大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

名古屋 興正寺から大須観音

2017-03-22 10:35:10 | 

名古屋駅には何度か行ったが、何時行っても名古屋駅構内は慣れない。人が多いというより、網の目の様に人が行き来するので、よけい雑多な感じがする。地下鉄東山線の乗場にたどり着くのに一苦労する。行先は住職の解任問題で大荒れた八事の興正寺。この八事山遍照院興正律寺は貞享三年(1686)、天瑞圓照和尚が、この地に草庵を結んだのが始まりで、高野山真言宗別格本山で「尾張高野」とも呼ばれたという。
 
お寺に行ったら露店が出店していて大勢の参拝者がいるのでビックリした。
 
虚空蔵菩薩縁日と能満堂秘仏御開帳が重なって参拝者が多いようだ。あとで、このお寺の行事カレンダーを見たら、空欄が3月は6日間しかなかった。毎日がお祭りみたいなお寺で、御朱印を頂きに納経所を訪ねたら、六種類あるという。御朱印の正式な数え方を知らないが、一ヶ所で六種類の御朱印があるのは初めてだった。
 
尾張徳川家の祈祷所でもある能満堂の秘仏、虚空蔵菩薩は天瑞圓照和尚の作品と伝わり、三月の五日と十三日の二日間だけ御開帳するという。能満堂にはエスカレータがあり、さすが余裕のあるお寺は違うなと感心する。参道の石段の両側には宝篋印塔が並んでいて、異様な感じがした。宝篋印塔を飾りの様に並べているのは趣味が悪すぎる。
 
 
山門の前の道路を挟んで、向かいに「興正寺檀信徒連絡寺務所」の看板が掲げられたプレハブが建っているという。宗派の教義上の対立ならともかく、金銭上の争いでは檀家さんは遣り切れないだろうな。
 
  
     
地下鉄八事駅から名古屋方面に戻って上前津駅で降りる。ここは名古屋でも有数の大商店街である大須商店街の東南の端にあたる。慶長十七年(1612)、犬山城主成瀬正茂が羽島市大須にあった真福寺(大須観音)を現在地に移転、大須観音の門前町として発展したという。織田信秀の葬儀で信長が抹香を位牌に投げつけたと伝える慶長十五年(1610年) 名古屋城築城にあたって、徳川家康の命により現在の大須に移転した萬松寺を探して、商店の中をウロウロしてしまった。大きな寺院だと思い込んでいたのが失敗だった。工事中の建築現場の幌に覆われた場所が萬松寺だった。開基織田信秀公の墓碑は、残念ながら諸堂の工事期間中は公開していないとの事であった。
 
  
昼メシは味噌にこみ「たから」で味噌煮込みうどんにする。スッポン鍋のようにグツグツ煮えたウドンが出てきた。おもったより甘目の味噌で、テーブルに饂飩の食べ方が置いてあった。店内で寿司の出前が出来るような事が書いてあった。
 
 
店を出て大須観音に向かう所に寳寿司という店があった。親戚同士なのかな。それにしても大須観音に向かう参道(商店街)の人混みが半端ではない。春休みに入ったせいか若い人達が大勢いて、アジア系の若い旅行客も多く見かけた。途中に富士浅間神社境内に「まねき稲荷」という小さなお稲荷さんがあり、狛犬なら手招きしている狛狐が社の前に鎮座していた。手招きしている狛狐に気が付いたのは初めてだった。
 
 
大須観音は真言宗智山派の別格本山北野山真福寺宝生院と称し本尊は聖観音で日本三大観音の一つとも言われている。
 
 
 


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小田原 富水駅から栢山駅へ

2017-03-16 11:12:58 | 小田原

小田急線富水駅からブラブラ歩いて15分位で尊徳記念館に着く。途中、山門脇に五輪塔・宝篋印塔が綺麗に並べられていた光明寺に寄る。摂取山光明寺の創建は文明五年(1473)、天野三郎兵衛康景の墓がある相模沼田の西念寺の末寺だという。
 
 
この辺は、室町時代から戦国時代にかけて多くの戦いがあったところで、どんな武士たちが葬られているのだろうか。墓地に古い五輪塔があった。旧堀ノ内村の名主だったの平塚氏一族の墓域だろうか。
光明寺の近くにある若宮八幡宮は隣村飯田岡に祀られていた若宮八幡宮を文和中洪水の後、堀ノ内村に遷座したと堀ノ内村八王子社元禄五年(1692)の棟札にあるという。
 
 
栢山にある尊徳記念館は3階建ての立派な建物でビックリしたが、尊徳の資料や遺品を展示しているのは1階で、2・3階は会議室や宿泊室を備え、講座、サークル活動等の生涯学習活動の場として利用しているという。記念館敷地内に二宮尊徳が十六歳の一家離散の際に売り払われた生家が尊徳の誕生の地に復元されている。木造平屋建 茅葺で、間口7間(12.74m) 奥行4.5間(8.19m) 床面積31.35坪(103.6㎡)で、かなり大きい家だが、この地方の中流農家の典型的な大きさだと言う。
 
 
二宮家の菩提寺、善栄寺に向かう途中にある「蕎麦月読」で昼食にした。初めての店だったので、分からなかったが、次から次と入ってくるお客さんは皆、蕎麦を大盛で注文している。天ぷらも蕎麦も美味しかったが、お蕎麦の量が少なすぎた。
 
風土記稿に「善榮寺 如意山と號す、曹洞宗、大住郡日向村石雲寺末、開基は木曽義仲の妾巴女なり、牌一基あり、法號善榮寺如意貞信と記す、源平盛衰記を按ずるに、巴女は義仲没落の後、信濃國に落下りしを、鎌倉に召上せられしが、和田義盛申請に因て、彼が妻となり、朝比奈三郎義秀を産む、和田合戦に義秀討れて後、越中國に往き石黒某を頼み出家し、九十一にして死すと云」、さらに「 天文廿三年(1544)北條氏康の室、元亀二年(1571)十月三日卒、牌を置。 法號瑞渓院光室宗照と記す、僧宗忻を請て再興あり」とある。巴御前が何所で木曽義仲と別れたかハッキリしない。巴御前が和田義盛と再婚したというのは物語として面白いが信憑性は乏しいと言われている。
 
本堂前に木曽義仲と巴御前の五輪塔があった。説明には「木曽義仲公側室當寺開基巴御前之墳」とある。いつ五輪塔が建てられたか不明だが、今ある二基の五輪塔は明治十一年三月に再建されたという。牌一基は、法號善榮寺如意貞信と記す位牌が有ったと云う事ではないだろうか。
 
荒廃していた善栄寺を天文二十三年(1555)、三代北條氏康夫人瑞渓院が再興して曹洞宗に改宗している。瑞渓院殿光室宗照大姉の彫銘文字がある宝篋印塔が本堂横の墓地にあった。市によると江戸時代に造立されたという。
 
近くに二宮一族の墓域がある。
 
二宮一族の墓域にもあったが、同じ形をした廟墓(石堂・石殿)が多く残っていた。屋根の形と箱形の本体部分の造りで、その地方の特長がある。米沢の上杉氏菩提寺、春日山林泉寺に万年塔と呼ばれる廟墓が残っている。小田原にある廟墓は切妻屋根が多いように思う。
 
 
栢山神社を通って栢山駅に向かった。
 


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経済なき道徳

2017-03-06 09:57:06 | 小田原

小田原城内の二宮神社に二宮尊徳像がある。
 
 
横に出典は不明だが「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」との説明板があった。


 
経済と言う用語は、中国の書にでてくる経世済民から採ったらしいが、尊徳は経済という言葉をどういう意味で使ったか気になった。netで調べたら、「道徳なき経済は犯罪」が先であったり、戯言が寝言など色々なバージョンがあると云う事は、それぞれの訳者の注解の言葉が拡がったという事だろうか。netに、二宮尊徳の高弟福住正兄(後、箱根湯本萬翠楼福住経営)が、師の言葉を書き留めた「如是我聞録」を整理し、尊徳の言行録を刊行(明治17~20年正編五巻)した「二宮翁夜話」が原典ではないかと書かれていた。早速、国会図書館のデジタルコレクションのお世話になる。巻之四、第百七十六に似たような話が載っていた。
「経済に天下の経済あり、一国一藩の経済あり、一家又同じ」としながらも、各々異にして、博奕(バクエキ)や娼妓屋をなすも、一家一身上に取ては、皆経済と思ふが、政府是を禁じ、猥(ミダリ)に許さゞるは、国家に害があるからだと話す。道徳的善悪は、その行為が法に従っているかどうかと云うことであれば「道徳なき経済は犯罪である」というのは何となく分かる。四書五経・大学にある「国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為す」(国不以利為利、以義為利也)を引用して、「是をこそ、国家経済の格言と云べけれ、農商一家の経済にも、必此意を忘るゝ事勿れ」と語っている。「経済なき道徳は戯言(寝言)」という、この部分の理解が難しい。
大学では「君子先慎乎徳。有徳此有人。有人此有土。有土此有財。有財此有用。徳者本也。財者末也」と言っている。「経済なき道徳は戯言」は、早い話、経済が無ければ、道徳は出来ないのかと云いたくなる。「徳」が根本にあってその結果として「財」が得られるとした大学の言葉とはだいぶ異なる。やはりここでいう経済という言葉をどういう意味で使っているのかよく理解できない。慌てて、「二宮翁夜話」を買って読んでいるが、なかなか先に進まないでいる。
 
金次郎が薪を背負いながら本を読んで歩く姿を「負薪読書図」と呼ぶとあった。最近では、中国の「朱買臣図」をもとに作られた可能性が高いという。読書をしながら歩く大徳寺系「負薪読書図」と座って読書する妙心寺系「置薪読書図」の二種類があるという。薪を背負い読書をしながら歩く二宮尊徳像は多いが、二宮家菩提寺で小田原栢山の善栄寺に座って読書する二宮尊徳像がある。

参考 「大学」
「孟献子曰、畜馬乗、不察於鶏豚。伐氷之家、不畜牛羊。百乗之家、不畜聚斂之臣。与其有聚斂之臣、寧有盗臣。此謂国不以利為利、以義為利也。長国家而務財用者、必自小人矣。彼為善之小人之使為国家、災害並至。雖有善者、亦無如之何矣。此謂国不以利為利、以義為利也。」


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駿河小山 乗光寺・勝福寺・正福寺

2017-02-27 10:05:35 | 小田原

静岡県駿東郡小山町の乗光寺に町の文化財に指定された大森氏六代之墓が残っているというので出かけた。小山町には上古城、下古城や、乗光寺がある生土という古そうな地名が残っている。生土の読み方が判らなかったが、駅前で聞くとイキドと呼ぶという。生土はウブスナ(産土・生れた土地)とも読むと用語辞典にあった。松田から御殿場線に乗換え駿河小山駅に向かう。電車は酒匂川に沿って走る。この川は静岡県に入ると鮎沢川と名を替える。
  
大昔、島だった伊豆半島が北上して、約100万年~50万年前に本州に衝突し、その後も北上を続け丹沢山地を隆起させたという。伊豆半島側の礫層は約10万年前丹沢山地から流れ出した河川がつくったものだという。丹沢層群にもぐりこんだ足柄層群との境が松田町から山北、静岡小山にいたる神縄断層と言われ、小山町生土の北、皆瀬川にこの断層の露頭した場所がある。半島が衝突して皺ができ、そこに水が流れて、砂が運ばれる。ちょっと強引だが、生土が土を生むと場所と云うのもまんざら縁が無い話ではないようだ。(駿河小山駅から生土方面)

駿河小山駅のホームから鮎沢川越しに対岸に乗光寺本堂の屋根が見えた。
 
 
応安五年(1372)大森信濃守頼明の開基により、生土に宝雲山浄居寺を創建、明応四年(1495)大森氏の小田原落城により、当寺も衰廃する。曹洞宗の寺として相模の平山に一時、乗光寺として中興されたが断絶、正保元年(1644)十世隠叟和尚、大森氏末裔の幕臣大森頼直によりに生土に雲居山乗光寺が再中興され、各地にあった大森氏の墓を当地に移したという。
 
乗光寺大森氏六代の宝篋印塔は大森頼明、その室、頼春、氏頼、実頼、藤頼の墓六基だという。寛政重修諸家譜の大森系図によれば、頼明は足柄最乗寺、氏頼は久野総世寺に葬るとあり、風土記稿記載の岩原古城蹟図に在る古墳三基五輪塔が大森信濃守頼春、信濃守氏頼等の墓だと伝える。氏頼は父頼春の菩提を弔うため長泉院を開創し、大森氏の菩提寺としたという。六基の宝篋印塔を探して、墓域の最上段まで行ってしまった。大森氏の墓は墓域の中央にあり、上からだと白い説明板と無縫塔の塊がみえるので場所は判りやすいが辿り着くのに苦労した。
 
小山町中島の鷹巣山勝福寺は大森頼春開基、頼春の長子友石明訓禅師(乗光寺三世)の開山と伝わる。度重なる火災で縁起等の記録は残っていない。
 
     
山門の裏に打付けられた案内板に「この山門は元来は深沢城の城門なり廃城(天正十年)の際申受け現在の門柱の位置に茅葺にて山門となる明治中頃(活岩和尚)屋根亜鉛板葺替、昭和十五年春現在地に移転、昭和三十八年篤志家の力により大修繕を施し、銅板葺と為す、当山六百八十年間の変遷を、黙然と看視する唯一の建物なり。山主記ス」とあった。御殿場の深沢城は葛山氏一族深沢氏の城館ともいわれ、その後、今川勢の城になったとも言う。大森氏と葛山氏の遠祖は同じなので、勝福寺山門が深沢城の城門を申受けたという話が伝わるのも可笑しくはない。
小山町小山にはもう一つ、大森氏と関係の深い梅向山正福寺がある。
 
開基は色々な説があるが、延宝三年(1675)「正福寺歴住宝物由緒書」によれば大森頼明の子の別当職・権大僧正實雄大法印と伝わる。御殿場線は日中、1時間に1本の割合、帰りの時間が気になり裏山にあると云う古い宝篋印塔を見過ごしてしまった。


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河津 称念寺

2017-02-20 12:52:35 | その他

早咲きの河津桜の原木に寄ってから称念寺境内の桜を見に行った。前回(27年2月19日)は3分咲きだったが今回(16日)は満開だった。
左列(27.2.29)                右列(29.2.26)
 
 
河津川に沿って称念寺に向かう。
 
 
静岡教区浄土宗青年会のH・Pに宝林山称念寺の開山上人は僧澄道 心蓮社誠譽上人、開基年は宝治元年(1247)とある。

境内にあった河津町の説明板には「称念寺は、安元三年(1175)河津三郎祐泰が谷津館の内に称念庵を創立、守本尊の阿弥陀如来を安置したのがはじまりといわれている。永禄四年(1562)山崩れにあい、現在地に移った。本尊阿弥陀如来には「春日正作縁起」という縁起が伝えられている。」とあり、河津三郎守本尊の阿弥陀如来像は一本の白羽の矢を蔵していて、現在は秘仏として祀られているという。
本堂の脇に多くの尖頂舟型墓標があった。尖頂舟型墓標は江戸初期の造立で関東地域に多く、西は三島あたりまでと言われている。山中城址の宗閑寺裏の墓地にも多くみられた。ここにある宝篋印塔は相模に多くみられる基礎石の輪郭二区が一区しかなく、この辺りが東と西の異なる墓標様式の接点だったのだろうか。
 
(基礎石の輪郭一区)
               
称念寺の山門近くに、馬頭観音があり、その裏手に明治二十年代に下河津邑の有志により建立された皇軍死者忠魂碑が残っていた。台湾出兵か日清戦争の忠魂碑なのか判読できなかった。
 
河津三郎祐泰は伊豆の豪族、伊藤氏流れをくむ伊東家次(工藤祐隆)の孫、河津祐親(河津祐親)の子で、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我十郎(祐成)・五郎(時致)の父にあたる。河津川の対岸に河津三郎祐泰を奉る河津八幡神社がある。境内には力石を持ち上げている河津三郎や富士の巻狩りでの曽我兄弟の像がある。相撲の珍しい決まり手「河津掛け」を考案したのが河津三郎と云われている。
 
なぜ兄が十郎で弟が五郎なのかと思ったら、同じような疑問を持った人がいた。長野市立長野図書館のレファレンス事例に記載があった。
春湊浪話
「曾我十郎、同五郎 鎌倉時代、人の嫡子より次を太郎二郎三郎と次第に名付る。なべての事なり。曾我十郎祐成、同五郎時宗と名乗し事、人ごとに不審する事なり。今按るに、十郎が元服せし時は、祖父伊藤祐親は三浦介に預けられて存生なるべければ、祐成を祐親が子とし、其末子伊藤九郎祐清が弟に准じて、十郎とは呼ける成べし。五郎は文治六年九月七日に北条時政の亭にて元服して、五郎時致と名乗よし、東鑑に見へたれば、其時に時政の子として時致と名乗らせ、江島小四郎義時の弟に准じて、五郎とは称せしにぞ。東鑑に時致とも、時宗とも書たり。実は時宗なるを、後に北条時宗出来より、是を諱て所々時致と書改しものなる歟。」『広文庫 第11冊』p516『日本随筆大成 第3期 10』p437
なるほどと云う感じ!


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小田原塚原 長泉院

2017-02-11 10:05:24 | 小田原

大森氏の墓があるのではと訪ねた久野の総世寺には大森頼久の供養塔が残っていたが、大森氏の墓標らしきものは見当たらなかった。岩原城址から西に直線で1.7Kの所に大森氏と関係の深い曹洞宗の長泉院がある。
 
長泉院の創建は文明二年(1470)、号は玉峯山、開山は大寧宗忍、開基は大森八郎實頼(法名清泉院可安道印で従昔大森寄栖庵・僧實山を請て岩原村薬師堂の地に一寺を起立し、清泉院と号す、文明二年大森實頼当所廃寺蹟(号東明山)を闢き此に移して再建し今の山院号に改むと云、と風土記稿にあり、さらに明応九年(1500)藤頼公の時、小田原城主北條氏茂により落城し、この節岩原・川村・内山一時に落城し、家臣ことごとく戦死したという。この長泉院は最寄りの大雄山線塚原駅から2K以上離れており、バスも近くを通っていないため、訪れる人も少なく、入口から山門まで杉並木が600mも続き、古刹静寂の趣を強く残している。
 
 
参道杉並木の途中にこの寺の十二旧跡の一つ、大森彦七が火焔を吹く大龍を、太刀を抜き退治し、この龍がでた所を龍門橋と名付けた橋があった。長泉院由来記に出てくる話だが、由来記に大久保忠隣の名が出てくるので、江戸初期に創られたと思われる。この中に「当寺は大森の菩提寺にて、則岩原村に清泉院とて実山和尚の開基の寺有、本尊薬師聖徳太子の御作にして岩原村に有しが、則当寺へ引越、弐寺を一ヶ寺とす、尤鎮守八幡宮并薬師堂大森の墓所は于今岩原村に有之、則当寺の支配なり、寄栖庵の位牌則当寺に有之」、とある。
 
 
風土記稿にある里正が蔵する古城略図にある岩原城址の北西にある五輪塔が墓所だったのだろうか。それでも、未練がましく、寺の墓域を探したが大森氏の墓碑を探したが見つからなかった。墓域には加藤一族の墓碑が多くあり、その一つに清左衛門地獄を開くと書かれた墓碑があった。清左衛門地獄は箱根外輪山東山麓には湧水群や自噴井戸群の湧水の一つで、清左衛門が水源を探し当てたといわれ、数々の伝承が残されている。この清左衛門地獄池は平成の名水百選に選定されている。清左衛門は小田原城主大森氏に仕えた岩原城代家老加藤兵庫の子孫、加藤市郎兵衛頼隆の子清左衛門季安で元禄十六年八月十七日に亡くなったが、墓碑を見ると長男勘右衛門頼季が同年同月の一日遅れで亡くなっている。何があったのだろう。
 
今から70年以上も前の昭和9年に発行された小田原の写真集に大森氏墓の写真が記載されていた。写真の墓は宝篋印塔と五輪塔が混ざって積まれている石塔で、説明に足柄上軍岡本村岩原の城址西南の丘上に五輪塔四基余ありとある。これは風土記稿では岩原古城蹟図に在る古墳三基五輪塔は大森信濃守頼春、信濃守氏頼等の墓だと云う。確認するため、もう一度、岩原城址に行った。今回も最後の一字が判読できず、墓なのか供養碑なのか区別できない「大森寄栖庵之□」石碑のまえに写真と同じ順番で石塔が並んでいた。基礎石が輪郭2区に分かれているので関東様式といわれる宝篋印塔が数基混ざっていた。
 


岩原城蹟図にある古墳の五輪塔はどこにいったのだろうか。


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小田原久野 総世寺

2017-02-04 13:21:20 | 小田原

小田原久野の総世寺に向かう足柄街道の途中、久野保育園の入口近くに北條幻庵屋敷跡がある。
 
 
村に伝わる寛文十三年の記に、幻庵屋舗、百二十三間に九十五間ほど(約1万2千坪)とある。「幻庵は、伊勢早雲庵宗瑞(北條早雲)の末子として明応2年(1493)駿河の葛山の館(裾野市)に生まれた。幼年時代に箱根権現の別当職を約束され、京都に出て三井寺で修学したり、学者や文化人について諸芸を学び、格調高い歌を詠む文化人であった。天文10年に兄氏綱が逝去した後は、3代氏康、4代氏政の後見人として、この久野の館に住み、一族の長老的存在となり、その名は遠国まできこえていた。幻庵は、北條氏が滅びる8ヶ月前、北條氏の盛衰とともに久野の館で97歳で亡くなったとされている」と傍の説明板にあった。
  
足柄街道を走っている伊豆箱根バス停「観音堂前」の脇に龍泉寺欠ノ上観音堂がある。
  
説明板に「総林山龍泉寺という山号は、総は総世寺の総、龍は天龍山の龍、泉は東泉院の泉からとってできたという説がある。弘治元年(1555)春同じ久野にある総世寺の第八世大岳宗純禅師が建立したという。
 
欠ノ上の観音堂は、禅誓上人が当地方教化の足場であった。御本尊の観音菩薩は、禅誓さん自作で、しかも長い旅を背中の笈に背負って歩かれた貴重な御仏である。観音さまの背中にある鉄製の環がそれを物語っている。此所の観音堂には、どういうわけか隠れキリシタン信仰を思わせる痕跡も残っている。嘗て御前立の仏の御手にクルスのついた数珠がかけられていたり、中興住職の墓碑の号法が(骨相紋随庵主寛政十一年八月)コスモスと訓む由。などである。本尊は十二年毎に御開帳する」とあった。コスモスの花は明治になって入ってきた花で、和名では秋桜、隠れキリシタン信仰とコスモスの関係はよく分らないが、訓読みで骨相紋随をコスモスとは良く考えたと思う。境内には寒念佛供養の石塔が多く残されており、足柄地方で寒念佛が盛んだったことが分かる。
 
総世寺は久野諏訪原にあり、風土記稿によれば開創は文安二年(1445)、号は阿育王山、開山は安叟宗楞(あんそうそうりょう)、開基は安叟の甥、小田原城主大森信濃守氏頼入道寄栖庵、明応年間三浦義同(道寸・母は寄栖庵娘)三浦を遁出て当寺に潜み智海宗哲の弟子となり圓頂黒衣の姿となる。北條五代記道寸討死の條に「道寸今生の名残只今なり、酒を飲んと、盃をひかへ給ひければ、佐保田河内守、「君が代は千代にや千代」と謡ふ、荒次郎(道寸の子)扇を取て、「君が代は千代に八千代もよしやただ、現のうちの夢の戯」舞給へば、彦四郎も同じく立て舞ふ。實あはれなる一曲なり」。此の最後の宴に使用したという盃一口は寺宝として総世寺に残ると風土記稿にあった。残っていたら見てみたいものだ。 
 
 
 
 
本堂左奥の御開山安叟宗楞禅師・開基大森信濃守氏頼公供養塔入口の石柱があり、歴代住職の無縫塔の横に、「明應三甲寅年 寄栖庵殿當山開基日曻明曻庵主 八月廿六日 俗名大森信濃守藤原氏頼入道頼直」とある。頼直が建立したとすれば寄栖庵が亡くなってから百年以上も後に建てられた供養塔という事になる。頼直は氏頼から数えて七代目にあたり、五千石を知行した旗本で台徳院、有徳院に仕えた。
 
本堂と墓域の間に道路が貫通しており、五輪塔や供養塔が掘り出されたのか、一列にズラリと並んでいた。大森寄栖庵の墓は何所に在るのだろうか。
 


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八幡神社から岩原城址へ

2017-01-25 12:55:56 | 小田原

小田原大雄山線相模沼田駅隣が岩原駅。駅の西側、徒歩5,6分で村の鎮守八幡宮に着く。
 
 
この神社、明暦三年(1657)の棟札に源頼朝建立とあり、のち大森安芸守が再建し、北條早雲が修理を加えたと風土記稿にある。村の鎮守にしては長い参道が残っている。
 
参道の途中右手に薬師堂がある。
 
この薬師堂は古図では城蹟の南西の方に描かれており、側に古墳が描かれていて、これは大森信濃守頼春と信濃守氏頼の墓だという。八幡宮裏手に黄金塚古墳群があったが、主墳は社殿によって墳丘を半分削り取られ、殆どが農道建設で消滅した。神社北西の道路沿いの民家の塀のそばに「黄金塚之碑 昭和二十八年五月発掘」の記念碑が建っていた。
 
途中の庭先にあった五輪塔

薬師堂から岩原城址痕までは徒歩、6.7分で着く。南足柄消防署岡本分署先の左手に見逃しそうな小さな案内板があり、他人の敷地を横切る様な小道の奥に石碑がみえる。
 
 
市指定文化財岩原城址の標柱を囲むように墓や無縫塔、供養のためか五輪塔もあった。「大森寄栖庵之□」、最後の一字が判読できず、墓なのか供養碑なのか区別できないひときわ大きな石碑があった。
 
 
岩原城跡の南足柄市説明板には「室町時代、箱根外輪山明神岳から東方に延び、足柄平野を望む標高60mの丘陵の南斜面に大森氏によって築城されました。東西250m、南北150mの範囲に、本城郭・ニノ郭・三ノ郭・西郭などの複数の郭(平場)を区画するように空堀が掘られ、上流約2kmの矢佐芝川からの取水堰(沢水)を城内に引き込んだ平山城であったと想定されます」とあった。
 
風土記稿に「里正が蔵する古城略図に「往昔、大森氏の持城なり、信濃守藤頼の時、明応年中北條氏茂が為に落城す、と云」とある。風土記稿に記載の城蹟図

姓氏家系大辞典に大森氏は「藤原北家中関白流(又平姓)、駿河国駿河郡大森より起り、後相模に栄え、戦国時代小田原城主として有名なり」とある。寛政重修諸家譜に「大森與一親家、頼朝将軍につかえ、駿河国駿河郡鮎澤の庄大森に住す。これより子孫相続で大森を称す、頼顕のとき、関東御所家中より撰ばれて鎌倉侍所となり、小田原城に住し、西の方の警護となる」。あと代々小田原城に住み、曾孫の証實は伊豆箱根山の別当となっている。小田原大森氏の一族から箱根三所権現の別当職を勤めたものが多く出ている。大森小田原城主四代の大森氏頼(号・寄栖庵)の嫡男實頼の死に依りその子の㤗頼は幼く、領地を譲られた實頼の弟藤頼は小田原城に住んだが、明応四年(1495)北條早雲のために城を落され、一族と共に同国真田城(平塚真田)に退き、早雲にしばしば挑み戦うも、志をとげられずに亡くなる。大森氏は泰頼、泰次、泰定、頼照と続き、頼照のとき、外戚の佐久間勝之(父・佐久間盛次、母・柴田勝家姉)に養われ、関ヶ原の戦いでは勝之に従い東軍で戦う。子孫は五千石の旗本となっている。寛政譜に「大森氏頼、久野の総世寺に葬る」とあった。さっそく久野の総世寺を訪ねた。


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相模沼田 西念寺

2017-01-18 08:55:43 | 小田原

伊豆箱根鉄道大雄山線相模沼田駅から西に徒歩7・8分程のところに西念寺という浄土宗のお寺がある。
 
 
 
ここに南足柄市の文化財(史跡)に指定されている天野康景の墓がある。新編相模国風土記稿によれば「壽傳山無量院と号す、浄土宗、京知恩院末、永和元年(1375)の起立なり、当時は足柄下郡飯田岡村にありしが、文安三年(1446)水溢に罹り堂宇流失す、よりて同年六月当所に移転すと云」、また、天野三郎兵衛康景墓として、「貞享四年(1687)子孫三郎兵衛康命が改建する所なり」とあり、天野康景の墓は西念寺本堂横にあった。墓を改建した旗本天野康命は西念寺にある前興国寺主天野君碑によれば、駿州興国寺城主で慶長十二年(1607)、天野三郎兵衛尉康景の足軽が公民を殺害した事に坐して家康の勘気を受け、興国寺城を去り小田原西念寺に蟄居した天野康景の長子康遠(対馬守)の子とあるが、寛政重修諸家譜によると、天野康景、康宗(対馬守)、康隆、康命と続き、康景の曾孫となっている。

 
墓碑
興圀寺殿報誉宗恩大居士 慶長十八癸丑二月二十四日 駿州興国寺城主俗名天野三郎兵衛尉康景 (碑陰) 興国寺殿之末孫裔旗本天野三郎兵衛尉康命貞享四丁卯歳仲春下澣日是改命再興畢敬白

本堂の前に寒さの厳しい小寒から節分までの三十日間、鉦を叩きながら民家の軒先や社寺を巡って念仏や和讃を唱え歩いた寒念仏修行の供養塔や中山孝麿篆額「廉潔映永」とある前興国寺主天野君碑がある。
 
 
八乙女と云う名前に引かれて西念寺の横にある神社に寄る。
 
この八乙女神社はもと西念寺にあり、戦国の頃、二抱えもある杉の木が矢を受け止めたことから矢留権現と云われていたという。「やおとめ」と「やとめ」ではえらい違いで、何がと云う訳ではないが、少しガッカリする。この神社の場所は沼田城の出郭だったと云われている。観光案内にこの神社から城に向かう道は急坂だとあったので、城址探訪は次回にして大森一族の墓があるという岩原城址に向かう。

参考(天野三郎兵衛康景碑文)

前興国寺主天野君碑          東宮侍講正五位三島毅撰 
行一不義殺一不孝而有天下不為也昔聞其語今見其人天野君是也君諱元景稱三郎兵
衛尉其先藤原遠景居伊豆天野邑因氏篤遠景十七世孫景恒始士徳川氏移参河是為君
父君少従東照公質于駿或欺之于路送尾君甫十一歳敏慧知陥姦計竊遣奴報参既而今
川氏伐尾取公君常侍従共甞酸苦後随公還岡崎屢従軍有功一向僧徒之乱殪賊勇士馬
場小平太公賜偏諱賞之更曰康景永禄八年公置奉行三人掌政形君及高力與左衛門清
長本多作左衛門重次任之国内大治清長寛慈重次剛猛君沈重善謀民為之話曰菩薩高
力夜叉作左彼此無偏天野三郎蓋謂其無寛無猛唯義之比也姉川之役刺客混麾下覗公
君知而斬之三形原之敗公欲入浜松城敵騎據邱彎弓要之君直進刺之公得間乃入其後
長篠小牧小田原諸役皆有功併舊禄食下総香取地五千石慶長五年更賜駿河興國寺城
食三萬石地十一年君将修城多畜竹田原民乗夜盗之監卒捕殺之田原為公邑邑宰井出
正次欲獲卒戮之君拒之曰殺盗於律無罪且渠奉吾命若有罪吾當之正次乃因執政太田
正純誣訴之曰康景壇殺公邑民公曰彼自少事我謹慎且通吏事非為此非度者命正純覆
審之正純□命迫之曰私卒殺公邑民假命有説奈公威何君憤然不屈曰吾敢蔑公威然□
不辜而全利禄勇士所不為乃拉卒而出亡實十二年二月九日也所在流離遂潜匿□之狩
野荘十八年二月廿四日病卒葬沼田村西念寺年七十七公後懐舊勲欲復之聞其死而上
嗚呼響使君含恥忍辱殺不辜而食不義之禄固應與勲舊諸侯倶享富貴雖然自今日観之
徳川氏且不能保封土況諸侯乎二百年栄華不過黄梁一夢比之君正義凛然百世之下頑
夫廉儒夫立志維持風教於無彊孰得孰夫不持弁而明矣君多子長曰康遠稱対馬守寛永
五年幕府召賜俸米千苞奉祀次曰康武曰康世曰康由餘皆為僧貞享四年康遠子康命建
墓表其後毎五十年子孫来修法會今則廃云頃寺主蟻閣上人恐其堙没與檀衆安藤裕等
謀募同志建碑徴余銘余曽往弔有詩掲以代銘曰
覇府直臣誰若君貔貅隊裏見麒麟寧抛有土封三萬不殺無辜卒一人古寺園荒多竹樹
 遺墳石蝕荊没荊棒高風千載難諼得何啻驩虞二百春
明治二十九年八月  正四位勲四等侯爵中山孝麻呂篆額   石川英書


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小田原七福神

2017-01-08 09:12:45 | 小田原

小田原にも七福神めぐりがある。何時ごろから小田原の七福神めぐりが始まったかは知らないが、小田急トラベルで募集している「小田原七福神めぐり 宝船号バスツアー」が今年で17回だという。まだ訪れたことが無いお寺さんが2つほどあった。暮れに旅行会社に行ったら、丁度キャンセルがあり、このバスツアーを申込んだ。毎年3日から6日の4日間、午前・午後の2便、各便22名、計8便で募集人員も少ないせいか、すぐ満員になるという。三寺が曹洞宗、二寺が浄土宗、日蓮宗、東寺真言宗が各一寺を小田原駅からスタートして毘沙門天(久野坂下潮音寺)、満願弁財天(谷津福泉寺)、寿老人(入谷津鳳巣院)、大黒天(小峯蓮船寺)、恵比寿神(荒久報身寺)、福禄寿(水主長屋大蓮寺)、水掛布袋(茶畑圓福寺)、最後に報徳二宮神社をまわる約3時間のバスツアーに参加した。
 
小田急足柄駅から徒歩でも五分程の小田原城の真北にあたる久野の大徳山潮音寺の毘沙門天功徳経に真言を念ずれば十種の福徳が得られるという毘沙門天にお参りする。残念な事に毘沙門天功徳経を知らないので、無難に厄除けを祈願する。
 
 
 
城山谷津の華岳山福泉寺の満願弁財天は知恵を授かる、富と開運の神だという。今更、知恵や開運かと思ったが、思わず風水でいう金運が上る黄色の札入れを買ってしまった。
 
 
 
城山入谷津の實平山鳳巣院は小田原城百姓曲輪の北側斜面にあり山門から本堂までバスがひっくり返りそうになる程急な坂で歩きでなくてよかったと思う。寺伝では開基は土肥次郎實平だと云う。ここの寿老人は手に桃と長寿の秘訣が書かれた巻物を持って、長寿と福徳を授けると云う。ご住職に不老長寿の果物の桃の替りにミカンを貰った。
 
 
城山小峯の惺雄山蓮船寺には福富円満の神、大黒天を祀る。開創は北条美濃守氏規家臣井出内匠正。昭和35年、新幹線開通工事により小田原市内板橋見附から現在地に移転。
 
 
境内地に隣接した東側に小田原北条時代の代表的な城郭の遺跡、小峰御鐘ノ台大堀切と言われる空堀が残っている。ここは小田原城北側古郭群の御前曲輪南側、鍛冶曲輪西側、「毒榎平(どくえだいら)」の西方防禦部分にあたる。
 
 
平成輔墓所の事で話を聞きに行った荒久の永劫山報身寺には本来、海の神様恵比須神を安置している。本堂内陣の裏側に立派な位牌所があり、平成輔位牌の事を聞きたかったが、ご住職が不在で残念だった。この辺りになると、用意したお賽銭も少なくなってくる。お寺と七福神用と一つのお寺で二回お賽銭が必要になるとは思わなかった。100円と50円のお賽銭箱に入れた音が違うのも気になる。
 
 
箱根口の稲荷山大蓮寺には幸福・安定・長寿の神様を授けてくれる福禄寿が祀られている。このお寺は北條家重臣、大道寺駿河守政繁母(寳地院法名孤峯蓮馨比丘尼)の中興開基、上州安中大信寺に墓碑あり、其大信蓮馨の文字を摘て大蓮と名けて今の寺號を授く授けたと云う。
 
 
正席22席の小型バスツアー、乗ったり、降りたり、たいして歩きもしないのに結構疲れる。茶畑の医王山薬師院圓福寺の軍扇で魔を払うと言われる水掛布袋尊にお参り。
 
 
最後は城内の報徳二宮神社へ着いて大勢の人がいたのに驚く。鳥居の下から遥拝で済ませる。これだけ廻れば、七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると思いきや、翌日、歯医者に行ったら、歯を抜かれた。欲張って、色々な事を頼み過ぎたかな!
  
  
  


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