大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

むつ市から八戸へ(斗南の風景5)

2012-06-01 10:08:37 | 會津

最終日、田名部から八戸に戻る途中、戊辰戦争に関する青森県内唯一の史跡だという野辺地戦争墓所に寄った。野辺地戦争とは降伏謝罪を探っていた盛岡藩に津軽藩が慌てて行動をおこした。明治元年九月二十二日夜半、小湊に集結した弘前藩・黒石藩の藩兵約百八十人が3隊に分かれ盛岡藩領野辺地に攻め込んだが、四十九名の死傷者を出して二十三日、撃退された。
  
二十四日、津軽兵は突然盛岡領濁川の部落にも打入った。大山柏は戊辰役戦史で、「一体何のために津軽兵が盛岡領に打入ったのか。すでに盛岡藩が降意を表した後では、何の意義もない」と書き残している。弘前藩では翌年、野辺地戦死者のうち二十七名の名を刻んだ墓石四基をこの地に建てた。
 
青森県庁のホームペイジに青森県史の質問箱に「津軽と南部は、お互いに仲がよくないように言われていますが、なぜでしょうか?」という質問が載っていた。これは、じつに奥の深い良い質問だった。
七戸町の青岩寺にむかう。
 

この寺は天正十年(1582)の創建と伝えられ、説明によると岩手郡大泉寺の末寺で、現在の庫裏は明治六年旧官所を移したもので、山門も同年旧七戸城本丸の城門を移したものという。七戸藩は盛岡新田藩とも言われる盛岡藩の支藩で明治二年、盛岡藩の処分に関連して領地を確定して表高一万石で成立したもので、藩庁も置かれた。七戸城は七戸南部氏の中世城跡として昭和十六年に国指定史跡に指定されている。このお寺の山門の横に、大正六年八月、戊辰戦争五十年祭の際に旧会津藩士二十名によって建立された「招戦没諸士之魂碑」があります。
 
石川正一、伊澤信志、橋本 昴、星松太郎、加賀清四郎、笠尾善太郎、田口主税、竹村痒夫、
永瀬佐太郎、矢嶋章男、山内 伸、牧田静夫、小出三枝、秋山政次、安藤ふて、斎藤みさ、
渋川裕治、諏訪藤太、鈴木文英、以上二十名

十和田市西三番町、ちょうど十和田市野球場のバックネット裏側にあたるところの澄月寺に山川浩題、秋月胤月撰による「招戦没諸士之魂碑」がある。
 
もともと十和田市周辺は三本木平と呼ばれる荒野で、この台地は盛岡藩士の新渡戸傳、十次郎親子が安政二年から大規模開墾に着手した場所で、十次郎、傳翁、逝去のあと十次郎長男の七郎がその後の開拓に尽力を注いでいる。廃藩置県や青森県への合併により斗南ヶ丘の開拓は中止され、生活の手段が無くなった元会津藩士(=斗南藩士)の一部を三本木に移住させ開拓地を提供するなど、その引受けにも尽力しており、青森県史によれば明治六年四月までに三百二十八戸、千五百十五人の斗南藩関係者が三本木平に入植している。この三本木という地名は明治三十五年、歩兵第五連隊の「雪中青森より田代を経て三本木平野に進出し得るや否や」と八甲田雪中行軍目的地となった所です。
 
「招戦没諸士之魂碑」
我会津藩戊辰之役開端伏見鳥羽尋戦下野越後及白河等各
地終嬰城拒戦前後□會者殆三千父為獨子為孤其惨状不可
言盍亦盡忠其主已先是藩主松平容保公之為京都守護職也
孝明帝賜近衛忠煕書曰會藩勇威朕頼之将有籍其力乱平後
長門奥平謙輔贈書曰貴国有大造于海内不独為幕府致節弊
邑亦受其賜土佐岩崎惟慊亦曰京畿以東兵力之強誰出貴藩
之右者其為 先帝所倚頼諸藩所稱揚如此盖戦歿諸子與有
力矣欠世子容大公再封斗南諸臣多従焉今茲庚寅為廾三回
忌辰胥謀建碑于上北郡三本木邨澄月寺以祭焉旧藩老山川
浩為題其面胤月記陰嗚呼諸士玉砕其名與此石不朽而
瓦全至今不能成一事媿□諸士多矣
明治二十三年七月正七位秋月胤月撰門人佐藤劉二書

下北を一周して八戸に戻り高台の館鼻公園にある御前神社神葬墓地の蒲生誠一郎・蒲生優子の墓域に行く。前回この館鼻公園を訪ねたとき、会津藩士「神田小四郎」の長男で八戸港建設を推進した二代目市長を務めた神田重雄像に全く気が付かなかったが、今回は神葬墓地の中にある神田家の墓域にもしっかりと寄ってきた。
 
 
 
新幹線まで少し時間があり、八戸南部家の菩提寺の南宗寺に寄ってから仙台に向った。
 
 

人相書

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田名部から大間へ(斗南の風景4)

2012-05-28 08:13:19 | 會津

斗南領内への旧会津藩士とその家族の移住総員数については資料によって差がありハッキリしないが、青森県史記載資料によれば移住者総数一万七千三百二十人、戸数四千三百三十二戸(推定)とあり、斗南藩史記載若松県の上申によれば、若松にて帰農した者約二千人、東京にて職業に就いた者約千二百人、斗南藩に引移した者一万四千八百人、不明者約二千人、旧会人員数を二万人としている。むつ市は市制施行30周年記念事業として平成2年3月、当地における斗南藩120周年にちなみ、大平浦に到着した斗南藩移住の経路を史跡として後世に伝えるため「斗南藩士上陸之地」の碑を建立した(揮毫会津松平家十三代当主松平保定氏)。

 
説明板によると、この碑は慶山石で造られ、会津若松を望む方角に設置されたという。周りは、むつ市の花「ハマナス」と会津若松市の木「アカマツ」で囲まれている。
 
この海岸から見える山がここに移住した会津の人たちが斗南磐梯山と呼んだ釜臥山、この山の向こう側にあるのが恐山。恐山という山があるのかと思ったら、宇曽利湖を中心とした外輪山の総称で南側の山が釜臥山、湖の北側が賽の河原といわれ菩提寺がある。日本三大霊山、日本三大霊場、日本三大霊地、恐山はいずれにも含まれている凄そうな所、ここの「イタコの口寄せ」には興味ないが、この場所は一度、訪ねてみたい場所だが、今回は外輪山のふちを眺めて我慢する。ここから車で5,6分のところにあるむつ運動公園の東端(テニスコート横、森林のなか)、落野沢に柴五郎住居跡を訪ねた。国道から脇道に200mも入った鬱蒼とした何か獣でも出てきそうな林が開けた所に「風雪の落の沢」という説明板があった。

 
「寒気肌をさし、夜を徹して狐の遠吠えを聞き五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」(「会津人柴五郎の遺書」より)と言ったという。 明治四年廃藩置県により、忽然と士族授産は消え失せ士族は四散せざるを得なかった。斗南士族の胸中には「まこと流罪に他ならず、挙藩流罪という史上かってなき極刑にあらざるか」という憎悪と怨念が残るのみであったという。そこから50m位戻った所に五郎が兄と共に仮住まいしたという呑香稲荷神社への鳥居がある。
 
薄暗い神社の裏側にまわってビックリした。そこには綺麗なテニスコートがある広々としたむつ運動公園だった。県道6号に入り、斗南ヶ丘市街地跡に向かう。
 
 
「斗南藩が市街地を設置し、領内開拓の拠点となることを夢見たこの地は、藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけられました」とあった。「夢見たこの地」という悲惨な言葉が、この斗南ヶ丘の歴史の運命を物語っていた。この跡地に下北地域で一番大きい碑がある。


秩父宮両殿下が昭和十一年、下北地方を巡遊され、ここ斗南ヶ丘に立ち寄られたことを記念し、秩父宮両殿下御成記念碑を昭和十八年に子爵松平保男謹題、旧斗南藩士荘田三平謹撰、従七位近藤賢三にて建立した。昭和四十六年、斗南藩百年祭に斗南ヶ丘記念碑に秩父宮妃勢津子殿下(旧斗南藩主松平容大令姪)をお迎えしている。ここから車で二,三分のところに斗南ヶ丘で唯一生き残った島影家や斗南会津会の人々が建立した「斗南藩追悼之碑」と旧藩士の墓域があります。
 
 
本州最北端の岬、大間崎に寄った。会津鶴ヶ城落城後、明治新政府によりこの下北と三戸・五戸地方へ会津藩士とその家族1万7千300人が挙藩移封された。その血と涙の歴史を、斗南藩史生を務めた木村重孝の御子孫が展示している歴史資料館「向陽處」にお邪魔した。
 

ここにあるカラーの城下絵図の話を聞いてから3年目にようやく訪ねることができた。色が鮮やかに残っていたのに驚く。この絵図の制作年代が不明なのは残念だったが、絵図の中に沼澤小八郎と記載があった。高木盛之輔誌「沼澤道子之傳」(道子の夫は十代沼澤九郎兵衛)によると、十一代沼澤六郎(後、左馬助)は元治元年に病死、その後を継いだのが二男の小八郎(十二代出雲、のち七郎)で、そうすると、この絵図は元治元年以降に作成 されたものと考えてもよさそうである。夕方、田名部に戻る。夜は斗南会津会の方々に懇親会の場を設けて頂いた。挨拶のあと、会津藩士流亡の歌「下北哀史」を聴かせてもらった。お隣の斗南会津会の会長さんが「この歌を聴くと涙が止まらないのです」と大粒の涙を流されていた姿が今でも強く心に残っている。

(下北哀史歌詞)
涙こらえて 鍬とれば 下北哀し 火山灰 緑の山河 夢とおく 
すぎし戦争(いくさ)を ふりかえる 故郷の唄に 風も哭く 

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むつ市 円通寺と徳玄寺(斗南の風景3)

2012-05-24 08:00:00 | 會津


2日目はむつ市新町にある円通寺からスタート。

 
山号は吉祥山、下総東昌寺末寺で大永二年(1522)創建、開基は根城南部氏で万治二年(1659)東昌寺六世が中興の祖で、恐山菩提寺の本坊でもある。明治元年十二月、盛岡藩旧領地没収され、二戸、三戸、北の三郡は弘前藩管理となったが、翌年二月黒羽藩取締に替り、県名は北奥県、旧三戸代官所が県庁本局となったが九月、九戸県を八戸県と改称したが六日後に三戸県と替え、三戸北奥県役所は三戸県御役所に変更されている。丁度このころ、会津松平家の血縁の者の願い出の沙汰があり、明治二年十一月、松平慶三郎に家督相続と陸奥国高三万石の立藩が認められた。陸奥国斗南藩三万石は三戸県内の二戸郡内十二ヵ村、三戸郡内五十ヵ村、北郡内四十八ヵ村にいつ決定したか分からなかったが、明治二年十一月二十八日に斗南藩領以外の三戸県を江刺県に編入されているので、この時期に三万石の領地が決められたものと思われる。明治三年四月に黒羽藩と旧盛岡藩三戸代官所にて領地引継ぎ、当初は藩庁を旧盛岡藩五戸代官所に置いた。松平慶三郎家の陸奥支配地藩名を斗南と定めたのは、はっきりしないが維新史料などによると明治三年五月には斗南藩と出てくるので、四月か五月だと思われる。明治四年(1871)二月、円通寺に斗南藩庁を移し藩主の仮館とした。藩校である斗南日新館も迎町大黒屋からこの円通寺に移した。旧会津藩は二尺、三尺位の大きな本箱十六梱で会津日新館の書籍をこの下北に持参したと言われている。斗南日新館蔵印も残っているということであったが、今回は時間がなくて現物を確認することができなかった。
 
境内の一角に明治三十三年、斗南藩士たちが建立した源容大書による「招魂之碑」がある。
 
碑陰記
明治戊辰之乱会津藩士奮戦各地死者数千人其忠勇節烈
凛乎凌風霜矣及乱平生者皆浴一視同仁之沢而死者幽魂
独彷徨寒煙野草之間不得其所吁嗟哀哉今茲庚子為其三
十三年忌辰於是旧藩士居南部下北郡者胥謀建碑圓通寺
招魂祭之寺則旧藩主容大公封斗南時所館也
明治三十三年八月  旧会津藩士従五位勲五等南摩綱記撰并書

 
円通寺のお隣が齢香山徳玄寺。

 
ここは文禄三年(1594)、加賀の僧が五戸石澤に庵を結び、寛永二年(1625)、田名部に移したといい、このお寺も創建は古い。境内に「表高二十三万石を誇り、奥州第二の雄藩であった会津藩は全国諸藩の中で最も勤皇の志が厚かったにもかかわらず、明治維新の際に朝敵の汚名を着せられ全国唯一の移封処分を受けてここ斗南の地へ挙藩流罪となりました。ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や遊びの際に使用された場所です。当時の容大公は数え年三歳ではありましたが移住藩士達を激励する為に、各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。またここは重臣の会議場でもあり、様々な施策についての議論が重ねられた所でもありました。東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業開発など、卓越した構想と意欲は廃藩置県後も斗南の地にとどまった人々に希望を与え、新生青森のあらゆる方面において会津魂は大きな功績を遺したのでした」と説明板があった。
 
墓地には数多くの斗南藩士の墓が点在し、学事掛の橋爪寅之助の墓碑もここにあった。

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五戸から安渡へ(斗南の風景2)

2012-05-21 08:33:17 | 會津

三戸から一路北上、どこをどう走っているのか相変わらず分からなかったが五戸へ向かった。車内でも話題になったが、この戸(へ)という呼び名。一戸から右回りで九戸に戻る。丁度、テレビで律令制度のあった平安時代中期、都と地方の国府を結ぶ道に約四里ごとに作られた駅家で馬を利用するための資格である駅鈴などの番組をみたばかりだったので、戸は馬の放牧地兼駅家の別名と思ったが、色々な説があるみたいで、一戸から七戸までのそれぞれの距離が概算で五里、これは昔の軍勢の往復できる距離だそうで、征服した土地を柵で囲み「柵戸(きのへ)」と呼び、順番に「一ノ戸」「二ノ戸」と呼んだともいい、また戸(へ)は、この地方の馬を九つに区画して運営した官営牧場の管理,貢馬のための行政組織だったともいわれ、ハッキリしていない。

昔、知り合いに一戸さんという姓のかたがいた。一戸さんから九戸さん、百戸さん、万戸さんのなかで六戸氏、九戸氏、萬戸氏(万戸氏は除いた)は珍しいお名前で全国でも軒数が一ケタ以下しか確認できなかった。五戸の高雲寺に会津藩士倉沢平次右衛門や会津藩家老だった内藤介右衛門信節のお墓を訪ねた。光明山高雲寺は報恩寺末寺(三戸、あと盛岡移転)で慶長二年(1597)開創、開基は木村杢助秀勝といわれている。このお寺の墓域はかなり広く、木村杢助秀勝の墓もあるという事であったが分からなかった。
 
 
 
内藤家の墓域の右奥に諏訪伊助妻墓があり、その隣がお婆様。一瞬衣をかぶっていたので奪衣婆かと思ったが、よく見ると衣服をきちんと着ているのでそうでもないようだ。その右側は戊辰之戦いの後、陸奥五戸に移った旧会津藩士の墓。

この墓地には旧会津藩士の墓碑があるはずなのだが、時間がなく探せなかったのは残念だった。三沢市谷地頭にある三沢市先人記念館は平成23年度、収蔵資料整理事業を実施して調査・研究により、新しく解明した内容を「新収蔵資料公開」として企画展を開催している。展示品の説明をここの学芸員のHさんにお願いした。この先人記念館にいる学芸員さんは御一人と聞いたが、ぜひ眠っている資料の解明と公開に頑張ってほしいと思う。

戊辰戦争後、陸奥への移住を強く主張、斗南藩では少参事として活躍し、民間式洋式牧場を開設した廣澤安任(富次郎)の墓所へも寄った。この墓所は昔、広沢牧場の南端に建てられたのだが場所を特定するのが難しい。記念館から170号を南下、JAおいらせ北部を通り越して、右側高野沢集会場(記念館から約1,5K)を右折(三沢市内からだと左折)、約650M左側の林を登った所に一族の墓碑が点在していた。

 
今回のメンバーは総員10名の大所帯。夜はむつ市で懇親会。たまたま入ったお店が斗南会津会の会員さんで旧会津藩士の子孫の方だった。初代からの家系図も見せてもらった。ここで珍しい鹿と玉ねぎの鉄板焼きをご馳走になった。初めての鹿肉だったが、柔らかく臭みもまったくなく甘目の味噌タレがよく合って、とても美味しかった。

 
2軒目、舟のオールや自衛隊の写真なども置いてある海上自衛隊ご用達みたいなお店に寄り道して宿に戻る。

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三戸の会津三碑(斗南の風景1)

2012-05-15 09:12:04 | 會津

連休を利用して斗南藩があった下北半島とその戻りに仙台に寄った。スタートの東京駅で早くもつまずく。停電で新幹線が遅れているとのこと。乗車予定の1台前の電車は5分遅れて発車とのアナウンスがあった。これが真っ赤な嘘で、20分遅れで入線してきた。乗車予定の新幹線は40分程度遅れて発車、集合地の八戸について驚いた。後発の連中が先に着いていた。
 
車二台で出発、最初は会津藩殉難者無縁塔のある三戸大神宮に向かう。行ったというより、ただ車に乗せて連れて行って貰ったので、北も南も分からない史跡巡りが始まった。
  
 三戸大神宮にある会津藩殉難者無縁塔は、三戸三碑修理顕彰会が昭和51年に杉原凱先生の墓で作業中に周りからおびただしい数の人骨がでてきた。当時は死者も多く、埋葬地にも困る状態だったという。顕彰会では、近隣にある無縁化した人々の骨を一ヶ所に合葬その上に無縁塔を建立し冥福を祈った。会津三碑の1つ、「杉原凱の碑」の杉原凱は会津藩の儒者で、「四書訓蒙輯疏」でも有名な安部井帽山に学び北学舎の長となる。戊辰後の明治三年、陸奥三戸に移り明治四年に病死、この碑は杉原が没してから15年目の碑建立である。
 
 
青森県三戸郡三戸町には在府小路町、同心町、馬喰町等古そうな地名が残っているが、この同心町の悟真寺に会津藩士戊辰殉難者の「招魂碑」がある。脇に「会津藩士戊辰殉難者招魂碑由来」があり、旧会津藩士(斗南藩士)三戸移住者一同により「ここに二十七回忌辰の為に南部三戸に移住せる旧藩士あいはかり碑を建てその事を録しもって後世に伝えかつその魂を招きこれを祭らんとす」とあり、明治二十七年八月二十三日建立されている。篆額は松平容大、撰は旧藩士南摩綱紀、書も旧藩士の渡部重乕による(注、忌辰は忌日に同じ)。

 
わが国最古といわれる白虎隊の墓がある観福寺に向かう。観福寺の山門は旧三戸代官所(陣屋)の門を移築したもので二百五十年以上経たものともいわれている。
 
この門の右脇に無縁仏なのか、ある斗南藩士の奥さんの墓があった。この観福寺の白虎隊墓碑は大竹主計の弟大竹秀蔵が明治四年正月十三日、母シヲの一周忌命日に建立したものと云われている。この墓碑の中には、自刃蘇生した飯沼貞治(貞吉)の名であり、戦死したと言われている伊藤悌次郎、池上新太郎の名も入っている。この墓碑の建立者の大竹秀蔵はどこでこの白虎隊戦死者の名前を知ったのだろうか。猪苗代謹慎ならば、貞吉の消息は分かったはずで、高田で謹慎していれば白虎隊の情報も少なかったかもしれない。観福寺の白虎隊墓碑名は出陣して帰陣できなかった隊士名を聞きある程度特定したのだろうが、明治二・三年といえば、会津家中では、自刃した白虎隊士にたいして憐憫の情を強く持ったにせよ、尽忠報国とか、忠義といった白虎隊自体を称賛していったのは明治中期以降であり、明治四年初め、この観福寺の白虎墓碑を建立したということは大竹秀蔵の一族か、または周りにいた旧会津藩士の中に白虎隊と緊密な関係があった者がいたのではないだろうか。大正十二年、この墓碑を訪ねた矢村績(いさお)の檄文が観福寺にのこっている。その中に「旧藩士に謀り、戊辰の役に重立ちたる戦死者の氏名並びに白虎隊殉死者の名を刻し、三戸町浄土宗観福寺に碑を建立して長く其の霊を弔う」とあり、旧藩士にも相談して戊辰の役で主だった戦死者の氏名も刻したと記載してあるが、今は読取ることは出来ない。観福寺白虎隊墓碑表面に、簗瀬竹治 鈴木源吉 伊藤俊彦  石山虎之助 野村駒四郎 有賀織之助  西川勝太郎 永瀬雄次 篠田義三郎  伊藤悌次郎 池上新太郎 簗瀬勝三郎  安藤三郎 井深茂太郎 飯沼貞治 間瀬源七郎 石田和助 縦に三名、六行で白虎隊士十七名の名前が彫られ石田和助の下に小さく二行で忠烈古今罕ナル白虎隊ノ英魂ヲ弔ハンとあり、何か余白に文字を無理やり入れたような感じの墓碑で、横の墓碑由来によると昭和二十五年、高杉龍眼住職が苔に埋もれたこの碑を発見とあったが、旧藩士子孫矢村績が訪ねた二年後の大正十四年に秀蔵が無くなったとはいえ、明治半ばから大正と白虎隊の名が高まるなか、この碑の存在は忘れられてしまったのだろうか、それとも太平洋戦争敗戦で一時この碑を秘匿して、五年後に再び表に出したということなのだろうか。
 
明治二十七年発行中村謙著「白虎隊事蹟 全」に「本書石販画の現場並びに容貌着衣の模様等は旧藩士故印出の老母及び飯沼君の指示遺族者の説話によりてものせるものにして座上の想像的に摸写したるものにあらず」云々と記載があった。

 

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会津藩蔵版印・会津秘府印と魁星印

2012-05-09 13:14:13 | 會津

前回、蔵版と藩版との違いについて書いたが、出版の権利について「物の本」によく享保以降という言葉が出てくる。これは享保六年(1721)幕府は明暦三年に布告した私党忌避の禁を解き、諸商人仲間の活動を公認して、書物屋仲間に諸色新刊書取締の布告を出した。これによって「仲間吟味」の制度が確立され、翌年十二月、町奉行大岡越前守から新板書物の取締の布告が出され、この条項が幕末まで出版物取締の基準となった。これによって出版書籍の奥書に作者及び板元の署名がなされ、出版する権利を有する者が明確に表示され、その後、京都・大坂・江戸の三都間の書肆でも統一され「板株」の権利が確立されていった。
(上・内藤書肆印行 東京都立図書館蔵書) (下・会津藩蔵版)
 
 
 
一方会津藩では藩内に開版方を設けて出版を始め、寛政十一年(1799)には藩校、日新館の造営を開始、そのなかに開版方を学校奉行の管理下に属させて書籍を印行させたが、勘定は別会計として、印行費用は大抵五年賦にて償還し終り、後には書籍の売却純益を以って事を弁理したという。しかし国中で売却するには薄利にして、殆ど利のないものもあったが、天保十四年開版の四書輯疏は江戸での販売も多く、書肆は幾百部でも引受、その純益も多かったという。日新館では開版方任役二人、開版方勤二人、摺仕立方四人で彫刻の職人は家人給士の内から選抜し、料紙漉立の役は他に任命されている。会津藩で出版された書目は、漢籍本から俳書まで多枝にまたがっており、これらの出版書は実費で会津領内士民に頒ち、一部は藩外へ印刷を依頼して刊行している。一部の書は初め会津で印行され、後に京都において再刻されている。これらの書籍を三都で出版した書肆、享保以後板別書籍目録・享保以後江戸出版書目・徳川時代出版者出版物集覧などとぶつければ簡単に会津藩蔵版と魁星印、会津秘府との関係が判明するかと思ったが、大きな間違いだった。蔵版と藩版とで実質出版者を特定するのは難しく、藩版には出版時時期、出版地、出版者といった刊記が全くない無刊記であり、しかもこれは藩蔵版の特徴にもなっている。そうすると藩蔵版に蔵版印や魁星印、会津秘府を捺す意味はなんだったのだろうか。初めは藩版として刊行しておいて、後にはその板木を製作者である版元に下げ渡してその店の刊行物として、奥付にもその書肆名を表して売り出した例もすくなくないという。藩内での使用には藩や日新館の蔵書印があれば十分で、日新館の講義で使用する漢籍本にベタベタと種々の朱印を捺す必要はないわけで、今、残されている会津藩蔵版や日新館蔵版の漢籍本の多くは実費で会津領内や三都の書肆で販売された書籍ではないのか。そうすれば書肆で押印されたという魁星印も説明が付き、会津藩蔵版は藩蔵印、日新館蔵版は会津秘府印を押印して区別して、さらに一部の書肆で販売した書籍には魁星印が捺されたのではないだろうか。
(会津藩蔵版印)
 
左・会津秘府印         右・日新館蔵書印
 
 
藩と出版本が重なっている書肆に京都・壽文堂武村市兵衛、江戸・尚古堂岡田屋嘉七、須原屋新兵衛、須原屋茂兵衛などがあるが、いずれもどんな魁星印を使用していたか漢籍本を実際に見る機会が極端に少なく分からなかった。(書肆・奥書)
 
 
 
高橋明彦氏の「新発田藩版とその原版」によると新発田藩校道学堂には御版行方という出版局があり、道学堂関係役人六十一名の内、御版行方は四十二人にのぼるという。江戸書籍商史に「海国兵談」の出版費用が載っていた。「海国兵談」十六巻を紙数三百五十枚・八冊造で千冊製本するとして、総費用の明細は、紙一枚彫賃四匁五分で三百五十枚一貫百五十目、金にして二十六両一分。紙代が八千帖で六貫八百目、金にして百十三両一分と銀五匁。表紙が二貫、金にして十両二分と銀五匁。縫糸代一部六分五厘で、千部で六百五十目、金にして十両三分。摺賃一部に付四分、千部で六百五十目、金にして六両二分と銀十匁。仕立賃一部につき一分、千部で一貫目、金にして十六両二分と銀十匁。外題料全部八冊に一分ずつ、千部で百目、金にして一両二分と銀十匁。八冊本千部で、〆て銀にして十二貫五百二十五匁、金に直すと二百八両三分と思ったより費用が掛っている。ちなみに板刻は一人で彫る所、紙一枚に大概一日半かかり、海国兵談の総枚数三百五十枚を一人で彫れば、休みなしで九百日掛る計算になる。本の制作は思った以上に大変な事が判った。5月の連休に斗南藩の藩校、斗南日新館があったむつ市の円通寺を訪ねた。教科書の漢籍本は会津の日新館から運んだという。残念ながら現地で四書集注、四書輯疏の現物を見ることは出来なかったが、斗南日新館蔵印もあるという。結局、会津藩蔵版印と秘府印、さらに魁星印との関係を明確にすることが出来なかった。こんなことは、漢籍本の世界では当たり前の常識なのか、分からず、全くの見当違いでなければいいのですが。

蔵版と藩版 

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蔵版と藩版

2012-04-17 07:00:00 | 會津

会津藩における出版は承応元年(1652)、土岐長元に「輔養編」の編纂をさせ、将軍家綱に献上し、これを活字で印行し老中やその近侍に贈ったことに始まる。さらに家世実紀によると承応三年、江戸詰嶋田覚左衛門に撰述させて「九數算書」を印行(印刷して発行すること)したとある。会津藩も当初は活版で印刷していたが、輔養編は天保十三年(1842)、木版で会津藩蔵版として再刻されている。藩主保科正之は寛文五年(1664)「玉山講義附録」、同八年「二程治教録」、翌年「伊洛三子伝心録」を編輯した。会津藩ではこれを「三部書」として尊重し、玉山講義附録も一時活字で印行したが、そののち、三部書は京都に於いて印行させている。この三部書は寛政・享和年間に会津藩校の日新館のなかに開版方を置き藩校版として印行して必修科目の教科書として使用している。三部書を出版した京都の書肆はどこだったのだろう。徳川時代の出版書店別の印刷物総目録を編纂した「徳川時代出版者出版物集覧」に会津三部書すべてを出版している本屋があった。京都二条通の武村市兵衛(壽文堂)で、記録では二程治教録二冊寛文六年序、玉山講義附録三冊と伊洛三子伝心録三巻はともに寛文十二年の再版序文があり、京都で鐫刻されたことが窺われる。それでは、京都や江戸で出版された書肆本と藩・藩校版の出版物である藩版・藩校版との区別が出来るかというとそう簡単ではない。蔵版と藩版との関係が難しい。日本古典籍書誌学辞典(以下辞典)や参考文献による蔵版と藩版の解説をみてみる。蔵版(ぞうはん)について、辞典に「板株を所有し出版する権利を有すること。その権利を有する者が蔵版者・蔵版主で、その書籍を蔵版書・蔵版本という。開版費用を出資(入銀)して板木の所有権を得るのが普通であるが、既成の板版を購入して蔵版者となることもある。諸藩、寺院、学校等を含め、本屋以外の人間が蔵版する場合、板木の彫版・摺刷・製本を製本所として書肆が受け持つことが多く、また書肆の流通網を通じて当該書籍を売り広める場合には、書物問屋仲間に加入している書肆を支配人として立て、諸手続き等の実務にあたらせる必要があった。それらの蔵版書の多くには蔵版印・蔵版記があり、蔵版主が明示されている」とあり蔵版印については、蔵版者がその証明のために捺す印章とあった。

  
中野三敏著「江戸の板本」の蔵版印の説明では「ほとんどが享保以降、見返しや奥付などに捺印される書肆以外の蔵版主を明確にするための印を蔵版印という。おおむね朱印を実捺する場合が多いが、初めから板木に彫り入れて黒刷りされる場合もあり」とあった。
藩版は辞典に「諸藩の藩主や藩校の出資によって刊行された出版物。費用は藩が負担するが、実際の出版に関する作業や実務は、多くはその藩と関わりのある書肆が行うのが通例だが、中には藩士や一般人を技術者として養成して行う場合もある。おおむね好学・好事の藩主自身の著述を刊行する。享保以前は書物のどこにもその旨を表記せず、奥付等も付けないものが多いが、享保以後は見返しや奥付に「○○藩蔵版」といった蔵版記や印記を以て示す例が多くなる。また、初めは藩版として刊行しておいて、後にはその板木を製作者である版元に下げ渡して、その店の刊行物として、奥付にその書肆名を表して売り出す例も少なくない。したがって元禄頃までの藩版はそれが藩版であるかどうかを判断することがかなり困難な場合が多い」とある。

 
説明が長いですが、蔵版と藩版とで実質出版者を特定するのは難しい。例外規定の多い難しい馴染みのない法律条文を読んでいるようで判ったような、分からないような、漠然としたイメージになってしまう。
手元に安政三年の「会津暦」があります。

 
この版は諏方神社の神官である諏方家が暦を文字や絵を版木に彫って刷り発行して菊地庄左衛門が売暦したことが判ります。

 
この本は明治二十七年に再版された会津藩地誌局編輯「新編会津風土記」で若松萬翆堂印行、奥書により発行者等が記載されおり現代の出版本と同じように誰が出版したかが判別できますが、上記「四書訓蒙輯疏」のように会津藩蔵印と魁星印が捺してあっても刊記の記載がない書籍は何所で,誰が出版したか全く分からない本があります。

会津藩蔵版の魁星印(2012−04−10)

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会津藩蔵版の魁星印

2012-04-10 06:52:55 | 會津

前に「会津日新館の蔵書印」で日新館蔵版四書集註に捺されている雷神みたいな朱陽刻印は何を意味しているのだろうと書いた。

  
5年ほど前に買った橋口侯之介著「和本入門」を読み直すと、なかに付箋が2ヶ所にあった。まったく記憶なかったが1つは「編著の役割と用語」。似たような用語の区別は今もよく解っていないが和本の入門書として買ったのが「千年生きる書物の世界」と角書があるこの本、僅か250頁しかないが、この中に千年分の和本に対する著者の知識がギュッと詰まっているとんでもない本だった。自分で和本を何冊か手にしてこの本の凄さが初めて判った。もう1つの付箋は「本にも神様がいる」という項だったが、付箋を付けた事も中の説明も全く覚えていなかった。「江戸時代の前期(十七世紀)には多くの明版は和刻された。そのとき、本とともに入ってきたものがある。これは出版元の本屋が捺すもので、よく見ると鬼のような形相のものが描かれている。これを魁星印(かいせいいん)という」とあった。もうすこし引用すると「(著者が)見たもので、もっとも古いのは寛永二十年(1643)の刊記がある「大魁四書集註」という本の巻末にあった」「京本音釈註解書言故事大全」という漢籍の巻末にもある。この二書は明版の和刻本である。この図は明代の中国にあったものなのだ。これが見返しに捺す魁星印のもとになった」とあった。雷神みたいな朱陽刻印は魁星印と呼ばれるものだった。名称が判れば調べやすい。魁星印について日本古典籍書誌学辞典には「版本の見返しに用いられる祝呪的な装飾印。元来は唐本の明版などで用いられ始めたものを模したものゆえ、日本では寛文頃の和刻漢籍や漢詩文集などから用いられ始め、次第に一般化する」さらに「典型としては竜、または鯉魚の頭の上に鬼が右足で乗り、筆を右手に持ち、左足で斗(ます)を蹴り上げていて、上部に三つ星や七つ星が配されるもの」とあった。中野三敏著「江戸の板本」に、馬琴書翰集にある魁星についての記載があった。「鬼形のもの、舛と筆を左右にもち、竜の頭にのり候処に図し候。こころは、鬼形は鬼也。舛は斗也。鬼に斗を加へば、魁の字也。竜は星也。星を竜ともいふ也。これ魁星といふこころにて、鬼と舛と竜を描き候」とある。「増補書物三見・異彩ある魁星像」では、我が国で初めて用いたのは、恐らく元禄五六年頃の事だろうと推定、魁星の形、時代の特徴で便宜上、萬暦式と康煕式に分け、享保年間までの印に輪郭が無く、星も無く、少し長い形の魁星を萬暦式、享保以降、宝暦、明和から段々と増え文化、文政には星なども円形の中に描かれた康煕式のものは殆ど全盛期に達したという。これで日新館蔵版四書集注や嘉永元年戊申鐫四書訓蒙輯疏に押されている丸い朱印が魁星印と呼ばれることが判った。

 
 
問題は誰がいつ、この魁星印を捺したかという事でこれがまったく分からなかったが、会津藩教育考に、開版方が印行した書目(日新館の天保創立後に彫刻書目)の記載があり、「すべて何書によらず国中に売却するは薄利にして、中には毫も利なきものありしと、また四書輯疏は江戸に出る最も多く、書肆は幾百部にても多きを辞せずして引受け、純益も多かりしといふ」とあり、四書訓蒙輯疏の販売を江戸の本屋に任せたことが分かり、今度は会津本の販売を引受けた本屋を探すことにした。

会津日新館の蔵書印(2011−06−27)

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警察官 内村直義と内村直俊

2012-03-27 06:52:18 | 掃苔

向島の三囲神社境内にある普国警察大尉ヘーン君表功碑の裏側に刻まれた生徒総代七名の中に内村直俊(明治二十六年三月下谷警察署外勤乙部長)の名があったことは前回のブログにかいた。
 
警察官で内村氏といえば西南の役で警視庁一番隊長として田原坂にて戦死した会津の内村直義が知られている。通り字と二人の職歴が似ており内村直義と直俊の関係を確認するため、谷中霊園にある内村家の墓域の墓碑と墓誌をたずねた。


 
明治十二年七月に建てられた墓碑は当時文部省にいた旧会津藩士南摩綱紀の撰文。南摩綱紀は戊辰後、越後高田に謹慎後、明治五年二月京都府に出仕、同七年六月補十等として太政官に出仕、同十年十一月文部省に勤務、東京大学教授に任命されたのは同十六年十一月のこと。当時、文部省には東京大学理学部教授山川健次郎、東京師範学校訓導兼学校長補高嶺秀夫などの会津人がいた。碑文によると、直義は蘆澤寛治の子で、内村家を継ぎ巡査に応募、昇進して警視二等中警部となり、警視第一番隊長として西南戦争に参加、田原坂で被弾して明治十年三月十五日に三十七歳で戦死した。嗣子直俊がその遺髪を内村家之墓に合葬し僚友の騎西安遷や戸田重之ら八十余人が拠出して内村君碑を建立したとあった。横の墓誌に明治十年三月十五日 七代 直義 行年三十七才。昭和十四年六月十九日 八代直俊 行年八十二才とあった。
  
やはり内村直義のあと家を継いだのが直俊だった。内村直義墓碑に僚友として名がある騎西安遷、戸田重之は旧会津藩士で、戸田重之は明治十二年、警視局から石川県で勤め、そのあとに陸軍に転移している。騎西安遷は警視局勤務の明治十三年に名を安遷から信蔵に変更、その後も直義の子、直俊と共に警視庁に勤めている。

内村直俊の祖父蘆澤直保(旧寛治)(直義の実父)は飯沼関弥によると、関弥の祖父久米之進の弟で蘆澤家を相続したという。この蘆澤寛治の実家飯沼家での幼名、通称はなんと呼ばれていたのだろうか。

内村君碑
君諱直義姓藤原岩代人蘆澤寛治第二子出嗣内村
氏自東京府取締組任権区長奉命抵陸奥招募邏卒
累遷警視二等中警部當西郷隆盛兵率犯肥後君為
警視第一番隊長自高瀬進撃田原坂賊賊勢桿甚乃
令部下抜刀奮進陥胸壁者三傷指猶進抵横平山中
弾斃年三十七實明治十年三月十五日也若為人方
正而温和喜怒不見色寡於言勇於義毎言予無他技
有一死以報国己果幾其言矣官葬之木葉街嗣子直
俊痊其遺髪於東京天王寺傍僚友騎西安遷戸田重
之等八十余人醵金建碑使余銘之銘曰
 敵愾致身 忠勇超倫 厥功不滅
明治十二年七月 岩代南摩綱紀撰

旧会津藩士 蘆澤直道

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向島三囲神社

2012-03-15 13:56:25 | その他

警視庁年表の初版は明治改年から数えて満百年に発行された。十年を経過し既刊分に補足修正(増補・改訂版)の明治二十三年の項に「プロシア(ドイツ)警察大尉ウイルヘルム・へーンを警察官訓練の教師とする」と警視庁関係主要事項に記載があった。このウイルヘルム・へーンの表功碑が三囲神社にあることが分かり早速、三囲神社を訪ねた。

                  浅草から隅田川の東側へ言問橋を渡り土手道と水戸街道との間に、「見番通り」という色っぽい名前の付いた路があった。ここは伝統文化の継承を担っている芸妓さんが、登録数で百人を超えると云う芸妓組合や料亭組合、料理店組合が合併した向嶋墨堤組合、通称見番の建物が在る通りで、この通りに三囲神社(みめぐり)という変わった名の神社があった。

   

 山門の横に三囲神社の由来を記す碑「弎匝山祠碑・ミメグリサンシ」、三囲神社由緒碑や社伝によると三井寺の僧、源慶がお告げにより、社壇をほると土の中から壷が現れ開けてみると、宝珠をもった老翁の神像が現れ、その時、どこともなく狐が現れて、像の周りを三度回って消えたので、三囲神社となったといわれている。源慶は自ら奉持していた延命地蔵像を安置、社を造営したという。慶長年間、隅田川築堤のため旧社地より現在地に遷座、元禄六年(1693)、宝井其角が社頭で雨乞の句「夕立ちや田をみめぐりの神ならば」と詠み、翌日雨が降りこのことで広く世間に知られるようになった。この神社は三井、三越との結びつきが非常に強い。

                                  三井広報委員会のHPによると、「三囲神社の草創は定かではない。建立されたのは弘法大師の頃、つまり平安時代初期にまでさかのぼると伝えられている。御祭神は宇迦之御魂命で、「宇迦」は穀物を示す、京都・伏見稲荷の主祭神でもあり、広くお稲荷さんという呼称に掛けて、三囲稲荷という別名でも呼ばれている。三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。それというのも、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町からみて東北の方角に位置したからである。いわゆる、鬼門だったのだ」という。さらに「三囲神社の囲の文字には三井の井が入っている、そのため、「三囲はすなわち三井に通じ、三井を守る」と考えられた。長く崇敬されてきた歴史があり、今なお三井家とのゆかりは深い。社域の一角には三井家の当主夫妻、120柱余りの霊が神として祀られている「顕名霊社」がある。没後100年を経た霊だけが祀られる、特別な場所だ」と記されている。      

三井家と特別な関係にあるせいか、この三囲神社の境内には、その数ざっと62基の句碑、歌碑、由緒碑、追悼碑、顕彰碑、道標等、様々な石碑が残されている。「三井邸より移す。原型は京都太秦・木嶋神社にある」という変わった三石柱鳥居や秦蒙将軍之象、榎本武揚篆額の弌菴小林先生之碑などの名碑がある。普国警察大尉ヘーン君表功碑の裏側に刻まれた生徒総代七名の中に会津人内村直俊(明治二十六年三月下谷警察署外勤乙部長)の名があった。さらに社殿の右側鳥居の前に旧会津藩士佐瀬得所の書による友海真□「夢の世に来て見るゆめのおもしろし また先の世の夢ぞ楽しき」、真我辞世碑もあった。

 

此御神に雨乞する人にかはりて 遊ふた地や田を見めくりの神ならは 普其角

 

 「早稲酒や狐よび出す姥がもと」(其角)の句に詠まれた老翁老嫗像

    

普国警察大尉ヘーン君表功碑と副碑

 

旧会津藩士佐瀬得所の書

追記:西南の役で警視庁一番隊長として田原坂にて戦死した内村直義は内村家七代、内村直俊が八代、昭和壱拾四年六月歿 行年八十二才

「普国警察大尉ヘーン君表功碑と副碑」碑文

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