載っていた杉田重直の子孫の杉田さん経営の「湖水荘」を訪ねることにした。


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小田原酒匂界隈(酒匂神社)

2016-05-10 09:14:01 | 小田原

新編相模国風土記稿に浜邊御所についての記述がある。酒匂村の小名に「はんべ」という地名があり「東海道の通衛にて、西の方長一町余(109m余)の所を云、按ずるに「東鑑」に酒匂浜邊御所など見えしは、則此地なるべし」、事は旧蹟の條に詳なりとある。御所蹟は「八幡の社前なり、濶三千坪、白田を開けり、北域に土手の形尚残れり、高六尺、今は瓦屋舗と云、中古此所にて瓦を焼しと云、土人云、源廷尉義経の邸蹟なり」さらに「此地の南東海道の大路をはんべと呼び、はんべより北に折れて爰に至る横街を、もと御所小路と唱へし」という。文中に「文治元年五月十五日、義経内大臣宗盛父子を相具し、酒匂駅に著せしに、義経は鎌倉に入ことを停められ、暫らく此地にありて、六月九日帰洛せし」とある。酒匂浜邊御所の南の東海道大路を「はんべ」と呼び、ここから北に入る横道を御所小路と呼び、八幡神社前で今は瓦屋舗と呼んでいるという。

小田原市史に「いま、八幡神社は酒匂神社(もと駒形神社)に合祀されて存在しないが、もともとは酒匂神社のすぐ西側の、字瓦屋敷(舗) (瓦屋敷は河原屋敷とも記した)付近に鎮座していた」要するに、「宿の西寄り、東海道の北側の、酒匂川の渡渉地点にほど近い自然堤防上の微高地に浜辺御所があったと推定される」としている。さっそく、酒匂神社の近くの浜邊御所を探しにいった。境内にあった酒匂神社の由来によると「原神は、大和朝末期(650頃)大和朝から派遣された統治者が守護神として「八幡社」を祀ったのが最初であり、この頃、 高麗民族が渡米して、先進文化、特に棚織(はたおり)を広め「棚織社(七夕社)」等も祀られていた」また「安久五年(1149)に、箱根権現の富士上人参朝が、 寄進された地[免耕地(現在地)]に、箱根権現を勧請し「駒形社」を祀った」「明治初年に始まるさまざまな神仏分離令により、近くの八幡社を、明治十年四月に駒形社の場所に移して酒匂神社とした」とあった。
 
  
  
同じ境内に教育委員会で行った酒匂神社周辺の酒匂遺跡群発掘の説明板に「約90m西にある、現在の小田原市保健センター周辺にはかって鎌倉幕府の「浜辺御所」という将軍の宿泊・休憩施設があり」とあり、あっさりと酒匂浜邊御所の大まかな場所が判った。教育委員会の酒匂遺跡群の発掘説明と調査地点の図が掲示してあった。
  
調査地点のNO5では弥生後期の周溝、溝状遺構、NO4では近世鍛冶集落の存在を示す1800kもの鉄を製錬する際に出る不純物「鉄滓・てっさい」が見つかっている。
平清盛三男宗盛・羹”禹劼鯱行して鎌倉へ向け七日に京都を出た義経は、文治元年(1185)五月十五日夜、酒匂宿に着いたが、頼朝に鎌倉に入る事を許されず、暫く其邊で留まつよう指示された。此間、義経は酒匂邊で待機していたが、頼朝に拝謁することが叶わず、文治元年(1185)六月九日、前内府平宗盛を連行して京都へ向かった。その時の義経の心情を吾妻鑑は「其恨已深於古恨」と表現している。五月廿四日に腰越駅でいたずらに日を過ごしていた義経は前因幡守廣元に託して嘆願書一通、奉じた。これが世に腰越状と称するもので、風土記稿は「弁慶が書記せしと傳ふれどおぼつかなし」としている。しかもこの腰越は鎌倉の内、「不被入鎌倉中」と云われた義経はどうして腰越で「徒渉日之間」と過ごすことが出来たのだろうか。
鎌倉腰越 満福寺
 

参考 吾妻鑑(国会刊行会篇 1943)
文治元年(1185)五月十五日丁酉、
廷尉使者景光參着、相具前内府父子令參向、去七日出京、今夜欲着酒匂驛、明日可入鎌倉之由申之、北條殿爲御使、令向酒匂宿給、是爲迎取前内府也、被相具武衛者之所宗親、工藤小次郎行光等云々、於廷尉者、無左右不可參鎌倉、暫逗留其邊、可随召之由被仰遣云々。小山七郎朝光爲使節云々、
文治元年(1185)五月廿四日戊午、
源廷尉義經、如思平朝敵訖、剩相具前内府參上、其賞兼不疑之處、日來依有不義之聞、忽蒙御気色、不被入鎌倉中、於腰越驛徒渉日之間、愁欝之餘、付因幡前司廣元奉一通歎状、廣元雖披覧之、敢無分明仰、追可有左右之由云々、
文治元年(1185)六月九日庚申、
廷尉此間逗留酒匂邊、今日相具前内府歸洛、二品差橘馬允、淺羽庄司、宇佐美平次已下壯士等、被相副囚人矣、廷尉日來所存者、令參關参向東者、征平氏間事具預芳問、又被賞大功、可達本望歟之由思儲之處、忽以相違、剩不遂拝謁而空歸洛、其恨已深於古恨云々


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小田原酒匂界隈(大見寺・法善寺・法船寺)

2016-05-02 09:46:58 | 小田原

東海道分間延絵図(酒匂村)

新編相模風土記によると大見寺は「光明山無量院と号す、天文三年(1534)僧退堂、小菴の古跡に就て起立す、境内に小島氏の墳三あり、各五輪なり」という。
 
三つの墓石は、市内にある個人の墓のうち、年代を明記した最も古いもので、徳治三年(1308)銘の宝篋印塔は左衛門入道、天文二十一年(1552)銘の宝篋印塔は小島行西、天正二年(1574)銘の五輪塔は小島治部少輔だという。小嶋家十六代当主による由来碑によると、小嶋家は藤原氏を源流とした二階堂道蘊貞藤を開祖として、南北朝後の政変により二階堂姓を小島姓に改め、北條時代には代官として、小田原藩では郡代として務めたとある。
 
風土記稿によれば旧家徳右衛門、小嶋を氏として先祖小嶋左衛門入道、徳治三年(1308)の卒としている。小菴の古跡に大見寺が建立されたのは左衛門入道が亡くなってから二百年以上も後の天文三年(1534)、元禄十六年(1703)の大地震、宝永四年(1707)の富士山大噴火や酒匂川の氾濫にも敗けず、左衛門入道の宝篋印塔はよく残ったものだと思う。
一旦、東海道にでてから法善寺に向かう途中に武家屋敷と間違うほどの立派な門構えの建物があった。酒匂宿名主川辺家の屋敷長屋門といわれており、現在は児童養護施設ゆりかご園として使われている。
 
大見寺境内の本堂前には川辺氏代々の墓が並び、おくに円柱の上に仏様が腰掛けたような石柱が川辺家当主川辺清兵衛家次墓で当時の繁栄ぶりが残されていた。
 
江戸時代に整備された東海道五十三次の宿場は大磯宿の次が小田原宿で、東鑑にでてくる酒匂駅・酒匂宿はいつのまにか消えていた。東海道分間延絵図にも川辺本陣の記載はない。酒匂川の渇水期には土橋が架けられ、渡し賃は高くなるが水かさ四尺五寸(1.36m)まで渡れたようだが、増水期の旅人は少なかったのだろうか。
 
寺縁起に永享十一年(1439)、法善入道と云われる中野禅門がここに真言の庵を結び、十九年後、伯父にあたる本法院日敬聖人の教えにより号を神力山として日蓮宗に改宗した法善寺に寄ってから同じ日蓮宗の法船寺に向かう。
 
法船寺の寺傳に文永十一年(1274)五月十二日、日蓮鎌倉より身延山に赴く時、當所をめぐり歩くに、修験者飯山法船の帰依の餘り、日蓮を家に寓宿させた。のち宅地を捨て寺とし、越中阿闍梨朗慶を延て、開山第一祖とし、開基は法船夫婦。飯山入道夫妻の法號は「済度法船居士」「蓮慶妙船大姉」、山号を済渡山という。ここに小田原市内の全てのお寺を廻った訳ではないが、市内で唯一の五重塔があるという。法船寺の山門を潜っても五重塔が見えなかった。本堂の前に来て、やっと左手に相輪が見えた。
 
高さが想像したのと大分違っていた。しかし、小さいながらも総檜本瓦葺きの本格建築で、相輪まで含めると高さ8.55mあるという。神奈川県では藤沢の龍口寺を除き総木造りの五重塔は残っていない。身近で見られる貴重な五重塔となっている。


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御殿場線沿線 山北の桜

2016-04-19 10:38:55 | 小田原

「小田原の桜」を検索すると、小田原城址、長興山紹太寺のしだれ桜に交じって、山北駅御殿場線沿い桜並木が出てくる。国府津駅で御殿場線に乗換え山北駅に向かう。殆どの人が小田急線とクロスする松田駅で降り、次の駅、県立山北高校がある東山北駅で高校生が降りると、急に車内が寂しくなる。雨が降っていたせいもあるのか、山北駅の下車した客は僅か6名、櫻の時期にしては寂しい。
 
 
山北駅は丹沢山塊の南麓で、酒匂川上流域にあるJR東海所属で国府津駅から御殿場駅経由の静岡沼津駅を結ぶ御殿場線の駅で無人駅だと思っていたら地元のNPO法人が委託をうけて切符販売を行っていた。JR東日本のICカードはJR東海の一部の地区を除いては使えないので非常に不便を感じる。どうにかならないのかと思う。
駅前にはレトロ調の循環バスが客を待っていた。しばらく見ていたが乗る客は一人もおらず、電車の時刻に合わせてタクシーもいたが、いつの間にかいなくなっていた。駅前にある見守り観音の前を西に200mほどの行くと最初の十字路がある。そこを左に曲がると直ぐ桜の木が見えてくる。
 
 
跨線橋(三良橋)に先客が二名、もうすぐ電車が通過すると教えてくれた。やってきたのは御殿場と新宿を結ぶ特急「あさぎり」、一瞬で山北駅を通過していった。
 
 
雨で寒いので駅に戻るため跨線橋を渡ると駅の裏手にある山北町鉄道公園にでる。ここにD5270号機が静態保存されていた。この蒸気機関車を石炭燃焼ではなくコンプレッサーによる圧縮空気を動力源とし自力で動かす計画を進め、今年の秋(十六年)一般公開の予定だという。運転距離は動輪2回転分のわずか12mだというが、身近で蒸気機関車が動くのを見られるのは楽しい。
 
 
電車が付いたばかりなのか駅前にも大勢の人が、といっても六・七人だった。小田原までの切符を買う。裏が黒い横長の切符なのに自動改札が通れないと言われた。
 
JR東海の簡易委託駅でもマルス端末がほとんどの駅で導入されているが、山北駅では端末が未設置のために管理駅にて印刷発行したマルス券を手売りしているJR東海での三駅の一つだった(中央本線古虎渓駅、高山本線下油井駅)。雨が酷くなってきたので早々に国府津駅に向かう。小田原駅でこの切符を自動改札に入れたらどうなるか試したかったが、混んでいたので止めた。


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小田原酒匂界隈(長楽寺・南蔵寺・上輩寺)

2016-04-14 10:31:16 | 小田原


東海道分間延絵図  酒匂宿
 
「富士の高嶺を西に見て 南に望む相模灘」は酒匂小学校校歌の一節で、酒匂小の前身は長楽寺より始まり、その頃のまわりの風景を、詞にしたものだという。酒匂小は、明治五年(1872)、酒匂村長楽寺を仮校舎として足柄上郡、下郡で初めて前川村常念寺の崇高館支校として小学校教育をこの地で始めた。明治六年、酒匂学校が発足、前川村常念寺崇高館のもと第一支校(酒匂村山王原・弘経寺)、第二支校(酒匂村・長楽寺)、第三支校(小船村・源長寺)の三支校を設置し、同九年支校を廃し酒匂小学校とて独立した。現酒匂小から西、500mぐらいに位置する長楽寺からお寺巡りを始めた。
 
長楽寺は勧学山修行院と号し、開山は応永十五年(1408)、浄土宗のお寺さんです。
長楽寺から200mほど離れた南蔵寺に向かう。
 
南蔵寺、新編相模国風土記稿に「号は酒匂山不動院、寺伝に古は福田寺と号し、寺地も今の所在より四五町を隔ててあり東鑑、建久三年(1192)八月小九日 御臺所御産氣、鶴岡相摸國神社佛寺、奉神馬、被修誦經、福田寺酒匂、按ずるに、佛寺十五寺の一なり」としている。源頼朝は、鶴岡八幡宮ほか相模国の神社仏閣二十七ヶ所に妻北条政子の御産加持を命じている。本尊は十一面観音で、秘仏として一切公開していないとの事であった。
隣接の上輩寺に廻る。
 
上輩寺は品山浄土院と号し、開山は他阿真教、開基は酒勾右馬頭、永仁五年(1294)起立した。
 
ここにあるイチョウは乳柱が多く独特な樹形で飯泉の勝福寺、城山の光円寺と並ぶ小田原三大イチョウの一つでもある。このイチョウの傍に三基の五輪塔が並んでいる。お寺によると地元の豪族、酒勾一族の墓と伝わるということでした。

参考
建久三年、北条政子御産加持の相模国神社仏閣二十七ヶ所
福田寺〔酒匂〕     平等寺〔豊田〕          範隆寺〔平塚〕
宗元寺〔三浦〕     常蘇寺〔城所〕          王福寺〔坂本〕
新樂寺〔小磯〕     高麗寺〔大磯〕          國分寺〔一宮下〕
弥勒寺〔波多野〕    五大堂〔八幡。号大會御堂〕 寺努寺
觀音寺〔金目〕      大山寺              靈山寺〔日向〕
大箱根          惣社〔柳田〕           一宮〔佐河大明神〕
二宮〔河匂大明神〕  三宮〔冠大明神〕         四宮〔前取大明神〕
八幡宮          天滿宮                 五頭宮
黒部宮〔平塚〕     賀茂〔柳下〕           新日吉〔柳田〕

小田原酒匂界隈(大見寺・法善寺・法船寺)


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国立印刷局小田原工場観桜会

2016-04-11 09:23:49 | 小田原

小田原酒匂に国立印刷局の小田原工場がある。ここのH・Pに業務内容が日本銀行券の製造とあり、しかも年度ごとに達成すべき目標までもあってビックリした。この小田原工場敷地内を桜の開花時期に合わせて土・日に一般開放して観桜会を開催している。第37回目の28年は4月2・3日に開催された。
 
今年は全国的には桜の開花は早かったが、小田原の桜の満開は遅く、周りの桜も三分咲き程度だったが、普段入れない所に入れるという興味で出かける。正門で職員らしき人達が宣伝のテッシュを配っている。折角、休みの土日に駆り出されて気の毒になる。
 
  
敷地が広い所為か、櫻の枝が高く、幹も太く、のびのび自由に育った桜の木で、まだ満開と云う訳には行かなかったが、ミツマタの花が満開で楽しめた。工場に入ったら、何かの役に立つかも知れないから、工場・建物をバチバチ写そうと思っていたが、中庭正面の125m位の工場一棟に遮られ諦める。Googleマップの航空写真の方がよっぽど役にたちそう。印刷局創設期の紙幣頭が渋沢栄一なのも驚きだった。
 
30分ほどで桜鑑賞を終えて、東海道に面した古いお寺さんを廻ろうと国道1号線に向かう。途中小さな社があった。この社は「道三稲荷」と呼ばれ、説明板によると、徳川幕府典医「道三」の邸宅内に祀られていたお稲荷が祖であると伝えられている。関東大震災以前は丸の内、日清生命の裏手に鎮座されていたという。日清生命のあった建物は現在の大手町野村ビル(大手町2−1)で、隣町が道三町で横に道三堀があり、明治期に大蔵省印刷局もあった場所でもある。
関東大震災後は大手町官舎横にも遷宮されていたが、昭和十八年、丸の内から印刷局小田原工場開設と同時に同工場内に遷宮されたが、終戦により個人宅に移され、昭和二十九年に現在地に鎮座されたという。道三堀は江戸城への輸送路として和田倉門橋から平川の河口の呉服橋門まで開削した人工の水路で南岸に幕府の侍医、曲直瀬道三家の屋敷があったことから、道三堀と呼ばれたという。
 
寛永三年(1626)、二代将軍秀忠に従い滞洛中、秀忠の正室崇源院(お江の方)の病のため江戸に帰る途中、箱根山中で没した今大路道三玄鑑(曲直瀬道三玄朔(正紹)の子)の墓が箱根湯本の早雲寺にある。
 
 
二代将軍秀忠公侍医 曲直瀬家三代
今大路道三玄鑑之墓
寛永三年九月十九日歿 享年五十歳


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新潟県護国神社

2016-04-02 09:00:43 | 掃苔

明治八年(1875)、新政府軍戦死者の墓碑を常磐ケ岡(旧新潟大学本部の跡地)に設置し戊辰戦争の戦没者四百十五柱を祀り新潟招魂社とした。昭和十六年新潟招魂社から護國神社と改称し、昭和二十年(1945)現在地の西船見町に移転した。ここに「戊辰役東軍慰霊碑」が建立されているのを知って訪ねた。
 
この東軍慰霊碑は明治戊辰から百二十年後の昭和六十年、元招魂社跡地から東軍戦死者のものと思われる九十二体分の遺骨が発見され、護國神社敷地内にある「戊辰役殉難者墓苑」に埋葬され、昭和六十三年に「戊辰役東軍慰霊碑」が建立されたもので、入口に新潟県護国神社戊辰霊苑の説明板があった。
 
戊辰新潟戦争
慶應四年(明治元年)正月鳥羽伏見で戦が始まり薩長を主力とする西軍は四月柏崎・小千谷を占領七月には長岡を攻略しました。一方七月二十五日海路より松ヶ崎に上陸し二十九日までの五日間新潟の町は戦場と化し、対する東軍(米沢・会津・庄内)との間で激戦が繰りひろげられ多くの兵が戦死いたしました。西軍戦死者の墓碑は明治八年常盤ヶ丘に建立されて招魂社となり、その後昭和ここに移管されました。昭和六十年に至り旧新潟大学本部跡地(元招魂社跡)から東軍のものと思われる九十二体の遺骨が発見されここに埋葬されております。この度二度目の戊辰にちなみ、多くの方々の協力により東軍の慰霊碑が建立されました。ここは東西両軍区別なく、いずれも国に殉じた尊い御霊として祭祀する霊苑であります。異郷の地で果てた戦士よ安らかにお眠り下さい。
                     昭和六十三年十一月五日 新潟県護国神社戊辰霊苑

 
東軍慰霊碑の碑文を読みはじめたら、朗々として心に響く詞で最後まで読んでしまった。撰文は作家の綱淵謙錠氏だったので納得する
 
戊辰役東軍慰霊碑文

戊辰役東軍慰霊
君  建男 題辞
いまここに明治元年戊辰七月の新潟戦争で戦死された奥羽越同盟東軍の精霊に申し上げます あれから星霜百二十年 われらの声は遠く微かにしかお耳に届かぬかもしれませんが どうぞ静かに目をお覚ましください
 当時 新潟港は諸外国との開港場に指定され 戦略上もまた重要な拠点と認識されていたために 新政府西軍は七月二十五日に松ヶ崎太夫浜に上陸 同二十九日 新潟港をめぐって展開された東西両軍の攻防戦において 皆様は帰らぬ人となり わが国近代化の礎石として 尊い命を捧げられたのでした
 その後皆様は賊軍といういわれなき汚名を蒙り 遺体は放置されて永く山鴉野犬のついばみに任せられ 濤声に雪冤の悲歌を奏で 松籟に怨念の鬼哭を託して来られました ここにわれらは新潟戦争後二度目の戊辰にちなみ 遅きに過ぎた憾みを遺しつつも この慰霊碑建立の運びに漕ぎつけました
 新潟戦争東軍殉難者の皆様 なにとぞきょうからは 昔の頑なな順逆論に煩わされることなく この碑を羽ばたきの基点とされ 新潟の四季に目を楽しませ ときには白鳥と化して故郷の山河に天翔り 心ゆくまで平和の喜びをお噛みしめください それがわれら建碑発起人のささやかな願いでございます
      昭和六十三年十一月五日            
                                                      東軍慰霊碑建立発起人会
                                                      綱淵謙錠 撰文

 
 
 
無残な墓碑が残っていた。

東京で戊辰東軍関係者の碑文が削られている墓碑を多く見かけるが、この戊辰霊苑に祀られている越前藩とおもわれる全ての墓碑の碑文が削られていた。戊辰役後の会津と越前藩士との確執は明治二年の束松事件にみられるように、かなり根深いものがあった。いったい誰が行ったのだろうか。


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伊豆山神社

2016-03-30 09:17:39 | 小田原

鎌倉幕府の準宗祀として、将軍自ら箱根権現、走湯権現に参祀を行い、武士の守護人として二所詣が優遇された。走湯権現は伊豆山権現とも称され、現在の伊豆山神社のことで、その縁起書である「走湯山縁起」「箱根権現縁起絵巻」が残されている。
箱根権現縁起絵巻荻野政家本(伊豆山走湯大権現)

群書類従「走湯山縁起」巻一に、応神天皇二年、東夷相模国唐濱磯部の海槽に光明と音曲を放つ日輪のような円鏡が出現し、自らを「異域神人」、「沙謌沙羅」(湯泉之梵語)といい、日金の嶺に飛んだという。異域の神が相模の唐浜(大磯)に来て、日金山への権現垂迹が書かれている。「筥根山縁起并序」前に「走湯山縁起第五」が載っていた。深秘すなわち見るべからず、とある。見るなと言われれば読めない漢文も一生懸命読んでみたくなる。
 
「当山日金者。本名久地良山也。此地下赤白二龍交和而臥。其尾漬筥根之湖水。其頭在日金嶺之地底。温泉沸所此龍両眼二耳并鼻穴口中也。」凄い事が書いてあった。日金山の地底に赤白の二匹の龍が交和していて、その尾は筥根の湖水に漬り、その頭は日金嶺の地底に在って、この龍の両眼・二耳・鼻穴・口中から温泉が沸でるという。また「此山地底有八穴道」とあり、一の通路は戸蔵第三重巖穴に通じ、二の路は諏訪の湖水に通じ、三の路は伊勢大神宮に通じ、四の路は金峯山上に通じ、五の路は鎮西阿曾の湖水に通じ、六の路は富士山頂に通じ、七の路は浅間山の嶺に至り、八の路は摂津の住吉神社に通じるとある。修験霊場と全国の神仏とのネットワークの存在を感じさせる。日金山は今の十国峠ケーブルカーが通っている山で、伊豆山神社社伝によると当社は当初は最初日金山(久地良山)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に鎮座したという。明治になって現在の社名に改称された。
 
伊豆山神社は出発地点の伊豆山浜から本殿まで八百三十七段あるという。幸いなことに車だと本殿横まで上ることが出来る。山頂近くにある本宮は無理でも途中の白山神社までは行こうと思ったが、社務所で聞くと結構大変だという。ここは素直に本殿横の白山神社遥拝所で参拝することにした。
  
 
ここの手水舎に可愛い赤白の二龍がいた。赤は火を、白は水を表しているとのことだった。
 
本殿横の駐車場入口に小泉今日子が奉納した鳥居があった。伊豆山神社と小泉今日子、どんな関係があるのだろうか。
 
左)雷電社 右)結 明神社(日精・月精社)
 
足立権現社(役の小角社)
 
祖霊社(伊豆大権現に仕えた氏人の祖霊を祀る)

近くの伊豆山神社の別当寺でもあった般若院に寄る。
 
 
 
天正十五年(1590)北条氏滅亡により伊豆山権現と共に別当院の密厳院も消亡、その後、家康が高野山より快運を招き、伊豆山別当職に補任し、般若院の称号を与え復興。その後は高野山系の僧が別当職を受け継ぐ。近世の伊豆山は四十八谷供僧十二坊と修験七坊があったという。

 


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箱根神社

2016-03-22 07:48:14 | 小田原

大磯の高来神社(旧高麗権現)に行った。数日後、箱根神社を訪ねた。東海道分間延絵図に高麗山の山頂に高麗権現、その下に伊豆権現・箱根権現が描かれていて、その結び付きは強かったと云う。
 
 
箱根神社のH・P縁起によれば、「人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされ、奈良朝初期、天平宝字元年(757)万巻上人は、箱根大神様の御神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。鎌倉期、源頼朝は深く当神社を信仰し、二所詣(当神社と伊豆山権現参詣)の風儀を生み執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えた」云々とあり、さらに「明治の初年には神仏分離により、関東総鎮守箱根大権現は、箱根神社と改称された」とある。人皇第五代孝昭(孝照)天皇の御代云々は建久二年(1191)箱根権現別当行実が編纂した「筥根山縁起并序」に箱根山の由来や箱根神社の成り立ちが記載されている。
  
 
 
この本を探したら近代ライブラリー「群書類従巻一の二十五」に載っていた。「原夫扶桑之津、湘江之西、相州西富郡足柄」、一文字目から何て読んだらいいのか解らず、スタートからつまずく。相模に西富や足柄の地名があるが、西富は今の藤沢から平塚附近の古い地名だったらしく、湘江は相模湾一帯を指すとして、原はなんと読むのか解らなかった。字源を見ると、「厂」(がけ)+「泉」で崖から水がわくことを意味し「源」の原字だという。さらに調べると「淮南子」に「原、本也」とあるという。「原夫」は(モトハソレ)とでも読むのかと思っていたら、「原」は(〜のもとをたずねるに)という文体だという。結局、よくわからないまま、小田原駅前から箱根に行った。小田急グループの箱根登山バスと伊豆箱根鉄道系列の伊豆箱根バスがあり、箱根一日バスフリー券が安い伊豆箱根バスで行った。この二社のバスフリー券は共通でないため、それぞれのバスにしか乗れず、荷物を持った観光客が戸惑っていたのは気の毒だった。これでは観光地が泣いてしまう。箱根神社に大勢の若い女性が多くお参りしていたのにはビックリした。恋愛運に効果が高いパワースポットだと宣伝しているのだろうか。
(右)箱根権現縁起并序訓読本(箱根神社編集「箱根の宝物」より)
 
箱根権現縁起絵巻荻野政家本(箱根大権現)

神社の宝物館に「筥根山縁起并序」の複製が展示してあった。「原」に(タツネシハ)と訓読みが附ってあった。訓読み筥根山縁起の「もとをたずねれば」という読みでやっと意味が通じた。もう一つ、箱根神社所有の「筥根山縁起并序」には「足柄郷」と郷の文字が入り、神社にある伊勢氏綱(北条)や徳川家康の社殿造営棟札にも相州西富郡足柄郷筥根山東福寺三所大権現とある。明治元年(1868)、神仏分離により別当寺である金剛王院東福寺は廃寺となり、箱根神社と称しているので、相州西富郡足柄郷と云うのは筥根山東福寺三所大権現を表す特殊な地名だったのかも知れない。


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