大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

網一色 八幡神社

2016-12-05 10:09:00 | 小田原

東海道分間延絵図を見ると酒匂川右岸(小田原側)の川越場所は旧東海道、酒匂川の手前300m程からクランク状に折れて、今の国道一号線(東海道)から60m程上流に在ったことがわかる。

絵図では、このクランクの付根のところに御霊八幡宮があり、常劒寺の間に新田大明神が記載されている。
神奈川県神社庁によれば網一色八幡神社の祭神は応神天皇となっている。鎌倉権五郎景政を祀る御霊八幡宮から応神天皇を祭神とする神社にいつ替わってしまったのだろうか。ビジネス高校前バス停から徒歩3・4分の東町5丁目にある八幡神社を訪ねた。
 
神社の扁額には御霊八幡宮の名が!
 
  
小田原市指定保存樹林第2号指定されている境内に大正四年御即位紀念と昭和三年御大典記念の碑があった。
 
御大典記念碑は小田原藩士関重麿の長男関重忠題字、酒匂小学校長だった森丑太郎書によるもので、網一色青年会により建立された。この碑は昭和三年の昭和天皇御大典を記念して建てられたが、碑文をみると、網一色の由来とこの八幡神社の由緒が書かれていた。副社の新田社は新編相模風土記稿に「本地仏地蔵、 社伝に延元二年(1337)新田左中将義貞、越前にて討死の後、其臣船田入道、義貞の首級を捧持し、東国に下向して爰に葬る、入道は名を久保明翁と改め、則此地に隠栖すとなり、故に今も立願する者は、久保明翁の子孫なる由告れば願望成就すと云」とあるが、太平記では「船田入道は義貞討死より前、建武二年(1335)正月京都の戦に討死せし人なり、 然れば社伝信じがたし」として、「宇都宮左近将監泰藤、其首を奉じ、義貞の本国上州へと志し関東に下りしに、小田原駅に著し時、泰藤偶疾に臥す、 依て其首級を瓶に収め、酒匂川の辺に埋む、 後に新田明神と崇むとあり」と三州妙国寺伝を掲載している。
 
 

御大典記念 碑文    
題字   海軍少将従四位勲三等功四級関重忠書
此ノ地ハ往昔足柄郷ニ属シ早川荘ノ一部宮城村ト稱ヘシカ後足利家ノ臣一色某冤罪ニヨリテ本村ニ来リ荒地ヲ開キテ一色村ト改メタリト云フ小田原盛衰記ニ北條氏康西国ヨリ漁師ヲ招キテ千度小路ニ住マハセ地獄網ト云ヘルヲ用ヒ海底ノ魚貝ヲ捕ラセ大イニ民利ヲ劃リ網ヲ一色ノ海岸マテ干サシメタルヲ以テ網一色ノ稱起ルニ至レリト尚當社八幡神社ハ後三年ノ役ノ剛者鎌倉権五郎景政ノ霊ヲ祀ル副社新田神社ハ元西上百六十八番地ニアリ社傳ニ新田義貞ノ臣船田入道某義貞ノ御首ヲ持チ来リテ埋メケリト又三河國碧海郡上和田村法華宗本寿山妙園寺ノ元禄八年ノ記ニ泰藤後首ヲ持チテ濃州ニ下リ夫ヨリ本領三州和田ニ妻子ニ暇ヲ告ケ上州新田公ノ本国ヘト志ス途次相州小田原駅ニテ異例常ナラス其御首ヲ甕ニ納メ酒匂川ノ邊ニ埋メケル即チ新田大明神ト崇メケル云々ト然レトモ明治維新ノ際証據不明ノ為メ廃社トナリシハ誠ニ遺憾ナリ近クハ六十餘年前 明治大帝京都ヨリ東幸ノ砌リ川越ヲ為シ給ヘル由緒アル地ナリ 
聖上陛下天津日嗣ヲフマセ給フ鉅典ヲ挙ケサセラルルニ際シ我等ハ本村ノ沿革ヲ願ミココニ記念碑ヲ建設スル所以ノモノハ温故知新以テ 叡旨ニ副ヒ奉ル忠良ナル青年タルコトヲ期セントスルニ外ナラス  従六位森丑太郎敬書


新田義貞公首塚


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小田原 平成輔墓所

2016-11-22 10:54:49 | 掃苔

小田原城下の西南、早川の河口近く南町3丁目に永劫山最勝院報身寺という浄土宗のお寺がある。
 
 
この報身寺境外墓地と言っても東側、一本小道を挟んだ向側に平宰相成輔の墓がある。
 
 
宇多天皇第二皇子の後醍醐天皇は即位した後、鎌倉幕府の打倒を密かに計画したが、正中元年(1324)六波羅探題に発覚した正中の変のあと、元弘元年(1331)、後醍醐天皇は再び倒幕を計画して幕府方に敗れた。笠置落城後、中心人物の後醍醐天皇は隠岐島に配流になり、討幕計画に参加した権中納言平惟輔の子、平成輔は鎌倉幕府に拘束されて斬罪に処された。「太平記」巻四「笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事」の項に死罪、流刑となった人々の事が語られている。「平宰相成輔ヲハ、河越三河ノ入道円重具足シ奉テ、是モ鎌倉ヘト聞ヘシカ、鎌倉迄モ下シ着奉ラデ、相摸ノ早河尻ニテ奉失」とある(国文学会編)。新編相模国風土記稿に「潮音寺 元享三年(1323)三月建、平宰相成輔墓、石祠を置、側に五輪の頽碑あり」「成輔、弘元二年(1332)五月、早川尻にて殺害せらる、故に当所に葬埋せしなり」とあった。早川尻というのは、東海道の箱根板橋から海岸を通り熱海に向う脇街道の早川河口付近で、東海道分間延絵図にも早川河口左岸に報身寺と潮音寺が記載されている。
 
この潮音寺は明治になり報身寺に合併され、この墓所も報身寺の管理となった。平成輔墓の傍に有栖川宮威仁親王篆額の宰相平成輔碑がある。碑陰によると、福住正兄(二宮尊徳高弟で箱根塔ノ沢温泉旅館福住楼主人)が小田原の西南端にある成輔卿御墓所附近の熱海街道早川口に建立したが、道路拡張により二宮神社に移し、さらに昭和七年三月に平成輔塋域内に移したという。

(宰相平成輔碑文)
宰相平成輔碑
  海軍少佐三品大勲位威仁親王  篆額   
函嶺之巨浸溢為澗流東注十里至小田原入海其與潮
合處白沙堆積民屋散布謂之早川傳曰地有不浄松者
宰相平成輔遭害處矣按史元弘元年笠置城陥翌年成
輔為賊兵執送鎌倉已而道殺之實為其季五月二十二
日也嗚呼元弘之亂倒行逆施擧海内不知名分為何物
成輔與源具行等謀糾合義旅謀誅高時精神有足動人
者然而後世無為成輔道者地方有志某等有慨于此欲
昭其遺跡而歳月之久松樹枯朽遭害之處不可知焉乃
更卜地建碑属余記之於是成輔事蹟始著於世而千載
之下使人低佪咨嗟則有志者之擧不亦偉耶南朝之事
係世道人心余取以喜而援筆
   元老院議官従三位勲三等男爵楫取哲撰
明治二十二年十二月建       永原俊章書


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西川鉄次郎 墓所

2016-11-14 13:37:02 | 掃苔

静岡藩に仕えた旧会津藩士林三郎惟純を調べていて、白虎隊にいた西川鉄次郎が沼津兵学校付属小学校で学んでいたことを知った。早速、沼津兵学校の資料が揃っている沼津市明治史料館を訪ねたのが今から8年前の残暑が残る8月の末だった。史料館に着くと窓が全て開いていて、エッと思いながら館内に入ると年に何回も無い休館日で丁度、清掃中だったが、館のご厚意で資料だけは閲覧させて貰うことができた。
 
ここの資料(通卷第75号)によれば、西川鉄次郎は会津藩御書簡所物書六石五升二人扶持西川俊治(舛益・定之助・鐡之助)次男で白虎寄合二番隊に属して越後を転戦して降伏後は越後高田で謹慎とある。東京で謹慎となった旧会津藩士を護送した小倉藩羽州出兵戦記に朱雀寄合四番隊で戦った兄、西川彦太郎と共に西川鉄次郎の名があり、東京での謹慎後の明治三年(1870)、兄は斗南へ移住し、弟の鉄次郎は沼津兵学校付属小学校に留学したと思われる。大学卒業後の官歴については「白虎隊西川鉄次郎」で詳しく述べた。明治三十八年出版の中央大学二十年史に創立以来現在に至るまでの講師陣の中に、創立者の一人である西川鉄次郎の名があるのは当然であるが、石渡敏一の名があったのは驚いた。石渡敏一は旧会津藩士との結び付の強い石渡栄治郎の長男で妹登美は旧会津藩家老萱野長修(権兵衛)の三男郡寛四郎の嫁となった。小倉で自刃した郡長正は寛四郎の兄になる。他に会津山内氏一族で長野の横田秀雄、その弟の小松謙次郎の名も講師陣にあった。
昭和七年六月一日付けの西川鉄次郎葬儀広告を見つけた。葬儀は嗣子西川栄祐、親戚総代が長谷川久一、桐山菊太郎で小田原町板橋の興徳寺で行われるとあった。小田原の興徳寺を訪ねた。
   
西川という檀家さんはいないとの事であったが、近所に偉い裁判官が住んでいたと聞いて、その家の近くのお寺、霊壽院の墓域に東京新宿の正受院から改葬された旧会津藩家老萱野長修(権兵衛)の弟、三淵家の墓所があった。
 
 
三淵隆衛長男忠彦の娘多摩は石渡敏一の五男慎五郎に嫁にいった。親戚総代の長谷川久一(唐津藩士長谷川芳之助子)は西川鉄次郎妻文子の兄で第三十六代警視総監を勤めている。長谷川久一は長崎唐通事だった何礼之に大阪洋学校で英語を教わっている。何礼之の門下生として日下義男(本名石田五助、会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男、弟に白虎士中二番隊の一人で、飯盛山で自刃した石田和助)や海援隊瓜生震らがいる。
小田原で葬儀を済ませた西川鉄次郎の墓所を探して小田原市内のお寺の半分は廻った。今年になって、サイト情報で西川鉄次郎の墓所が青山霊園附属立山墓地にあるのを知った。明治四十二年出版の立山墓地明細案内図で調べると、西川という名の墓域が三ヶ所ある事が判った。ともかく立山墓地に行ってみた。
 
三ヶ所の一つが西川鉄次郎の墓域で、旧会津藩士で京都から江戸まで孝明天皇の御宸翰を運んだ浅羽忠之助の三男五三郎が婿に入った騎西家の墓域の近くにあった。


白虎隊士西川鉄次郎


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北條氏 香沼姫

2016-11-06 10:21:14 | 小田原

新編相模国風土記稿、高源院の項に北條氏康妹にて山木御大方と称した高源院と香沼姫の位牌を安置するとあった。高源院は遠江の堀越貞基に嫁いだ北條氏綱の五女崎姫の事で、今川家の家督相続争い「花倉の乱」で玄広恵探(今川義元の庶兄)側に与した堀越六郎貞基は栴岳承芳(今川義元)側と戦い討死した。崎姫は北條方に戻り、韮山城に近い山木に住まいしたことから「山木御大方」と呼ばれた。香沼姫は新編相模国風土記稿谷津村旧家山本庄左衛門の項にその名が出てくる。「累代浪士なり、今住する宅地は、北條氏綱の女香沼女の邸蹟なり」とあり、終身嫁に行かなかったとある。さらに「香沼女の側に給仕する山本氏(香沼女の外戚と云)の女あり、後年媒酌して渡邊外記に嫁ぎ、外記山本姓を名乗と云、香沼女は氏直の内室(東照宮の娘、督姫)と懇交あり、常に和歌の贈答などありしなり。香沼女、木(棺桶)につき、其遺言に任せ、居邸を外記の屋敷となし、其山頂に葬れり」とある。
風土記稿と同時期の天保十年前後に小田原藩士三浦義方により相模国内の歴史、地誌、史蹟、社寺等について編纂された「相中雑志」に同じような記述がある。「香沼殿ト申女儀者北条家元祖伊豆守早雲氏茂ノ孫女相模守氏綱ノ娘左京大夫氏政之叔母也独身ニテ実母方ノ親類山本氏ノ娘ヲ幼年ヨリ側ニテ召仕附人渡辺外記ニ嫁山本氏ニ改屋舗ヲ譲リ遺跡相続牢人ヲ立永代年貢諸役御御免之御除地也 但シ百間四方」とある。屋敷は約1万坪の土地だったことが分かる。
 
小田原駅西口から県道74号小田原山北線(通称足柄街道)にある城山競技場入口交差点を慈眼寺方向に向かい、6・7分で左側に城山第一公園がある。
 
 
その先の1区画とその西側のブロックで約1万坪になり、概ねここが山本屋敷跡と思われる。山本屋敷跡にあるという香沼姫の墓所を探してウロウロして同じブロックを何周もしてしまった。山本家に伝わる「語り書」をまとめた「小田原北條女物語」に、山本家では屋敷の上段に御霊屋を作り、子々孫々四百年に亘り供養しているという。そう言えば、この住宅街の南側に急坂があり、住宅が続いているのを思い出し、再度、探しに行った。急坂の途中に墓所があった。
 
今は開発が進んでしまったが、昔は屋敷を一望に見渡せる小山の中腹に香沼姫の御霊屋を作ったという記述通りだった。
 
 
 
山本家では、香沼姫の実母方ノ親類山本氏ノ娘というのは、実は山木(高源院)の娘で渡辺外記に嫁するに当たり、山木の木に一を加えて山本を名乗らせたと伝わる。他に香沼姫は高源院崎姫の娘という説もあり、高源院崎姫(山木御大方)と香沼女の関係はハッキリしない。それにしても北條家の娘たちは殆どが政略結婚で姻戚関係を強化していった。そのなかで香沼姫だけが嫁に行かなかったのは、どんな理由があったのだろうか。


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小田原 高長寺から新光明寺へ

2016-10-27 09:56:47 | 小田原

小田原城山の高長寺は、明治三十九年(1906)横浜監獄小田原分署幼年監(現小田原少年院)が設置された際に、建設予定地内の高源院と、隣接の長吉寺が合併され、それぞれの頭文字を取って高長寺と名付けられた。
 
 
新編相模国風土記稿に高源院は武蔵越生龍穏寺の末寺で栖龍山と号し、開山梅臾林呑(北條氏直の伯父と伝う)、開基である高源院長流泉香大姉は北條氏康妹にて山木御大方と称して、高源院と香沼姫(法名天桂院梅林祐香大姉)の位牌を安置するとある。高長寺の山門は、かつて西栢山村の旧家井上八右衛門家のものだったと伝わる。境内にあるという市の天然記念物の白木蓮の大木は残念ながら十五年に枯れてしまい、跡地に若木が植えてあった。ここに敵討ちで侍分に取り立てられた浅田鉄蔵の墓がある。
  
墓域に仇討由来があった。
文政元戊寅年七月小田原藩浅田只助藩中成瀧萬助ノ為メニ公私怨ヲ以テ殺害セラル依ツテ遺子兄鐡蔵當時二十一才弟門次郎十二歳ハ時ノ老中藩主大久保加賀守忠真公ノ免許ヲ得七ヶ年ノ間薩南ノ地ニマデ仇ヲ尋ネ艱難辛苦ノ末遂ニ水戸領岩船ニ於テ仇萬助ヲ討果シ首尾克ク本懐ヲトゲ帰参ノ上藩主ニ忠勤ヲ勵ム 此ノ仇討ハ日本最後ノ公許トナル鐡蔵ハ元治元年六十五才ヲ以テ歿ス  仇討孝子浅田鐡蔵ノ墓所是也
昭和三十五年一月  墓碑銘維新勤王家中垣謙斎撰文 孫 浅田勇次書
  
浅田光儀建立の鉄蔵墓碑に刻まれた小田原藩家老中垣秀實による撰文は風化して読取れなかったが、僅かに墓碑正面に鉄蔵の戒名、潜龍院大道義孝居士は辛うじて読取れる。(「小田原の金石文」に浅田光勝墓の中垣秀実による撰文が記載されているが、まったく照合することが出来なかった)
鐡蔵弟、浅田門次郎の墓がある新光明寺は高長寺から歩いて10分程度で、ちょうど少年院の反対側になる。
 
新光明寺は鎌倉光明寺の末寺で、号は天照山蓮華院、開山良記は貞誉と号し俗姓北條氏で、ここ新光明寺に浅田門次郎家の墓域がある。
 
三基ある墓の中央が浅田左五兵衛光乗(鐡蔵弟門次郎)と門次郎光通、左側が門次郎光通妻、右側は読み取れなかった。
 
浅田左五兵衛光乗(戒名、猛進院志願光乗居士)が浅田鐡蔵の弟の門次郎なのは安政五年の小田原藩順席帳にて確認できる。順席帳に記載のある門次郎光通は、御家中先祖並親類書によると浅田鐡蔵弟浅田左五兵衛、浅田鐡蔵甥門次郎とあるので左五兵衛の嫡子と思われる。
 

御家中先祖並親類書によると、浅田兄弟父、唯助は御切米五石御扶持二人分の諸組之者であったが、享和元年(1801)組抜(足軽のまま御番帳外の役職を勤める)、御料理人頭支配手伝いを勤めたが、文化六年(1809)十月、かねがね心掛け不宜、不慎之儀に付、隠居を命じられ、慌てて翌年の文化七年二月に井細田村の新蔵倅鐡蔵を養子として跡目を継がしている。

小田原 浅田兄弟敵討


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小田原 浅田兄弟敵討

2016-10-20 10:07:56 | 小田原

16年5月に小田原城常盤木門の二階渡り櫓部分に「常盤木門SAMURAI館」がオープンした。小さなスペースだが、鎧冑や刀剣類など武具に特化した展示をするという。
 
ここに小田原藩、浅田兄弟の仇討ちの遺品が展示されているのを知って訪ねた。この展示館はカメラのフラッシュを使わなければカメラでの撮影も出来るのも嬉しい。
 
 
浅田兄弟の仇討ちと云うのは、文政元年(1818)七月、小田原藩足軽浅田唯助は乱心した傍輩足軽の成瀧万助に切り殺された。入牢を命じられた万助は三年後の文政三年、脱獄に成功して行方不明となった。浅田唯助の養子となった浅田鉄蔵と唯助の実子で浅田五兵衛家に養子に入った浅田門次郎は敵討ちの伺書を提出、藩は直ちに幕府に届け、町奉行所は敵討帳、言上帳に帳付けして浅田兄弟に書替(謄本)を渡し、正式に敵討の許可が下された。万助を捜して各地を廻っていた鉄蔵(二十四歳)門次郎(十六歳)の時の文政七年(1824)、水戸願入寺領磯浜村祝町(今・茨城郡大洗町)にいた万助を討取った。

神奈川県立公文書館資料(ID2201320013)資料名「文政七申年大久保加賀守様足軽、父之敵討候始末 浅田鉄蔵、浅田門次郎敵討一件」に岩船地田町大黒屋庄吉店借九兵衛による万助死骸改書が記載されている。
一 左之耳よりほふを切下長五寸横四寸三分
一 首の左右より矢はらニ切下前之方少々は残り長九寸三分深サ三寸巾七寸
  但ひたい長壱寸程之古疵有之候処刀疵共難見分
一 右之肩先へ背ニかけ長壱寸六分、深サニ寸巾二寸五分
一 左之腕先より二ノ腕迄切下長壱尺二分深三寸巾四寸
一 右之二ノ腕深壱寸巾壱寸
一 左之大指切落背より左之脇へかけ長九寸三分深二寸巾二寸三分
一 左之あはら長八寸四分深八分巾二寸三分
一 左之足ひさ下長四寸壱分深壱寸巾壱寸六分
万助の体には、古疵か見分けがつかない疵を含めると都合九ケ処の刀疵があったことになる。凄まじい敵討だったことがわかる。

帰参した浅田鉄蔵・門次郎兄弟に藩主大久保加賀守忠真が与えた御教書が「常盤木門SAMURAI館」に展示してあった。(彰道院殿御教書御染筆)

其方共孝志厚く、殊兼而申渡置候相守り、此度本望を遂、一段の事候、出極ニ取立候上ハ、猶更一己を慎ミ人にほこるましく候、世上へも相響き候次第ニ付、其身者勿論、我等名迄末長く汚さゝる様心掛、忠孝之道弥可相励候

浅田兄弟は敵討ちの成功により下級藩士の諸組之者から五十石の知行取の代々御番帳入りの中級藩士として抜擢された。
(安政五年小田原藩順席帳より)
   
浅田鉄蔵の墓は高長寺に、浅田門次郎の墓は新光明寺にある。

 小田原 高長寺から新光明寺へ


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小田原 うなぎ 柏又

2016-10-09 10:55:29 | 

小田原駅から歩いて15分程の小田原城三ノ丸のあった本町に古い鰻屋がある。店名は家紋の柏と初代又次郎の名を取って「柏又・かしまた」という。開業して百四十年ほど経つという。古地図をみると店の場所は丁度小田原城外堀の東南端付近になる。小田原城の廃城は明治三年(1870)、それから城内の一部や堀を埋立てして民間に払い下げられた。小田原城絵図(明治図)には城内の一部や堀の中に分筆線と地番が記入されていて、民間に払い下げ、田畑などに転用された経緯がわかるという。古い建物の玄関を入ろうとしたら、横の市松模様のガラス戸のある建物から声がかかり、そこは座敷とテーブル席があり、ガラス戸がレトロな雰囲気をかもしだしていた。
 
 
 

1回目は子供を連れて行った。親の見栄で一番高い松の鰻重を頼んだ。小田原の他の鰻屋と比べてかなり甘みを抑え、古くから続く味を伝えているような感じだった。
一週間程経って、また柏又を訪ねた。今度は家人と行ったので竹の鰻重を頼んだが、竹は切らしているというので梅の鰻重を頼んだ。竹と梅の違いは判らなかったが、多分大きさが違うのだろう。左:松重  右:梅重
 
きじ丼と鳥わさ
 
トマトサラダ
 
ふっくらと焼き上がっており、辛めの味も申し分なかったが、続けてこの店に行ったのは、最初に行った時、菊池寛の色紙もさることながら、目に付いたのがチョット色っぽい絵だった。
 
この絵を撮りたくて再訪した。「男難師 垢石」とあり、女性がうなぎを捕まえようとしている絵で、最初、この絵も垢石が描いたと思っていた。写真を拡大したら絵は佐世男と云う人の作品だった。
垢石(こうせき)は釣り人の間では有名で、本名佐藤亀吉、号は鮎が好む水中の石の表面につく水コケの「垢」から採り、勤めていた報知社の記者から釣りなどのエッセイストとして独立、雑誌「つり人」の初代編集人となっている。昭和16年の熊野川の鮎釣りから始まる「たぬき汁」は有名。どうゆう経緯で柏又の絵が描かれたのか不明ですが、小野佐世男は現代女性風俗を描いた漫画家で報知新聞に在籍していたことから佐世男は垢石の後輩にあたり、酒匂川か早川に鮎釣りの帰りにでも柏又に寄り、頼まれて一筆書いたのだろうか。この絵が載っている平成25年暮れから翌年1月に川崎の岡本太郎美術館で開催された小野佐世男展の図録をお店でみせて貰った。解説に佐藤垢石書、小野佐世男絵「男難捕」とあった。
 

「管仲随馬」という四字熟語がある。中国戦国時代の思想家、韓非子「説林・上」に、中国の春秋時代、斉国の桓公の名宰相といわれていた管仲が戦いから帰るときに道に迷い、老馬を放ち、後についていくと馬が道を見つけ斉に戻ることができたという故事からできた熟語で「管仲馬に随う」とも読むという。
管仲、隰朋從於桓公而伐孤竹、春往冬反、迷惑失道、管仲曰「老馬之智可用也」乃放老馬而隨之、遂得道 。行山中無水、 隰朋曰「蟻冬居山之陽、夏居山之陰、蟻壤一寸而仞有水」乃掘地、遂得水。以管仲之聖、而隰朋之智、至其所不知、不難師於老馬與蟻、今人不知以其愚心而師聖人之智、不亦過乎。
管仲は聡明にして隰朋は博識であったが、それでもわからないことがあれば、老馬やアリを師と仰ぐことをためらわなかった。 いっぽう人々は、愚かなこころをもちながらも、聖人の知恵を師と仰ぐことを知らないでいる。 なんと間違ったことではないか。(漢籍国字解全書先哲遺著韓非子国字解上巻)
柏又にある絵は韓非子の「不難師於老馬與蟻」から「不難師」の言葉をもじって「男難師」と書いたのではないだろうか。何と訓読みするのか解らないが、鰻を捕まえるのは男性を師としても難しいと、ちょっとエロチックな絵に仕上がっている。お店で働いていた女性の若かりし頃を想像すると、この絵の女性に似てきたから不思議である。


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清水 清見寺から鉄舟寺へ

2016-09-28 10:09:13 | 

興津清見寺咸臨丸乗組員殉難碑は、石灰拓本なのか白い痕が残っているのにはガッカリしたが、由緒は古く、蝦夷の防備のためここに清見関を設け、傍に鎮護のため仏堂を建立したのが清見寺の始まりと伝える。
 
 
 
朝鮮通信使が残した揮毫扁額をはじめとする多数の書画等もあり、平成六年(1994)に「朝鮮通信使遺跡」として国の史跡に指定された。静岡県のH・Pによると県下には朝鮮通信使揮毫扁額が十五あって、清見寺に七つの扁額があるという。
興国(翠屏)、東海名區(錦谷)、瓊瑶世界(螺山)、潮音閣(錦谷)、逍遥、潜龍室、桃源の揮毫は見つけられなかった。
 
 
寛政三年(1791)、清見寺を訪れた琉球慶賀使節の宜野湾朝祥(唐名は尚容名乗りは朝陽)も、「永世孝享」の扁額を残している。

鎌倉を追放された梶原景時一族が清見関附近で戦った。清見関の古材を使った大方丈の玄関の天井にはその時の血痕を留めているという。京都にも、関ヶ原の戦いの前哨戦だった伏見城での戦いで武将が戦死・自決した床板を天井として使ったとされるお寺がいくつかのこっている。京都の寺が、徳川の時代になって慌てて、伏見城のいずれも血の跡が残るとされる床板を、戦死した武将の供養として寺院の天井に使用したというのも滑稽だが、関ヶ原の戦いからさらにさかのぼる、四百年も前の正治二年(1200)の遺構が残っているのも凄い。
 
 
 
 
明治元年、幕府の軍艦咸臨丸が清水港で官軍の攻撃をうけた際、戦死した乗組員を清水次郎長が巳川岸に葬った。のちに山岡鉄舟が「壮士墓」と墓碑銘を贈った。
 
  
史記刺客列傳第二十六の荊軻「風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還」から壮士と名付けたのだろうか。それなら、「壮士」は「そうし・おとこ」、何と訓読させるのだろうと、どうでもよい事を考えながら村松の龍華寺に向かう。
 
 
 
寛文十年(1670)、徳川家康の側室お万の方(養珠院・安房里見氏一族上総勝浦城主正木頼忠娘)の猶子と成った日近上人が開山。日近上人は甲州身延大野山本遠寺第四世を勤めた。家康の十男頼宣(紀伊徳川) 十一男頼房(水戸徳川家)の生母で有名な水戸光圀の祖母に当たる。徳川御三家のひとつである紀州大納言頼宣(徳川頼宣)が生母の菩提のために建立した墓所が、身延本遠寺にあるお万の方の墓である。
 
龍華寺から歩いて5・6分の所に在る鉄舟寺に寄る。
 

 
もとは久能山山頂にあった久能寺を、永禄十二年(1569)、武田信玄が薩埵峠で北条軍を破り駿府に乱入し、その翌年、永禄十三年(1570)には駿河東部に進出し、久能山山頂に城砦を築いた。門前にあった、送電線建設技術研究会による補陀洛山鉄舟禅寺由来によると「武田信玄が今川氏を攻略し駿河に入るに及んで久能の嶮要に築城する事となり天正三年、現在の場所に移された」とある。天正三年(1575)は、武田勝頼が三河長篠で信長家康連合軍に敗れた年で、信玄が亡くなったのが元亀四年(1573)を考えると、久能寺砦の構築は永禄の終りから元亀年間の間だったのではないだろうか。明治になり一時、無住となり興廃したが、明治十六年、山岡鉄舟と有志により再興を発願し寄附を募集し、明治四十三年、寺が完成して寺号も鉄舟寺と改めている。

咸臨丸乗組員殉難碑


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咸臨丸乗組員殉難碑

2016-09-19 09:39:19 | その他

司馬遼太郎の小説「項羽と劉邦」を読んだ。その中に劉邦の武将韓信の謀臣となった弁士蒯生が韓信に漢王劉邦に謀反せよと勧めたとき、韓信が「食人之食者死人之事」と答えたという。
史記准陰侯列伝には「韓信曰、漢王遇我甚厚、載我以其車、衣我以其衣、食我以其食、吾聞之、乘人之車者、載人之患、衣人之衣者、懷人之憂、食人之食者、死人之事、吾豈可以郷利倍義乎」とある。史記に人を煮殺して食する話が出てくる。一瞬、人を食した話かと思った。
「食人之食者死人之事」、訓読みで何とよむのが正しいのだろう。小説では「人ノ食ヲ食セシ者ハ人ノ事ニ死ス」、国訳漢文大成に「人の食(しょく)を食(しょく)する者は、人の事に死す」、史記国字解では「人の食を食む者、人の事に死すと」とあった。
この文句を刻んだ碑が静岡興津の清見寺にあるというので清見寺を訪ねた。
 
清見寺は興津駅からバス3・4分で旧東海道沿いにある山門が見えてくる。山門と総門の間にJR東海道線が走っている。線路を跨ぐ陸橋から総門の間に白い碑が見えた。白く見えた碑が、篆額従四位大鳥圭介、揮毫従二位榎本武揚による咸臨丸乗組員殉難の碑だった。
 
現在は揮毫が表面で陰面に篆額があり、なにか奇妙な感じがする。白く見えたのは石灰拓本の痕なのか痛々しい傷跡のように残っている。福沢諭吉の「痩我慢の説」に「碑の背面に食人之食者死人之事の九字を大書して榎本武揚と記し、公衆の観に任して憚るところなきを云々」とあり、明治二十年代、この碑の向きが今とは表裏が逆なのがわかる。
 
それにしても、榎本武揚が清水港での咸臨艦殉難諸氏紀念碑の揮毫に「食人之食者死人之事」の九字を撰んだのか理解できない。碑の題額である「骨枯松秀」の篆額は大鳥圭介だという。
 
松秀は壮士の墓建設の際の山岡鉄舟の詩「砂濶孤松秀 空留壮士名 水禽何所恨 飛向夕陽鳴」から採ったという。
骨枯は曹松の己亥歳「澤國江山入戰図 生民何計樂樵蘇 生民何計樂樵蘇 一將功成萬骨枯」から。骨枯させた一将とは誰を指しているのだろうか。念のため、孤松秀と水禽何所恨という字句を探したら、陶淵明の名を騙ったとされる四時の詩に「秀孤松」、また陸遊の詩に「水鳥何所恨」という字句があった。なにか寄せ集めて詩を作った感がする。清見寺から壮士墓に向かう。

骨枯松秀  碑文
王政維新之歳秋八月德川旗下諸士隊卒私有所誓駕開陽回天
咸臨蟠龍千代田長鯨美加保神速諸艦同發品川灣北赴仙臺到
房總海猝遇颶風各艦離散相失咸臨艦截其大檣纔免覆没更案
鍼路再圖北駛而暴風又起漂蕩南洋艦體毀損不能遠航遂入駿
河淸水港卸桁觧綱欲畧加修理而北  官諜而知之遣冨士山武
藏飛龍三艦來撃發砲甚急飛龍艦兵執劔銃超入艦中艦之副長
春山辨藏士官長谷川得藏准士官長谷川淸四郎春山鑛平加藤
常次郎今井幾之助及水兵若干格闘死之實九月十有八日也 
官艦曳咸臨以去而死屍浮海累日無人敢斂之者土人山本長五
郎侠士也夜索港中得七屍竊載至向嶋埋古松樹下建石表之題
曰壮士墓今茲舊友相謀建碑於淸見寺内具記其顛末以傳不朽
系之以銘其辭曰                   
是義人 是頑民 奬曰守節 貶曰吠尭         
要之壮士 可以興世風之日澆(注)             
明治十九年三月  元老院議官従四位大鳥圭介篆額   
              墨水逸士七十一翁永井介堂撰并書

(注)  澆: 氵に尭の異体字で表記


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一柳直末と会津一柳氏

2016-09-11 10:01:57 | 掃苔

山中城址に建立された宗閑寺の境内に、秀吉の北條方山中城攻めで豊臣方の先鋒を務め戦死した一柳直末の墓がある。
 
 
戒名は大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門、院号が大通院で、弟監物直盛が家を継いた。直盛の嫡男直重は伊予西條藩、二男直家は播磨小野藩、三男直頼は伊予小松藩主となる。元禄十一年(1698)に、播磨国小野藩主一柳末礼が一柳庵の墓を山中新田にある宗閑寺境内に移葬し、寛政四年(1792)、小野藩第五代藩主一柳末栄とその子六代藩主末英により直末墓前にその事蹟を刻んだ大通君碑を建立し、昭和に入り、直末の弟監物直盛の曾孫直増の二男増海に連なる一柳貞吉が、直末の旧跡の調査を行い、宗閑寺境内入口の碑も建立に至ったものだという。

大通君碑に「公聞君戦死方喰失箸為之弗怡者數日」とある。秀吉は食事中に直末の戦死を聞き、箸を落とし数日の間は不機嫌だったという。一柳家系図によれば一柳初代宣高の子、又右衛門直高の室は稲葉一鉄の姉の娘、直末の室は黒田孝高の妹で、直末戦死後、一子を連れ、実家に戻り後伊藤是庵と再婚している。孝高は子が生まれなかった長政の後を直末の子松壽に継がせようとしたが、長政に子(忠之)が生まれた翌年の慶長八年(1603)、松壽は事故死している。忠之(二代)の正室梅渓院は側室養照院が光之(三代)が誕生した二か月後に亡くなっている。一柳家の宗家、直照家の江戸菩提寺は芝の金地院に墓域がある。五輪塔は西條城主一柳直重墓
 
 
 
右、直重子直照孫、直長弟増海の墓
 
右、直長曾孫、直住の墓
 
会津一柳家は直末娘が稲葉源左衛門末晴に嫁ぎ、末晴が一柳右京と改名、その子直晴は直末弟監物直盛の養子となったが、後直盛嫡男直重が生まれ、直晴出生し京都に隠遁した。直晴弟右京盛晴の子直好が会津藩に仕えた。右京盛晴娘は監物直盛嫡男直重の側室となり、直照の生母です。天保初め前後の述作と思われる会津藩士の伝記「啞者之独見」に、一柳直好、平左衛門幼名長吉、一柳又左衛門直次嫡子で一柳監物の外甥で十三歳のとき、監物に御側に仕え、監物病死のあと、江戸に下り母方の叔父土岐長庵方に居候のとき、会津藩家老田中三郎兵衛に出合い、正之公に仕えることになった。正保三年(1646)の事だという。この直好は寛文十二年(1672)、家老職に就いている。

要略会津藩諸士系譜に一柳直好、一柳又左衛門直次嫡子とあり、一柳直信、一柳右京亮直次二男とある。一柳宗家系譜一柳末晴系として稲葉源左衛門末晴(後一柳右京と改名)の次男の盛晴の子は源左衛門尉直好、盛晴の次男直信とある。一柳又左衛門直次と一柳右京盛晴は同一人物と考えてよさそうである。渋谷長谷寺が会津一柳直富次男直行家の菩提寺。
 
 
駒込龍光寺が会津一柳直信家の菩提寺になっている。
 


参考
大通君碑
是曩祖大通院豆州府君所戦死處天正中北條氏政據険逆命不朝于帝所豊臣公敷
責之不聴且有悪言公怒出征先遣諸将攻山中城臨期更令君奮曰今日弟殊死耳迺
辞元帥秀次而出結冑纓絶其餘直前接戦所郷披靡軍勢大張會中銃子卒於于師従
士竹島仁兵衛住井助市郎等八人皆争死其所君弟監物代君率軍趣攻戦疾山中城
遂陥時庚寅三月二十九日也公聞君戦死方喰失箸為之弗怡者數日云鳴呼不穀不
徳似續妣祖辱在邦君之後者實君之條烈是頼因碑而傳之使吾臣子知君之血食有
所繇
                                    従五位下對馬守越智宿禰末栄
                                            男       従五位下行土佐守       末英
寛政壬子冬十二月                   島原         盤瀬行言撰並書


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