大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

金沢野田山前田家墓所

2016-06-23 08:56:36 | 掃苔

北陸新幹線が開通してから1年経った。少しは落ち着いたかと思っていたら、案の定6・7割の乗車で結構富山駅で降りる客も多かった。小田原からだと3時間30分ほどで金沢駅に着く。駅前の広場に鼓を二張立てたような巨大なモニュメントがあった。何のためにあるのか判らなかったが外国人に混ざって写真を撮る。昼に着いたので構内にあった加賀屋(金沢店)で、ランチは加賀屋創立110周年記念メニュ―だという「加賀屋御膳」。料理は大したことなかったが、店員さんの古風と云うかユニークな制帽姿にびっくりする。
 
 
昼過ぎから加賀前田家の墓所のある野田山にいく。金沢は3・40年前に来たことがあるが、全く記憶がない。タクシーを時間借りして野田山に行って貰った。長い間、運転手をしているが、野田山の前田家墓所に案内するのは2度目で、お客さん変わっているねと言われてしまった。道の途中、墓地駐車場にクマ出没を知らせる看板が到る所にあり、聞くとよくクマを目撃 する場所だという。墓所に運転手の方が棒を持って付いてきてくれた。
加賀前田家、江戸時代の菩提寺は下谷広徳寺(今練馬)、駒込長元寺、明治になって西日暮里の道灌山南端(今の西日暮里公園)が前田家の墓地になっていた。広徳寺の前田家の墓は関東大震災の区画整理で大正十四年、寺が下谷から練馬に移転時、野田山に改葬された。加州侯五代吉徳母随玄院が開基の長元寺にはまだ一部前田家家紋の入った墓碑が残っている。西日暮里公園の場所は明治七年に加賀前田家にこの地が売却され、前田家の墓地として改修されたが、昭和四十七年に金沢野田山前田家墓所に改葬し、その跡を公園とした。
台東区役所横・広徳寺遺趾      練馬広徳寺
 
右・広徳寺会津松平家墓所
 
駒込長元寺
 
   
荒川西日暮里公園
 
 
二代藩主利長は越中高岡、四代藩主光高と九代藩主重靖は当初、金沢市内の天徳院に葬られたが昭和二十年代に天徳院から野田山へと改葬され、現在、全ての加賀藩主の墓は野田山の前田家墓所にあるという。
野田山の前田家墓所は天正十五年(1587)、前田利家の兄利久をいづみ野迄野おくりしたことに始まる。いづみ野が何所だか特定されていないが、利久の改葬記録が無い事から泉野が野田山の別名ではないかとも考えられている。前田利家の「長持に入、加賀え下し野田山に墓をつかせ」との遺言により慶長四年(1599)、野田山に利家は埋葬された。
藩祖 利家公(左)     藩祖正室 芳春院(右)
 
 
 
前田家一族は始め土饅頭の墳墓として埋葬されていたが、明治七年(1874)前田家の祭祀が神式に改められ、廟所の廟堂を取除き、藩主墓の入口には鳥居、その奥に塚を築き、その前に碑石が建てられている。ここ野田山に大正になって下谷円満山広徳寺の前田家墓所にあった会津保科正之の娘で加賀藩五代藩主綱紀室となった松(松嶺院殿信嶽宗正大禅定尼)、会津保科正容娘で加賀藩七代藩主宗辰室となった常(梅園院殿心操紹源大姉)の墓が改葬されている。
五代 綱紀公(左)     綱紀公正室松嶺院(右) 
 
七代 宗辰公(左)     宗辰公正室梅園院(右)
 
二代 利長公(左)  利家公娘宇喜多秀家室 豪・樹正院(右)
 
山側環状道路22号からの前田家墓所への参道途中の東側と前田家墓所北側を囲むように加賀八家墓所が点在している。今回は体力と時間の関係ですべて廻れなかったのは残念だった。

 

加賀八家墓所(野田山・大乗寺・開禅寺・玉龍寺)


この記事をはてなブックマークに追加

杉田間宮氏

2016-06-18 09:10:07 | 掃苔

佐々木氏流近江源氏流間宮氏は、寛政重修諸家譜によると始め萬石氏から真野氏、船木氏を名乗り信冬のとき間野氏となり、信盛より豊前守を名乗り、北條氏に仕えた。間宮本家の間宮信冬、信盛父子は北条早雲に仕え、信盛の子信元は氏綱に仕え、その子康俊は玉縄北條の家老として武蔵國久良岐郡笹下城主となり、間宮氏は北條家に仕えた。北條家滅亡後、一族は徳川家の旗本として仕え、康俊の娘お久(華陽院)は徳川家康の側室になっている。千島・西蝦夷・樺太を探検した間宮林蔵の家系は、はっきりしないが、康俊の子傳右衛門元重の八代頼名が林蔵を名乗っているので、この一族ではないだろうか。

北條氏所領役帳に玉縄衆間宮豊前守都合六百九拾八貫百弐拾弐文の内、久良岐郡杉田参百貫文とあり、久良岐郡杉田は間宮氏の知行地であった。新編武蔵風土記稿に「杉田村は正保元禄二図は寺家村と記す杉田は古名にて妙法寺大寺なりし故中頃寺家と号し今古名に復せり彼寺縁起に古此地杉多し故に杉田の名起れり」という。風土記稿は杉田村の陣屋蹟として「間宮左衛門尉信次(或は常信に作る)以来世々の陣屋なりと云傳ふ、家譜に拠るに信次は豊前守信盛が二男にて北條氏綱及び氏康に仕ふ、天文十五年八月二十七日相州三浦走水に於て戦死す法名法西、妙法寺に墳墓あり其子左衛門尉信忠初め藤太郎と稱す氏康及び氏政に仕ふ云々」とあり、北條五世に間宮氏は仕え小田原没落後、一族は御家人となり二十一家の多きに至っている。

JR新杉田駅の近くにある間宮氏の菩提寺、妙法寺を訪ねた。
 
 
妙法寺は風土記稿によると「法華宗下総国中山法華経寺末牛頭山と号し開山は日祐上人開基妙法日荷上人此僧俗たりし時荒井次郎光善と称し後又因幡大掾と改む云々、文和元年(1352)当寺を起立す」とある。荒井次郎因幡守光善の子孫、源左衛門威忠は天正十八年東照宮に仕え、間宮左衛門信繁に属した。新編武蔵風土記稿は「子孫江戸に移り今の代官職荒井平兵衛保恵が祖なり」と云う。会津藩士山本権八の娘八重が嫁いだ新島襄の母とみ(旧姓中田)が十四歳のとき、行儀見習いのため腰元奉公に上がったのが小川町神保小路の荒井平兵衛(信州中之条御代官)で、この幕臣荒井平兵衛の遠祖が妙法寺開基妙法日荷上人(荒井次郎光善)という事になる。

間宮氏一族でも妙法寺を菩提寺としているのは、間宮豊前守信盛の二男、左衛門尉信次一族で信次(法名法西)・信忠(日法)・信繁(日縁)・信之(日諦)・信勝(日賢)・信久(日誠)・敦信(日了)・信勝(日登)と継く。妙法寺の間宮家の墓域は二ヶ所にわかれていて、寺庭にある杉田梅林之碑傍の日本武尊ゆかりの牛頭天王殿への石段を上り三十番神堂の右手奥に一列に並んでいる。
 
 
神堂の横の墓域に二基の宝篋印塔があり、一基は塔身の日附けから間宮信之(日諦)、もう一基の宝篋印塔には施主と入っていることから、この二基の宝篋印塔は供養塔なのか墓塔なのか判らなかった。
 
          
この墓域から北側奥(本堂左手上)に間宮家の墓域があった。いずれも家紋は角四目結紋であった
 
帰り、背に銘を刻まれている珍しい和様狛犬がある杉田神社に寄る。
 
  


この記事をはてなブックマークに追加

間宮杉田氏

2016-06-11 09:48:57 | その他

会津藩藩祖保科正之の母方の祖父母は元北條氏家臣神尾伊予と杉田氏女、祖父の神尾氏も北條家臣団のどの神尾氏だか特定できないでいた。それではと夫が北條家臣なら妻の実家杉田家も北條家家臣ではないかと探し始めた。北條家家臣団には小河内衆杉田氏と間宮豊前守信高同心衆の久良岐部杉田邑杉田氏がいた。たまたま小河内衆杉田氏の在所、奥多摩川野村に保科正之生母お静の方の院号と同じ浄光院と云うお寺があるのを見つけて奥多摩を最初に訪ねた。ここで川野村の杉田氏と杉田邑の杉田氏が同族だと学校の先生が言っていたと聞いたが、桓武平氏三浦党多々良氏流の川野村杉田氏と佐々木氏流近江源氏流の杉田邑杉田氏を結び付けるのは、話が遠いような気がするがどうであろう。
「蘭学事始」を著した杉田玄白の孫、杉田成卿が「遠祖の墓」とした杉田長安の墓がある川崎菅田の長安寺を訪ねる。長安寺のH・Pに「小田原北条氏の家臣であった間宮長安は杉田玄白の遠祖で、過去帳によると武蔵国久良岐郡杉田郷(横浜市磯子区)に生まれているとあります。永禄二年(1559)の『小田原衆所領帳』には、杉田郷の領主は間宮豊前守とあり、その間宮一族であった長安は、下菅生村に転じたあと杉田姓に改めてこの寺の再興に尽くしたそうです。慶長17(1612)年11月28日に90歳で没し、境内にある墓石には法名の法林院釈氏浄安の文字が刻まれている。江戸時代に入ってから、この長安の法名をとって山号を法林山としたそうです」とある。佐々木氏流近江源氏流間宮氏は、寛政重修諸家譜に始め萬石氏から真野氏、船木氏を名乗り信冬のとき間野氏となり、信盛より豊前守を名乗り、北條氏に仕え、信盛子信元孫の信高に仕えたのが杉田長安の父真野新左衛門信安で、信安の妻は行方弾正左衛門の娘、行方氏も間宮氏も同じ小机衆として『小田原衆所領帳』に名がある。杉田長安は北条氏滅亡の後は諸国を転々とし、文禄三年(1594)に旧領の杉田村に戻り、このころ姓を杉田氏と改めたのではないだろうか。その後、橘樹郡菅生に移り、無住の寺を自らの名を冠して法林山長安寺とし、慶長十七年(1612)この地において没したという。
 
 
長安寺は矢取坂を通る鎌倉古道に面しており、成卿が「遠祖の墓」とよんだ長安の墓は、本堂の真後ろにあり、正面には「法林院□□浄安大比丘」の法名、左側面には「杉田生 俗名 杉田門殿次良長安」と刻まれている。家紋を確認することは出来なかったが、この長安寺に多くの杉田氏の墓がある。これは三代目忠安長子でこの地に居ついた伝左衛門一族と思われ、いずれも柏紋だった。
 
      
杉田長安を初代として六代目に当たるのが、蘭学医の杉田玄白で、東京の別名猿寺と弥ばれる愛宕栄閑院にある玄白の墓にあったのは鶴丸紋で、これは長安の養子に入った五兵衛忠元の実家の森家に家紋が鶴丸紋を使用していたからとも言われている。
 
 
本家の間宮氏はほとんど四目結紋だが鶴丸紋を使用している一族もあり、また佐々木高秀六男多田満秀の後胤、忠吉が杉田を称し、家紋を鶴丸、四目結を使用している。結局、杉田長安がどんな家紋を使用していたか解らなかった。


この記事をはてなブックマークに追加

小河内衆杉田氏

2016-05-26 10:33:50 | その他

「湖水荘」は大津久バス停からバス停で一つ、青梅街道川野トンネルを出た中奥多摩湖バス停の傍なので、旧道を歩いて行くことにした。10mもない崖下はダムで堰き止められた多摩川の水が湛えられている。
 
小河内ダムの高さは149m、最大水深142.5m、ダム下の標高が408m、浄光院の標高が約539m、奥多摩駅標高が343mを考えると、西多摩郡奥多摩町川野という場所が多摩川の深い渓谷に挟まれた土地であることが分かる。
 
新編武蔵風土記稿に杉田氏の記載がある。「杉田某屋敷鋪蹟 村の西邊を云北條の臣杉田某の屋舗跡なり北条氏没落の後子孫民間に蟄居せしよりここに居れし今の農民次郎兵衛は舊家なれば猶舊家の條に辨せり」「百姓次郎兵衛 杉田氏にて村の里正なり 家系を閲するに杉田右近允重直武州多磨郡の内相馬保に住せりこの人杉田氏の始めなり按にこの邊杣保庄の唱あり杣保は相馬保をかきかへたりと云ことは已に前に辨したりさあらはこの人の時よりここに居りしなるへし、其子次郎兵衛尉入道淨泉北條氏直まで歴任していと長壽なりしことも家系に見えたりこは後にのする文書に入道殿とあるへなるへし其子次郎後に越後守と稱せしもの相馬保三ヶ所知行とあり又杉田清兵衛富久後但馬守なと云ものありこの外杉田氏を記せること連綿たり杉田越後守及杉田清兵衛にあたへし文書三通外に三田弾正えの文書一通を合せて家に蔵せるは後にのせり、」この文書により「舊くよりこゝに居りしことしるべし、北条氏没落ののち民間に下りしことは舊跡の條幷せ見るべし」とあり、天正十五年の北条氏照朱印状写では「大途御弓矢立ニ候間 小河内衆之證人 此度召上候 然者十二ニ成子所持申候由 被聞召届候 彼子を惣置ニ御扶持可被下間 速ニ證人被進上 心易谷中之走廻可致候 此度抽而走廻ニ付而を 随望知行可被下旨 被仰出者也 仍如件」(奥多摩町資料集より)とあり、杉田氏は日原の原嶋氏と共に小河内衆と呼ばれる武士団を形づくっていたことが分かる。
 
歩いて5分くらいで数軒のドライブインがある中奥多摩湖バス停に着いた。連休の後だったからか、お店はすべてお休みだった。近くに写真でみた建物は在ったが、名字が違う表札で、残念なこと杉田重直子孫の方が経営していた「湖水荘」は無くなっていた。
 
帰りのバスの時間まで30分あるのでバス停脇の閉まっているドライブインを覗いていたら、不審者に見られたのか、奥から人が出てきた。親切にも浄光寺や「湖水荘」の杉田さんの事を教えて貰った。もっと詳しくお話を聞かせて貰いたかったが、11時51分のバスを逃すと、次は13時58分と2時間も空いてしまうので、もう少し調べがついたら再訪しようと定時に来た乗客の誰もいないバスに乗った。
北條氏の家臣にはもう一つの杉田氏がいる。蘭学事始で有名な杉田玄白の杉田一族で、北條家滅亡後、武州久良岐郡杉田村に戻った玄白の遠祖杉田主水次郎長安が創建したお寺が川崎に残っていた。近いうちに訪ねたいと思っている。

奥多摩旧川野村杉田氏


この記事をはてなブックマークに追加

奥多摩旧川野村杉田氏

2016-05-19 14:53:25 | 會津

西多摩郡奥多摩町川野は昔、武州三田領小河内川野村とも武蔵多摩郡川野村と云われていた。戦国時代、ここの地侍で三田氏に仕えた杉田一族は三田氏滅亡後、北条氏に仕え、武州北條領と甲州武田領の境目の地として武田方の小菅勢と対峙していた。以前、神尾伊予(保科正之生母静ノ方父親)を探していて、たまたま新編武蔵風土記稿記載の杉田一族の舘跡の在った川野村に浄光院という寺があった。この寺の名は保科正之の生母、静の院号と同じであり、江戸幕府領になってこの地を検知したのが竹村与兵衛、時代は大分異なるが、神尾伊予の娘が嫁いだのが竹村助兵衛、この夫婦の次男を会津藩は杉田家を継がせ藩士として召抱えた。杉田氏、浄光院、竹村氏と正之誕生のとき、生母静に関係する名前が川野村に揃った。

5月の連休のあと奥多摩に向った。東京駅から青梅快速で1時間22分、青梅駅での乗換時間1分でどうなるかと思ったが、立川方面発着と奥多摩方面発着が島式1面2線ホームの隣り合わせで便利だった。青梅線は大体1時間に1本4両編成で今の時季、ハイカーでかなり混んでいた。中年の女性ハイカーが多いのに驚く。それでも沿線の駅でぽつぽつ降りて、終点の奥多摩駅まで乗っていたのは20人程度だった。以前、氷川駅と呼ばれていたころ、日原鍾乳洞や御嶽にはよく来たが、昭和46年(1971)奥多摩駅に改称されてからは初めてきた。単線だったのも忘れていた。
 
バスは10人ほどの観光客を乗せて発車したが殆ど途中の奥多摩湖で降りてしまい、
 
 
杉田氏の菩提寺がある大津久まで乗っていたのは1人だけになってしまった。
 
奥多摩湖は昭和32年、多摩川を小河内ダムによって堰き止めて造られた人造湖でバスはこの湖の北岸を曲がりくねって走る。
 
大津久バス停から浄光院まで歩いて2・3分で着いた。新編武蔵風土記稿の浄光院記載では「金剛山と号す禅宗臨済派鎌倉建長寺の末寺弘安五年(1282)の草創なりといえども開山開基の人を傳へず」とあるが、青梅の史家齋藤真指によって明治十一年頃から編纂された西多摩郡村誌に「開基創建は文安二乙丑年(1445)杉田右近允平重直にて、開山僧は、壁芸良鐡禅師なり、寛正元庚辰年(1460)八月十二日死す、法名を、西勝院浄空道光居士と号す」とあり「庭上に、一株囲み九尺有余の垂り枝の梅あり、花盛りには、銀光燐然しして、馨香馥郁たり、以て、近隣の美観となせり」とある。小河内ダム建設により浄光院も高台に移転したようで、枝垂れ梅も奥多摩湖の底に消えてしまったようである。
 
 
墓域もお寺の裏側の急斜面に段々に造られていた。比較的新しい幾つかの杉田家の墓域があったが、家紋はすべて「三本杉紋」で会津藩士杉田家の「丸に左根笹紋」では無かった。
 
ご住職にお話を聞きたいと思ったが、今は無住のお寺さんみたいで、兼任のお寺を聞こうと両隣のお宅を訪ねたがいずれも不在で、仕方なく、いま在るかどうか分からなかったが昭和50年代に出版された「奥多摩町異聞」に載っていた杉田重直の子孫の杉田さん経営の「湖水荘」を訪ねることにした。


この記事をはてなブックマークに追加

小田原酒匂界隈(酒匂神社)

2016-05-10 09:14:01 | 小田原

新編相模国風土記稿に浜邊御所についての記述がある。酒匂村の小名に「はんべ」という地名があり「東海道の通衛にて、西の方長一町余(109m余)の所を云、按ずるに「東鑑」に酒匂浜邊御所など見えしは、則此地なるべし」、事は旧蹟の條に詳なりとある。御所蹟は「八幡の社前なり、濶三千坪、白田を開けり、北域に土手の形尚残れり、高六尺、今は瓦屋舗と云、中古此所にて瓦を焼しと云、土人云、源廷尉義経の邸蹟なり」さらに「此地の南東海道の大路をはんべと呼び、はんべより北に折れて爰に至る横街を、もと御所小路と唱へし」という。文中に「文治元年五月十五日、義経内大臣宗盛父子を相具し、酒匂駅に著せしに、義経は鎌倉に入ことを停められ、暫らく此地にありて、六月九日帰洛せし」とある。酒匂浜邊御所の南の東海道大路を「はんべ」と呼び、ここから北に入る横道を御所小路と呼び、八幡神社前で今は瓦屋舗と呼んでいるという。

小田原市史に「いま、八幡神社は酒匂神社(もと駒形神社)に合祀されて存在しないが、もともとは酒匂神社のすぐ西側の、字瓦屋敷(舗) (瓦屋敷は河原屋敷とも記した)付近に鎮座していた」要するに、「宿の西寄り、東海道の北側の、酒匂川の渡渉地点にほど近い自然堤防上の微高地に浜辺御所があったと推定される」としている。さっそく、酒匂神社の近くの浜邊御所を探しにいった。境内にあった酒匂神社の由来によると「原神は、大和朝末期(650頃)大和朝から派遣された統治者が守護神として「八幡社」を祀ったのが最初であり、この頃、 高麗民族が渡米して、先進文化、特に棚織(はたおり)を広め「棚織社(七夕社)」等も祀られていた」また「安久五年(1149)に、箱根権現の富士上人参朝が、 寄進された地[免耕地(現在地)]に、箱根権現を勧請し「駒形社」を祀った」「明治初年に始まるさまざまな神仏分離令により、近くの八幡社を、明治十年四月に駒形社の場所に移して酒匂神社とした」とあった。
 
  
  
同じ境内に教育委員会で行った酒匂神社周辺の酒匂遺跡群発掘の説明板に「約90m西にある、現在の小田原市保健センター周辺にはかって鎌倉幕府の「浜辺御所」という将軍の宿泊・休憩施設があり」とあり、あっさりと酒匂浜邊御所の大まかな場所が判った。教育委員会の酒匂遺跡群の発掘説明と調査地点の図が掲示してあった。
  
調査地点のNO5では弥生後期の周溝、溝状遺構、NO4では近世鍛冶集落の存在を示す1800kもの鉄を製錬する際に出る不純物「鉄滓・てっさい」が見つかっている。
平清盛三男宗盛・宗父子を連行して鎌倉へ向け七日に京都を出た義経は、文治元年(1185)五月十五日夜、酒匂宿に着いたが、頼朝に鎌倉に入る事を許されず、暫く其邊で留まつよう指示された。此間、義経は酒匂邊で待機していたが、頼朝に拝謁することが叶わず、文治元年(1185)六月九日、前内府平宗盛を連行して京都へ向かった。その時の義経の心情を吾妻鑑は「其恨已深於古恨」と表現している。五月廿四日に腰越駅でいたずらに日を過ごしていた義経は前因幡守廣元に託して嘆願書一通、奉じた。これが世に腰越状と称するもので、風土記稿は「弁慶が書記せしと傳ふれどおぼつかなし」としている。しかもこの腰越は鎌倉の内、「不被入鎌倉中」と云われた義経はどうして腰越で「徒渉日之間」と過ごすことが出来たのだろうか。
鎌倉腰越 満福寺
 

参考 吾妻鑑(国会刊行会篇 1943)
文治元年(1185)五月十五日丁酉、
廷尉使者景光參着、相具前内府父子令參向、去七日出京、今夜欲着酒匂驛、明日可入鎌倉之由申之、北條殿爲御使、令向酒匂宿給、是爲迎取前内府也、被相具武衛者之所宗親、工藤小次郎行光等云々、於廷尉者、無左右不可參鎌倉、暫逗留其邊、可随召之由被仰遣云々。小山七郎朝光爲使節云々、
文治元年(1185)五月廿四日戊午、
源廷尉義經、如思平朝敵訖、剩相具前内府參上、其賞兼不疑之處、日來依有不義之聞、忽蒙御気色、不被入鎌倉中、於腰越驛徒渉日之間、愁欝之餘、付因幡前司廣元奉一通歎状、廣元雖披覧之、敢無分明仰、追可有左右之由云々、
文治元年(1185)六月九日庚申、
廷尉此間逗留酒匂邊、今日相具前内府歸洛、二品差橘馬允、淺羽庄司、宇佐美平次已下壯士等、被相副囚人矣、廷尉日來所存者、令參關参向東者、征平氏間事具預芳問、又被賞大功、可達本望歟之由思儲之處、忽以相違、剩不遂拝謁而空歸洛、其恨已深於古恨云々


この記事をはてなブックマークに追加

小田原酒匂界隈(大見寺・法善寺・法船寺)

2016-05-02 09:46:58 | 小田原

東海道分間延絵図(酒匂村)

新編相模風土記によると大見寺は「光明山無量院と号す、天文三年(1534)僧退堂、小菴の古跡に就て起立す、境内に小島氏の墳三あり、各五輪なり」という。
 
三つの墓石は、市内にある個人の墓のうち、年代を明記した最も古いもので、徳治三年(1308)銘の宝篋印塔は左衛門入道、天文二十一年(1552)銘の宝篋印塔は小島行西、天正二年(1574)銘の五輪塔は小島治部少輔だという。小嶋家十六代当主による由来碑によると、小嶋家は藤原氏を源流とした二階堂道蘊貞藤を開祖として、南北朝後の政変により二階堂姓を小島姓に改め、北條時代には代官として、小田原藩では郡代として務めたとある。
 
風土記稿によれば旧家徳右衛門、小嶋を氏として先祖小嶋左衛門入道、徳治三年(1308)の卒としている。小菴の古跡に大見寺が建立されたのは左衛門入道が亡くなってから二百年以上も後の天文三年(1534)、元禄十六年(1703)の大地震、宝永四年(1707)の富士山大噴火や酒匂川の氾濫にも敗けず、左衛門入道の宝篋印塔はよく残ったものだと思う。
一旦、東海道にでてから法善寺に向かう途中に武家屋敷と間違うほどの立派な門構えの建物があった。酒匂宿名主川辺家の屋敷長屋門といわれており、現在は児童養護施設ゆりかご園として使われている。
 
大見寺境内の本堂前には川辺氏代々の墓が並び、おくに円柱の上に仏様が腰掛けたような石柱が川辺家当主川辺清兵衛家次墓で当時の繁栄ぶりが残されていた。
 
江戸時代に整備された東海道五十三次の宿場は大磯宿の次が小田原宿で、東鑑にでてくる酒匂駅・酒匂宿はいつのまにか消えていた。東海道分間延絵図にも川辺本陣の記載はない。酒匂川の渇水期には土橋が架けられ、渡し賃は高くなるが水かさ四尺五寸(1.36m)まで渡れたようだが、増水期の旅人は少なかったのだろうか。
 
寺縁起に永享十一年(1439)、法善入道と云われる中野禅門がここに真言の庵を結び、十九年後、伯父にあたる本法院日敬聖人の教えにより号を神力山として日蓮宗に改宗した法善寺に寄ってから同じ日蓮宗の法船寺に向かう。
 
法船寺の寺傳に文永十一年(1274)五月十二日、日蓮鎌倉より身延山に赴く時、當所をめぐり歩くに、修験者飯山法船の帰依の餘り、日蓮を家に寓宿させた。のち宅地を捨て寺とし、越中阿闍梨朗慶を延て、開山第一祖とし、開基は法船夫婦。飯山入道夫妻の法號は「済度法船居士」「蓮慶妙船大姉」、山号を済渡山という。ここに小田原市内の全てのお寺を廻った訳ではないが、市内で唯一の五重塔があるという。法船寺の山門を潜っても五重塔が見えなかった。本堂の前に来て、やっと左手に相輪が見えた。
 
高さが想像したのと大分違っていた。しかし、小さいながらも総檜本瓦葺きの本格建築で、相輪まで含めると高さ8.55mあるという。神奈川県では藤沢の龍口寺を除き総木造りの五重塔は残っていない。身近で見られる貴重な五重塔となっている。


この記事をはてなブックマークに追加

御殿場線沿線 山北の桜

2016-04-19 10:38:55 | 小田原

「小田原の桜」を検索すると、小田原城址、長興山紹太寺のしだれ桜に交じって、山北駅御殿場線沿い桜並木が出てくる。国府津駅で御殿場線に乗換え山北駅に向かう。殆どの人が小田急線とクロスする松田駅で降り、次の駅、県立山北高校がある東山北駅で高校生が降りると、急に車内が寂しくなる。雨が降っていたせいもあるのか、山北駅の下車した客は僅か6名、櫻の時期にしては寂しい。
 
 
山北駅は丹沢山塊の南麓で、酒匂川上流域にあるJR東海所属で国府津駅から御殿場駅経由の静岡沼津駅を結ぶ御殿場線の駅で無人駅だと思っていたら地元のNPO法人が委託をうけて切符販売を行っていた。JR東日本のICカードはJR東海の一部の地区を除いては使えないので非常に不便を感じる。どうにかならないのかと思う。
駅前にはレトロ調の循環バスが客を待っていた。しばらく見ていたが乗る客は一人もおらず、電車の時刻に合わせてタクシーもいたが、いつの間にかいなくなっていた。駅前にある見守り観音の前を西に200mほどの行くと最初の十字路がある。そこを左に曲がると直ぐ桜の木が見えてくる。
 
 
跨線橋(三良橋)に先客が二名、もうすぐ電車が通過すると教えてくれた。やってきたのは御殿場と新宿を結ぶ特急「あさぎり」、一瞬で山北駅を通過していった。
 
 
雨で寒いので駅に戻るため跨線橋を渡ると駅の裏手にある山北町鉄道公園にでる。ここにD5270号機が静態保存されていた。この蒸気機関車を石炭燃焼ではなくコンプレッサーによる圧縮空気を動力源とし自力で動かす計画を進め、今年の秋(十六年)一般公開の予定だという。運転距離は動輪2回転分のわずか12mだというが、身近で蒸気機関車が動くのを見られるのは楽しい。
 
 
電車が付いたばかりなのか駅前にも大勢の人が、といっても六・七人だった。小田原までの切符を買う。裏が黒い横長の切符なのに自動改札が通れないと言われた。
 
JR東海の簡易委託駅でもマルス端末がほとんどの駅で導入されているが、山北駅では端末が未設置のために管理駅にて印刷発行したマルス券を手売りしているJR東海での三駅の一つだった(中央本線古虎渓駅、高山本線下油井駅)。雨が酷くなってきたので早々に国府津駅に向かう。小田原駅でこの切符を自動改札に入れたらどうなるか試したかったが、混んでいたので止めた。


この記事をはてなブックマークに追加

小田原酒匂界隈(長楽寺・南蔵寺・上輩寺)

2016-04-14 10:31:16 | 小田原


東海道分間延絵図  酒匂宿
 
「富士の高嶺を西に見て 南に望む相模灘」は酒匂小学校校歌の一節で、酒匂小の前身は長楽寺より始まり、その頃のまわりの風景を、詞にしたものだという。酒匂小は、明治五年(1872)、酒匂村長楽寺を仮校舎として足柄上郡、下郡で初めて前川村常念寺の崇高館支校として小学校教育をこの地で始めた。明治六年、酒匂学校が発足、前川村常念寺崇高館のもと第一支校(酒匂村山王原・弘経寺)、第二支校(酒匂村・長楽寺)、第三支校(小船村・源長寺)の三支校を設置し、同九年支校を廃し酒匂小学校とて独立した。現酒匂小から西、500mぐらいに位置する長楽寺からお寺巡りを始めた。
 
長楽寺は勧学山修行院と号し、開山は応永十五年(1408)、浄土宗のお寺さんです。
長楽寺から200mほど離れた南蔵寺に向かう。
 
南蔵寺、新編相模国風土記稿に「号は酒匂山不動院、寺伝に古は福田寺と号し、寺地も今の所在より四五町を隔ててあり東鑑、建久三年(1192)八月小九日 御臺所御産氣、鶴岡相摸國神社佛寺、奉神馬、被修誦經、福田寺酒匂、按ずるに、佛寺十五寺の一なり」としている。源頼朝は、鶴岡八幡宮ほか相模国の神社仏閣二十七ヶ所に妻北条政子の御産加持を命じている。本尊は十一面観音で、秘仏として一切公開していないとの事であった。
隣接の上輩寺に廻る。
 
上輩寺は品山浄土院と号し、開山は他阿真教、開基は酒勾右馬頭、永仁五年(1294)起立した。
 
ここにあるイチョウは乳柱が多く独特な樹形で飯泉の勝福寺、城山の光円寺と並ぶ小田原三大イチョウの一つでもある。このイチョウの傍に三基の五輪塔が並んでいる。お寺によると地元の豪族、酒勾一族の墓と伝わるということでした。

参考
建久三年、北条政子御産加持の相模国神社仏閣二十七ヶ所
福田寺〔酒匂〕     平等寺〔豊田〕          範隆寺〔平塚〕
宗元寺〔三浦〕     常蘇寺〔城所〕          王福寺〔坂本〕
新樂寺〔小磯〕     高麗寺〔大磯〕          國分寺〔一宮下〕
弥勒寺〔波多野〕    五大堂〔八幡。号大會御堂〕 寺努寺
觀音寺〔金目〕      大山寺              靈山寺〔日向〕
大箱根          惣社〔柳田〕           一宮〔佐河大明神〕
二宮〔河匂大明神〕  三宮〔冠大明神〕         四宮〔前取大明神〕
八幡宮          天滿宮                 五頭宮
黒部宮〔平塚〕     賀茂〔柳下〕           新日吉〔柳田〕

小田原酒匂界隈(大見寺・法善寺・法船寺)


この記事をはてなブックマークに追加

国立印刷局小田原工場観桜会

2016-04-11 09:23:49 | 小田原

小田原酒匂に国立印刷局の小田原工場がある。ここのH・Pに業務内容が日本銀行券の製造とあり、しかも年度ごとに達成すべき目標までもあってビックリした。この小田原工場敷地内を桜の開花時期に合わせて土・日に一般開放して観桜会を開催している。第37回目の28年は4月2・3日に開催された。
 
今年は全国的には桜の開花は早かったが、小田原の桜の満開は遅く、周りの桜も三分咲き程度だったが、普段入れない所に入れるという興味で出かける。正門で職員らしき人達が宣伝のテッシュを配っている。折角、休みの土日に駆り出されて気の毒になる。
 
  
敷地が広い所為か、櫻の枝が高く、幹も太く、のびのび自由に育った桜の木で、まだ満開と云う訳には行かなかったが、ミツマタの花が満開で楽しめた。工場に入ったら、何かの役に立つかも知れないから、工場・建物をバチバチ写そうと思っていたが、中庭正面の125m位の工場一棟に遮られ諦める。Googleマップの航空写真の方がよっぽど役にたちそう。印刷局創設期の紙幣頭が渋沢栄一なのも驚きだった。
 
30分ほどで桜鑑賞を終えて、東海道に面した古いお寺さんを廻ろうと国道1号線に向かう。途中小さな社があった。この社は「道三稲荷」と呼ばれ、説明板によると、徳川幕府典医「道三」の邸宅内に祀られていたお稲荷が祖であると伝えられている。関東大震災以前は丸の内、日清生命の裏手に鎮座されていたという。日清生命のあった建物は現在の大手町野村ビル(大手町2-1)で、隣町が道三町で横に道三堀があり、明治期に大蔵省印刷局もあった場所でもある。
関東大震災後は大手町官舎横にも遷宮されていたが、昭和十八年、丸の内から印刷局小田原工場開設と同時に同工場内に遷宮されたが、終戦により個人宅に移され、昭和二十九年に現在地に鎮座されたという。道三堀は江戸城への輸送路として和田倉門橋から平川の河口の呉服橋門まで開削した人工の水路で南岸に幕府の侍医、曲直瀬道三家の屋敷があったことから、道三堀と呼ばれたという。
 
寛永三年(1626)、二代将軍秀忠に従い滞洛中、秀忠の正室崇源院(お江の方)の病のため江戸に帰る途中、箱根山中で没した今大路道三玄鑑(曲直瀬道三玄朔(正紹)の子)の墓が箱根湯本の早雲寺にある。
 
 
二代将軍秀忠公侍医 曲直瀬家三代
今大路道三玄鑑之墓
寛永三年九月十九日歿 享年五十歳


この記事をはてなブックマークに追加