大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

名古屋城界隈

2017-04-19 09:54:07 | 

 

尾張徳川家に縁のある貞祖院、建中寺に寄ってから名古屋城に行った。貞祖院のある東区泉はお寺も多く、小さな路地に迷い、入口を探してグルグル回ってしまって、中々たどり着けなかった。
 
慶長十三年(1608)徳川家康四男で清洲城主松平忠吉の養母於美津ノ方(松平忠久の娘)が、忠吉公の菩提を弔うため、清洲に庵室を創立、その後、於美津ノ方の戒名「喜秀院殿光誉貞祖大禅定尼」から喜秀山貞祖院玄白寺と号し、慶長十六年(1611)、清洲より現在地に移る。明治五年(1873)、尾張徳川家の菩提寺である建中寺にあった尾張藩四代藩主吉通の御霊廟を譲り受け貞祖院本堂とし現在に至っているという。 
 
 
貞祖院から建中寺までは1k弱、歩いて15分程度の所にある。名古屋の街中を歩くのは今回が初めてだったが、歩いている人とあまりすれ違わないのが不思議だった。建中寺は慶安三年(1650)に逝去した初代尾張藩主義直公(家康の九番目の息子)の菩提を弔い、尾張徳川家先祖代々の菩提寺として、第二代尾張藩主徳川光友卿が、慶安四年(1651)、本堂、諸堂伽藍十棟を建立し、茨城県結城市弘経寺の成譽廓呑上人を招請して開山した。総門・三門は創建当時の建築物として残っていて、総門、三門、本堂、鐘楼はいずれも名古屋市指定文化財に指定されている。
 
 
 
 
お寺の境内案内図を見て、山門の前にある公園の反対側に総門があるのに気が付く。大した距離ではないのになにかガックリする。
 
名古屋代官郵便局に寄ってからタクシーで名古屋城に向った。平日だったせいか観光客も疎らで、さすが二ノ丸跡まで足を延ばす観光客もいなかったが、どうしても訪ねたかったのが名古屋城二の丸庭園にある「青松葉事件之遺跡」碑。昭和の初めに、現在地から南へ約100mの処刑地跡(現在の愛知県体育館付近)に「尾藩勤王 青松葉事件之遺跡」碑が建立されたが、その後所在不明となり、昭和六十三年に青松葉事件の関係者により復元されたという。
 
 
 
 
 青松葉事件とは慶應四年正月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍大敗を京都で知り朝廷側が幕府側につくか選択を迫られた十四代尾張藩主徳川慶勝は、近隣諸侯を慫慂し勤王奮発(勤王誘引)を行い、姦従誅戮の実行として尾張藩士十四名を姦曲の処置、志不正によりと斬姦した。青松葉の呼称は諸説あるようだが、何時、誰が名付けたのか興味深く感じる。一本の石碑、藩訓秘伝の碑(王命に依って催さるる事)が「尾藩勤王 青松葉事件之遺跡」碑の近くにある。説明板に「この碑文は、初代藩主・徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中にある一項の題目で、勤王の精神について述べている。歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあたっては、親藩であったのに、勤王帰一を表明したといわれている。この碑の位置は二之丸御殿跡である」とある。実際は「軍書合鑑」の巻末に依王命被催事の一條が加えられているという。四代藩主徳川吉通に仕えた近松茂矩が十七歳の時、藩主圓覚院(吉通)より次期藩主五郎太幼少につき成長の後に伝えよと、五十二年以前、直伝により輯録したものを明和元年(1713)、圓覚院様御伝十五箇條として著した。第九から第十四条までの「六ヶ條ハ各別御隠密ナル御家訓ノ由ニテ奥田主馬ト私両人、御寝ノ間ヘ召シテ、御相傳下サレヌ」とあり、その第十二に、軍書合鑑巻末、依王命被催事の一條の説明が「官兵を催される事がある時は、いつとても官軍に属すべき、一門の好みを思ふてかりにも 朝廷にむかふて、弓を引事あるべからず、此一大事を子孫に御傳へ被成たき思召にて、此一ヶ條を巻尾に御記し遺させられたりと思ふべし」とあり、最重要である尊王條項は第一條ではなく十二條に唐突な感じで出てくる。なぜ五十年余も経った後の九代藩主宗睦の時代に藩主相伝であるはずの御家訓をわざわざ著したのは、どんな理由があったのだろうか、不思議な気がする。

  

 

 

 


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犬山 青龍山瑞泉寺

2017-04-10 10:03:01 | 

瑞泉寺とその塔頭寺院の龍泉院、龍済寺、臨溪院、輝東寺、臥龍寺の五ヶ寺は、東之宮古墳のある白山平山西の麓に連なっている。瑞泉寺は臨済宗妙心寺派の古刹で、日峰宗舜禅師が創建、勢州朝熊(伊勢朝熊山の頂に弘法大師空海は天長二年(825)、真言密教の根本道場、勝峰山金剛證寺を建て、本尊に福威知満虚空蔵菩薩を祀った。
金剛證寺の中興の祖、仏地禅師が真言宗から臨済宗に改宗され、臨済宗南禅寺派の寺とした)の虚空蔵菩薩を勧請して御本尊として、本寺と称した(本寺の称、雪江和尚の法語にもあり信長の瑞泉寺に与えた朱印状「当寺之事、為関山派本寺之條、早再興尤候云々」にもある)と青龍山瑞泉禅寺記にある。
臨渓院でお寺の方なのか、檀家さんなのか分からない女性が、ここは応仁の乱の時、臨済宗大本山妙心寺が戦火で焼失したとき、ここを一時、本山として京都が復興して妙心寺も復興したとき、本山を京都に戻した格式のある寺で、妙心寺住職が替わった時には挨拶にくると教えてくれたのは此のへんの事だろうか。
妙心寺は開山関山慧玄のあと六世拙堂宗朴のとき、応永六年(1399)足利義満により宗朴は幽閉、寺領は没収、寺名を龍雲寺と改めさせられ、妙心寺は中絶したが、永享四年(1432)妙心寺が返され、瑞泉寺の日峰禅師が妙心寺を中興した。妙心寺の塔頭や末寺は龍泉派、東海派、霊雲派、聖沢派の 四系統に分かれており、これを「四派」と呼ぶ。この四派は妙心寺六祖雪江宗深の法嗣である景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖沢派)の 四名を派祖としている。瑞泉寺は明治に至るまでこの四派輪住の寺であったという。(写真・京都妙心寺)
 
 
瑞泉寺の創建から二百七十年余あとの貞享三年(1686)、仁渓彗寛(瑞泉寺塔頭龍済庵住職)により著わされた瑞泉寺の縁起、寛延四年(1751)、万端彗愚により校正された「青龍山瑞泉禅寺記」に、庵をと提供された土地をみると「巖樹嵐を聯ねて、視聴幽邃なり、山に水無らんことを恐れ、沙弥玄端をして、攸(ところ:水が細長く流れるところ)を相さしむ。遽かに清水有りて、巖謼(岩の隙間)に湧出す、師就いて泉を見るに、泉溢れて池となる、池中須臾に龍有りて現る。其色青色なり、遊戯して天に登る。師独り見て、余は見ること能わず。乃ち草を其所に挿んで、叢林の制を始む。山を青龍と名づけ、寺を瑞泉と号す」(日比野晃訓読「青龍山瑞泉禅寺記」より)とある。
名鉄犬山線の踏切を渡った所に立派な山門がある。犬山城の東側、搦手門だった内田御門を移築したものだと云う。
 
 
 
 
  
瑞泉寺専門道場と毒語心経提唱の表札が掲げられた中門を潜ると、古そうな鐘楼があり、塵一つない綺麗に手入れされた植栽と石畳みの正面に本堂がある。禅宗の修行道場寺院特有の凛とした雰囲気を漂わせる。庫裡で御朱印をお願いするためインターホンを鳴らすと、遠くから足音を立てて若い僧が飛んできた。やはり修行道場だけの事はあった。

参考
瑞泉寺歴代住職:開山日峰宗舜、二世不明、三世義天玄詔、四世雲谷玄祥、五世桃隠玄朔、六世雪江宗深、七世景川宗隆、八世悟渓宗頓、九世、特芳禅傑、十世東陽英朝

妙心寺歴代住職:妙心寺開山関山慧玄、二世授翁宗弼、三世無因宗因、四世雲山宗峨、五世明江西堂(?)、六世拙堂宗朴、七世日峰宗舜、八世義天玄承、九世雪江宗深、十世景川宗隆、十一世悟渓宗頓、十二世特芳禅傑、十三世東陽英朝


犬山 瑞泉寺塔頭寺院


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犬山城と瑞泉寺塔頭寺院

2017-04-05 09:22:38 | 

寂光院から犬山城址に向かった。犬山城への入口には二つの神社、三光稲荷神社と針網神社がある。どちらかの神社を通らないと天守閣には近づけないようなので「犬山城への近道」と案内板のあった三光稲荷神社(御祭神は宇迦御魂大神、猿田彦大神、大宮女大神)の横を通る。
 
 
それにしても春休みが始まったせいか、中学生か高校生らしき若い人達であふれていた。この辺りでは他に行く場所がないのだろうか。犬山城は天守が国宝指定された五城(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)のうちの一つで、犬山城天守は現存する日本最古の様式だそうです。
 
帰りは針網神社(尾治針名根連命(主祭神)、 玉姫命 伊邪那岐命 菊理姫命 大己貴命 建筒草命 建多乎利命 建稲種命 尻調根命(尾綱根命) 大荒田命)を通る。
 
 
犬山遊園駅東側、諸国城之図では瑞泉寺を中心に塔頭寺、寺と記載のある瑞泉寺と塔頭寺の龍泉院、龍済寺、臨渓院、輝東寺、臥龍寺を廻った。

青龍山龍泉院は景川宗隆禅師(妙心寺四派の一つである龍泉派の開祖)により応仁二年(1468)、瑞泉寺塔頭として創建された。天正十二年(1584)、小牧長久手の戦いで犬山城主の留守を豊臣方の池田信輝に攻められ討死した三世中川清蔵主の墓がある。平成八年に開祖没後五百年の遠諱(おんき)を行い、本堂や庫裏など伽藍を一新したという。
 
 
青龍山龍濟寺は文安三年(1446)、雲谷玄祥禅師によって建立、本堂裏手に五百五十年前そのままに続く雲谷庭という禅庭があるという事だが、どなたも居らず、残念ながら拝観出来なかった。龍濟寺に貞享三年(1686)、仁渓彗寛により著された「青龍山端泉禅寺記」が残っている。
 
 
臨溪院は妙心寺四派、聖澤派開祖東陽英朝禅師を開創として文明十四年(1482)に創建、永禄八年(1565)兵火に遭い全焼、その後、寛永九年(1632)、時の犬山城主成瀬正虎により再建、成瀬家菩提寺となった。山門の東南の高台に墓所があると聞いたが、今回は内陣横の安置された位牌をみせて貰った。境内にいた女性が「どうぞ、どうぞ」と本堂の中や位牌所を案内してくれたので、お寺の方だと計り思っていたら、最後に詳しい事はお寺で聞いてくれと外に出て行ってしまった。なにか悪い事をしたように直ぐお寺を出てきてしまった。壇家さんだったのだろうか。
 
 
 
臥龍寺は妙心寺四派、東海派開祖悟渓宗頓により開創、延保七年(1679)、泰崋義仙によって再建される。山門の前がえらく狭くなっていたが、この辺からの犬山城が正面になり、眺望がすばらしい。境内に不思議地蔵尊が祀られていた。京都の若い女性に大人気のお寺を思い出した。
 
 
輝東寺は文明元年(1469)、妙心寺四派、霊雲派開祖特芳禅傑大和尚が瑞泉寺住職として入山の時、はじめ輝東庵として創建、織田信長の犬山城攻略により焼失、その後再建され、本堂は顧鑑和尚の時、尾張徳川家により寄進されたという。山門で寝ていた犬が目を醒まして激しく吠えるので、頭を撫でたら大人しくなった。ご住職が不在の時は、留守番がてら犬が山門に繋がれているようだ。
 
 
輝東寺の下側に内田弘法大師御田跡があった。寂光院の拝領地だったのだろうか。
 

犬山 青龍山瑞泉寺

 


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犬山 寂光院

2017-03-28 12:52:25 | 

名古屋から犬山まで名鉄で30分も掛らずに行けるとは思わなかった。特急ミュースカイに乗りたくて窓口に行った。事前に空席確認が出来ないのは不便だったが、行も帰りも席はガラガラだったので、わざわざ指定席を買う人もいないのだろう。名鉄名古屋駅の乗降ホームは右左、別になっているが、特急ミュースカイの乗場は降車ホーム側にあった。2・3分間隔で慌ただしく入線する電車をボ~と眺めていたら、駅員が声を掛け乗車口まで連れて行ってくれた。
 
犬山の通称継鹿尾観音を訪ねる。ここは真言宗のお寺で正式には継鹿尾山八葉蓮台寺寂光院という。境内全域は飛騨木曽川国定公園で参道は全て東海自然歩道となっていて、寺伝によると白雉五年(654)、孝徳天皇の勅願に依り南都元興寺道昭和尚により開山された尾張最古の千手観音霊場で本尊の秘仏千手観音は六十年に一度、甲子年に限って開帳されるという。
 
境内には人けが全くない。庫裡で本堂までの石段数を聞いたら三百段以上あるという、エッと云ったらスロープカーがあるので歩かないでも本堂に行けるという。お寺の人が観音様にみえた。
 
 
みかん畑で見かけるような、このスロープカー、ちょっと頼りなさそうだが、エアコンも装備した優れもので、本堂までの高低差90mを4分で運んでくれる。
 
眼下に木曽川が流れ、さすがに展望は抜群だった。本堂の横に大随求菩薩を本尊とする随求堂がある。
 
七回続けて月参りをして、それを七回繰り返す七七月参りは無理としても、古来よりこのお寺には随求堂を右廻り三回巡礼する作法(諸仏に対して最高の礼法)が伝わるという。三回廻った。四十九分の一、終ったことになる。自慢ではないが初めてこのような御参りがあるのを知った。
 
 
本堂の後側に岩石が露出している場所があった。柱状節理なのか板状節理なのかはっきりしなかったが、近くに蛇紋岩でもあれば翡翠がないかと懸命に探すところだった。国土地理院によれば「柱状節理は岩体を多角形柱状に分離した節理で、岩体の冷却時に体積収縮によって冷却面に垂直に生じ、断面は6角形が多い。板状節理は冷却面に平行に生じたもの」とあった。節理はなんだというと地層や岩石のなかの 割れ目のうち,ずれを伴わないもの。ずれを伴う断層と区別するとある。 古代、御嶽山の噴火が木曽川を下ってできた火成岩が隆起したのだろうか。
 
本堂裏手から少し下がったところに寛延三年(1750)に造立された西国三十三観音石仏が集められていた。西国三十三観音霊場、坂東三十三観音霊場、秩父三十四観音霊場のお砂場があった。その下には、各霊場のお砂を頂いてきて埋めてあり、このお砂場を踏むと、その霊場をお参りしたご功徳があると言う。本当に各霊場のお砂を頂いてきたのかと疑えば、その功徳も薄れるので、そこは素直に信じて一瞬にして百観音霊場を廻ったことにした。
  
 
佛手石、佛足石もあった。佛足石は「はだしで念ぜよ」とあったが寒かったので、少しは効き目があるだろうと靴下を履いたまま念じる。
 
 
 
木曽川を挟み犬山城の対岸に川に突き出た岩山がみえた。川関所にもってこいの場所だと思ったら、戦国時代に国衆大澤氏により築城された鵜沼城址だという。この城址は現在、色々あって立入禁止になっている。寂光院の展望台から鵜沼城址の全景が眺められたのは良かった。


   


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名古屋 興正寺から大須観音

2017-03-22 10:35:10 | 

名古屋駅には何度か行ったが、何時行っても名古屋駅構内は慣れない。人が多いというより、網の目の様に人が行き来するので、よけい雑多な感じがする。地下鉄東山線の乗場にたどり着くのに一苦労する。行先は住職の解任問題で大荒れた八事の興正寺。この八事山遍照院興正律寺は貞享三年(1686)、天瑞圓照和尚が、この地に草庵を結んだのが始まりで、高野山真言宗別格本山で「尾張高野」とも呼ばれたという。
 
お寺に行ったら露店が出店していて大勢の参拝者がいるのでビックリした。
 
虚空蔵菩薩縁日と能満堂秘仏御開帳が重なって参拝者が多いようだ。あとで、このお寺の行事カレンダーを見たら、空欄が3月は6日間しかなかった。毎日がお祭りみたいなお寺で、御朱印を頂きに納経所を訪ねたら、六種類あるという。御朱印の正式な数え方を知らないが、一ヶ所で六種類の御朱印があるのは初めてだった。
 
尾張徳川家の祈祷所でもある能満堂の秘仏、虚空蔵菩薩は天瑞圓照和尚の作品と伝わり、三月の五日と十三日の二日間だけ御開帳するという。能満堂にはエスカレータがあり、さすが余裕のあるお寺は違うなと感心する。参道の石段の両側には宝篋印塔が並んでいて、異様な感じがした。宝篋印塔を飾りの様に並べているのは趣味が悪すぎる。
 
 
山門の前の道路を挟んで、向かいに「興正寺檀信徒連絡寺務所」の看板が掲げられたプレハブが建っているという。宗派の教義上の対立ならともかく、金銭上の争いでは檀家さんは遣り切れないだろうな。
 
  
     
地下鉄八事駅から名古屋方面に戻って上前津駅で降りる。ここは名古屋でも有数の大商店街である大須商店街の東南の端にあたる。慶長十七年(1612)、犬山城主成瀬正茂が羽島市大須にあった真福寺(大須観音)を現在地に移転、大須観音の門前町として発展したという。織田信秀の葬儀で信長が抹香を位牌に投げつけたと伝える慶長十五年(1610年) 名古屋城築城にあたって、徳川家康の命により現在の大須に移転した萬松寺を探して、商店の中をウロウロしてしまった。大きな寺院だと思い込んでいたのが失敗だった。工事中の建築現場の幌に覆われた場所が萬松寺だった。開基織田信秀公の墓碑は、残念ながら諸堂の工事期間中は公開していないとの事であった。
 
  
昼メシは味噌にこみ「たから」で味噌煮込みうどんにする。スッポン鍋のようにグツグツ煮えたウドンが出てきた。おもったより甘目の味噌で、テーブルに饂飩の食べ方が置いてあった。店内で寿司の出前が出来るような事が書いてあった。
 
 
店を出て大須観音に向かう所に寳寿司という店があった。親戚同士なのかな。それにしても大須観音に向かう参道(商店街)の人混みが半端ではない。春休みに入ったせいか若い人達が大勢いて、アジア系の若い旅行客も多く見かけた。途中に富士浅間神社境内に「まねき稲荷」という小さなお稲荷さんがあり、狛犬なら手招きしている狛狐が社の前に鎮座していた。手招きしている狛狐に気が付いたのは初めてだった。
 
 
大須観音は真言宗智山派の別格本山北野山真福寺宝生院と称し本尊は聖観音で日本三大観音の一つとも言われている。
 
 
 


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小田原 富水駅から栢山駅へ

2017-03-16 11:12:58 | 小田原

小田急線富水駅からブラブラ歩いて15分位で尊徳記念館に着く。途中、山門脇に五輪塔・宝篋印塔が綺麗に並べられていた光明寺に寄る。摂取山光明寺の創建は文明五年(1473)、天野三郎兵衛康景の墓がある相模沼田の西念寺の末寺だという。
 
 
この辺は、室町時代から戦国時代にかけて多くの戦いがあったところで、どんな武士たちが葬られているのだろうか。墓地に古い五輪塔があった。旧堀ノ内村の名主だったの平塚氏一族の墓域だろうか。
光明寺の近くにある若宮八幡宮は隣村飯田岡に祀られていた若宮八幡宮を文和中洪水の後、堀ノ内村に遷座したと堀ノ内村八王子社元禄五年(1692)の棟札にあるという。
 
 
栢山にある尊徳記念館は3階建ての立派な建物でビックリしたが、尊徳の資料や遺品を展示しているのは1階で、2・3階は会議室や宿泊室を備え、講座、サークル活動等の生涯学習活動の場として利用しているという。記念館敷地内に二宮尊徳が十六歳の一家離散の際に売り払われた生家が尊徳の誕生の地に復元されている。木造平屋建 茅葺で、間口7間(12.74m) 奥行4.5間(8.19m) 床面積31.35坪(103.6㎡)で、かなり大きい家だが、この地方の中流農家の典型的な大きさだと言う。
 
 
二宮家の菩提寺、善栄寺に向かう途中にある「蕎麦月読」で昼食にした。初めての店だったので、分からなかったが、次から次と入ってくるお客さんは皆、蕎麦を大盛で注文している。天ぷらも蕎麦も美味しかったが、お蕎麦の量が少なすぎた。
 
風土記稿に「善榮寺 如意山と號す、曹洞宗、大住郡日向村石雲寺末、開基は木曽義仲の妾巴女なり、牌一基あり、法號善榮寺如意貞信と記す、源平盛衰記を按ずるに、巴女は義仲没落の後、信濃國に落下りしを、鎌倉に召上せられしが、和田義盛申請に因て、彼が妻となり、朝比奈三郎義秀を産む、和田合戦に義秀討れて後、越中國に往き石黒某を頼み出家し、九十一にして死すと云」、さらに「 天文廿三年(1544)北條氏康の室、元亀二年(1571)十月三日卒、牌を置。 法號瑞渓院光室宗照と記す、僧宗忻を請て再興あり」とある。巴御前が何所で木曽義仲と別れたかハッキリしない。巴御前が和田義盛と再婚したというのは物語として面白いが信憑性は乏しいと言われている。
 
本堂前に木曽義仲と巴御前の五輪塔があった。説明には「木曽義仲公側室當寺開基巴御前之墳」とある。いつ五輪塔が建てられたか不明だが、今ある二基の五輪塔は明治十一年三月に再建されたという。牌一基は、法號善榮寺如意貞信と記す位牌が有ったと云う事ではないだろうか。
 
荒廃していた善栄寺を天文二十三年(1555)、三代北條氏康夫人瑞渓院が再興して曹洞宗に改宗している。瑞渓院殿光室宗照大姉の彫銘文字がある宝篋印塔が本堂横の墓地にあった。市によると江戸時代に造立されたという。
 
近くに二宮一族の墓域がある。
 
二宮一族の墓域にもあったが、同じ形をした廟墓(石堂・石殿)が多く残っていた。屋根の形と箱形の本体部分の造りで、その地方の特長がある。米沢の上杉氏菩提寺、春日山林泉寺に万年塔と呼ばれる廟墓が残っている。小田原にある廟墓は切妻屋根が多いように思う。
 
 
栢山神社を通って栢山駅に向かった。
 


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経済なき道徳

2017-03-06 09:57:06 | 小田原

小田原城内の二宮神社に二宮尊徳像がある。
 
 
横に出典は不明だが「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」との説明板があった。


 
経済と言う用語は、中国の書にでてくる経世済民から採ったらしいが、尊徳は経済という言葉をどういう意味で使ったか気になった。netで調べたら、「道徳なき経済は犯罪」が先であったり、戯言が寝言など色々なバージョンがあると云う事は、それぞれの訳者の注解の言葉が拡がったという事だろうか。netに、二宮尊徳の高弟福住正兄(後、箱根湯本萬翠楼福住経営)が、師の言葉を書き留めた「如是我聞録」を整理し、尊徳の言行録を刊行(明治17~20年正編五巻)した「二宮翁夜話」が原典ではないかと書かれていた。早速、国会図書館のデジタルコレクションのお世話になる。巻之四、第百七十六に似たような話が載っていた。
「経済に天下の経済あり、一国一藩の経済あり、一家又同じ」としながらも、各々異にして、博奕(バクエキ)や娼妓屋をなすも、一家一身上に取ては、皆経済と思ふが、政府是を禁じ、猥(ミダリ)に許さゞるは、国家に害があるからだと話す。道徳的善悪は、その行為が法に従っているかどうかと云うことであれば「道徳なき経済は犯罪である」というのは何となく分かる。四書五経・大学にある「国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為す」(国不以利為利、以義為利也)を引用して、「是をこそ、国家経済の格言と云べけれ、農商一家の経済にも、必此意を忘るゝ事勿れ」と語っている。「経済なき道徳は戯言(寝言)」という、この部分の理解が難しい。
大学では「君子先慎乎徳。有徳此有人。有人此有土。有土此有財。有財此有用。徳者本也。財者末也」と言っている。「経済なき道徳は戯言」は、早い話、経済が無ければ、道徳は出来ないのかと云いたくなる。「徳」が根本にあってその結果として「財」が得られるとした大学の言葉とはだいぶ異なる。やはりここでいう経済という言葉をどういう意味で使っているのかよく理解できない。慌てて、「二宮翁夜話」を買って読んでいるが、なかなか先に進まないでいる。
 
金次郎が薪を背負いながら本を読んで歩く姿を「負薪読書図」と呼ぶとあった。最近では、中国の「朱買臣図」をもとに作られた可能性が高いという。読書をしながら歩く大徳寺系「負薪読書図」と座って読書する妙心寺系「置薪読書図」の二種類があるという。薪を背負い読書をしながら歩く二宮尊徳像は多いが、二宮家菩提寺で小田原栢山の善栄寺に座って読書する二宮尊徳像がある。

参考 「大学」
「孟献子曰、畜馬乗、不察於鶏豚。伐氷之家、不畜牛羊。百乗之家、不畜聚斂之臣。与其有聚斂之臣、寧有盗臣。此謂国不以利為利、以義為利也。長国家而務財用者、必自小人矣。彼為善之小人之使為国家、災害並至。雖有善者、亦無如之何矣。此謂国不以利為利、以義為利也。」


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駿河小山 乗光寺・勝福寺・正福寺

2017-02-27 10:05:35 | 小田原

静岡県駿東郡小山町の乗光寺に町の文化財に指定された大森氏六代之墓が残っているというので出かけた。小山町には上古城、下古城や、乗光寺がある生土という古そうな地名が残っている。生土の読み方が判らなかったが、駅前で聞くとイキドと呼ぶという。生土はウブスナ(産土・生れた土地)とも読むと用語辞典にあった。松田から御殿場線に乗換え駿河小山駅に向かう。電車は酒匂川に沿って走る。この川は静岡県に入ると鮎沢川と名を替える。
  
大昔、島だった伊豆半島が北上して、約100万年~50万年前に本州に衝突し、その後も北上を続け丹沢山地を隆起させたという。伊豆半島側の礫層は約10万年前丹沢山地から流れ出した河川がつくったものだという。丹沢層群にもぐりこんだ足柄層群との境が松田町から山北、静岡小山にいたる神縄断層と言われ、小山町生土の北、皆瀬川にこの断層の露頭した場所がある。半島が衝突して皺ができ、そこに水が流れて、砂が運ばれる。ちょっと強引だが、生土が土を生むと場所と云うのもまんざら縁が無い話ではないようだ。(駿河小山駅から生土方面)

駿河小山駅のホームから鮎沢川越しに対岸に乗光寺本堂の屋根が見えた。
 
 
応安五年(1372)大森信濃守頼明の開基により、生土に宝雲山浄居寺を創建、明応四年(1495)大森氏の小田原落城により、当寺も衰廃する。曹洞宗の寺として相模の平山に一時、乗光寺として中興されたが断絶、正保元年(1644)十世隠叟和尚、大森氏末裔の幕臣大森頼直によりに生土に雲居山乗光寺が再中興され、各地にあった大森氏の墓を当地に移したという。
 
乗光寺大森氏六代の宝篋印塔は大森頼明、その室、頼春、氏頼、実頼、藤頼の墓六基だという。寛政重修諸家譜の大森系図によれば、頼明は足柄最乗寺、氏頼は久野総世寺に葬るとあり、風土記稿記載の岩原古城蹟図に在る古墳三基五輪塔が大森信濃守頼春、信濃守氏頼等の墓だと伝える。氏頼は父頼春の菩提を弔うため長泉院を開創し、大森氏の菩提寺としたという。六基の宝篋印塔を探して、墓域の最上段まで行ってしまった。大森氏の墓は墓域の中央にあり、上からだと白い説明板と無縫塔の塊がみえるので場所は判りやすいが辿り着くのに苦労した。
 
小山町中島の鷹巣山勝福寺は大森頼春開基、頼春の長子友石明訓禅師(乗光寺三世)の開山と伝わる。度重なる火災で縁起等の記録は残っていない。
 
     
山門の裏に打付けられた案内板に「この山門は元来は深沢城の城門なり廃城(天正十年)の際申受け現在の門柱の位置に茅葺にて山門となる明治中頃(活岩和尚)屋根亜鉛板葺替、昭和十五年春現在地に移転、昭和三十八年篤志家の力により大修繕を施し、銅板葺と為す、当山六百八十年間の変遷を、黙然と看視する唯一の建物なり。山主記ス」とあった。御殿場の深沢城は葛山氏一族深沢氏の城館ともいわれ、その後、今川勢の城になったとも言う。大森氏と葛山氏の遠祖は同じなので、勝福寺山門が深沢城の城門を申受けたという話が伝わるのも可笑しくはない。
小山町小山にはもう一つ、大森氏と関係の深い梅向山正福寺がある。
 
開基は色々な説があるが、延宝三年(1675)「正福寺歴住宝物由緒書」によれば大森頼明の子の別当職・権大僧正實雄大法印と伝わる。御殿場線は日中、1時間に1本の割合、帰りの時間が気になり裏山にあると云う古い宝篋印塔を見過ごしてしまった。


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河津 称念寺

2017-02-20 12:52:35 | その他

早咲きの河津桜の原木に寄ってから称念寺境内の桜を見に行った。前回(27年2月19日)は3分咲きだったが今回(16日)は満開だった。
左列(27.2.29)                右列(29.2.26)
 
 
河津川に沿って称念寺に向かう。
 
 
静岡教区浄土宗青年会のH・Pに宝林山称念寺の開山上人は僧澄道 心蓮社誠譽上人、開基年は宝治元年(1247)とある。

境内にあった河津町の説明板には「称念寺は、安元三年(1175)河津三郎祐泰が谷津館の内に称念庵を創立、守本尊の阿弥陀如来を安置したのがはじまりといわれている。永禄四年(1562)山崩れにあい、現在地に移った。本尊阿弥陀如来には「春日正作縁起」という縁起が伝えられている。」とあり、河津三郎守本尊の阿弥陀如来像は一本の白羽の矢を蔵していて、現在は秘仏として祀られているという。
本堂の脇に多くの尖頂舟型墓標があった。尖頂舟型墓標は江戸初期の造立で関東地域に多く、西は三島あたりまでと言われている。山中城址の宗閑寺裏の墓地にも多くみられた。ここにある宝篋印塔は相模に多くみられる基礎石の輪郭二区が一区しかなく、この辺りが東と西の異なる墓標様式の接点だったのだろうか。
 
(基礎石の輪郭一区)
               
称念寺の山門近くに、馬頭観音があり、その裏手に明治二十年代に下河津邑の有志により建立された皇軍死者忠魂碑が残っていた。台湾出兵か日清戦争の忠魂碑なのか判読できなかった。
 
河津三郎祐泰は伊豆の豪族、伊藤氏流れをくむ伊東家次(工藤祐隆)の孫、河津祐親(河津祐親)の子で、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我十郎(祐成)・五郎(時致)の父にあたる。河津川の対岸に河津三郎祐泰を奉る河津八幡神社がある。境内には力石を持ち上げている河津三郎や富士の巻狩りでの曽我兄弟の像がある。相撲の珍しい決まり手「河津掛け」を考案したのが河津三郎と云われている。
 
なぜ兄が十郎で弟が五郎なのかと思ったら、同じような疑問を持った人がいた。長野市立長野図書館のレファレンス事例に記載があった。
春湊浪話
「曾我十郎、同五郎 鎌倉時代、人の嫡子より次を太郎二郎三郎と次第に名付る。なべての事なり。曾我十郎祐成、同五郎時宗と名乗し事、人ごとに不審する事なり。今按るに、十郎が元服せし時は、祖父伊藤祐親は三浦介に預けられて存生なるべければ、祐成を祐親が子とし、其末子伊藤九郎祐清が弟に准じて、十郎とは呼ける成べし。五郎は文治六年九月七日に北条時政の亭にて元服して、五郎時致と名乗よし、東鑑に見へたれば、其時に時政の子として時致と名乗らせ、江島小四郎義時の弟に准じて、五郎とは称せしにぞ。東鑑に時致とも、時宗とも書たり。実は時宗なるを、後に北条時宗出来より、是を諱て所々時致と書改しものなる歟。」『広文庫 第11冊』p516『日本随筆大成 第3期 10』p437
なるほどと云う感じ!


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小田原塚原 長泉院

2017-02-11 10:05:24 | 小田原

大森氏の墓があるのではと訪ねた久野の総世寺には大森頼久の供養塔が残っていたが、大森氏の墓標らしきものは見当たらなかった。岩原城址から西に直線で1.7Kの所に大森氏と関係の深い曹洞宗の長泉院がある。
 
長泉院の創建は文明二年(1470)、号は玉峯山、開山は大寧宗忍、開基は大森八郎實頼(法名清泉院可安道印で従昔大森寄栖庵・僧實山を請て岩原村薬師堂の地に一寺を起立し、清泉院と号す、文明二年大森實頼当所廃寺蹟(号東明山)を闢き此に移して再建し今の山院号に改むと云、と風土記稿にあり、さらに明応九年(1500)藤頼公の時、小田原城主北條氏茂により落城し、この節岩原・川村・内山一時に落城し、家臣ことごとく戦死したという。この長泉院は最寄りの大雄山線塚原駅から2K以上離れており、バスも近くを通っていないため、訪れる人も少なく、入口から山門まで杉並木が600mも続き、古刹静寂の趣を強く残している。
 
 
参道杉並木の途中にこの寺の十二旧跡の一つ、大森彦七が火焔を吹く大龍を、太刀を抜き退治し、この龍がでた所を龍門橋と名付けた橋があった。長泉院由来記に出てくる話だが、由来記に大久保忠隣の名が出てくるので、江戸初期に創られたと思われる。この中に「当寺は大森の菩提寺にて、則岩原村に清泉院とて実山和尚の開基の寺有、本尊薬師聖徳太子の御作にして岩原村に有しが、則当寺へ引越、弐寺を一ヶ寺とす、尤鎮守八幡宮并薬師堂大森の墓所は于今岩原村に有之、則当寺の支配なり、寄栖庵の位牌則当寺に有之」、とある。
 
 
風土記稿にある里正が蔵する古城略図にある岩原城址の北西にある五輪塔が墓所だったのだろうか。それでも、未練がましく、寺の墓域を探したが大森氏の墓碑を探したが見つからなかった。墓域には加藤一族の墓碑が多くあり、その一つに清左衛門地獄を開くと書かれた墓碑があった。清左衛門地獄は箱根外輪山東山麓には湧水群や自噴井戸群の湧水の一つで、清左衛門が水源を探し当てたといわれ、数々の伝承が残されている。この清左衛門地獄池は平成の名水百選に選定されている。清左衛門は小田原城主大森氏に仕えた岩原城代家老加藤兵庫の子孫、加藤市郎兵衛頼隆の子清左衛門季安で元禄十六年八月十七日に亡くなったが、墓碑を見ると長男勘右衛門頼季が同年同月の一日遅れで亡くなっている。何があったのだろう。
 
今から70年以上も前の昭和9年に発行された小田原の写真集に大森氏墓の写真が記載されていた。写真の墓は宝篋印塔と五輪塔が混ざって積まれている石塔で、説明に足柄上軍岡本村岩原の城址西南の丘上に五輪塔四基余ありとある。これは風土記稿では岩原古城蹟図に在る古墳三基五輪塔は大森信濃守頼春、信濃守氏頼等の墓だと云う。確認するため、もう一度、岩原城址に行った。今回も最後の一字が判読できず、墓なのか供養碑なのか区別できない「大森寄栖庵之□」石碑のまえに写真と同じ順番で石塔が並んでいた。基礎石が輪郭2区に分かれているので関東様式といわれる宝篋印塔が数基混ざっていた。
 


岩原城蹟図にある古墳の五輪塔はどこにいったのだろうか。


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