大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

金沢 神社めぐり

2016-07-27 09:43:24 | 

市内の神社めぐりは金沢城の西端にある尾崎神社からスタートした。
 
 
この神社は寛永二十年 (1643)に四代藩主前田光高が金沢城北の丸に天照大神・源朝臣家康(徳川家康)・菅原朝臣利常(加賀藩三代藩主)を祀る東照三所大権現社として建立したもので、明治になり神仏分離のため本地堂が現在の長田菅原神社の拝殿として移され、城内に残っていた「御宮」も明治七年に尾崎神社と名称を変更し、明治十一年に現在地に移築されたという。
 
藩祖前田利家が豊臣政権の筆頭大老だったこともあり、利家亡き後、慶長・元和・寛永の時代、徳川家との緊張関係が残っていた。利家の妻(芳春院)が江戸から解放されたのが三代藩主利長死去の翌月、慶長十九年(1614)六月で同年九月にやっと、将軍秀忠は前田利常に加越能三州を領すべき朱印状を与えた。家康は同年十月に大坂征討を命令、前田家は徳川勢として大坂冬の陣に参加した。慶長五年(1600)、三代藩主利常は徳川秀忠の娘、珠(天徳院)を正室として迎え、寛永十年(1633)、水戸徳川頼房娘(光圀姉・清泰院)を徳川家光の養女にして四代藩主光高の正室とし、更に万治元年(1658)五代藩主綱紀は家光の異母弟、保科正之の娘巻摩須(松・松嶺院)を正室として徳川幕府との融和を図っていった。
 
尾崎神社から城に沿って南に五分も歩くと尾山神社の横の駐車場に着く。
 
尾山神社は慶長四年(1599)に加賀藩の藩祖前田利家を祭り創建された卯辰八幡宮を、明治六年に卯辰山から現在地に移し尾山神社とし、今、神門は国の重要文化財に指定されている。明治八年に建てられた和漢洋折衷の三層式建物という変わった建築様式で当時の金沢の評判はどんなだったのだろう
 
ここは元々、小立野台地の端で加賀一向一揆の拠点であった尾山御坊と呼ばれる浄土真宗の寺院があった所で、山のしっぽ(尾)から尾山(御山)と呼ばれたとも言われる。そうすると尾崎は山のしっぽ(尾)の先(崎)という事になるのだろうか。早めのお昼を近江市場で取って、またお城兼六公園の西隣に在る石川護国神社に向かう。
 
石川護國神社は石川県出身者及び旧陸軍第九師団の他県出身の戦没者の御霊をお祀りしている。明治戊辰の役で戦死した加賀藩の百八名の戦没者を、明治三年、卯辰山に招魂社を造営して祀ったのが始まりで、昭和十年に卯辰山から現在地に遷座、昭和十四年社名を石川護國神社と改称した。ここに旧招魂社碑が残されているというので境内を探しまわってしまった。本殿左奥と社務所(事務所)との間の雑草の中にポツンと残されていた。
 
金沢の陸軍埋葬地は明治9年、野田山の山ノ内に設けられ、この陸軍墓地は戦後の一時期、野田山陸軍墓地と呼ばれたこともある。現在、石川県戦没者墓苑として県が維持管理を行っている。野田山にある石川県戦没者墓苑配置図説明に「この墓苑は明治時代に、陸軍が戦没者の墓地として整備したもので、古くは戊辰戦争、西南戦争から太平洋戦争にいたるまでの戦没者が合葬されています」とある。
 
 
日中戦争の戦没者を慰霊するため、陸軍などにより建立された忠霊塔や卯辰山の金沢市共同墓地及び天徳院境内に個々に埋葬されていた西南役、北越役関係戦没者を合葬した陸軍軍人合葬之墓、
 
征清役戦死軍人・病歿軍人合葬碑 日露役陣歿者合葬碑が建立されている。
 


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能登 輪島門前町

2016-07-19 10:25:05 | 

金沢に泊まって能登のお寺さんを廻る。総持寺祖院等を訪ねるのも非常に不便で、電車で行くか、高速バスで行くか迷ったが、のと鉄道の観光列車に一度は乗りたくて電車を利用することにした。JR七尾線とのと鉄道の車両がラッピング車両で、JR七尾線車両は昔話ばなしの主人公かと思ったら、七尾市のマスコットキャラクター「とうはくん」で、のと鉄道のラッピング車両は、なんでもTVアニメ「花咲くいろは」の主人公だという。
 
 
車窓から眺めていたら、ピンク色の駅舎の愛称「能登さくら駅」やホームに異なる2つの駅名標がある駅があった。「湯乃鷺駅」はTVアニメで使用した駅名だった。時刻表に記載のない駅名標で支線でもあるのかとびっくりした。
 
七尾湾に丸太組のやぐらを組んだ古い漁法、「ぼら待ちやぐら」が見えてきた。さすが能登は魚影が濃いな思っていたら、帰り望遠にして櫓の上の人をみたら、これが人形、すっかり騙されてしまった。
 
阿岸本誓寺から廻った。山門脇の石碑に「能登阿岸 新巻山本誓寺」とあり、門扉に三つ葉葵と二条藤の家紋が打ってあった。能登鳳至郡の百六ヶ寺の触頭寺院で在った事と本誓寺住職家に二条家の娘が嫁いできたことによるらしい。
 
本堂は文永五年(1268)、善了法師の創建と伝えられ、入母屋造り、平入り、総茅葺きで、正面に四本柱の三間向拝を設け、規模は、正面桁行柱間九間(約24m)梁行柱間十間の大規模な建物であり、安永九年(1780)に起工し、寛政四年(1792)に棟上げしたという。茅葺屋根では日本屈指の大きさでいかにも古刹という雰囲気で五木寛之の百寺巡礼に選ばれたのも納得する。
 
 
能登三十三観音霊場、北陸三十六不動の札所でもある鳴梅山宝泉寺に寄る。
 
山門の脇にあった真田伊豆守信乃の供養塔の事を聞こうと本堂を訪ねるといきなりお経が始まった。ご住職は不在で会えなかったがセンサーでお経の録音テープが鳴り出したのはビックリした。
    
太齢山覚皇院は応永六年(1399)開山は大徹宗令大和尚、創建より大本山總持寺の塔頭寺院で江戸時代の總持寺輪住制時代では輪住の住職が覚皇院で身支度を整えてから晋住したという。ここでもご住職には不在で会えなかった。もしかしたら祖院に詰めているのだろうか。
 
 
境内に一人の観光客も見かけず、ひっそりとした総持寺祖院を廻る。
 
總持寺は元亨元年(1321)、瑩山紹瑾禅師によって開創、山号は諸嶽山、後醍醐天皇綸旨により總持寺を勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定めた。明治三十一年、七堂伽藍の大部分を焼失し、明治四十四年に寺基を鶴見に移し、以後、能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれ曹洞宗専門道場となっている。
 
 
 
本堂で身寄りがないので生前供養をお願いしに東京からきたという年配の女性と会う。生前授戒で血脈を頂きにきたのだろうか。歳をとると考えないといけない事が色々起きてくる。祖院総門に入ってすぐ右側に前田利家の妻「まつ」の位牌所である芳春院がある。
 
穴水から和倉温泉駅でJR特急に接続する、のと鉄道の観光列車で金沢に戻る。
のと鉄道は七尾~穴水間、8駅約33kの短い路線で、片道35分前後の所を観光列車は1時間程度かけて走る。一生懸命ガイドしてくれる。横に来て車内装飾の説明をするが、話の内容が乏しい所為か相槌するのも疲れる。
左)のと鉄道始発駅七尾駅改札       右)穴水駅
 
 
のと鉄道能登中島駅に郵便車が保存してあった。現存する郵便車両は2台しかないそうです。


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加賀八家墓所 玉龍寺・開禅寺

2016-07-11 21:53:52 | 掃苔

金沢市内は妙に方角と距離感がとれない町である。町の中心、お城は金沢駅の東南の方向、約2kにあり、小立野台地の先端に浅野川と犀川とに挟まれたほぼ真ん中に築かれている。
 
城を中心に道が八方に伸び、菱形に城下町が形成されている。昔は地図の上方は北と決まっていたが、観光地図は見やすいように描く為か、南北が上下逆であったり、東西が反転していたり、そのうえ一方交通の路も多く、よけい方向感覚が無くなってしまう。
金沢城は浅野川と犀川を自然の濠に見立て、川の外側に三つの寺院群を移築し、城の東側の卯辰山には卯辰山山麓寺院群、南東の小立野台地には小立野寺院群、南の寺町・野町にある寺院を寺町寺院群と呼び、城の備えとしたという。
この寺町寺院群に加賀八家の対馬守家と呼ばれる前田家の墓所が玉龍寺に、同じく加賀八家の長家の初代・六代・七代・八代の墓が開禅寺にある。(九代以降は前田家三代利常公と九代重靖公の墓所の北側、野田山芝山地区)
前田長種家の菩提寺玉龍寺に行く。タクシーで「寺町の玉龍寺」にと云うと、運転手の方が首をかしげる。七十近いお寺さんがあっては知らないのも無理はない。お寺の在る町名も間違っていた。地図にあった沼田の交差点に行って貰った。ここからが大変だった。お寺の入口が判らず、細い道を行ったり袋小路をバックで戻ったり運転手も大変だった。
前田長種は織田信長家臣だった前田長定の嫡男で利家の娘、幸を正室とし加賀前田一門に列した。長種家は荒子城主尾張前田氏とは別系統の下之一色村城主前田氏で系図ははっきりしないが、前田仲利の嫡男家とも言われている。
長種の子直知の最初の正室が稲葉一鉄の孫おなあ(祖心尼)、一鉄の兄弟、重通の娘おあんが嫁いだ先が斎藤道三の孫で叔父が明智光秀になる斎藤利三で、その娘が三代将軍徳川家光の乳母となったおふく(春日局)、おなあが再婚したのが蒲生氏郷重臣町野繁仍の子幸和で、その孫娘振(自証院)は家光の側室となっている。最後の会津武士と称され、小説の主人公にもなった会津藩士町野主水重安の祖、町野重成は町野繁仍弟の町野秀俊の孫にあたる。
東京牛込済松寺       祖心尼墓
 
玉龍寺は曹洞宗の寺院で山号は大亀山、開山は桂厳慧芳大和尚、開基は菅原泰学長規(前田家家老前田対馬守長種祖父)としている。山門は薬医門で脇塀付桟瓦葺と云うそうです。
 
左)前田氏先祖安楽院殿、二代玉龍寺殿、その配天桂院、三宝塔之銘
右)手前から前田長種墓、長種室墓、二代直知墓
 
 
玉龍寺の前の道を南に250m位下がると開禅寺に着く。
 
開禅寺の勧請開基は大乗寺二世瑩山紹瑾大和尚、開基は加賀八家の一つ長家元祖長谷部信連、山号は華嶽山、加賀八家長家の墓所の一つで前田家二代利長と共に金沢に移転したと伝わる。長連龍の娘で、利長の幼女となり、前田美作守直知の継妻となった久香院(求光院)の墓もあるという。
六代長善連墓         右)七代連起・室墓
 
八代連愛・室墓        右)長家墓域
 
野町のお寺を巡った日は30度を超える猛暑日で他のお寺さんを廻る元気もなく、駅へ帰るタクシーを待つ間、開禅寺の前の龍淵寺の山門の石段で休ませてもらった。
 
この開禅寺の寺域全体が金沢市の保存樹林になっているそうで、涼しい風が吹き抜けていた。


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金沢 大乗寺

2016-07-05 10:53:44 | 掃苔

加賀藩八家の筆頭家老本多氏の菩提寺、大乗寺を訪ねる。
 
東香山大乘寺は、山号を古くは椙樹林、後には金獅峯と号した。開山は曹洞宗大本山永平寺開祖道元禅師、その一番弟子の懐弉禅師、またその弟子の徹通義介禅師で、大本山總持寺を開創した瑩山紹瑾禅師は大乘寺の第二世です。大乗寺は石川県で一番古い曹洞宗のお寺さんで、福井県大野の薦福山宝慶寺、熊本県熊本の大梁山大慈寺、京都府宇治の仏徳山興聖寺と共に大本山永平寺の四門首の一に数えられている。
 
  
曹洞宗の古刹らしく大乘寺の伽藍は、曹洞宗寺院建築の典型的な七堂伽藍の配置を示しており、仏殿は国指定重文、総門・山門・法堂は石川県の指定有形文化財となっている。
 
 
大乗寺は金沢の市街地から少し離れた野田山の中腹に在るせいか、訪れる観光客もなく、曹洞宗の大乗寺専門僧堂として鬱蒼とした静寂さを保っていた。
 
 
加賀八家の本多家の墓所は新旧、二ヵ所に分かれている。大乗寺の墓所も広くてウロウロしてしまった。山門の手前の横道を入ったとこに本多家旧墓所、
 
 
総門の横奥に本多家新墓所がある。
 
 
 
本多家の新墓所の手前に日本最後の仇討「十二義士の墓」というのがあった。
「加賀前田藩は幕末より明治に移る時 藩内の意見が対立した 筆頭家老本多政均は保守派の反対にあい暗殺された 明治四年十二人の家臣はその仇討ちを果したが翌年政府より切腹を命ぜられる 本多家墓地前に十二義士の墓として供養す」と石柱が建っている。
 
             
この事件は、明治二年、加賀八家である加賀藩前田家執政本多政均が城内二ノ丸で藩士、山辺沖太郎・井口義平に刺殺された。この首謀者二名は明治四年に切腹、明治五年、暗殺にかかわった岡野悌五郎・管野輔吉・多賀賢三郎を本多家家臣が金沢と彦根で殺害し、仇討を果たした。仇討の実行犯の本多家家臣、本多弥一、鏑木勝喜知、富田総、吉見亥三郎、西村熊、矢野策平、舟喜鉄外、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎、柴木喜内、藤江松三郎の十二人が切腹となった。本多政均の暗殺理由は何だったのだろうか。明治維新前後の藩政の舵取りで、佐幕派と尊王攘夷派、革新派と保守派による複雑な対立が本多政均の暗殺なったのか。県史にある首謀者二名の口上書や本多家家臣の復讐趣意書などを読んでも事の本質は理解できなかった。この事件を扱った松本清張の短編小説「明治金沢事件」では廃藩置県による直臣と陪臣の対立として描いている。この事件が契機となって、明治六年、明治政府は「復讐厳禁」を布達した。

近くに陸軍大将で総理大臣を務めた林銑十郎家の墓所や上杉謙信の能登侵攻で滅亡した能登七尾の守護畠山氏の墓所 があった。
 
 

参考:太政官布達   明治六年二月七日
人ヲ殺スハ國家ノ大禁ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公權ニ候處古來ヨリ父兄ノ爲ニ讐ヲ復スルヲ以テ子弟ノ義務トナスノ風習アリ右ハ至情不得止ニ出ルト雖トモ畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ私義ヲ以テ公權ヲ犯ス者ニシテ固ヨリ擅殺ノ罪ヲ免レス加之甚シキニ至リテハ其事ノ故誤ヲ問ハス其理ノ當否ヲ顧ミス復讐ノ名義ヲ挾ミ濫リニ相搆害スルノ弊往往有之甚以不相濟事ニ候依之復讐嚴禁被 仰出候條今後不幸至親ヲ害セラルル者於有之ハ事實ヲ詳ニシ速ニ其筋ヘ可訴出候若無其儀舊習ニ泥ミ擅殺スルニ於テハ相當ノ罪料ニ可處候條心得違無之樣可致事


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加賀八家墓所 野田山

2016-06-29 09:15:36 | 掃苔

加賀藩の職制は大雑把に人持組頭、人持組、平士、与力、御歩、足軽とに分かれるという。金沢市のH・Pに「加賀藩では、元禄3年(1690年)以降、8つの家柄が藩の重役である年寄衆を代々世襲しました。これを八家(はっか)といい、家臣の中でも別格の扱いとされ、月交代で藩の執政を担当、重要事項の決定には合議制をしきました」とあった。日置謙が前田家からの依頼で編纂した加賀藩の編年史料集、加賀藩史料に貞享三年(1686)、五代藩主綱紀は老臣の職名を定めたとある。「大年寄或云大老 本多安房政長 前田佐渡孝貞 奥村壱岐庸禮 奥村伊予時成。人持組頭或云七手頭 前田備後直作 長九郎左衛門尚連 横山左衛門英盛、年寄役或云家老 横山筑後正房 津田玄蕃正忠 奥村因幡悳輝。若年寄 前田対馬孝行 前田備前直親 多賀新左衛門直方。備後並は人持組頭、又は七手之頭中と御目通に而可申候。尤人持組頭又は七手之頭と申事は、安房・佐渡・壱岐・伊予・備後・九郎左衛門・左衛門、此七人之義により、其内安房並に七手之頭より大年寄相兼申義に候」とある。

本多政長、前田孝貞、奥村康礼、奥村時成、前田直作、長尚連、横山英盛の七手頭に村井豊後親長を加えたのが加賀八家で、藩主から諮問を受ける合議機関だという。貞享三年の定めによる、人持組頭七人に村井家を加え加賀八家と呼ばれたのは、何時の時代からだったのだろうか。金沢市史では八家の成立を、村井親長が人持組頭兼家老に就いた元禄三年(1690)としている。しかし正徳三年(1713)、藩主綱紀が定めた老臣の班列は、本多政長、前田直之、長 連頼、横山忠次、前田孝貞、奥村栄清、奥村庸禮の座列となっていて、村井家は入っていない。この村井家は慶長期に村井長頼の子長次が前田利家の七女(千世)を正室として迎えているので別格の家柄なのだろうか。村井氏由緒に「天正十九年(1591)、村井長頼従五位に叙せられ、諸大夫となり、名を豊後守に改め、人持組頭、御政務之御用相勤」とある。人持組頭兼家老が世襲制になったのは何時からなのだろうか。

八家墓所のうち野田山墓所の上野地区に村井家、奥村支家、芝山地区に長家、中割地区に横山家、奥村宗家、前田家(直之系)で本多家(筆頭家老)は野田山麓の大乗寺、前田家(長種系)は野町の玉龍寺、長家は野町の開禅寺が七・八・九代の墓所になっている。野田山の前田家墓所の造成拡大に伴い、加賀八家の墳墓の規模の変更や改葬が行われたものと思われる。野田山にある加賀八家の墓所すべては時間とクマの出没に怯えながらで廻れなかったが、村井家と奥村支家の墓所は廻れた。村井家の墓所の入口が分からなかったが、たまたま入り込んだ場所が村井家の墓所だった。
村井又兵衛豊後守平長頼

村井家の初代又兵衛長頼は鎧・兜の甲冑姿で江戸の方向を睨みながら立ったまま埋葬されたと伝わる。
奥村支家墓所入口にある亀趺(初代永福顕彰碑)
 
奥村快心居士之碑 撰文は二代前田利常に仕えた木下順庵
 
笠に四角い方穿があり、蓑亀みたいに苔が付いていたが、牙や尻尾はなかった。寛永十三年(1636)建立で現存する亀趺のなかでは古い方にあたる。
  

加賀八家墓所 大乗寺・開禅寺・玉龍寺


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金沢野田山前田家墓所

2016-06-23 08:56:36 | 掃苔

北陸新幹線が開通してから1年経った。少しは落ち着いたかと思っていたら、案の定6・7割の乗車で結構富山駅で降りる客も多かった。小田原からだと3時間30分ほどで金沢駅に着く。駅前の広場に鼓を二張立てたような巨大なモニュメントがあった。何のためにあるのか判らなかったが外国人に混ざって写真を撮る。昼に着いたので構内にあった加賀屋(金沢店)で、ランチは加賀屋創立110周年記念メニュ―だという「加賀屋御膳」。料理は大したことなかったが、店員さんの古風と云うかユニークな制帽姿にびっくりする。
 
 
昼過ぎから加賀前田家の墓所のある野田山にいく。金沢は3・40年前に来たことがあるが、全く記憶がない。タクシーを時間借りして野田山に行って貰った。長い間、運転手をしているが、野田山の前田家墓所に案内するのは2度目で、お客さん変わっているねと言われてしまった。道の途中、墓地駐車場にクマ出没を知らせる看板が到る所にあり、聞くとよくクマを目撃 する場所だという。墓所に運転手の方が棒を持って付いてきてくれた。
加賀前田家、江戸時代の菩提寺は下谷広徳寺(今練馬)、駒込長元寺、明治になって西日暮里の道灌山南端(今の西日暮里公園)が前田家の墓地になっていた。広徳寺の前田家の墓は関東大震災の区画整理で大正十四年、寺が下谷から練馬に移転時、野田山に改葬された。加州侯五代吉徳母随玄院が開基の長元寺にはまだ一部前田家家紋の入った墓碑が残っている。西日暮里公園の場所は明治七年に加賀前田家にこの地が売却され、前田家の墓地として改修されたが、昭和四十七年に金沢野田山前田家墓所に改葬し、その跡を公園とした。
台東区役所横・広徳寺遺趾      練馬広徳寺
 
右・広徳寺会津松平家墓所
 
駒込長元寺
 
   
荒川西日暮里公園
 
 
二代藩主利長は越中高岡、四代藩主光高と九代藩主重靖は当初、金沢市内の天徳院に葬られたが昭和二十年代に天徳院から野田山へと改葬され、現在、全ての加賀藩主の墓は野田山の前田家墓所にあるという。
野田山の前田家墓所は天正十五年(1587)、前田利家の兄利久をいづみ野迄野おくりしたことに始まる。いづみ野が何所だか特定されていないが、利久の改葬記録が無い事から泉野が野田山の別名ではないかとも考えられている。前田利家の「長持に入、加賀え下し野田山に墓をつかせ」との遺言により慶長四年(1599)、野田山に利家は埋葬された。
藩祖 利家公(左)     藩祖正室 芳春院(右)
 
 
 
前田家一族は始め土饅頭の墳墓として埋葬されていたが、明治七年(1874)前田家の祭祀が神式に改められ、廟所の廟堂を取除き、藩主墓の入口には鳥居、その奥に塚を築き、その前に碑石が建てられている。ここ野田山に大正になって下谷円満山広徳寺の前田家墓所にあった会津保科正之の娘で加賀藩五代藩主綱紀室となった松(松嶺院殿信嶽宗正大禅定尼)、会津保科正容娘で加賀藩七代藩主宗辰室となった常(梅園院殿心操紹源大姉)の墓が改葬されている。
五代 綱紀公(左)     綱紀公正室松嶺院(右) 
 
七代 宗辰公(左)     宗辰公正室梅園院(右)
 
二代 利長公(左)  利家公娘宇喜多秀家室 豪・樹正院(右)
 
山側環状道路22号からの前田家墓所への参道途中の東側と前田家墓所北側を囲むように加賀八家墓所が点在している。今回は体力と時間の関係ですべて廻れなかったのは残念だった。

 

加賀八家墓所(野田山・大乗寺・開禅寺・玉龍寺)


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杉田間宮氏

2016-06-18 09:10:07 | 掃苔

佐々木氏流近江源氏流間宮氏は、寛政重修諸家譜によると始め萬石氏から真野氏、船木氏を名乗り信冬のとき間野氏となり、信盛より豊前守を名乗り、北條氏に仕えた。間宮本家の間宮信冬、信盛父子は北条早雲に仕え、信盛の子信元は氏綱に仕え、その子康俊は玉縄北條の家老として武蔵國久良岐郡笹下城主となり、間宮氏は北條家に仕えた。北條家滅亡後、一族は徳川家の旗本として仕え、康俊の娘お久(華陽院)は徳川家康の側室になっている。千島・西蝦夷・樺太を探検した間宮林蔵の家系は、はっきりしないが、康俊の子傳右衛門元重の八代頼名が林蔵を名乗っているので、この一族ではないだろうか。

北條氏所領役帳に玉縄衆間宮豊前守都合六百九拾八貫百弐拾弐文の内、久良岐郡杉田参百貫文とあり、久良岐郡杉田は間宮氏の知行地であった。新編武蔵風土記稿に「杉田村は正保元禄二図は寺家村と記す杉田は古名にて妙法寺大寺なりし故中頃寺家と号し今古名に復せり彼寺縁起に古此地杉多し故に杉田の名起れり」という。風土記稿は杉田村の陣屋蹟として「間宮左衛門尉信次(或は常信に作る)以来世々の陣屋なりと云傳ふ、家譜に拠るに信次は豊前守信盛が二男にて北條氏綱及び氏康に仕ふ、天文十五年八月二十七日相州三浦走水に於て戦死す法名法西、妙法寺に墳墓あり其子左衛門尉信忠初め藤太郎と稱す氏康及び氏政に仕ふ云々」とあり、北條五世に間宮氏は仕え小田原没落後、一族は御家人となり二十一家の多きに至っている。

JR新杉田駅の近くにある間宮氏の菩提寺、妙法寺を訪ねた。
 
 
妙法寺は風土記稿によると「法華宗下総国中山法華経寺末牛頭山と号し開山は日祐上人開基妙法日荷上人此僧俗たりし時荒井次郎光善と称し後又因幡大掾と改む云々、文和元年(1352)当寺を起立す」とある。荒井次郎因幡守光善の子孫、源左衛門威忠は天正十八年東照宮に仕え、間宮左衛門信繁に属した。新編武蔵風土記稿は「子孫江戸に移り今の代官職荒井平兵衛保恵が祖なり」と云う。会津藩士山本権八の娘八重が嫁いだ新島襄の母とみ(旧姓中田)が十四歳のとき、行儀見習いのため腰元奉公に上がったのが小川町神保小路の荒井平兵衛(信州中之条御代官)で、この幕臣荒井平兵衛の遠祖が妙法寺開基妙法日荷上人(荒井次郎光善)という事になる。

間宮氏一族でも妙法寺を菩提寺としているのは、間宮豊前守信盛の二男、左衛門尉信次一族で信次(法名法西)・信忠(日法)・信繁(日縁)・信之(日諦)・信勝(日賢)・信久(日誠)・敦信(日了)・信勝(日登)と継く。妙法寺の間宮家の墓域は二ヶ所にわかれていて、寺庭にある杉田梅林之碑傍の日本武尊ゆかりの牛頭天王殿への石段を上り三十番神堂の右手奥に一列に並んでいる。
 
 
神堂の横の墓域に二基の宝篋印塔があり、一基は塔身の日附けから間宮信之(日諦)、もう一基の宝篋印塔には施主と入っていることから、この二基の宝篋印塔は供養塔なのか墓塔なのか判らなかった。
 
          
この墓域から北側奥(本堂左手上)に間宮家の墓域があった。いずれも家紋は角四目結紋であった
 
帰り、背に銘を刻まれている珍しい和様狛犬がある杉田神社に寄る。
 
  


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間宮杉田氏

2016-06-11 09:48:57 | その他

会津藩藩祖保科正之の母方の祖父母は元北條氏家臣神尾伊予と杉田氏女、祖父の神尾氏も北條家臣団のどの神尾氏だか特定できないでいた。それではと夫が北條家臣なら妻の実家杉田家も北條家家臣ではないかと探し始めた。北條家家臣団には小河内衆杉田氏と間宮豊前守信高同心衆の久良岐部杉田邑杉田氏がいた。たまたま小河内衆杉田氏の在所、奥多摩川野村に保科正之生母お静の方の院号と同じ浄光院と云うお寺があるのを見つけて奥多摩を最初に訪ねた。ここで川野村の杉田氏と杉田邑の杉田氏が同族だと学校の先生が言っていたと聞いたが、桓武平氏三浦党多々良氏流の川野村杉田氏と佐々木氏流近江源氏流の杉田邑杉田氏を結び付けるのは、話が遠いような気がするがどうであろう。
「蘭学事始」を著した杉田玄白の孫、杉田成卿が「遠祖の墓」とした杉田長安の墓がある川崎菅田の長安寺を訪ねる。長安寺のH・Pに「小田原北条氏の家臣であった間宮長安は杉田玄白の遠祖で、過去帳によると武蔵国久良岐郡杉田郷(横浜市磯子区)に生まれているとあります。永禄二年(1559)の『小田原衆所領帳』には、杉田郷の領主は間宮豊前守とあり、その間宮一族であった長安は、下菅生村に転じたあと杉田姓に改めてこの寺の再興に尽くしたそうです。慶長17(1612)年11月28日に90歳で没し、境内にある墓石には法名の法林院釈氏浄安の文字が刻まれている。江戸時代に入ってから、この長安の法名をとって山号を法林山としたそうです」とある。佐々木氏流近江源氏流間宮氏は、寛政重修諸家譜に始め萬石氏から真野氏、船木氏を名乗り信冬のとき間野氏となり、信盛より豊前守を名乗り、北條氏に仕え、信盛子信元孫の信高に仕えたのが杉田長安の父真野新左衛門信安で、信安の妻は行方弾正左衛門の娘、行方氏も間宮氏も同じ小机衆として『小田原衆所領帳』に名がある。杉田長安は北条氏滅亡の後は諸国を転々とし、文禄三年(1594)に旧領の杉田村に戻り、このころ姓を杉田氏と改めたのではないだろうか。その後、橘樹郡菅生に移り、無住の寺を自らの名を冠して法林山長安寺とし、慶長十七年(1612)この地において没したという。
 
 
長安寺は矢取坂を通る鎌倉古道に面しており、成卿が「遠祖の墓」とよんだ長安の墓は、本堂の真後ろにあり、正面には「法林院□□浄安大比丘」の法名、左側面には「杉田生 俗名 杉田門殿次良長安」と刻まれている。家紋を確認することは出来なかったが、この長安寺に多くの杉田氏の墓がある。これは三代目忠安長子でこの地に居ついた伝左衛門一族と思われ、いずれも柏紋だった。
 
      
杉田長安を初代として六代目に当たるのが、蘭学医の杉田玄白で、東京の別名猿寺と弥ばれる愛宕栄閑院にある玄白の墓にあったのは鶴丸紋で、これは長安の養子に入った五兵衛忠元の実家の森家に家紋が鶴丸紋を使用していたからとも言われている。
 
 
本家の間宮氏はほとんど四目結紋だが鶴丸紋を使用している一族もあり、また佐々木高秀六男多田満秀の後胤、忠吉が杉田を称し、家紋を鶴丸、四目結を使用している。結局、杉田長安がどんな家紋を使用していたか解らなかった。


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小河内衆杉田氏

2016-05-26 10:33:50 | その他

「湖水荘」は大津久バス停からバス停で一つ、青梅街道川野トンネルを出た中奥多摩湖バス停の傍なので、旧道を歩いて行くことにした。10mもない崖下はダムで堰き止められた多摩川の水が湛えられている。
 
小河内ダムの高さは149m、最大水深142.5m、ダム下の標高が408m、浄光院の標高が約539m、奥多摩駅標高が343mを考えると、西多摩郡奥多摩町川野という場所が多摩川の深い渓谷に挟まれた土地であることが分かる。
 
新編武蔵風土記稿に杉田氏の記載がある。「杉田某屋敷鋪蹟 村の西邊を云北條の臣杉田某の屋舗跡なり北条氏没落の後子孫民間に蟄居せしよりここに居れし今の農民次郎兵衛は舊家なれば猶舊家の條に辨せり」「百姓次郎兵衛 杉田氏にて村の里正なり 家系を閲するに杉田右近允重直武州多磨郡の内相馬保に住せりこの人杉田氏の始めなり按にこの邊杣保庄の唱あり杣保は相馬保をかきかへたりと云ことは已に前に辨したりさあらはこの人の時よりここに居りしなるへし、其子次郎兵衛尉入道淨泉北條氏直まで歴任していと長壽なりしことも家系に見えたりこは後にのする文書に入道殿とあるへなるへし其子次郎後に越後守と稱せしもの相馬保三ヶ所知行とあり又杉田清兵衛富久後但馬守なと云ものありこの外杉田氏を記せること連綿たり杉田越後守及杉田清兵衛にあたへし文書三通外に三田弾正えの文書一通を合せて家に蔵せるは後にのせり、」この文書により「舊くよりこゝに居りしことしるべし、北条氏没落ののち民間に下りしことは舊跡の條幷せ見るべし」とあり、天正十五年の北条氏照朱印状写では「大途御弓矢立ニ候間 小河内衆之證人 此度召上候 然者十二ニ成子所持申候由 被聞召届候 彼子を惣置ニ御扶持可被下間 速ニ證人被進上 心易谷中之走廻可致候 此度抽而走廻ニ付而を 随望知行可被下旨 被仰出者也 仍如件」(奥多摩町資料集より)とあり、杉田氏は日原の原嶋氏と共に小河内衆と呼ばれる武士団を形づくっていたことが分かる。
 
歩いて5分くらいで数軒のドライブインがある中奥多摩湖バス停に着いた。連休の後だったからか、お店はすべてお休みだった。近くに写真でみた建物は在ったが、名字が違う表札で、残念なこと杉田重直子孫の方が経営していた「湖水荘」は無くなっていた。
 
帰りのバスの時間まで30分あるのでバス停脇の閉まっているドライブインを覗いていたら、不審者に見られたのか、奥から人が出てきた。親切にも浄光寺や「湖水荘」の杉田さんの事を教えて貰った。もっと詳しくお話を聞かせて貰いたかったが、11時51分のバスを逃すと、次は13時58分と2時間も空いてしまうので、もう少し調べがついたら再訪しようと定時に来た乗客の誰もいないバスに乗った。
北條氏の家臣にはもう一つの杉田氏がいる。蘭学事始で有名な杉田玄白の杉田一族で、北條家滅亡後、武州久良岐郡杉田村に戻った玄白の遠祖杉田主水次郎長安が創建したお寺が川崎に残っていた。近いうちに訪ねたいと思っている。

奥多摩旧川野村杉田氏


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奥多摩旧川野村杉田氏

2016-05-19 14:53:25 | 會津

西多摩郡奥多摩町川野は昔、武州三田領小河内川野村とも武蔵多摩郡川野村と云われていた。戦国時代、ここの地侍で三田氏に仕えた杉田一族は三田氏滅亡後、北条氏に仕え、武州北條領と甲州武田領の境目の地として武田方の小菅勢と対峙していた。以前、神尾伊予(保科正之生母静ノ方父親)を探していて、たまたま新編武蔵風土記稿記載の杉田一族の舘跡の在った川野村に浄光院という寺があった。この寺の名は保科正之の生母、静の院号と同じであり、江戸幕府領になってこの地を検知したのが竹村与兵衛、時代は大分異なるが、神尾伊予の娘が嫁いだのが竹村助兵衛、この夫婦の次男を会津藩は杉田家を継がせ藩士として召抱えた。杉田氏、浄光院、竹村氏と正之誕生のとき、生母静に関係する名前が川野村に揃った。

5月の連休のあと奥多摩に向った。東京駅から青梅快速で1時間22分、青梅駅での乗換時間1分でどうなるかと思ったが、立川方面発着と奥多摩方面発着が島式1面2線ホームの隣り合わせで便利だった。青梅線は大体1時間に1本4両編成で今の時季、ハイカーでかなり混んでいた。中年の女性ハイカーが多いのに驚く。それでも沿線の駅でぽつぽつ降りて、終点の奥多摩駅まで乗っていたのは20人程度だった。以前、氷川駅と呼ばれていたころ、日原鍾乳洞や御嶽にはよく来たが、昭和46年(1971)奥多摩駅に改称されてからは初めてきた。単線だったのも忘れていた。
 
バスは10人ほどの観光客を乗せて発車したが殆ど途中の奥多摩湖で降りてしまい、
 
 
杉田氏の菩提寺がある大津久まで乗っていたのは1人だけになってしまった。
 
奥多摩湖は昭和32年、多摩川を小河内ダムによって堰き止めて造られた人造湖でバスはこの湖の北岸を曲がりくねって走る。
 
大津久バス停から浄光院まで歩いて2・3分で着いた。新編武蔵風土記稿の浄光院記載では「金剛山と号す禅宗臨済派鎌倉建長寺の末寺弘安五年(1282)の草創なりといえども開山開基の人を傳へず」とあるが、青梅の史家齋藤真指によって明治十一年頃から編纂された西多摩郡村誌に「開基創建は文安二乙丑年(1445)杉田右近允平重直にて、開山僧は、壁芸良鐡禅師なり、寛正元庚辰年(1460)八月十二日死す、法名を、西勝院浄空道光居士と号す」とあり「庭上に、一株囲み九尺有余の垂り枝の梅あり、花盛りには、銀光燐然しして、馨香馥郁たり、以て、近隣の美観となせり」とある。小河内ダム建設により浄光院も高台に移転したようで、枝垂れ梅も奥多摩湖の底に消えてしまったようである。
 
 
墓域もお寺の裏側の急斜面に段々に造られていた。比較的新しい幾つかの杉田家の墓域があったが、家紋はすべて「三本杉紋」で会津藩士杉田家の「丸に左根笹紋」では無かった。
 
ご住職にお話を聞きたいと思ったが、今は無住のお寺さんみたいで、兼任のお寺を聞こうと両隣のお宅を訪ねたがいずれも不在で、仕方なく、いま在るかどうか分からなかったが昭和50年代に出版された「奥多摩町異聞」に載っていた杉田重直の子孫の杉田さん経営の「湖水荘」を訪ねることにした。


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