大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

河津 称念寺

2017-02-20 12:52:35 | その他

早咲きの河津桜の原木に寄ってから称念寺境内の桜を見に行った。前回(27年2月19日)は3分咲きだったが今回(16日)は満開だった。
左列(27.2.29)                右列(29.2.26)
 
 
河津川に沿って称念寺に向かう。
 
 
静岡教区浄土宗青年会のH・Pに宝林山称念寺の開山上人は僧澄道 心蓮社誠譽上人、開基年は宝治元年(1247)とある。

境内にあった河津町の説明板には「称念寺は、安元三年(1175)河津三郎祐泰が谷津館の内に称念庵を創立、守本尊の阿弥陀如来を安置したのがはじまりといわれている。永禄四年(1562)山崩れにあい、現在地に移った。本尊阿弥陀如来には「春日正作縁起」という縁起が伝えられている。」とあり、河津三郎守本尊の阿弥陀如来像は一本の白羽の矢を蔵していて、現在は秘仏として祀られているという。
本堂の脇に多くの尖頂舟型墓標があった。尖頂舟型墓標は江戸初期の造立で関東地域に多く、西は三島あたりまでと言われている。山中城址の宗閑寺裏の墓地にも多くみられた。ここにある宝篋印塔は相模に多くみられる基礎石の輪郭二区が一区しかなく、この辺りが東と西の異なる墓標様式の接点だったのだろうか。
 
(基礎石の輪郭一区)
               
称念寺の山門近くに、馬頭観音があり、その裏手に明治二十年代に下河津邑の有志により建立された皇軍死者忠魂碑が残っていた。台湾出兵か日清戦争の忠魂碑なのか判読できなかった。
 
河津三郎祐泰は伊豆の豪族、伊藤氏流れをくむ伊東家次(工藤祐隆)の孫、河津祐親(河津祐親)の子で、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我十郎(祐成)・五郎(時致)の父にあたる。河津川の対岸に河津三郎祐泰を奉る河津八幡神社がある。境内には力石を持ち上げている河津三郎や富士の巻狩りでの曽我兄弟の像がある。相撲の珍しい決まり手「河津掛け」を考案したのが河津三郎と云われている。
 
なぜ兄が十郎で弟が五郎なのかと思ったら、同じような疑問を持った人がいた。長野市立長野図書館のレファレンス事例に記載があった。
春湊浪話
「曾我十郎、同五郎 鎌倉時代、人の嫡子より次を太郎二郎三郎と次第に名付る。なべての事なり。曾我十郎祐成、同五郎時宗と名乗し事、人ごとに不審する事なり。今按るに、十郎が元服せし時は、祖父伊藤祐親は三浦介に預けられて存生なるべければ、祐成を祐親が子とし、其末子伊藤九郎祐清が弟に准じて、十郎とは呼ける成べし。五郎は文治六年九月七日に北条時政の亭にて元服して、五郎時致と名乗よし、東鑑に見へたれば、其時に時政の子として時致と名乗らせ、江島小四郎義時の弟に准じて、五郎とは称せしにぞ。東鑑に時致とも、時宗とも書たり。実は時宗なるを、後に北条時宗出来より、是を諱て所々時致と書改しものなる歟。」『広文庫 第11冊』p516『日本随筆大成 第3期 10』p437
なるほどと云う感じ!


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小田原塚原 長泉院

2017-02-11 10:05:24 | 小田原

大森氏の墓があるのではと訪ねた久野の総世寺には大森頼久の供養塔が残っていたが、大森氏の墓標らしきものは見当たらなかった。岩原城址から西に直線で1.7Kの所に大森氏と関係の深い曹洞宗の長泉院がある。
 
長泉院の創建は文明二年(1470)、号は玉峯山、開山は大寧宗忍、開基は大森八郎實頼(法名清泉院可安道印で従昔大森寄栖庵・僧實山を請て岩原村薬師堂の地に一寺を起立し、清泉院と号す、文明二年大森實頼当所廃寺蹟(号東明山)を闢き此に移して再建し今の山院号に改むと云、と風土記稿にあり、さらに明応九年(1500)藤頼公の時、小田原城主北條氏茂により落城し、この節岩原・川村・内山一時に落城し、家臣ことごとく戦死したという。この長泉院は最寄りの大雄山線塚原駅から2K以上離れており、バスも近くを通っていないため、訪れる人も少なく、入口から山門まで杉並木が600mも続き、古刹静寂の趣を強く残している。
 
 
参道杉並木の途中にこの寺の十二旧跡の一つ、大森彦七が火焔を吹く大龍を、太刀を抜き退治し、この龍がでた所を龍門橋と名付けた橋があった。長泉院由来記に出てくる話だが、由来記に大久保忠隣の名が出てくるので、江戸初期に創られたと思われる。この中に「当寺は大森の菩提寺にて、則岩原村に清泉院とて実山和尚の開基の寺有、本尊薬師聖徳太子の御作にして岩原村に有しが、則当寺へ引越、弐寺を一ヶ寺とす、尤鎮守八幡宮并薬師堂大森の墓所は于今岩原村に有之、則当寺の支配なり、寄栖庵の位牌則当寺に有之」、とある。
 
 
風土記稿にある里正が蔵する古城略図にある岩原城址の北西にある五輪塔が墓所だったのだろうか。それでも、未練がましく、寺の墓域を探したが大森氏の墓碑を探したが見つからなかった。墓域には加藤一族の墓碑が多くあり、その一つに清左衛門地獄を開くと書かれた墓碑があった。清左衛門地獄は箱根外輪山東山麓には湧水群や自噴井戸群の湧水の一つで、清左衛門が水源を探し当てたといわれ、数々の伝承が残されている。この清左衛門地獄池は平成の名水百選に選定されている。清左衛門は小田原城主大森氏に仕えた岩原城代家老加藤兵庫の子孫、加藤市郎兵衛頼隆の子清左衛門季安で元禄十六年八月十七日に亡くなったが、墓碑を見ると長男勘右衛門頼季が同年同月の一日遅れで亡くなっている。何があったのだろう。
 
今から70年以上も前の昭和9年に発行された小田原の写真集に大森氏墓の写真が記載されていた。写真の墓は宝篋印塔と五輪塔が混ざって積まれている石塔で、説明に足柄上軍岡本村岩原の城址西南の丘上に五輪塔四基余ありとある。これは風土記稿では岩原古城蹟図に在る古墳三基五輪塔は大森信濃守頼春、信濃守氏頼等の墓だと云う。確認するため、もう一度、岩原城址に行った。今回も最後の一字が判読できず、墓なのか供養碑なのか区別できない「大森寄栖庵之□」石碑のまえに写真と同じ順番で石塔が並んでいた。基礎石が輪郭2区に分かれているので関東様式といわれる宝篋印塔が数基混ざっていた。
 


岩原城蹟図にある古墳の五輪塔はどこにいったのだろうか。


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小田原久野 総世寺

2017-02-04 13:21:20 | 小田原

小田原久野の総世寺に向かう足柄街道の途中、久野保育園の入口近くに北條幻庵屋敷跡がある。
 
 
村に伝わる寛文十三年の記に、幻庵屋舗、百二十三間に九十五間ほど(約1万2千坪)とある。「幻庵は、伊勢早雲庵宗瑞(北條早雲)の末子として明応2年(1493)駿河の葛山の館(裾野市)に生まれた。幼年時代に箱根権現の別当職を約束され、京都に出て三井寺で修学したり、学者や文化人について諸芸を学び、格調高い歌を詠む文化人であった。天文10年に兄氏綱が逝去した後は、3代氏康、4代氏政の後見人として、この久野の館に住み、一族の長老的存在となり、その名は遠国まできこえていた。幻庵は、北條氏が滅びる8ヶ月前、北條氏の盛衰とともに久野の館で97歳で亡くなったとされている」と傍の説明板にあった。
  
足柄街道を走っている伊豆箱根バス停「観音堂前」の脇に龍泉寺欠ノ上観音堂がある。
  
説明板に「総林山龍泉寺という山号は、総は総世寺の総、龍は天龍山の龍、泉は東泉院の泉からとってできたという説がある。弘治元年(1555)春同じ久野にある総世寺の第八世大岳宗純禅師が建立したという。
 
欠ノ上の観音堂は、禅誓上人が当地方教化の足場であった。御本尊の観音菩薩は、禅誓さん自作で、しかも長い旅を背中の笈に背負って歩かれた貴重な御仏である。観音さまの背中にある鉄製の環がそれを物語っている。此所の観音堂には、どういうわけか隠れキリシタン信仰を思わせる痕跡も残っている。嘗て御前立の仏の御手にクルスのついた数珠がかけられていたり、中興住職の墓碑の号法が(骨相紋随庵主寛政十一年八月)コスモスと訓む由。などである。本尊は十二年毎に御開帳する」とあった。コスモスの花は明治になって入ってきた花で、和名では秋桜、隠れキリシタン信仰とコスモスの関係はよく分らないが、訓読みで骨相紋随をコスモスとは良く考えたと思う。境内には寒念佛供養の石塔が多く残されており、足柄地方で寒念佛が盛んだったことが分かる。
 
総世寺は久野諏訪原にあり、風土記稿によれば開創は文安二年(1445)、号は阿育王山、開山は安叟宗楞(あんそうそうりょう)、開基は安叟の甥、小田原城主大森信濃守氏頼入道寄栖庵、明応年間三浦義同(道寸・母は寄栖庵娘)三浦を遁出て当寺に潜み智海宗哲の弟子となり圓頂黒衣の姿となる。北條五代記道寸討死の條に「道寸今生の名残只今なり、酒を飲んと、盃をひかへ給ひければ、佐保田河内守、「君が代は千代にや千代」と謡ふ、荒次郎(道寸の子)扇を取て、「君が代は千代に八千代もよしやただ、現のうちの夢の戯」舞給へば、彦四郎も同じく立て舞ふ。實あはれなる一曲なり」。此の最後の宴に使用したという盃一口は寺宝として総世寺に残ると風土記稿にあった。残っていたら見てみたいものだ。 
 
 
 
 
本堂左奥の御開山安叟宗楞禅師・開基大森信濃守氏頼公供養塔入口の石柱があり、歴代住職の無縫塔の横に、「明應三甲寅年 寄栖庵殿當山開基日曻明曻庵主 八月廿六日 俗名大森信濃守藤原氏頼入道頼直」とある。頼直が建立したとすれば寄栖庵が亡くなってから百年以上も後に建てられた供養塔という事になる。頼直は氏頼から数えて七代目にあたり、五千石を知行した旗本で台徳院、有徳院に仕えた。
 
本堂と墓域の間に道路が貫通しており、五輪塔や供養塔が掘り出されたのか、一列にズラリと並んでいた。大森寄栖庵の墓は何所に在るのだろうか。
 


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八幡神社から岩原城址へ

2017-01-25 12:55:56 | 小田原

小田原大雄山線相模沼田駅隣が岩原駅。駅の西側、徒歩5,6分で村の鎮守八幡宮に着く。
 
 
この神社、明暦三年(1657)の棟札に源頼朝建立とあり、のち大森安芸守が再建し、北條早雲が修理を加えたと風土記稿にある。村の鎮守にしては長い参道が残っている。
 
参道の途中右手に薬師堂がある。
 
この薬師堂は古図では城蹟の南西の方に描かれており、側に古墳が描かれていて、これは大森信濃守頼春と信濃守氏頼の墓だという。八幡宮裏手に黄金塚古墳群があったが、主墳は社殿によって墳丘を半分削り取られ、殆どが農道建設で消滅した。神社北西の道路沿いの民家の塀のそばに「黄金塚之碑 昭和二十八年五月発掘」の記念碑が建っていた。
 
途中の庭先にあった五輪塔

薬師堂から岩原城址痕までは徒歩、6.7分で着く。南足柄消防署岡本分署先の左手に見逃しそうな小さな案内板があり、他人の敷地を横切る様な小道の奥に石碑がみえる。
 
 
市指定文化財岩原城址の標柱を囲むように墓や無縫塔、供養のためか五輪塔もあった。「大森寄栖庵之□」、最後の一字が判読できず、墓なのか供養碑なのか区別できないひときわ大きな石碑があった。
 
 
岩原城跡の南足柄市説明板には「室町時代、箱根外輪山明神岳から東方に延び、足柄平野を望む標高60mの丘陵の南斜面に大森氏によって築城されました。東西250m、南北150mの範囲に、本城郭・ニノ郭・三ノ郭・西郭などの複数の郭(平場)を区画するように空堀が掘られ、上流約2kmの矢佐芝川からの取水堰(沢水)を城内に引き込んだ平山城であったと想定されます」とあった。
 
風土記稿に「里正が蔵する古城略図に「往昔、大森氏の持城なり、信濃守藤頼の時、明応年中北條氏茂が為に落城す、と云」とある。風土記稿に記載の城蹟図

姓氏家系大辞典に大森氏は「藤原北家中関白流(又平姓)、駿河国駿河郡大森より起り、後相模に栄え、戦国時代小田原城主として有名なり」とある。寛政重修諸家譜に「大森與一親家、頼朝将軍につかえ、駿河国駿河郡鮎澤の庄大森に住す。これより子孫相続で大森を称す、頼顕のとき、関東御所家中より撰ばれて鎌倉侍所となり、小田原城に住し、西の方の警護となる」。あと代々小田原城に住み、曾孫の証實は伊豆箱根山の別当となっている。小田原大森氏の一族から箱根三所権現の別当職を勤めたものが多く出ている。大森小田原城主四代の大森氏頼(号・寄栖庵)の嫡男實頼の死に依りその子の㤗頼は幼く、領地を譲られた實頼の弟藤頼は小田原城に住んだが、明応四年(1495)北條早雲のために城を落され、一族と共に同国真田城(平塚真田)に退き、早雲にしばしば挑み戦うも、志をとげられずに亡くなる。大森氏は泰頼、泰次、泰定、頼照と続き、頼照のとき、外戚の佐久間勝之(父・佐久間盛次、母・柴田勝家姉)に養われ、関ヶ原の戦いでは勝之に従い東軍で戦う。子孫は五千石の旗本となっている。寛政譜に「大森氏頼、久野の総世寺に葬る」とあった。さっそく久野の総世寺を訪ねた。


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相模沼田 西念寺

2017-01-18 08:55:43 | 小田原

伊豆箱根鉄道大雄山線相模沼田駅から西に徒歩7・8分程のところに西念寺という浄土宗のお寺がある。
 
 
 
ここに南足柄市の文化財(史跡)に指定されている天野康景の墓がある。新編相模国風土記稿によれば「壽傳山無量院と号す、浄土宗、京知恩院末、永和元年(1375)の起立なり、当時は足柄下郡飯田岡村にありしが、文安三年(1446)水溢に罹り堂宇流失す、よりて同年六月当所に移転すと云」、また、天野三郎兵衛康景墓として、「貞享四年(1687)子孫三郎兵衛康命が改建する所なり」とあり、天野康景の墓は西念寺本堂横にあった。墓を改建した旗本天野康命は西念寺にある前興国寺主天野君碑によれば、駿州興国寺城主で慶長十二年(1607)、天野三郎兵衛尉康景の足軽が公民を殺害した事に坐して家康の勘気を受け、興国寺城を去り小田原西念寺に蟄居した天野康景の長子康遠(対馬守)の子とあるが、寛政重修諸家譜によると、天野康景、康宗(対馬守)、康隆、康命と続き、康景の曾孫となっている。

 
墓碑
興圀寺殿報誉宗恩大居士 慶長十八癸丑二月二十四日 駿州興国寺城主俗名天野三郎兵衛尉康景 (碑陰) 興国寺殿之末孫裔旗本天野三郎兵衛尉康命貞享四丁卯歳仲春下澣日是改命再興畢敬白

本堂の前に寒さの厳しい小寒から節分までの三十日間、鉦を叩きながら民家の軒先や社寺を巡って念仏や和讃を唱え歩いた寒念仏修行の供養塔や中山孝麿篆額「廉潔映永」とある前興国寺主天野君碑がある。
 
 
八乙女と云う名前に引かれて西念寺の横にある神社に寄る。
 
この八乙女神社はもと西念寺にあり、戦国の頃、二抱えもある杉の木が矢を受け止めたことから矢留権現と云われていたという。「やおとめ」と「やとめ」ではえらい違いで、何がと云う訳ではないが、少しガッカリする。この神社の場所は沼田城の出郭だったと云われている。観光案内にこの神社から城に向かう道は急坂だとあったので、城址探訪は次回にして大森一族の墓があるという岩原城址に向かう。

参考(天野三郎兵衛康景碑文)

前興国寺主天野君碑          東宮侍講正五位三島毅撰 
行一不義殺一不孝而有天下不為也昔聞其語今見其人天野君是也君諱元景稱三郎兵
衛尉其先藤原遠景居伊豆天野邑因氏篤遠景十七世孫景恒始士徳川氏移参河是為君
父君少従東照公質于駿或欺之于路送尾君甫十一歳敏慧知陥姦計竊遣奴報参既而今
川氏伐尾取公君常侍従共甞酸苦後随公還岡崎屢従軍有功一向僧徒之乱殪賊勇士馬
場小平太公賜偏諱賞之更曰康景永禄八年公置奉行三人掌政形君及高力與左衛門清
長本多作左衛門重次任之国内大治清長寛慈重次剛猛君沈重善謀民為之話曰菩薩高
力夜叉作左彼此無偏天野三郎蓋謂其無寛無猛唯義之比也姉川之役刺客混麾下覗公
君知而斬之三形原之敗公欲入浜松城敵騎據邱彎弓要之君直進刺之公得間乃入其後
長篠小牧小田原諸役皆有功併舊禄食下総香取地五千石慶長五年更賜駿河興國寺城
食三萬石地十一年君将修城多畜竹田原民乗夜盗之監卒捕殺之田原為公邑邑宰井出
正次欲獲卒戮之君拒之曰殺盗於律無罪且渠奉吾命若有罪吾當之正次乃因執政太田
正純誣訴之曰康景壇殺公邑民公曰彼自少事我謹慎且通吏事非為此非度者命正純覆
審之正純□命迫之曰私卒殺公邑民假命有説奈公威何君憤然不屈曰吾敢蔑公威然□
不辜而全利禄勇士所不為乃拉卒而出亡實十二年二月九日也所在流離遂潜匿□之狩
野荘十八年二月廿四日病卒葬沼田村西念寺年七十七公後懐舊勲欲復之聞其死而上
嗚呼響使君含恥忍辱殺不辜而食不義之禄固應與勲舊諸侯倶享富貴雖然自今日観之
徳川氏且不能保封土況諸侯乎二百年栄華不過黄梁一夢比之君正義凛然百世之下頑
夫廉儒夫立志維持風教於無彊孰得孰夫不持弁而明矣君多子長曰康遠稱対馬守寛永
五年幕府召賜俸米千苞奉祀次曰康武曰康世曰康由餘皆為僧貞享四年康遠子康命建
墓表其後毎五十年子孫来修法會今則廃云頃寺主蟻閣上人恐其堙没與檀衆安藤裕等
謀募同志建碑徴余銘余曽往弔有詩掲以代銘曰
覇府直臣誰若君貔貅隊裏見麒麟寧抛有土封三萬不殺無辜卒一人古寺園荒多竹樹
 遺墳石蝕荊没荊棒高風千載難諼得何啻驩虞二百春
明治二十九年八月  正四位勲四等侯爵中山孝麻呂篆額   石川英書


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小田原七福神

2017-01-08 09:12:45 | 小田原

小田原にも七福神めぐりがある。何時ごろから小田原の七福神めぐりが始まったかは知らないが、小田急トラベルで募集している「小田原七福神めぐり 宝船号バスツアー」が今年で17回だという。まだ訪れたことが無いお寺さんが2つほどあった。暮れに旅行会社に行ったら、丁度キャンセルがあり、このバスツアーを申込んだ。毎年3日から6日の4日間、午前・午後の2便、各便22名、計8便で募集人員も少ないせいか、すぐ満員になるという。三寺が曹洞宗、二寺が浄土宗、日蓮宗、東寺真言宗が各一寺を小田原駅からスタートして毘沙門天(久野坂下潮音寺)、満願弁財天(谷津福泉寺)、寿老人(入谷津鳳巣院)、大黒天(小峯蓮船寺)、恵比寿神(荒久報身寺)、福禄寿(水主長屋大蓮寺)、水掛布袋(茶畑圓福寺)、最後に報徳二宮神社をまわる約3時間のバスツアーに参加した。
 
小田急足柄駅から徒歩でも五分程の小田原城の真北にあたる久野の大徳山潮音寺の毘沙門天功徳経に真言を念ずれば十種の福徳が得られるという毘沙門天にお参りする。残念な事に毘沙門天功徳経を知らないので、無難に厄除けを祈願する。
 
 
 
城山谷津の華岳山福泉寺の満願弁財天は知恵を授かる、富と開運の神だという。今更、知恵や開運かと思ったが、思わず風水でいう金運が上る黄色の札入れを買ってしまった。
 
 
 
城山入谷津の實平山鳳巣院は小田原城百姓曲輪の北側斜面にあり山門から本堂までバスがひっくり返りそうになる程急な坂で歩きでなくてよかったと思う。寺伝では開基は土肥次郎實平だと云う。ここの寿老人は手に桃と長寿の秘訣が書かれた巻物を持って、長寿と福徳を授けると云う。ご住職に不老長寿の果物の桃の替りにミカンを貰った。
 
 
城山小峯の惺雄山蓮船寺には福富円満の神、大黒天を祀る。開創は北条美濃守氏規家臣井出内匠正。昭和35年、新幹線開通工事により小田原市内板橋見附から現在地に移転。
 
 
境内地に隣接した東側に小田原北条時代の代表的な城郭の遺跡、小峰御鐘ノ台大堀切と言われる空堀が残っている。ここは小田原城北側古郭群の御前曲輪南側、鍛冶曲輪西側、「毒榎平(どくえだいら)」の西方防禦部分にあたる。
 
 
平成輔墓所の事で話を聞きに行った荒久の永劫山報身寺には本来、海の神様恵比須神を安置している。本堂内陣の裏側に立派な位牌所があり、平成輔位牌の事を聞きたかったが、ご住職が不在で残念だった。この辺りになると、用意したお賽銭も少なくなってくる。お寺と七福神用と一つのお寺で二回お賽銭が必要になるとは思わなかった。100円と50円のお賽銭箱に入れた音が違うのも気になる。
 
 
箱根口の稲荷山大蓮寺には幸福・安定・長寿の神様を授けてくれる福禄寿が祀られている。このお寺は北條家重臣、大道寺駿河守政繁母(寳地院法名孤峯蓮馨比丘尼)の中興開基、上州安中大信寺に墓碑あり、其大信蓮馨の文字を摘て大蓮と名けて今の寺號を授く授けたと云う。
 
 
正席22席の小型バスツアー、乗ったり、降りたり、たいして歩きもしないのに結構疲れる。茶畑の医王山薬師院圓福寺の軍扇で魔を払うと言われる水掛布袋尊にお参り。
 
 
最後は城内の報徳二宮神社へ着いて大勢の人がいたのに驚く。鳥居の下から遥拝で済ませる。これだけ廻れば、七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると思いきや、翌日、歯医者に行ったら、歯を抜かれた。欲張って、色々な事を頼み過ぎたかな!
  
  
  


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新田義貞公首塚

2016-12-15 10:18:14 | 小田原

網一色八幡神社から国道一号線を横切って総合ビジネス高校正門先の千貫橋を渡ると新田義貞首塚の案内板がある。

 
 
千貫橋は用水堀に架けた橋で、もと木橋であったものを延宝七年(1679)、長二間(3.6m)、横二間半(4.5m)の欄干のある石橋にした。その費用が千貫目に及んだので橋の名になったという。橋の欄干に丸い穴が沢山あった。何に使ったのだろう?
  
網一色八幡神社の御大典記念碑文では「新田義貞ノ臣船田入道某義貞ノ御首ヲ持チ来リテ埋メケリト」、また義貞に属した宇都宮泰藤が義貞の御首を「上州新田公ノ本国ヘト志ス途次、相州小田原駅ニテ異例常ナラス其御首ヲ甕ニ納メ酒匂川ノ邊ニ埋メケル即チ新田大明神ト崇メケル」と二説を載せているが、明治維新の際、新田神社の由緒は証拠不明として廃社させられたという。徳川氏が新田一族の末裔であると公称し、また持明院統と対立していた大覚寺統の後宇多天皇第二皇子の後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕後、離反した足利尊氏に敗れ、吉野に南朝を建てた。南朝の忠臣だった新田義貞を祀った神社を認める訳にはいかなかったのだろう。
 
 
明治九年、足柄県から神奈川県に管轄替えされた時の小田原市域に属する大区小区の行政区画図をみると新田義貞公墓塚として東海道の海岸側に記載されているので、東海道分間延絵図に記載のある新田大明神と行政区画図にある新田義貞公首塚とは別々の場所に在ったのだろうか。

新田義貞公首塚碑 (碑陰文)
新田義貞公は八幡太郎義家の十世の裔で南朝柱石の名将であった延元三年閏七月二日越前藤島の合戦に討死のとき臣将宇都宮泰藤その首級を抱いて公の生国上州新田を志ざしてこの地網一色に至ったが不孝病に侵されて再起おぼつかなく首級を酒匂川の河口の辺に埋葬し自らもここに没し終ったと云う この新田義貞公首塚は実にその由緒深き旧跡である
里人塚の側に新田神明社を祀り篤く崇敬しまた泰藤の直裔大久保氏が小田原城主に封せられてよりは代々の藩主の保護をうけて永く名跡として聞えたが星霜春秋流れて久しく近年暫く荒廃に赴いたので今日地区民並に有志相計って首塚を復興した依って記念のために碑を建て由来を刻して後昆に残
  昭和三十六年三月 新田義貞公首塚復興委員会  撰文並書 中野敬次郎


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網一色 八幡神社

2016-12-05 10:09:00 | 小田原

東海道分間延絵図を見ると酒匂川右岸(小田原側)の川越場所は旧東海道、酒匂川の手前300m程からクランク状に折れて、今の国道一号線(東海道)から60m程上流に在ったことがわかる。

絵図では、このクランクの付根のところに御霊八幡宮があり、常劒寺の間に新田大明神が記載されている。
神奈川県神社庁によれば網一色八幡神社の祭神は応神天皇となっている。鎌倉権五郎景政を祀る御霊八幡宮から応神天皇を祭神とする神社にいつ替わってしまったのだろうか。ビジネス高校前バス停から徒歩3・4分の東町5丁目にある八幡神社を訪ねた。
 
神社の扁額には御霊八幡宮の名が!
 
  
小田原市指定保存樹林第2号指定されている境内に大正四年御即位紀念と昭和三年御大典記念の碑があった。
 
御大典記念碑は小田原藩士関重麿の長男関重忠題字、酒匂小学校長だった森丑太郎書によるもので、網一色青年会により建立された。この碑は昭和三年の昭和天皇御大典を記念して建てられたが、碑文をみると、網一色の由来とこの八幡神社の由緒が書かれていた。副社の新田社は新編相模風土記稿に「本地仏地蔵、 社伝に延元二年(1337)新田左中将義貞、越前にて討死の後、其臣船田入道、義貞の首級を捧持し、東国に下向して爰に葬る、入道は名を久保明翁と改め、則此地に隠栖すとなり、故に今も立願する者は、久保明翁の子孫なる由告れば願望成就すと云」とあるが、太平記では「船田入道は義貞討死より前、建武二年(1335)正月京都の戦に討死せし人なり、 然れば社伝信じがたし」として、「宇都宮左近将監泰藤、其首を奉じ、義貞の本国上州へと志し関東に下りしに、小田原駅に著し時、泰藤偶疾に臥す、 依て其首級を瓶に収め、酒匂川の辺に埋む、 後に新田明神と崇むとあり」と三州妙国寺伝を掲載している。
 
 

御大典記念 碑文    
題字   海軍少将従四位勲三等功四級関重忠書
此ノ地ハ往昔足柄郷ニ属シ早川荘ノ一部宮城村ト稱ヘシカ後足利家ノ臣一色某冤罪ニヨリテ本村ニ来リ荒地ヲ開キテ一色村ト改メタリト云フ小田原盛衰記ニ北條氏康西国ヨリ漁師ヲ招キテ千度小路ニ住マハセ地獄網ト云ヘルヲ用ヒ海底ノ魚貝ヲ捕ラセ大イニ民利ヲ劃リ網ヲ一色ノ海岸マテ干サシメタルヲ以テ網一色ノ稱起ルニ至レリト尚當社八幡神社ハ後三年ノ役ノ剛者鎌倉権五郎景政ノ霊ヲ祀ル副社新田神社ハ元西上百六十八番地ニアリ社傳ニ新田義貞ノ臣船田入道某義貞ノ御首ヲ持チ来リテ埋メケリト又三河國碧海郡上和田村法華宗本寿山妙園寺ノ元禄八年ノ記ニ泰藤後首ヲ持チテ濃州ニ下リ夫ヨリ本領三州和田ニ妻子ニ暇ヲ告ケ上州新田公ノ本国ヘト志ス途次相州小田原駅ニテ異例常ナラス其御首ヲ甕ニ納メ酒匂川ノ邊ニ埋メケル即チ新田大明神ト崇メケル云々ト然レトモ明治維新ノ際証據不明ノ為メ廃社トナリシハ誠ニ遺憾ナリ近クハ六十餘年前 明治大帝京都ヨリ東幸ノ砌リ川越ヲ為シ給ヘル由緒アル地ナリ 
聖上陛下天津日嗣ヲフマセ給フ鉅典ヲ挙ケサセラルルニ際シ我等ハ本村ノ沿革ヲ願ミココニ記念碑ヲ建設スル所以ノモノハ温故知新以テ 叡旨ニ副ヒ奉ル忠良ナル青年タルコトヲ期セントスルニ外ナラス  従六位森丑太郎敬書


新田義貞公首塚


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小田原 平成輔墓所

2016-11-22 10:54:49 | 掃苔

小田原城下の西南、早川の河口近く南町3丁目に永劫山最勝院報身寺という浄土宗のお寺がある。
 
 
この報身寺境外墓地と言っても東側、一本小道を挟んだ向側に平宰相成輔の墓がある。
 
 
宇多天皇第二皇子の後醍醐天皇は即位した後、鎌倉幕府の打倒を密かに計画したが、正中元年(1324)六波羅探題に発覚した正中の変のあと、元弘元年(1331)、後醍醐天皇は再び倒幕を計画して幕府方に敗れた。笠置落城後、中心人物の後醍醐天皇は隠岐島に配流になり、討幕計画に参加した権中納言平惟輔の子、平成輔は鎌倉幕府に拘束されて斬罪に処された。「太平記」巻四「笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事」の項に死罪、流刑となった人々の事が語られている。「平宰相成輔ヲハ、河越三河ノ入道円重具足シ奉テ、是モ鎌倉ヘト聞ヘシカ、鎌倉迄モ下シ着奉ラデ、相摸ノ早河尻ニテ奉失」とある(国文学会編)。新編相模国風土記稿に「潮音寺 元享三年(1323)三月建、平宰相成輔墓、石祠を置、側に五輪の頽碑あり」「成輔、弘元二年(1332)五月、早川尻にて殺害せらる、故に当所に葬埋せしなり」とあった。早川尻というのは、東海道の箱根板橋から海岸を通り熱海に向う脇街道の早川河口付近で、東海道分間延絵図にも早川河口左岸に報身寺と潮音寺が記載されている。
 
この潮音寺は明治になり報身寺に合併され、この墓所も報身寺の管理となった。平成輔墓の傍に有栖川宮威仁親王篆額の宰相平成輔碑がある。碑陰によると、福住正兄(二宮尊徳高弟で箱根塔ノ沢温泉旅館福住楼主人)が小田原の西南端にある成輔卿御墓所附近の熱海街道早川口に建立したが、道路拡張により二宮神社に移し、さらに昭和七年三月に平成輔塋域内に移したという。

(宰相平成輔碑文)
宰相平成輔碑
  海軍少佐三品大勲位威仁親王  篆額   
函嶺之巨浸溢為澗流東注十里至小田原入海其與潮
合處白沙堆積民屋散布謂之早川傳曰地有不浄松者
宰相平成輔遭害處矣按史元弘元年笠置城陥翌年成
輔為賊兵執送鎌倉已而道殺之實為其季五月二十二
日也嗚呼元弘之亂倒行逆施擧海内不知名分為何物
成輔與源具行等謀糾合義旅謀誅高時精神有足動人
者然而後世無為成輔道者地方有志某等有慨于此欲
昭其遺跡而歳月之久松樹枯朽遭害之處不可知焉乃
更卜地建碑属余記之於是成輔事蹟始著於世而千載
之下使人低佪咨嗟則有志者之擧不亦偉耶南朝之事
係世道人心余取以喜而援筆
   元老院議官従三位勲三等男爵楫取哲撰
明治二十二年十二月建       永原俊章書


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西川鉄次郎 墓所

2016-11-14 13:37:02 | 掃苔

静岡藩に仕えた旧会津藩士林三郎惟純を調べていて、白虎隊にいた西川鉄次郎が沼津兵学校付属小学校で学んでいたことを知った。早速、沼津兵学校の資料が揃っている沼津市明治史料館を訪ねたのが今から8年前の残暑が残る8月の末だった。史料館に着くと窓が全て開いていて、エッと思いながら館内に入ると年に何回も無い休館日で丁度、清掃中だったが、館のご厚意で資料だけは閲覧させて貰うことができた。
 
ここの資料(通卷第75号)によれば、西川鉄次郎は会津藩御書簡所物書六石五升二人扶持西川俊治(舛益・定之助・鐡之助)次男で白虎寄合二番隊に属して越後を転戦して降伏後は越後高田で謹慎とある。東京で謹慎となった旧会津藩士を護送した小倉藩羽州出兵戦記に朱雀寄合四番隊で戦った兄、西川彦太郎と共に西川鉄次郎の名があり、東京での謹慎後の明治三年(1870)、兄は斗南へ移住し、弟の鉄次郎は沼津兵学校付属小学校に留学したと思われる。大学卒業後の官歴については「白虎隊西川鉄次郎」で詳しく述べた。明治三十八年出版の中央大学二十年史に創立以来現在に至るまでの講師陣の中に、創立者の一人である西川鉄次郎の名があるのは当然であるが、石渡敏一の名があったのは驚いた。石渡敏一は旧会津藩士との結び付の強い石渡栄治郎の長男で妹登美は旧会津藩家老萱野長修(権兵衛)の三男郡寛四郎の嫁となった。小倉で自刃した郡長正は寛四郎の兄になる。他に会津山内氏一族で長野の横田秀雄、その弟の小松謙次郎の名も講師陣にあった。
昭和七年六月一日付けの西川鉄次郎葬儀広告を見つけた。葬儀は嗣子西川栄祐、親戚総代が長谷川久一、桐山菊太郎で小田原町板橋の興徳寺で行われるとあった。小田原の興徳寺を訪ねた。
   
西川という檀家さんはいないとの事であったが、近所に偉い裁判官が住んでいたと聞いて、その家の近くのお寺、霊壽院の墓域に東京新宿の正受院から改葬された旧会津藩家老萱野長修(権兵衛)の弟、三淵家の墓所があった。
 
 
三淵隆衛長男忠彦の娘多摩は石渡敏一の五男慎五郎に嫁にいった。親戚総代の長谷川久一(唐津藩士長谷川芳之助子)は西川鉄次郎妻文子の兄で第三十六代警視総監を勤めている。長谷川久一は長崎唐通事だった何礼之に大阪洋学校で英語を教わっている。何礼之の門下生として日下義男(本名石田五助、会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男、弟に白虎士中二番隊の一人で、飯盛山で自刃した石田和助)や海援隊瓜生震らがいる。
小田原で葬儀を済ませた西川鉄次郎の墓所を探して小田原市内のお寺の半分は廻った。今年になって、サイト情報で西川鉄次郎の墓所が青山霊園附属立山墓地にあるのを知った。明治四十二年出版の立山墓地明細案内図で調べると、西川という名の墓域が三ヶ所ある事が判った。ともかく立山墓地に行ってみた。
 
三ヶ所の一つが西川鉄次郎の墓域で、旧会津藩士で京都から江戸まで孝明天皇の御宸翰を運んだ浅羽忠之助の三男五三郎が婿に入った騎西家の墓域の近くにあった。


白虎隊士西川鉄次郎


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