大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

藤沢本町界隈2

2017-06-03 09:56:09 | 東海道沿線

「義経首洗井戸」から白幡神社に行く。
 
 
風土記稿に「白旗明神社、社を亀形山と呼ぶ、文治五年廷尉義経奥州にて敗死し、其首實撿の後此地に埋め、其霊を祀りて当所の鎮守とせしと云ふ、義経の首級腰越にて實撿ありし事、[東鑑]に見えたり」とある。
 
[我がすむ里]では、首実験のそのころ、「藤沢の河辺に金色なる亀、泥に染たる首を甲に負ひ、出たり、里人驚ろき怪しみけるほどに、側らにありける児童、忽ちに狂気のごとく肱を張、我ハ源の義経なり、薄命にして讒者の毒舌にかかり、身ハ奥州高舘の露と消るのみならず、首をさへ捨られて、怨魂やるかたなし、汝等、よきに弔らひくれよ、といひ終て倒れぬ、諸人恐れて、これを塚となせり、これより、鎌倉御所に於て義経の怨霊さまざまの崇りをなして、右大将を悩ます、これに依て、首塚の北の山上に社をいとなみ、神とし尊とみ御法楽ありける」という伝承を載せている。亀と云う語がこの辺りの地名や伝承、名前に多く出てくる。鶴といえば鶴岡八幡宮、亀といえば江島神社、慶安二年(1649)に仏教習合時の江島神社の号は金亀山与願寺、白旗神社に残る金色なる亀の伝承と江島神社の金亀山、なにか繋がりがあるのだろうか。
藤沢本町駅の西側に丘が在る。戦国武士の舘跡かと考えていたら、ここが藤沢市で第一号の都市公園として公園指定された伊勢山緑地で、なんでも昔、ここに伊勢神宮が祀られていたので伊勢山と呼ばれるようになったと云う。
 
 
麓から僅か38m(標高49m)しかない小山だが、東側の石段はきつそうなので、南側の道で頂上に向かう。前をパトカーの警察官が登っていて、さかんに竹林を覗いていた。筍を無断で採っていく輩が多いのだろう。山頂は広く見晴らしの良い公園となっており、慰霊碑や庚申供養塔・石碑が集められていた。
大正十二年(1923)の関東大震災の後、各地の慰霊碑・忠魂碑四基が伊勢山の山頂に移転された。白旗神社境内にあった西南戦争での戦没者十一名の慰霊碑「明治十年西征陣軍人之碑」、遊行寺境内にあった日清・日露戦争での戦・病死者七名の「忠魂碑」(川村景明書)、明治小学校にあった戦病死者十三名の慰霊碑「殉国勇士招魂碑」野村素介書))、鵠沼神明社にあった日露戦争戦死者七名の「明治卅七 八年戦役陣亡軍人之碑」周布公平書)があった。
 
  
公園の北東の角に庚申供養塔数基と北辰妙見大霊府神の石碑がある。
 
 
 
なかでもその一基は、承応二年(1653)の庚申供養塔(所有者:白旗神社)で藤沢市指定文化財となっている。北辰妙見の石碑は平成九年、伊勢山の南斜面で藤沢市教育委員会が発掘したものだという。

参考
吾妻鑑、
文治五年閏四月三十日の条、「今日、於陸奥国、泰衡襲源與州、是且任勅定且依二品仰也、豫州在民部少輔基成朝臣衣河館、泰衡従兵数百騎、馳至其所合戦、與州家人等雖相防、悉以敗潰、與州入持仏堂、先妻(廿二歳)、子(女子四歳)次自殺云々、また前伊豫守従五位下源朝臣義経(改義行また義顕、年三十一)」
同年六月十三日の条、「泰衡使者新田冠者高衡持参與州首於腰越浦、言上事由、仍為加實撿、遣和田太郎義盛、梶原平三景時等於彼所、各着甲直垂、相具甲冑郎従二十騎、件首納黒漆櫃、浸清美酒、高衡僕従二人荷擔之、昔蘇公者、自擔其獲、今高衡者、令人荷彼首、観者皆拭双涙濕両衫云々」


この記事をはてなブックマークに追加

藤沢本町界隈1

2017-05-26 09:31:48 | 東海道沿線

新編相模風土記稿に「八王子社 武蔵坊弁慶の首塚ありし所にて弁慶の霊を祀しと云う(塚は廃す)」、また「常光寺 八王山摂取院と号す、浄土宗(鎌倉光明寺末寺)元亀三年(1572)本寺二十七世明蓮社光誉建立して退隠の所とす」とある。弁慶が実在したかどうかは別にして、常光寺の西側にある八王子社跡に弁慶塚(供養塔?)があると云うので出かけた。
小田急藤沢本町駅から旧東海道を藤沢宿蒔田本陣の方へ10分位歩いて消防署の脇の道を入ると常光寺の山門に着く。山門に記念碑があった。何だと思ったら、明治五年藤澤警察署発祥の地だという。
 
藤沢市指定の文化財、庚申供養塔や「かながわ名木100選」に選ばれたカヤの木などが境内に残っている。
     
裏山の墓地には檀家さんしか入れないので、山門から西側のお寺を巻いている道に出て駐車場の手前の私道みたいな道を入ると「弁慶塚」の看板がある。石段を上がり、さらに左手の石段をあがると正面に弁慶塚が見えてくる。
 
 
 
 
また常光寺に戻り、美人で麦搗唄にも唄われたという藤沢の阿亀の墓を探す。文政十三庚寅年(1830)、相模州藤沢駅の小川泰二により編輯された[我がすむ里]によれば亀女の墓「常光寺の後山、卵塔場の中にあり、石碑にハ地蔵の立像を彫り、側らに寛文五年(1665)乙の巳九月十五日とあり」とある。亀女が出てくるという麦搗唄を探したが見つからなかった。理由は不明だが、いまは今井家の墓域の一角に移されていた。
 
消防署から100mほど駅の方に戻ると荘厳寺の入口がある。荘巌寺は[我がすむ里]によると、荘厳寺旧地は常光寺の西隣りにあり、元暦元年甲辰(1184)に開基。元文年間に火災で消失したが延享四年(1747)に荘厳寺が別当を務めていた白旗神社の隣に再建し旧地ハ只草堂一宇のミありという。明治八年(18751)神仏分離令のため現在地に移転した。本堂を掃除していたご住職に挨拶すると、本堂に安置してある源義経の位牌をみせてくれた。許可をもらって写真を撮らせてもらう。「笹竜胆紋に 白旗大明神 神儀」とあった。
 
 
白幡神社に向かう途中に「義経首洗井戸」がある。旧東海道(国道467号線)沿いの交番の脇から私道みたいな道の突当りに5・60坪位の公園なのか広場があり、その一角に義経首洗井と源義経公之首塚があった。
 
 

傍の説明に「源義経(鎌倉幕府の将軍源頼朝の弟)は、頼朝に追われて奥州(東北地方)に逃げていましたが、一一八九年(文治五年)に衣川(岩手県奥州市)で自害しました。腰越(鎌倉市)で首実検の後に浜に捨てられた義経の首は、潮に乗って川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられています」とあり、首洗井戸の脇には「九郎尊神」と刻まれた石柱がある。義経公之首塚表の右側には武蔵坊辨慶之霊、左側には亀井坊・伊勢坊・片岡坊・駿河坊 各霊(亀井六郎重清・伊勢三郎義盛・片岡八郎経春・駿河次郎清重)とある。昔、白旗明神御旅所の傍に義経公の首を此処に埋メ塚とし、諸人群参して礼拝せし故にかく礼拝(ライハイ)塚と呼ばれたと伝わる。昔はここに松の大木あったが近年、枯して一名首塚と呼ぶと「我がすむ里」にあった。何故、義経公の首塚が義経首洗井戸の傍になったかその経緯が白幡神社のH・P、ホーム に詳細な記載があった。
史蹟 源義経公の首塚 (白旗神社のサイト)


この記事をはてなブックマークに追加

辻堂界隈

2017-05-18 10:20:28 | 東海道沿線

JR東海道辻堂駅南口から海岸の方にブラブラ歩いて10分程で八森稲荷神社に着く。
 
 
この境内に柵で囲まれた野晒しの鉄板が保存されていた。明治二十一年(1888)、海軍兵器製造所技手の下瀬雅充が開発した新火薬を、辻堂の南方海浜に江戸時代からあった炮術場で試した。その試射に使われた鉄板の一枚だと言われている。日露戦争で下瀬火薬は大きな効果をあげたという。
此処から100mほどの寳泉寺に向かう。
 
その途中に京・鎌倉往還道15(鎌倉街道)の辻堂郷土史研究会による表示板があった。北に約2kで旧東海道が通っている。脇街道として辻堂の海岸側に京都と鎌倉との往還古道があったのだろうか、何か史料でもあるのだろうか。
 
海龍山観音院寳泉寺は別名、南の寺、光明真言道場とも呼ばれ、古くは寺の近くに辻御堂があり、辻堂の地名の由来の一つとされている。境内の集められた石造物の中に「寛保二壬戌年(1742)夭 辻堂村海龍山堂場 常光明真言江之道」と彫られた石柱があった。元もとは、どこに置かれていたものだろうか。
 
 
寳泉寺の隣に村の鎮守、諏訪神社がある。諏訪神社由来記碑があった。
 
  
光明真言道場道と旧鎌倉街道が交差するとしている辻堂四ッ角から北方の寳珠寺に向かう。明治初期から中期 にかけて関東地方を対象に作成された「迅速測図」をみても、この四ッ角が特定できず、この四ッ角と云う地名は比較的新しい呼名だと思われる。歴史的な道標を動かしてしまうと、光明真言道場道にしてもどこを通っていたのか分からなくなってしまうのは残念。途中に日枝神社があった。寛政改己酉元年(1789) 辻堂村八月吉祥日北講中とある、直衣姿で袖の中で手を合唱している双体道祖神があり、地元では北町双体道祖神と呼ばれ親しまれているという。
 
 
相模でも小寒から節分までの寒さの厳しい時期に念仏を唱える寒念佛が盛んだった足柄に比べて湘南は庚申信仰が盛んだったらしく、庚申塚が多く残されているように思う。道なりにいったら寳珠寺の南門から境内に入ってしまった。
 
寳珠寺は新編相模国風土記稿に「八松山明王院と号す、古義真言宗(藤沢宿感応院末)本尊不動を置く、開山元朝(元暦三年三月八日寂す)中興を玉鉉(享和三年寂す、寺記の類、元禄七年八月雷火に烏有すと云う)と云う」とある。文化元年玉鉉僧都のとき現在地に移転復興したと由来碑にある。
  
境内に藤沢市の重要文化財に指定されている寛文六年(1666)庚申供養塔の説明に「庚申信仰は、十干・十二支の組み合わせによって、六十日に一度めぐってくる 「 庚申の日 」 に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。この源流は、「 人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる 」 とする中国の道教の教えに由来している。
 
 
江戸時代、万治・寛文頃(1658-1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった」とあった。
 
境内に四国八十八カ所の御遍路をすますことが出来る四国八十八ヶ所御砂踏霊場巡りがあった。八十八ヶ所の土砂加持の上を廻ったような気分になるから不思議である。山門から出て駅に向かう。
 
 
 

参考
諏訪神社由来記碑文   祭神  建御名方命 八坂刀売命
諏訪神社は平治年間の創立と謂われるがその時代に此の地に社殿が造営されていたか不詳である。当地は永録年間小田原北条氏の知行所であったところ徳川氏の頃に至って天領となり二十六字二百六十石とされ旗本の采地となった。寛永八年火災のため社殿と共に種々の重宝古器物および諸記録を焼失し同七年地頭保々長兵衛尉源則貞が社殿を再建して当地の総鎮守社としたが文政七年別当海竜山宝泉寺の火災に類焼の難に遭い勧請年月の記録類を再び焼失した。古老の口碑によれば文政八年七月再建されたと。その後は氏子達の寄進によって維持され大正十二年九月の大震災による拝殿の倒潰は翌年九月復旧し大東亜戦争の際国防用に供出した鐘は戦後(昭和三十一年)新調しその他大小の補修は篤志家によって行われ今日に到っている。現在の本殿は高御座を二座に分け左側を上諏訪神社右側を下諏訪とし建御名方命(男神)八坂刀売命(女神)が鎮祭されている。明治六年「村社」に列せられた。例祭日は毎年七月二十七日とされこの時には神輿が出御し東西南北の四町内には「奉献両諏訪大明神」と大書された幟が立ち各町内に在る花車は人形を飾り太鼓笛鉦などはやして村内を練り廻るなど昔ながらの行事が今も残っている。現存の旗幟は一番古い物で寛永十五年三月十五日と誌され花車は二百年前頃の作てこれに八形を飾るようになったのは百年前頃と思われる。
昭和四十六年二月七日社殿復旧を記念して    諏訪神社 氏子一同


この記事をはてなブックマークに追加

豊川三明寺から大聖寺・長谷寺へ

2017-05-11 09:33:28 | 

豊川稲荷のある賑やかな豊川駅西口に比べて東口は数棟の高層マンションがあるものの、駅前が区画整理組合の売れ残りの保留地みたいに広大な駐車場になっている。ここから歩いて10分程の所に三明寺がある。曹洞宗のお寺で龍雲山妙音閣三明禅寺という。通称、豊川弁財天と呼ばれている。
 
 
 
三河刪補松に「妙音天ハ大江定基カ愛妾力寿ノ模像ヲ表シタルト云、尊姿艶色ニシテ裸形タリ」とあった。ここの三重塔は享禄四年(1531)、建立されたもので、一・二層は和様で三層を唐様で建てられた珍しい構造だという。三層の軒の反りが異なるのは下から見上げてもよく分らなかった。訪れた時は境内の枝垂れ桜はまだ三分さきでしたが、三つの願望が成就するとされる三徳稲荷まえの桜は満開でした。
 
三つもお願いが出来ると知っていたら、ジャンボにミニにロト7、お願いするのだった。
豊川駅のお隣牛久保駅から歩いて10分も掛らずに大聖寺に着く。
 
案内板に「戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄三年(1560)五月十九日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。その時、首をとられた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、この寺に葬って、とりあえず手水鉢をのせ墓石の代りにしました。それが、「義元の胴塚」と言われる由来です。嫡子上総介氏真は永禄六年(1563)父義元の三回忌をこの寺で営み、父の位牌所として寺領を安堵しました。その後、墓は整備され、毎年義元の命日には、地元の人々により慰霊祭が行なわれています」とあった。
 
 
桶狭間から牛久保まで僅か50k弱、奇襲に合って本陣を破られ戦場から逃れた時は背負ったとしても、この豊川あたりは今川領、幾らでも馬を調達して駿府まで運べたと思うのだが。それとも追撃を恐れて、蜘蛛の子を散らすように在所や駿府まで逃げ帰ったのだろうか。
横に一色刑部の墓がある。
 
「室町時代足利の一族一色刑部少輔時家の墓である。永享十一年宝飯郡長山村に築城して一色城と称した、此処の窪地に大牛が横臥していた因縁により牛頭山大聖寺を城郭内に建て、牛頭天王を祀った、文明九年時家は豪臣波多野全慶に殺され、十六年後には全慶も亦牧野古伯に討たれ城主は牧野氏となる、永正二年古伯吉田城を築いて豊橋へ出て次男成勝を瀬木城より呼んで城主とした、之より牛窪城と改まる」と説明板にあった。この牧野家が家訓としたのが参州牛久保之壁書で二十七ヶ条の第一条が有名な常在戦場の四文字です。明治二十六年早川彦右衛門発刊の三河国宝飯郡誌に(全慶は其主一色刑部少輔を殺すと三河国聞書に見えたり)としているものの「当寺境内に一色刑部少輔五輪、波多野全慶墓あり」としている。全慶が一色刑部を殺害した話は本当なのだろうか。
大聖寺から歩いて10分位に山本勘助の墓がある長谷寺に向かう。一般住宅のようなお寺で探すのに苦労する。
 
 
三河国宝飯郡誌にも山本勘助晴幸の墓や故居の記載がある。勘助弟帯刀の末裔といわれるが、戊辰戦争会津飯寺で戦死した長岡藩家老山本帯刀義路(旧安田氏)や太平洋戦争の山本五十六(旧高野氏)元帥と牛窪山本氏との繋がりが気になる。近くに越後長岡藩主牧野忠成の祖父にあたる牛久保城二代城主牧野成定の菩提寺、光輝庵(今光輝院)や成定の墓があるのを全く気が付かなかった。残念な事をした。


この記事をはてなブックマークに追加

豊川稲荷

2017-05-01 09:48:52 | 

久しぶりに飯田線に乗った。相変わらず豊橋駅の飯田線ホームは1・2番線だったが、向かいのホーム3番線に名鉄の特急が停車していた。JRホームの間に私鉄専用ホームがあるのも珍しい。
  
豊川駅で降りて駅近くの郵便局に向かう。赤い線のある建物で大きな郵便局だなと思いながら中に入ると、ATMがズラリと並んでいた。すぐ制服の女性が近づいてきて御用件は、と聞かれた。風景印どころではなかった、建物を間違えたようだ。慌てて出てきたら、小さな郵便局が隣にあった。
 
豊川稲荷は、門を潜ると赤い鳥居か幟がずらりと並んでいるイメージだったが、総門を入ると大きな境内を持つ曹洞宗の妙厳寺というお寺でビックリした。正式には円福山豊川閣妙厳寺という。境内に吒枳尼天を祀る鎮守稲荷が商売繁盛の神さん、豊川稲荷として知られている。
 
総門の脇に鎮守堂、鐘楼堂、正面に山門があり、山門の右手に書院(立願所)がある。ここの前に珍しい郵便ポストが残っている。地方に行くとまだ郵便ポストが残っているが、ほとんどが昭和24年から使われた鉄製ポスト(正式には郵便差出箱1号(丸型))ですが、豊川稲荷にあるポストは明治四十一年に制定された回転式ポストと明治四十五年製造の丸形庇付ポストを合せたような珍しい郵便ポストだった。もっとも私設郵便函規則は大正五年十二月二十九日逓信省令第七十号として発令、翌年一月十六日からの施行なので、当然このポストの設置時期は大正六年以降で、しかも私設郵便取集費用は回数により異なるので、大量の郵便物取扱いがなければ、切手の売捌手数料では取集費用を賄えないので、このポストはかなり近年になってから設置されたのではないだろうか。
 
 
  
本殿横の回廊を潜ると、宝雲殿、万燈堂(禅堂)、弘法堂、大黒堂、霊狐塚と続く。霊狐塚は大黒堂と奥之院の間、幟が両側に立ち並び、この幟、1本奉納するのに幾ら位掛るのかなと思いながら奥にすすむと、数えきれないほどの小さな狐の石像が現れた。なにか見つめられているようで恐ろしい感じがする。何の祠だか分からなかったが宜しくとお願いした。
  
  
 
  
 
 
眷属として龍や狐は多いのに、なぜ狸は少ないのだろうかと思いながら奥ノ院に行く。奥ノ院から景雲門を通って本堂の石段の下に戻る。
 
  
法堂の横手にある朱印所で本尊の「千手観世音菩薩」、本殿の「豊川吒枳尼眞天」、万燈堂の「大聖不動明王」、薬師堂の「長壽薬師如来」4種類の御朱印を頂いた。境内参拝案内図をみても薬師堂は見当たらず、不思議に思いながら門前町に向かう。10年ほど前に東京の古い稲荷寿司屋を廻ったことがあるが、有名だった老舗も相次いで閉店していてがっかりしたことがある。野球のユニホームを着た少年たちが群がっているいなり寿司専門店があった。一個から売っている店で子供たちに混ざって買ってしまった。
 
その先に幟が立ち並んでいる小道があり、奥にお堂があったので御朱印を聞くと有ると言うので頂くと、朱印所で頂いた「長壽薬師如来」と同じ御朱印で慌てて入口で案内板をみるとここが薬師如来堂だった。同じ日に同じ御朱印を頂いたのも初めてだった。
 
   
   
 


この記事をはてなブックマークに追加

名古屋城界隈

2017-04-19 09:54:07 | 

 

尾張徳川家に縁のある貞祖院、建中寺に寄ってから名古屋城に行った。貞祖院のある東区泉はお寺も多く、小さな路地に迷い、入口を探してグルグル回ってしまって、中々たどり着けなかった。
 
慶長十三年(1608)徳川家康四男で清洲城主松平忠吉の養母於美津ノ方(松平忠久の娘)が、忠吉公の菩提を弔うため、清洲に庵室を創立、その後、於美津ノ方の戒名「喜秀院殿光誉貞祖大禅定尼」から喜秀山貞祖院玄白寺と号し、慶長十六年(1611)、清洲より現在地に移る。明治五年(1873)、尾張徳川家の菩提寺である建中寺にあった尾張藩四代藩主吉通の御霊廟を譲り受け貞祖院本堂とし現在に至っているという。 
 
 
貞祖院から建中寺までは1k弱、歩いて15分程度の所にある。名古屋の街中を歩くのは今回が初めてだったが、歩いている人とあまりすれ違わないのが不思議だった。建中寺は慶安三年(1650)に逝去した初代尾張藩主義直公(家康の九番目の息子)の菩提を弔い、尾張徳川家先祖代々の菩提寺として、第二代尾張藩主徳川光友卿が、慶安四年(1651)、本堂、諸堂伽藍十棟を建立し、茨城県結城市弘経寺の成譽廓呑上人を招請して開山した。総門・三門は創建当時の建築物として残っていて、総門、三門、本堂、鐘楼はいずれも名古屋市指定文化財に指定されている。
 
 
 
 
お寺の境内案内図を見て、山門の前にある公園の反対側に総門があるのに気が付く。大した距離ではないのになにかガックリする。
 
名古屋代官郵便局に寄ってからタクシーで名古屋城に向った。平日だったせいか観光客も疎らで、さすが二ノ丸跡まで足を延ばす観光客もいなかったが、どうしても訪ねたかったのが名古屋城二の丸庭園にある「青松葉事件之遺跡」碑。昭和の初めに、現在地から南へ約100mの処刑地跡(現在の愛知県体育館付近)に「尾藩勤王 青松葉事件之遺跡」碑が建立されたが、その後所在不明となり、昭和六十三年に青松葉事件の関係者により復元されたという。
 
 
 
 
 青松葉事件とは慶應四年正月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍大敗を京都で知り朝廷側が幕府側につくか選択を迫られた十四代尾張藩主徳川慶勝は、近隣諸侯を慫慂し勤王奮発(勤王誘引)を行い、姦従誅戮の実行として尾張藩士十四名を姦曲の処置、志不正によりと斬姦した。青松葉の呼称は諸説あるようだが、何時、誰が名付けたのか興味深く感じる。一本の石碑、藩訓秘伝の碑(王命に依って催さるる事)が「尾藩勤王 青松葉事件之遺跡」碑の近くにある。説明板に「この碑文は、初代藩主・徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中にある一項の題目で、勤王の精神について述べている。歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあたっては、親藩であったのに、勤王帰一を表明したといわれている。この碑の位置は二之丸御殿跡である」とある。実際は「軍書合鑑」の巻末に依王命被催事の一條が加えられているという。四代藩主徳川吉通に仕えた近松茂矩が十七歳の時、藩主圓覚院(吉通)より次期藩主五郎太幼少につき成長の後に伝えよと、五十二年以前、直伝により輯録したものを明和元年(1713)、圓覚院様御伝十五箇條として著した。第九から第十四条までの「六ヶ條ハ各別御隠密ナル御家訓ノ由ニテ奥田主馬ト私両人、御寝ノ間ヘ召シテ、御相傳下サレヌ」とあり、その第十二に、軍書合鑑巻末、依王命被催事の一條の説明が「官兵を催される事がある時は、いつとても官軍に属すべき、一門の好みを思ふてかりにも 朝廷にむかふて、弓を引事あるべからず、此一大事を子孫に御傳へ被成たき思召にて、此一ヶ條を巻尾に御記し遺させられたりと思ふべし」とあり、最重要である尊王條項は第一條ではなく十二條に唐突な感じで出てくる。なぜ五十年余も経った後の九代藩主宗睦の時代に藩主相伝であるはずの御家訓をわざわざ著したのは、どんな理由があったのだろうか、不思議な気がする。

  

 

 

 


この記事をはてなブックマークに追加

犬山 青龍山瑞泉寺

2017-04-10 10:03:01 | 

瑞泉寺とその塔頭寺院の龍泉院、龍済寺、臨溪院、輝東寺、臥龍寺の五ヶ寺は、東之宮古墳のある白山平山西の麓に連なっている。瑞泉寺は臨済宗妙心寺派の古刹で、日峰宗舜禅師が創建、勢州朝熊(伊勢朝熊山の頂に弘法大師空海は天長二年(825)、真言密教の根本道場、勝峰山金剛證寺を建て、本尊に福威知満虚空蔵菩薩を祀った。
金剛證寺の中興の祖、仏地禅師が真言宗から臨済宗に改宗され、臨済宗南禅寺派の寺とした)の虚空蔵菩薩を勧請して御本尊として、本寺と称した(本寺の称、雪江和尚の法語にもあり信長の瑞泉寺に与えた朱印状「当寺之事、為関山派本寺之條、早再興尤候云々」にもある)と青龍山瑞泉禅寺記にある。
臨渓院でお寺の方なのか、檀家さんなのか分からない女性が、ここは応仁の乱の時、臨済宗大本山妙心寺が戦火で焼失したとき、ここを一時、本山として京都が復興して妙心寺も復興したとき、本山を京都に戻した格式のある寺で、妙心寺住職が替わった時には挨拶にくると教えてくれたのは此のへんの事だろうか。
妙心寺は開山関山慧玄のあと六世拙堂宗朴のとき、応永六年(1399)足利義満により宗朴は幽閉、寺領は没収、寺名を龍雲寺と改めさせられ、妙心寺は中絶したが、永享四年(1432)妙心寺が返され、瑞泉寺の日峰禅師が妙心寺を中興した。妙心寺の塔頭や末寺は龍泉派、東海派、霊雲派、聖沢派の 四系統に分かれており、これを「四派」と呼ぶ。この四派は妙心寺六祖雪江宗深の法嗣である景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖沢派)の 四名を派祖としている。瑞泉寺は明治に至るまでこの四派輪住の寺であったという。(写真・京都妙心寺)
 
 
瑞泉寺の創建から二百七十年余あとの貞享三年(1686)、仁渓彗寛(瑞泉寺塔頭龍済庵住職)により著わされた瑞泉寺の縁起、寛延四年(1751)、万端彗愚により校正された「青龍山瑞泉禅寺記」に、庵をと提供された土地をみると「巖樹嵐を聯ねて、視聴幽邃なり、山に水無らんことを恐れ、沙弥玄端をして、攸(ところ:水が細長く流れるところ)を相さしむ。遽かに清水有りて、巖謼(岩の隙間)に湧出す、師就いて泉を見るに、泉溢れて池となる、池中須臾に龍有りて現る。其色青色なり、遊戯して天に登る。師独り見て、余は見ること能わず。乃ち草を其所に挿んで、叢林の制を始む。山を青龍と名づけ、寺を瑞泉と号す」(日比野晃訓読「青龍山瑞泉禅寺記」より)とある。
名鉄犬山線の踏切を渡った所に立派な山門がある。犬山城の東側、搦手門だった内田御門を移築したものだと云う。
 
 
 
 
  
瑞泉寺専門道場と毒語心経提唱の表札が掲げられた中門を潜ると、古そうな鐘楼があり、塵一つない綺麗に手入れされた植栽と石畳みの正面に本堂がある。禅宗の修行道場寺院特有の凛とした雰囲気を漂わせる。庫裡で御朱印をお願いするためインターホンを鳴らすと、遠くから足音を立てて若い僧が飛んできた。やはり修行道場だけの事はあった。

参考
瑞泉寺歴代住職:開山日峰宗舜、二世不明、三世義天玄詔、四世雲谷玄祥、五世桃隠玄朔、六世雪江宗深、七世景川宗隆、八世悟渓宗頓、九世、特芳禅傑、十世東陽英朝

妙心寺歴代住職:妙心寺開山関山慧玄、二世授翁宗弼、三世無因宗因、四世雲山宗峨、五世明江西堂(?)、六世拙堂宗朴、七世日峰宗舜、八世義天玄承、九世雪江宗深、十世景川宗隆、十一世悟渓宗頓、十二世特芳禅傑、十三世東陽英朝


犬山 瑞泉寺塔頭寺院


この記事をはてなブックマークに追加

犬山城と瑞泉寺塔頭寺院

2017-04-05 09:22:38 | 

寂光院から犬山城址に向かった。犬山城への入口には二つの神社、三光稲荷神社と針網神社がある。どちらかの神社を通らないと天守閣には近づけないようなので「犬山城への近道」と案内板のあった三光稲荷神社(御祭神は宇迦御魂大神、猿田彦大神、大宮女大神)の横を通る。
 
 
それにしても春休みが始まったせいか、中学生か高校生らしき若い人達であふれていた。この辺りでは他に行く場所がないのだろうか。犬山城は天守が国宝指定された五城(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)のうちの一つで、犬山城天守は現存する日本最古の様式だそうです。
 
帰りは針網神社(尾治針名根連命(主祭神)、 玉姫命 伊邪那岐命 菊理姫命 大己貴命 建筒草命 建多乎利命 建稲種命 尻調根命(尾綱根命) 大荒田命)を通る。
 
 
犬山遊園駅東側、諸国城之図では瑞泉寺を中心に塔頭寺、寺と記載のある瑞泉寺と塔頭寺の龍泉院、龍済寺、臨渓院、輝東寺、臥龍寺を廻った。

青龍山龍泉院は景川宗隆禅師(妙心寺四派の一つである龍泉派の開祖)により応仁二年(1468)、瑞泉寺塔頭として創建された。天正十二年(1584)、小牧長久手の戦いで犬山城主の留守を豊臣方の池田信輝に攻められ討死した三世中川清蔵主の墓がある。平成八年に開祖没後五百年の遠諱(おんき)を行い、本堂や庫裏など伽藍を一新したという。
 
 
青龍山龍濟寺は文安三年(1446)、雲谷玄祥禅師によって建立、本堂裏手に五百五十年前そのままに続く雲谷庭という禅庭があるという事だが、どなたも居らず、残念ながら拝観出来なかった。龍濟寺に貞享三年(1686)、仁渓彗寛により著された「青龍山端泉禅寺記」が残っている。
 
 
臨溪院は妙心寺四派、聖澤派開祖東陽英朝禅師を開創として文明十四年(1482)に創建、永禄八年(1565)兵火に遭い全焼、その後、寛永九年(1632)、時の犬山城主成瀬正虎により再建、成瀬家菩提寺となった。山門の東南の高台に墓所があると聞いたが、今回は内陣横の安置された位牌をみせて貰った。境内にいた女性が「どうぞ、どうぞ」と本堂の中や位牌所を案内してくれたので、お寺の方だと計り思っていたら、最後に詳しい事はお寺で聞いてくれと外に出て行ってしまった。なにか悪い事をしたように直ぐお寺を出てきてしまった。壇家さんだったのだろうか。
 
 
 
臥龍寺は妙心寺四派、東海派開祖悟渓宗頓により開創、延保七年(1679)、泰崋義仙によって再建される。山門の前がえらく狭くなっていたが、この辺からの犬山城が正面になり、眺望がすばらしい。境内に不思議地蔵尊が祀られていた。京都の若い女性に大人気のお寺を思い出した。
 
 
輝東寺は文明元年(1469)、妙心寺四派、霊雲派開祖特芳禅傑大和尚が瑞泉寺住職として入山の時、はじめ輝東庵として創建、織田信長の犬山城攻略により焼失、その後再建され、本堂は顧鑑和尚の時、尾張徳川家により寄進されたという。山門で寝ていた犬が目を醒まして激しく吠えるので、頭を撫でたら大人しくなった。ご住職が不在の時は、留守番がてら犬が山門に繋がれているようだ。
 
 
輝東寺の下側に内田弘法大師御田跡があった。寂光院の拝領地だったのだろうか。
 

犬山 青龍山瑞泉寺

 


この記事をはてなブックマークに追加

犬山 寂光院

2017-03-28 12:52:25 | 

名古屋から犬山まで名鉄で30分も掛らずに行けるとは思わなかった。特急ミュースカイに乗りたくて窓口に行った。事前に空席確認が出来ないのは不便だったが、行も帰りも席はガラガラだったので、わざわざ指定席を買う人もいないのだろう。名鉄名古屋駅の乗降ホームは右左、別になっているが、特急ミュースカイの乗場は降車ホーム側にあった。2・3分間隔で慌ただしく入線する電車をボ~と眺めていたら、駅員が声を掛け乗車口まで連れて行ってくれた。
 
犬山の通称継鹿尾観音を訪ねる。ここは真言宗のお寺で正式には継鹿尾山八葉蓮台寺寂光院という。境内全域は飛騨木曽川国定公園で参道は全て東海自然歩道となっていて、寺伝によると白雉五年(654)、孝徳天皇の勅願に依り南都元興寺道昭和尚により開山された尾張最古の千手観音霊場で本尊の秘仏千手観音は六十年に一度、甲子年に限って開帳されるという。
 
境内には人けが全くない。庫裡で本堂までの石段数を聞いたら三百段以上あるという、エッと云ったらスロープカーがあるので歩かないでも本堂に行けるという。お寺の人が観音様にみえた。
 
 
みかん畑で見かけるような、このスロープカー、ちょっと頼りなさそうだが、エアコンも装備した優れもので、本堂までの高低差90mを4分で運んでくれる。
 
眼下に木曽川が流れ、さすがに展望は抜群だった。本堂の横に大随求菩薩を本尊とする随求堂がある。
 
七回続けて月参りをして、それを七回繰り返す七七月参りは無理としても、古来よりこのお寺には随求堂を右廻り三回巡礼する作法(諸仏に対して最高の礼法)が伝わるという。三回廻った。四十九分の一、終ったことになる。自慢ではないが初めてこのような御参りがあるのを知った。
 
 
本堂の後側に岩石が露出している場所があった。柱状節理なのか板状節理なのかはっきりしなかったが、近くに蛇紋岩でもあれば翡翠がないかと懸命に探すところだった。国土地理院によれば「柱状節理は岩体を多角形柱状に分離した節理で、岩体の冷却時に体積収縮によって冷却面に垂直に生じ、断面は6角形が多い。板状節理は冷却面に平行に生じたもの」とあった。節理はなんだというと地層や岩石のなかの 割れ目のうち,ずれを伴わないもの。ずれを伴う断層と区別するとある。 古代、御嶽山の噴火が木曽川を下ってできた火成岩が隆起したのだろうか。
 
本堂裏手から少し下がったところに寛延三年(1750)に造立された西国三十三観音石仏が集められていた。西国三十三観音霊場、坂東三十三観音霊場、秩父三十四観音霊場のお砂場があった。その下には、各霊場のお砂を頂いてきて埋めてあり、このお砂場を踏むと、その霊場をお参りしたご功徳があると言う。本当に各霊場のお砂を頂いてきたのかと疑えば、その功徳も薄れるので、そこは素直に信じて一瞬にして百観音霊場を廻ったことにした。
  
 
佛手石、佛足石もあった。佛足石は「はだしで念ぜよ」とあったが寒かったので、少しは効き目があるだろうと靴下を履いたまま念じる。
 
 
 
木曽川を挟み犬山城の対岸に川に突き出た岩山がみえた。川関所にもってこいの場所だと思ったら、戦国時代に国衆大澤氏により築城された鵜沼城址だという。この城址は現在、色々あって立入禁止になっている。寂光院の展望台から鵜沼城址の全景が眺められたのは良かった。


   


この記事をはてなブックマークに追加

名古屋 興正寺から大須観音

2017-03-22 10:35:10 | 

名古屋駅には何度か行ったが、何時行っても名古屋駅構内は慣れない。人が多いというより、網の目の様に人が行き来するので、よけい雑多な感じがする。地下鉄東山線の乗場にたどり着くのに一苦労する。行先は住職の解任問題で大荒れた八事の興正寺。この八事山遍照院興正律寺は貞享三年(1686)、天瑞圓照和尚が、この地に草庵を結んだのが始まりで、高野山真言宗別格本山で「尾張高野」とも呼ばれたという。
 
お寺に行ったら露店が出店していて大勢の参拝者がいるのでビックリした。
 
虚空蔵菩薩縁日と能満堂秘仏御開帳が重なって参拝者が多いようだ。あとで、このお寺の行事カレンダーを見たら、空欄が3月は6日間しかなかった。毎日がお祭りみたいなお寺で、御朱印を頂きに納経所を訪ねたら、六種類あるという。御朱印の正式な数え方を知らないが、一ヶ所で六種類の御朱印があるのは初めてだった。
 
尾張徳川家の祈祷所でもある能満堂の秘仏、虚空蔵菩薩は天瑞圓照和尚の作品と伝わり、三月の五日と十三日の二日間だけ御開帳するという。能満堂にはエスカレータがあり、さすが余裕のあるお寺は違うなと感心する。参道の石段の両側には宝篋印塔が並んでいて、異様な感じがした。宝篋印塔を飾りの様に並べているのは趣味が悪すぎる。
 
 
山門の前の道路を挟んで、向かいに「興正寺檀信徒連絡寺務所」の看板が掲げられたプレハブが建っているという。宗派の教義上の対立ならともかく、金銭上の争いでは檀家さんは遣り切れないだろうな。
 
  
     
地下鉄八事駅から名古屋方面に戻って上前津駅で降りる。ここは名古屋でも有数の大商店街である大須商店街の東南の端にあたる。慶長十七年(1612)、犬山城主成瀬正茂が羽島市大須にあった真福寺(大須観音)を現在地に移転、大須観音の門前町として発展したという。織田信秀の葬儀で信長が抹香を位牌に投げつけたと伝える慶長十五年(1610年) 名古屋城築城にあたって、徳川家康の命により現在の大須に移転した萬松寺を探して、商店の中をウロウロしてしまった。大きな寺院だと思い込んでいたのが失敗だった。工事中の建築現場の幌に覆われた場所が萬松寺だった。開基織田信秀公の墓碑は、残念ながら諸堂の工事期間中は公開していないとの事であった。
 
  
昼メシは味噌にこみ「たから」で味噌煮込みうどんにする。スッポン鍋のようにグツグツ煮えたウドンが出てきた。おもったより甘目の味噌で、テーブルに饂飩の食べ方が置いてあった。店内で寿司の出前が出来るような事が書いてあった。
 
 
店を出て大須観音に向かう所に寳寿司という店があった。親戚同士なのかな。それにしても大須観音に向かう参道(商店街)の人混みが半端ではない。春休みに入ったせいか若い人達が大勢いて、アジア系の若い旅行客も多く見かけた。途中に富士浅間神社境内に「まねき稲荷」という小さなお稲荷さんがあり、狛犬なら手招きしている狛狐が社の前に鎮座していた。手招きしている狛狐に気が付いたのは初めてだった。
 
 
大須観音は真言宗智山派の別格本山北野山真福寺宝生院と称し本尊は聖観音で日本三大観音の一つとも言われている。
 
 
 


この記事をはてなブックマークに追加