大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

清水 清見寺から鉄舟寺へ

2016-09-28 10:09:13 | 

興津清見寺咸臨丸乗組員殉難碑は、石灰拓本なのか白い痕が残っているのにはガッカリしたが、由緒は古く、蝦夷の防備のためここに清見関を設け、傍に鎮護のため仏堂を建立したのが清見寺の始まりと伝える。
 
 
 
朝鮮通信使が残した揮毫扁額をはじめとする多数の書画等もあり、平成六年(1994)に「朝鮮通信使遺跡」として国の史跡に指定された。静岡県のH・Pによると県下には朝鮮通信使揮毫扁額が十五あって、清見寺に七つの扁額があるという。
興国(翠屏)、東海名區(錦谷)、瓊瑶世界(螺山)、潮音閣(錦谷)、逍遥、潜龍室、桃源の揮毫は見つけられなかった。
 
 
寛政三年(1791)、清見寺を訪れた琉球慶賀使節の宜野湾朝祥(唐名は尚容名乗りは朝陽)も、「永世孝享」の扁額を残している。

鎌倉を追放された梶原景時一族が清見関附近で戦った。清見関の古材を使った大方丈の玄関の天井にはその時の血痕を留めているという。京都にも、関ヶ原の戦いの前哨戦だった伏見城での戦いで武将が戦死・自決した床板を天井として使ったとされるお寺がいくつかのこっている。京都の寺が、徳川の時代になって慌てて、伏見城のいずれも血の跡が残るとされる床板を、戦死した武将の供養として寺院の天井に使用したというのも滑稽だが、関ヶ原の戦いからさらにさかのぼる、四百年も前の正治二年(1200)の遺構が残っているのも凄い。
 
 
 
 
明治元年、幕府の軍艦咸臨丸が清水港で官軍の攻撃をうけた際、戦死した乗組員を清水次郎長が巳川岸に葬った。のちに山岡鉄舟が「壮士墓」と墓碑銘を贈った。
 
  
史記刺客列傳第二十六の荊軻「風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還」から壮士と名付けたのだろうか。それなら、「壮士」は「そうし・おとこ」、何と訓読させるのだろうと、どうでもよい事を考えながら村松の龍華寺に向かう。
 
 
 
寛文十年(1670)、徳川家康の側室お万の方(養珠院・安房里見氏一族上総勝浦城主正木頼忠娘)の猶子と成った日近上人が開山。日近上人は甲州身延大野山本遠寺第四世を勤めた。家康の十男頼宣(紀伊徳川) 十一男頼房(水戸徳川家)の生母で有名な水戸光圀の祖母に当たる。徳川御三家のひとつである紀州大納言頼宣(徳川頼宣)が生母の菩提のために建立した墓所が、身延本遠寺にあるお万の方の墓である。
 
龍華寺から歩いて5・6分の所に在る鉄舟寺に寄る。
 

 
もとは久能山山頂にあった久能寺を、永禄十二年(1569)、武田信玄が薩埵峠で北条軍を破り駿府に乱入し、その翌年、永禄十三年(1570)には駿河東部に進出し、久能山山頂に城砦を築いた。門前にあった、送電線建設技術研究会による補陀洛山鉄舟禅寺由来によると「武田信玄が今川氏を攻略し駿河に入るに及んで久能の嶮要に築城する事となり天正三年、現在の場所に移された」とある。天正三年(1575)は、武田勝頼が三河長篠で信長家康連合軍に敗れた年で、信玄が亡くなったのが元亀四年(1573)を考えると、久能寺砦の構築は永禄の終りから元亀年間の間だったのではないだろうか。明治になり一時、無住となり興廃したが、明治十六年、山岡鉄舟と有志により再興を発願し寄附を募集し、明治四十三年、寺が完成して寺号も鉄舟寺と改めている。

咸臨丸乗組員殉難碑


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咸臨丸乗組員殉難碑

2016-09-19 09:39:19 | その他

司馬遼太郎の小説「項羽と劉邦」を読んだ。その中に劉邦の武将韓信の謀臣となった弁士蒯生が韓信に漢王劉邦に謀反せよと勧めたとき、韓信が「食人之食者死人之事」と答えたという。
史記准陰侯列伝には「韓信曰、漢王遇我甚厚、載我以其車、衣我以其衣、食我以其食、吾聞之、乘人之車者、載人之患、衣人之衣者、懷人之憂、食人之食者、死人之事、吾豈可以郷利倍義乎」とある。史記に人を煮殺して食する話が出てくる。一瞬、人を食した話かと思った。
「食人之食者死人之事」、訓読みで何とよむのが正しいのだろう。小説では「人ノ食ヲ食セシ者ハ人ノ事ニ死ス」、国訳漢文大成に「人の食(しょく)を食(しょく)する者は、人の事に死す」、史記国字解では「人の食を食む者、人の事に死すと」とあった。
この文句を刻んだ碑が静岡興津の清見寺にあるというので清見寺を訪ねた。
 
清見寺は興津駅からバス3・4分で旧東海道沿いにある山門が見えてくる。山門と総門の間にJR東海道線が走っている。線路を跨ぐ陸橋から総門の間に白い碑が見えた。白く見えた碑が、篆額従四位大鳥圭介、揮毫従二位榎本武揚による咸臨丸乗組員殉難の碑だった。
 
現在は揮毫が表面で陰面に篆額があり、なにか奇妙な感じがする。白く見えたのは石灰拓本の痕なのか痛々しい傷跡のように残っている。福沢諭吉の「痩我慢の説」に「碑の背面に食人之食者死人之事の九字を大書して榎本武揚と記し、公衆の観に任して憚るところなきを云々」とあり、明治二十年代、この碑の向きが今とは表裏が逆なのがわかる。
 
それにしても、榎本武揚が清水港での咸臨艦殉難諸氏紀念碑の揮毫に「食人之食者死人之事」の九字を撰んだのか理解できない。碑の題額である「骨枯松秀」の篆額は大鳥圭介だという。
 
松秀は壮士の墓建設の際の山岡鉄舟の詩「砂濶孤松秀 空留壮士名 水禽何所恨 飛向夕陽鳴」から採ったという。
骨枯は曹松の己亥歳「澤國江山入戰図 生民何計樂樵蘇 生民何計樂樵蘇 一將功成萬骨枯」から。骨枯させた一将とは誰を指しているのだろうか。念のため、孤松秀と水禽何所恨という字句を探したら、陶淵明の名を騙ったとされる四時の詩に「秀孤松」、また陸遊の詩に「水鳥何所恨」という字句があった。なにか寄せ集めて詩を作った感がする。清見寺から壮士墓に向かう。

骨枯松秀  碑文
王政維新之歳秋八月德川旗下諸士隊卒私有所誓駕開陽回天
咸臨蟠龍千代田長鯨美加保神速諸艦同發品川灣北赴仙臺到
房總海猝遇颶風各艦離散相失咸臨艦截其大檣纔免覆没更案
鍼路再圖北駛而暴風又起漂蕩南洋艦體毀損不能遠航遂入駿
河淸水港卸桁觧綱欲畧加修理而北  官諜而知之遣冨士山武
藏飛龍三艦來撃發砲甚急飛龍艦兵執劔銃超入艦中艦之副長
春山辨藏士官長谷川得藏准士官長谷川淸四郎春山鑛平加藤
常次郎今井幾之助及水兵若干格闘死之實九月十有八日也 
官艦曳咸臨以去而死屍浮海累日無人敢斂之者土人山本長五
郎侠士也夜索港中得七屍竊載至向嶋埋古松樹下建石表之題
曰壮士墓今茲舊友相謀建碑於淸見寺内具記其顛末以傳不朽
系之以銘其辭曰                   
是義人 是頑民 奬曰守節 貶曰吠尭         
要之壮士 可以興世風之日澆(注)             
明治十九年三月  元老院議官従四位大鳥圭介篆額   
              墨水逸士七十一翁永井介堂撰并書

(注)  澆: 氵に尭の異体字で表記


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一柳直末と会津一柳氏

2016-09-11 10:01:57 | 掃苔

山中城址に建立された宗閑寺の境内に、秀吉の北條方山中城攻めで豊臣方の先鋒を務め戦死した一柳直末の墓がある。
 
 
戒名は大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門、院号が大通院で、弟監物直盛が家を継いた。直盛の嫡男直重は伊予西條藩、二男直家は播磨小野藩、三男直頼は伊予小松藩主となる。元禄十一年(1698)に、播磨国小野藩主一柳末礼が一柳庵の墓を山中新田にある宗閑寺境内に移葬し、寛政四年(1792)、小野藩第五代藩主一柳末栄とその子六代藩主末英により直末墓前にその事蹟を刻んだ大通君碑を建立し、昭和に入り、直末の弟監物直盛の曾孫直増の二男増海に連なる一柳貞吉が、直末の旧跡の調査を行い、宗閑寺境内入口の碑も建立に至ったものだという。

大通君碑に「公聞君戦死方喰失箸為之弗怡者數日」とある。秀吉は食事中に直末の戦死を聞き、箸を落とし数日の間は不機嫌だったという。一柳家系図によれば一柳初代宣高の子、又右衛門直高の室は稲葉一鉄の姉の娘、直末の室は黒田孝高の妹で、直末戦死後、一子を連れ、実家に戻り後伊藤是庵と再婚している。孝高は子が生まれなかった長政の後を直末の子松壽に継がせようとしたが、長政に子(忠之)が生まれた翌年の慶長八年(1603)、松壽は事故死している。忠之(二代)の正室梅渓院は側室養照院が光之(三代)が誕生した二か月後に亡くなっている。一柳家の宗家、直照家の江戸菩提寺は芝の金地院に墓域がある。五輪塔は西條城主一柳直重墓
 
 
 
右、直重子直照孫、直長弟増海の墓
 
右、直長曾孫、直住の墓
 
会津一柳家は直末娘が稲葉源左衛門末晴に嫁ぎ、末晴が一柳右京と改名、その子直晴は直末弟監物直盛の養子となったが、後直盛嫡男直重が生まれ、直晴出生し京都に隠遁した。直晴弟右京盛晴の子直好が会津藩に仕えた。右京盛晴娘は監物直盛嫡男直重の側室となり、直照の生母です。天保初め前後の述作と思われる会津藩士の伝記「啞者之独見」に、一柳直好、平左衛門幼名長吉、一柳又左衛門直次嫡子で一柳監物の外甥で十三歳のとき、監物に御側に仕え、監物病死のあと、江戸に下り母方の叔父土岐長庵方に居候のとき、会津藩家老田中三郎兵衛に出合い、正之公に仕えることになった。正保三年(1646)の事だという。この直好は寛文十二年(1672)、家老職に就いている。

要略会津藩諸士系譜に一柳直好、一柳又左衛門直次嫡子とあり、一柳直信、一柳右京亮直次二男とある。一柳宗家系譜一柳末晴系として稲葉源左衛門末晴(後一柳右京と改名)の次男の盛晴の子は源左衛門尉直好、盛晴の次男直信とある。一柳又左衛門直次と一柳右京盛晴は同一人物と考えてよさそうである。渋谷長谷寺が会津一柳直富次男直行家の菩提寺。
 
 
駒込龍光寺が会津一柳直信家の菩提寺になっている。
 


参考
大通君碑
是曩祖大通院豆州府君所戦死處天正中北條氏政據険逆命不朝于帝所豊臣公敷
責之不聴且有悪言公怒出征先遣諸将攻山中城臨期更令君奮曰今日弟殊死耳迺
辞元帥秀次而出結冑纓絶其餘直前接戦所郷披靡軍勢大張會中銃子卒於于師従
士竹島仁兵衛住井助市郎等八人皆争死其所君弟監物代君率軍趣攻戦疾山中城
遂陥時庚寅三月二十九日也公聞君戦死方喰失箸為之弗怡者數日云鳴呼不穀不
徳似續妣祖辱在邦君之後者實君之條烈是頼因碑而傳之使吾臣子知君之血食有
所繇
                                    従五位下對馬守越智宿禰末栄
                                            男       従五位下行土佐守       末英
寛政壬子冬十二月                   島原         盤瀬行言撰並書


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三島山中 宗閑寺

2016-09-04 09:31:07 | 掃苔

天正十八年(1590)三月二十九日、豊臣秀吉の北條攻めで討死した間宮一族の墓のある三島山中城三ノ郭址にある宗閑寺を訪ねた。この寺は山中城で討死した間宮康俊の娘、お久の方が亡父の菩提を弔う為、山中城の一隅に寺を建てることを願い出て許され、了的上人を招いて山中落城より30年後に父の法名をとって宗閑寺と称して建立したのが始まりと伝えられる。お久の方は山中城落城後、徳川家康に仕え四女松姫をもうけている。
文化庁国指定文化財の史跡山中城跡詳細解説には「小田原城西方防備ノ出城ニシテ天正十八年豊臣秀吉ノ軍ニ攻圍セラレ城将松田直長等戰死シ城遂ニ陷リ以後廢城トナレリ字北條山ノ地域ニ本丸、二ノ丸、三ノ丸ヲ置キ岱崎ニ出丸ヲ設ク壘壕善ク存シ舊規見ルベキモノアリ三ノ丸ノ地ニアル宗閑寺ハ出丸ノ守将間宮康俊ノ女ガ亡父ノ菩提ヲ吊フ爲建立セルモノナリ寺内城将以下小田原方戰死者ノ墓及西軍戰死者一柳直末ノ墓アリ」とある。
JR三島駅から元箱根行きのバスに乗り30分位で山中バス停に着く。バス停から90mほど三島方面に戻ると宗閑寺に着く。隣の公民館の横に山中城跡に行く道がある。山中城将兵の飲料水として使われた箱井戸と馬用の田尻の池の間から二ノ郭、西の郭へ続く道がある。
 
 
 
たいした高さも無いように見えたが登り道がきつい(標高差120m)。畝掘を眺めて宗閑寺へ戻る。公民館の裏手に墓域があり、珍しい模様が刻まれた墓石が残っていた。
 
 
宗閑寺入口に昭和五年三月二十九日 東京伊豆守直末後裔一柳貞吉譔竝建とある山中城趾記念之碑があり、山中城址記と東月山宗閑寺由来略記が刻まれていた。
 
昭和に入り、一柳直末の子孫により関東大震災で荒れ果てていた宗閑寺を再興、北條豊臣方双方の墓を整備し、いまは本堂の左手に小田原方戰死者の墓及西軍戰死者一柳直末の墓石が並んでいる。

 
左側は北條方で、三基の墓は左側から上州箕輪城主 多米出羽守長定墓、長谷川志摩守平近秀墓、追沼帯刀先生氏雅墓、正面右側に山中城主松田直長墓、直長は秀植とも称し、氏康の諱を貰い康秀、康長とも称したと云う。
入口の碑文には康俊其弟信俊康俊子信冬とあり、間宮一族の間宮康俊、其弟信俊、康俊子信冬と三名の名がある。今、中央にある三基の五輪塔の台座になっている檀主間宮三郎兵衛尉正次による石碑文によれば、
「北條氏直幕下忠臣□ 普光院殿武月宗閑潔公居士 間宮豊前守源康俊七十三歳
圓誉宗覚居士 康俊舎弟監物天正十八庚寅年三月廾九日依山中落城為秀吉公討死
教誉宗円居士 監物嫡源十郎」とある。
 
寛政重修家譜記載の宇多源氏佐々木庶流間宮系図では康俊の子に信冬、源十郎の名は見当たらないが、監物の子の源十郎は山中において戦死とあるので、はっきりしないが三基の五輪塔は、間宮康俊その弟監物その子源十郎ではないだろうか。檀主の間宮正次は康俊から数え五代目か六代目に当たる(六代正次は四代忠次二男、五代正信弟で正信も正次を称している)
 

参考(山中城趾記念之碑刻文)
史蹟 山中城趾記念之碑   従二位勲一等 松室致書
山中城址記
山中城係北條氏康創築葢為西方防禦也天正十七年氏政修築之與韮山城兵為小田原城前衛東西約三町北方之森為本丸西方之小丘為二之丸現宗閑寺境内及附近為三之丸城主松田直長與援将北條氏勝以四千餘人守之又南方隔四丁構岱崎出丸間宮康俊以手兵百餘人守之翌年即距今三百四十年三月二十九日豊臣秀吉攻之右翼堀秀政等将二萬人中軍豊臣秀以二萬人左翼徳川家康三萬人而一柳伊豆守直末為中軍先鋒肉薄不避矢砲不孝中流丸而斃弟監物直盛代之奮戦遂略取之城主及武将等悉自刃遁去城址所在属静岡県田方郡錦田村山中新田為史蹟保存建此碑以傳於後世云爾

東月山宗閑寺由来略記
天正之役山中城陷守将松田右兵衛大夫直長以下悉自刃岱崎出丸守将間宮豊前守康俊遺女久為父菩提建立當寺于其遺蹟開山了的和尚属浄土宗本尊聖徳太子作阿弥陀如来也如来原安置信州善光寺後為徳川家康之有而久父自刃後仕家康有寵仍乞之為當寺本尊爾後罹祝融之災二回堂宇寶物悉帰烏有明治三十三年復遭大風災倒壊可謂遺憾矣當寺塋城現存者為豊臣軍先鋒一柳伊豆守直末北條軍直長康俊其弟信俊康俊子信冬武将多米出羽守長定長谷川志摩守近秀追沼帯刀氏雅等墳墓冀有縁之士春秋不断祭祀尚協力當寺之維持保存由来記略如斯

一柳直末一族と会津一柳氏


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金沢での食事

2016-08-16 09:14:12 | 

金沢駅近くの朝食付ビジネスホテルに泊まる。ホテル横に系列のタクシー待機所があるというのでこのホテルを撰んだ。ここの朝食が酷かった。食事の内容がどうのこうのではなく、従業員が食事の終わったテーブルの上のパン屑など手で掃ってゴミをなくしていた。当然、パン屑等は床に落ちるか、隣のテーブルに飛んでくることになる。マネージャーらしき人に注意したが、翌日の朝も屑を手で掃っていた。このホテルの従業員をみていると、東京白金や京都駅前のホテルと同系列とはとても信じられなかった。

夕食はホテルから一番近い寿司屋で金沢別院通りにある「あかめ寿司」に開店と同時に入店した。
 
店奥の小さな生簀に毛ガニが!春先に新潟に行った時、やはり寿司屋だったが地物の毛ガニがあった。金沢でも地物の毛ガニがあるとは思わなかったが訊けば金沢港で水揚げがあるという。店にあった今日は「これ食べとけ」という親父のおすすめメニューの中で、聞いたことが無かったのが万十貝と金時草、万十貝は盛合せに入れて貰った。
薄い二枚貝の表は真っ白で、内側は淡いピンク色をしていた。「きんときそう」と云いそうになる金時草(きんじそう)は酢の物に、きれいな赤紫色になった。

 
 
 
 
右)新潟 寿司処「かつみ」の毛ガニ
 
戦前から金沢で栽培されている野菜を加賀野菜ブランドとして金時草、二塚からしな、源助だいこん等15品目が認定されているという。

能登では穴水駅前の「幸寿司」、金沢市内では近江町市場の「井ノ弥」で丼物にした。両店とも見た目綺麗に盛ってあった。幸寿司では箸をお土産にくれた。寿司屋の箸を「一膳」、「二膳」貰ってもあまり使い道に困ってしまう。能登の間伐材でも使って宣伝しているのだろうか。近江町市場の出入口が沢山あるみたいだが、たまたま車を降りたのがパーキング口、最初に目に着いた井ノ弥に入る。11時に店に入ったらもう半分ほど席が埋まっていた。
 
 
前日に電話予約して行ったのが金沢市木倉町の「五郎八」という居酒屋。タクシーで木倉町の五郎八と云うとすぐ判った。結構有名なのかな。帰り際には女将さんとカウンターの前にいた板さんがお店の外まで見送ってくれた。
 
 
 

京都以外の観光地で女将さんや板さんが外まで見送ってくれたお店は初めてだった。実は五郎八では腹、七・八分目で出てきた。五郎八に来る途中にあった金沢中央味食街というディープ感一杯の飲食街に寄りたいとおもっていた。
 
長屋みたいな店が連なっている飲食街の前まで来たら、昼間、能登を引っ張り廻したせいか、連合いが食欲より横になりたいと言い出して、寄る事が出来なかった。


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兼六園から天徳院

2016-08-08 09:31:33 | 

兼六園の中にある日本で最初だという噴水を、しばらく眺めていた。
 
この噴水を兼六園では文久元年(1861)に造られた日本最古のものだとしていたが、水戸の玉龍泉の方が天保十三年(1842・偕楽園の開園)に造られもので、古いのではといわれるようになり、兼六園側ではこの噴水は十九世紀中頃につくられたと変更している。余談だが偕楽園の名は「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」(孟子 見梁惠王、、、古之人與民偕樂、故能樂也、、、、民欲與之偕亡。雖有臺池鳥獸、豈能獨樂哉)から採っている。兼六園の噴水は霞ヶ池との高低差で自噴させている。霞ヶ池がいつ造成されたかハッキリしないが、この池に水を供給しているのが寛永九年(1632)完成の辰巳用水で、伏越(逆サイホン)の原理を使い城中への導水が目的で造られた。城の東南(辰巳)、犀川上流の上辰巳に東岩取水口を設け、四kmは暗渠とした延長十二kmを手掘りで造っている。加賀藩史料によると天保八年(1830)八月、竹沢御庭の泉水に恒例の鮎簗を設けることを命じ、前田斎泰考案による竹沢御庭の泉水が出来た事が記載されている。鮎簗を設けることが出来る竹沢御庭の泉水に、霞ヶ池への辰巳用水からの給水が出来るようにして何らかの形で自噴の噴水を創ったのではないだろうか。
金沢市紀要に「兼六園は廃藩の後四周の門牆(もんしょう:入口)を撤し各処に登路を作り、明治七年開放して萬人偕楽の処としてから之を兼六園又は金沢公園と呼んだ。内務省は大正十一年之を名勝に指定し金沢公園と称へたが間もなく兼六園の旧称に複せしめた」とある。それにしても蓮池御庭を兼六園と称したのは何時の時代なのか、それとも明治になってから兼六園と称したのだろうか。
兼六園から天徳院に向かう。途中、辰巳用水の一部が残っていた。
 
天徳院は元和九年(1623)、加賀三代藩主前田利常は正室珠姫菩提のため、金沢城の東、小立野台に四万坪の広大な敷地に正室珠姫の法号である天徳院殿乾運淳貞大禅定尼に因んで天徳院を創建。山号は金龍山、開山は巨山泉滴大和尚。本堂の一角で珠姫物語を六体の「からくり人形」を上演している。
 
  
 
 
別料金で黙照禅庭と呼ばれる回遊式庭園を見ることが出来る。どのへんが黙照禅の庭なのか理解するのは難しい。一切の悟りを求めず、ただ黙々と坐するなら、庭は不必要になってしまう。何ものも求めずひたすらに坐禅しなければならない禅宗のお寺に立派な庭が多いのはどのような理由があるのだろうか。
 
 
元気いい中年女性の団体がドカドカ入ってきたので早々に退散する。それにしても、本堂の内陣までズカズカ入って行くのはなんとかならないだろうか。内陣など見ても次の観光地に行けば何も覚えていないだろうに、と思う。
石仏群があるというので天徳院から歩いて数分の如来寺に寄る。
 
 
化野念仏寺のような思い描いていた石仏群とはだいぶ違っていた。


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兼六園のこと

2016-08-02 10:08:07 | 

金沢の観光地で人気があるのが日本三名園の一つの兼六園。大昔に来たことがあるが、片方が折れた灯籠しか記憶にないので再訪した。説明によれば、この大名庭園は広大な土地に、池、築山、御亭を配置した廻遊式の庭園で大きな池を大海に見立て、そのなかに不老不死の神仙人が住むと言われる島を配し、藩主たちは長寿と永劫の繁栄を庭園に投影し相反する景観を調和させ対照の美を演出していると云う。
五代藩主前田綱紀が金沢城向かいの千歳台に蓮池庭を造った事に始まり、前田斉広が隠居所として竹沢御殿を蓮池庭より一段上の千歳台に造営した。
 
兼六園の名は白河藩主・松平定信(楽翁:八代将軍徳川吉宗の孫)によって、宋代の李文叔(格非)の「洛陽名園記」から、宏大と幽邃、人力と蒼古、水泉と眺望という、相反するすぐれた景観の六勝を兼ね備えた中国湖園の文を引用して「兼六園」の名を贈ったと云われている。
 
 
松平定信の書に「文政壬午季秋 楽翁書」とあることから、文政五年(1822)の書と考えられている。しかし松平定信は来たことも見たことも無いこの庭の事をどうして「兼六園」と名付けられたのであろうか。文政五年といえば、加賀藩では十二代藩主斉広が隠棲し蓮池庭に建坪四千坪部屋数二百以上の御殿を建て十二月には竹沢御殿と称し移り住み、それから毎月、能を演じていた。老中在任中、緊縮財政や風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した松平定信にとって、隠居の斉広が豪勢な御殿を建てた庭園を、六勝を兼ね備えた名園と褒める訳もなく、家督相続していた十三代藩主斉泰は兼六の文字を見て驚愕したのではないだろうか。
 
石川県史に「のち之を刻して園の正門に顔す」とある。絵図には竹沢御殿・蓮池御庭とあり、いつの時代にこの額を正門に掲げ兼六園としたのであろうか。李文叔は「文章軌範」のなかに「書洛陽名園記後(洛陽名園記ノ後ニ書ス)」という文を残している。大町桂月は「洛陽に名園多し。李文叔が記をつくりけるが、その記事のあとにこの文を添えて、徒らに苑池花木を記するはその本意にあらざるを書きたるもの也」と注をいれている。李文叔の本意は何だったのだろうか。
「洛陽は天下の中にをり、、、四方必争の地なり。天下の無事なるに當つては則ちやむ、事あれば則ち洛陽は必ず兵を受く余故に嘗て曰く。洛陽の盛衰は天下治乱の候なりと、、、天下の治乱は洛陽の盛衰を候して知り、洛陽の盛衰は園囿の興廃を候して得。則ち名園記の作、余あに徒然ならんや、、、一己の私をほしいままに自ら之を為して天下の治忽を忘れ、退きて此をうけんと欲するも得んや。唐の末路これのみ」。
洛陽を加賀と置き換えて、松平定信は兼六の文字で名園記後を示唆し、加賀藩の今後を危惧したのではないだろうか。文政七年、斉広が亡くなったのが七月、斉泰は翌月の八月、早々に斉広が江戸や京から呼び寄せた能役者に暇を与えて、竹沢御殿を竹沢御屋敷と称し三の丸に准ずるとしている。斉広継室真龍院が竹沢御殿址に新しい屋敷を望んだのが文政九年(1826)、天保元年(1830)には竹沢御殿の毀した古材の利用について協議しているので、この頃までには現在の兼六園の姿に落ち着いたのではないだろうか。

(参考)
洛陽名園記・湖園:「洛人云園圃之勝不能相兼者六務宏大者少幽邃人力勝者少蒼古水泉多者無眺望兼此六者惟湖園而巳」

文章軌範・書洛陽名園記後:「洛陽處天下中、、、 四方必争之地也。天下當無事則巳 有事則洛陽必受兵余故嘗曰。洛陽之盛衰天下治乱之候也。、、、 天下之治乱候洛陽之盛衰候園囿之興廃而得。則名園記之作。余豈徒然哉。 、、、 放乎一己之私自為之。而忘天下治忽欲退享此得乎。唐之末路是已」


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金沢 神社めぐり

2016-07-27 09:43:24 | 

市内の神社めぐりは金沢城の西端にある尾崎神社からスタートした。
 
 
この神社は寛永二十年 (1643)に四代藩主前田光高が金沢城北の丸に天照大神・源朝臣家康(徳川家康)・菅原朝臣利常(加賀藩三代藩主)を祀る東照三所大権現社として建立したもので、明治になり神仏分離のため本地堂が現在の長田菅原神社の拝殿として移され、城内に残っていた「御宮」も明治七年に尾崎神社と名称を変更し、明治十一年に現在地に移築されたという。
 
藩祖前田利家が豊臣政権の筆頭大老だったこともあり、利家亡き後、慶長・元和・寛永の時代、徳川家との緊張関係が残っていた。利家の妻(芳春院)が江戸から解放されたのが三代藩主利長死去の翌月、慶長十九年(1614)六月で同年九月にやっと、将軍秀忠は前田利常に加越能三州を領すべき朱印状を与えた。家康は同年十月に大坂征討を命令、前田家は徳川勢として大坂冬の陣に参加した。慶長五年(1600)、三代藩主利常は徳川秀忠の娘、珠(天徳院)を正室として迎え、寛永十年(1633)、水戸徳川頼房娘(光圀姉・清泰院)を徳川家光の養女にして四代藩主光高の正室とし、更に万治元年(1658)五代藩主綱紀は家光の異母弟、保科正之の娘巻摩須(松・松嶺院)を正室として徳川幕府との融和を図っていった。
 
尾崎神社から城に沿って南に五分も歩くと尾山神社の横の駐車場に着く。
 
尾山神社は慶長四年(1599)に加賀藩の藩祖前田利家を祭り創建された卯辰八幡宮を、明治六年に卯辰山から現在地に移し尾山神社とし、今、神門は国の重要文化財に指定されている。明治八年に建てられた和漢洋折衷の三層式建物という変わった建築様式で当時の金沢の評判はどんなだったのだろう
 
ここは元々、小立野台地の端で加賀一向一揆の拠点であった尾山御坊と呼ばれる浄土真宗の寺院があった所で、山のしっぽ(尾)から尾山(御山)と呼ばれたとも言われる。そうすると尾崎は山のしっぽ(尾)の先(崎)という事になるのだろうか。早めのお昼を近江市場で取って、またお城兼六公園の西隣に在る石川護国神社に向かう。
 
石川護國神社は石川県出身者及び旧陸軍第九師団の他県出身の戦没者の御霊をお祀りしている。明治戊辰の役で戦死した加賀藩の百八名の戦没者を、明治三年、卯辰山に招魂社を造営して祀ったのが始まりで、昭和十年に卯辰山から現在地に遷座、昭和十四年社名を石川護國神社と改称した。ここに旧招魂社碑が残されているというので境内を探しまわってしまった。本殿左奥と社務所(事務所)との間の雑草の中にポツンと残されていた。
 
金沢の陸軍埋葬地は明治9年、野田山の山ノ内に設けられ、この陸軍墓地は戦後の一時期、野田山陸軍墓地と呼ばれたこともある。現在、石川県戦没者墓苑として県が維持管理を行っている。野田山にある石川県戦没者墓苑配置図説明に「この墓苑は明治時代に、陸軍が戦没者の墓地として整備したもので、古くは戊辰戦争、西南戦争から太平洋戦争にいたるまでの戦没者が合葬されています」とある。
 
 
日中戦争の戦没者を慰霊するため、陸軍などにより建立された忠霊塔や卯辰山の金沢市共同墓地及び天徳院境内に個々に埋葬されていた西南役、北越役関係戦没者を合葬した陸軍軍人合葬之墓、
 
征清役戦死軍人・病歿軍人合葬碑 日露役陣歿者合葬碑が建立されている。
 


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能登 輪島門前町

2016-07-19 10:25:05 | 

金沢に泊まって能登のお寺さんを廻る。総持寺祖院等を訪ねるのも非常に不便で、電車で行くか、高速バスで行くか迷ったが、のと鉄道の観光列車に一度は乗りたくて電車を利用することにした。JR七尾線とのと鉄道の車両がラッピング車両で、JR七尾線車両は昔話ばなしの主人公かと思ったら、七尾市のマスコットキャラクター「とうはくん」で、のと鉄道のラッピング車両は、なんでもTVアニメ「花咲くいろは」の主人公だという。
 
 
車窓から眺めていたら、ピンク色の駅舎の愛称「能登さくら駅」やホームに異なる2つの駅名標がある駅があった。「湯乃鷺駅」はTVアニメで使用した駅名だった。時刻表に記載のない駅名標で支線でもあるのかとびっくりした。
 
七尾湾に丸太組のやぐらを組んだ古い漁法、「ぼら待ちやぐら」が見えてきた。さすが能登は魚影が濃いな思っていたら、帰り望遠にして櫓の上の人をみたら、これが人形、すっかり騙されてしまった。
 
阿岸本誓寺から廻った。山門脇の石碑に「能登阿岸 新巻山本誓寺」とあり、門扉に三つ葉葵と二条藤の家紋が打ってあった。能登鳳至郡の百六ヶ寺の触頭寺院で在った事と本誓寺住職家に二条家の娘が嫁いできたことによるらしい。
 
本堂は文永五年(1268)、善了法師の創建と伝えられ、入母屋造り、平入り、総茅葺きで、正面に四本柱の三間向拝を設け、規模は、正面桁行柱間九間(約24m)梁行柱間十間の大規模な建物であり、安永九年(1780)に起工し、寛政四年(1792)に棟上げしたという。茅葺屋根では日本屈指の大きさでいかにも古刹という雰囲気で五木寛之の百寺巡礼に選ばれたのも納得する。
 
 
能登三十三観音霊場、北陸三十六不動の札所でもある鳴梅山宝泉寺に寄る。
 
山門の脇にあった真田伊豆守信乃の供養塔の事を聞こうと本堂を訪ねるといきなりお経が始まった。ご住職は不在で会えなかったがセンサーでお経の録音テープが鳴り出したのはビックリした。
    
太齢山覚皇院は応永六年(1399)開山は大徹宗令大和尚、創建より大本山總持寺の塔頭寺院で江戸時代の總持寺輪住制時代では輪住の住職が覚皇院で身支度を整えてから晋住したという。ここでもご住職には不在で会えなかった。もしかしたら祖院に詰めているのだろうか。
 
 
境内に一人の観光客も見かけず、ひっそりとした総持寺祖院を廻る。
 
總持寺は元亨元年(1321)、瑩山紹瑾禅師によって開創、山号は諸嶽山、後醍醐天皇綸旨により總持寺を勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定めた。明治三十一年、七堂伽藍の大部分を焼失し、明治四十四年に寺基を鶴見に移し、以後、能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれ曹洞宗専門道場となっている。
 
 
 
本堂で身寄りがないので生前供養をお願いしに東京からきたという年配の女性と会う。生前授戒で血脈を頂きにきたのだろうか。歳をとると考えないといけない事が色々起きてくる。祖院総門に入ってすぐ右側に前田利家の妻「まつ」の位牌所である芳春院がある。
 
穴水から和倉温泉駅でJR特急に接続する、のと鉄道の観光列車で金沢に戻る。
のと鉄道は七尾~穴水間、8駅約33kの短い路線で、片道35分前後の所を観光列車は1時間程度かけて走る。一生懸命ガイドしてくれる。横に来て車内装飾の説明をするが、話の内容が乏しい所為か相槌するのも疲れる。
左)のと鉄道始発駅七尾駅改札       右)穴水駅
 
 
のと鉄道能登中島駅に郵便車が保存してあった。現存する郵便車両は2台しかないそうです。


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加賀八家墓所 玉龍寺・開禅寺

2016-07-11 21:53:52 | 掃苔

金沢市内は妙に方角と距離感がとれない町である。町の中心、お城は金沢駅の東南の方向、約2kにあり、小立野台地の先端に浅野川と犀川とに挟まれたほぼ真ん中に築かれている。
 
城を中心に道が八方に伸び、菱形に城下町が形成されている。昔は地図の上方は北と決まっていたが、観光地図は見やすいように描く為か、南北が上下逆であったり、東西が反転していたり、そのうえ一方交通の路も多く、よけい方向感覚が無くなってしまう。
金沢城は浅野川と犀川を自然の濠に見立て、川の外側に三つの寺院群を移築し、城の東側の卯辰山には卯辰山山麓寺院群、南東の小立野台地には小立野寺院群、南の寺町・野町にある寺院を寺町寺院群と呼び、城の備えとしたという。
この寺町寺院群に加賀八家の対馬守家と呼ばれる前田家の墓所が玉龍寺に、同じく加賀八家の長家の初代・六代・七代・八代の墓が開禅寺にある。(九代以降は前田家三代利常公と九代重靖公の墓所の北側、野田山芝山地区)
前田長種家の菩提寺玉龍寺に行く。タクシーで「寺町の玉龍寺」にと云うと、運転手の方が首をかしげる。七十近いお寺さんがあっては知らないのも無理はない。お寺の在る町名も間違っていた。地図にあった沼田の交差点に行って貰った。ここからが大変だった。お寺の入口が判らず、細い道を行ったり袋小路をバックで戻ったり運転手も大変だった。
前田長種は織田信長家臣だった前田長定の嫡男で利家の娘、幸を正室とし加賀前田一門に列した。長種家は荒子城主尾張前田氏とは別系統の下之一色村城主前田氏で系図ははっきりしないが、前田仲利の嫡男家とも言われている。
長種の子直知の最初の正室が稲葉一鉄の孫おなあ(祖心尼)、一鉄の兄弟、重通の娘おあんが嫁いだ先が斎藤道三の孫で叔父が明智光秀になる斎藤利三で、その娘が三代将軍徳川家光の乳母となったおふく(春日局)、おなあが再婚したのが蒲生氏郷重臣町野繁仍の子幸和で、その孫娘振(自証院)は家光の側室となっている。最後の会津武士と称され、小説の主人公にもなった会津藩士町野主水重安の祖、町野重成は町野繁仍弟の町野秀俊の孫にあたる。
東京牛込済松寺       祖心尼墓
 
玉龍寺は曹洞宗の寺院で山号は大亀山、開山は桂厳慧芳大和尚、開基は菅原泰学長規(前田家家老前田対馬守長種祖父)としている。山門は薬医門で脇塀付桟瓦葺と云うそうです。
 
左)前田氏先祖安楽院殿、二代玉龍寺殿、その配天桂院、三宝塔之銘
右)手前から前田長種墓、長種室墓、二代直知墓
 
 
玉龍寺の前の道を南に250m位下がると開禅寺に着く。
 
開禅寺の勧請開基は大乗寺二世瑩山紹瑾大和尚、開基は加賀八家の一つ長家元祖長谷部信連、山号は華嶽山、加賀八家長家の墓所の一つで前田家二代利長と共に金沢に移転したと伝わる。長連龍の娘で、利長の幼女となり、前田美作守直知の継妻となった久香院(求光院)の墓もあるという。
六代長善連墓         右)七代連起・室墓
 
八代連愛・室墓        右)長家墓域
 
野町のお寺を巡った日は30度を超える猛暑日で他のお寺さんを廻る元気もなく、駅へ帰るタクシーを待つ間、開禅寺の前の龍淵寺の山門の石段で休ませてもらった。
 
この開禅寺の寺域全体が金沢市の保存樹林になっているそうで、涼しい風が吹き抜けていた。


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