大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

金沢での食事

2016-08-16 09:14:12 | 

金沢駅近くの朝食付ビジネスホテルに泊まる。ホテル横に系列のタクシー待機所があるというのでこのホテルを撰んだ。ここの朝食が酷かった。食事の内容がどうのこうのではなく、従業員が食事の終わったテーブルの上のパン屑など手で掃ってゴミをなくしていた。当然、パン屑等は床に落ちるか、隣のテーブルに飛んでくることになる。マネージャーらしき人に注意したが、翌日の朝も屑を手で掃っていた。このホテルの従業員をみていると、東京白金や京都駅前のホテルと同系列とはとても信じられなかった。

夕食はホテルから一番近い寿司屋で金沢別院通りにある「あかめ寿司」に開店と同時に入店した。
 
店奥の小さな生簀に毛ガニが!春先に新潟に行った時、やはり寿司屋だったが地物の毛ガニがあった。金沢でも地物の毛ガニがあるとは思わなかったが訊けば金沢港で水揚げがあるという。店にあった今日は「これ食べとけ」という親父のおすすめメニューの中で、聞いたことが無かったのが万十貝と金時草、万十貝は盛合せに入れて貰った。
薄い二枚貝の表は真っ白で、内側は淡いピンク色をしていた。「きんときそう」と云いそうになる金時草(きんじそう)は酢の物に、きれいな赤紫色になった。

 
 
 
 
右)新潟 寿司処「かつみ」の毛ガニ
 
戦前から金沢で栽培されている野菜を加賀野菜ブランドとして金時草、二塚からしな、源助だいこん等15品目が認定されているという。

能登では穴水駅前の「幸寿司」、金沢市内では近江町市場の「井ノ弥」で丼物にした。両店とも見た目綺麗に盛ってあった。幸寿司では箸をお土産にくれた。寿司屋の箸を「一膳」、「二膳」貰ってもあまり使い道に困ってしまう。能登の間伐材でも使って宣伝しているのだろうか。近江町市場の出入口が沢山あるみたいだが、たまたま車を降りたのがパーキング口、最初に目に着いた井ノ弥に入る。11時に店に入ったらもう半分ほど席が埋まっていた。
 
 
前日に電話予約して行ったのが金沢市木倉町の「五郎八」という居酒屋。タクシーで木倉町の五郎八と云うとすぐ判った。結構有名なのかな。帰り際には女将さんとカウンターの前にいた板さんがお店の外まで見送ってくれた。
 
 
 

京都以外の観光地で女将さんや板さんが外まで見送ってくれたお店は初めてだった。実は五郎八では腹、七・八分目で出てきた。五郎八に来る途中にあった金沢中央味食街というディープ感一杯の飲食街に寄りたいとおもっていた。
 
長屋みたいな店が連なっている飲食街の前まで来たら、昼間、能登を引っ張り廻したせいか、連合いが食欲より横になりたいと言い出して、寄る事が出来なかった。


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兼六園から天徳院

2016-08-08 09:31:33 | 

兼六園の中にある日本で最初だという噴水を、しばらく眺めていた。
 
この噴水を兼六園では文久元年(1861)に造られた日本最古のものだとしていたが、水戸の玉龍泉の方が天保十三年(1842・偕楽園の開園)に造られもので、古いのではといわれるようになり、兼六園側ではこの噴水は十九世紀中頃につくられたと変更している。余談だが偕楽園の名は「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」(孟子 見梁惠王、、、古之人與民偕樂、故能樂也、、、、民欲與之偕亡。雖有臺池鳥獸、豈能獨樂哉)から採っている。兼六園の噴水は霞ヶ池との高低差で自噴させている。霞ヶ池がいつ造成されたかハッキリしないが、この池に水を供給しているのが寛永九年(1632)完成の辰巳用水で、伏越(逆サイホン)の原理を使い城中への導水が目的で造られた。城の東南(辰巳)、犀川上流の上辰巳に東岩取水口を設け、四kmは暗渠とした延長十二kmを手掘りで造っている。加賀藩史料によると天保八年(1830)八月、竹沢御庭の泉水に恒例の鮎簗を設けることを命じ、前田斎泰考案による竹沢御庭の泉水が出来た事が記載されている。鮎簗を設けることが出来る竹沢御庭の泉水に、霞ヶ池への辰巳用水からの給水が出来るようにして何らかの形で自噴の噴水を創ったのではないだろうか。
金沢市紀要に「兼六園は廃藩の後四周の門牆(もんしょう:入口)を撤し各処に登路を作り、明治七年開放して萬人偕楽の処としてから之を兼六園又は金沢公園と呼んだ。内務省は大正十一年之を名勝に指定し金沢公園と称へたが間もなく兼六園の旧称に複せしめた」とある。それにしても蓮池御庭を兼六園と称したのは何時の時代なのか、それとも明治になってから兼六園と称したのだろうか。
兼六園から天徳院に向かう。途中、辰巳用水の一部が残っていた。
 
天徳院は元和九年(1623)、加賀三代藩主前田利常は正室珠姫菩提のため、金沢城の東、小立野台に四万坪の広大な敷地に正室珠姫の法号である天徳院殿乾運淳貞大禅定尼に因んで天徳院を創建。山号は金龍山、開山は巨山泉滴大和尚。本堂の一角で珠姫物語を六体の「からくり人形」を上演している。
 
  
 
 
別料金で黙照禅庭と呼ばれる回遊式庭園を見ることが出来る。どのへんが黙照禅の庭なのか理解するのは難しい。一切の悟りを求めず、ただ黙々と坐するなら、庭は不必要になってしまう。何ものも求めずひたすらに坐禅しなければならない禅宗のお寺に立派な庭が多いのはどのような理由があるのだろうか。
 
 
元気いい中年女性の団体がドカドカ入ってきたので早々に退散する。それにしても、本堂の内陣までズカズカ入って行くのはなんとかならないだろうか。内陣など見ても次の観光地に行けば何も覚えていないだろうに、と思う。
石仏群があるというので天徳院から歩いて数分の如来寺に寄る。
 
 
化野念仏寺のような思い描いていた石仏群とはだいぶ違っていた。


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兼六園のこと

2016-08-02 10:08:07 | 

金沢の観光地で人気があるのが日本三名園の一つの兼六園。大昔に来たことがあるが、片方が折れた灯籠しか記憶にないので再訪した。説明によれば、この大名庭園は広大な土地に、池、築山、御亭を配置した廻遊式の庭園で大きな池を大海に見立て、そのなかに不老不死の神仙人が住むと言われる島を配し、藩主たちは長寿と永劫の繁栄を庭園に投影し相反する景観を調和させ対照の美を演出していると云う。
五代藩主前田綱紀が金沢城向かいの千歳台に蓮池庭を造った事に始まり、前田斉広が隠居所として竹沢御殿を蓮池庭より一段上の千歳台に造営した。
 
兼六園の名は白河藩主・松平定信(楽翁:八代将軍徳川吉宗の孫)によって、宋代の李文叔(格非)の「洛陽名園記」から、宏大と幽邃、人力と蒼古、水泉と眺望という、相反するすぐれた景観の六勝を兼ね備えた中国湖園の文を引用して「兼六園」の名を贈ったと云われている。
 
 
松平定信の書に「文政壬午季秋 楽翁書」とあることから、文政五年(1822)の書と考えられている。しかし松平定信は来たことも見たことも無いこの庭の事をどうして「兼六園」と名付けられたのであろうか。文政五年といえば、加賀藩では十二代藩主斉広が隠棲し蓮池庭に建坪四千坪部屋数二百以上の御殿を建て十二月には竹沢御殿と称し移り住み、それから毎月、能を演じていた。老中在任中、緊縮財政や風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した松平定信にとって、隠居の斉広が豪勢な御殿を建てた庭園を、六勝を兼ね備えた名園と褒める訳もなく、家督相続していた十三代藩主斉泰は兼六の文字を見て驚愕したのではないだろうか。
 
石川県史に「のち之を刻して園の正門に顔す」とある。絵図には竹沢御殿・蓮池御庭とあり、いつの時代にこの額を正門に掲げ兼六園としたのであろうか。李文叔は「文章軌範」のなかに「書洛陽名園記後(洛陽名園記ノ後ニ書ス)」という文を残している。大町桂月は「洛陽に名園多し。李文叔が記をつくりけるが、その記事のあとにこの文を添えて、徒らに苑池花木を記するはその本意にあらざるを書きたるもの也」と注をいれている。李文叔の本意は何だったのだろうか。
「洛陽は天下の中にをり、、、四方必争の地なり。天下の無事なるに當つては則ちやむ、事あれば則ち洛陽は必ず兵を受く余故に嘗て曰く。洛陽の盛衰は天下治乱の候なりと、、、天下の治乱は洛陽の盛衰を候して知り、洛陽の盛衰は園囿の興廃を候して得。則ち名園記の作、余あに徒然ならんや、、、一己の私をほしいままに自ら之を為して天下の治忽を忘れ、退きて此をうけんと欲するも得んや。唐の末路これのみ」。
洛陽を加賀と置き換えて、松平定信は兼六の文字で名園記後を示唆し、加賀藩の今後を危惧したのではないだろうか。文政七年、斉広が亡くなったのが七月、斉泰は翌月の八月、早々に斉広が江戸や京から呼び寄せた能役者に暇を与えて、竹沢御殿を竹沢御屋敷と称し三の丸に准ずるとしている。斉広継室真龍院が竹沢御殿址に新しい屋敷を望んだのが文政九年(1826)、天保元年(1830)には竹沢御殿の毀した古材の利用について協議しているので、この頃までには現在の兼六園の姿に落ち着いたのではないだろうか。

(参考)
洛陽名園記・湖園:「洛人云園圃之勝不能相兼者六務宏大者少幽邃人力勝者少蒼古水泉多者無眺望兼此六者惟湖園而巳」

文章軌範・書洛陽名園記後:「洛陽處天下中、、、 四方必争之地也。天下當無事則巳 有事則洛陽必受兵余故嘗曰。洛陽之盛衰天下治乱之候也。、、、 天下之治乱候洛陽之盛衰候園囿之興廃而得。則名園記之作。余豈徒然哉。 、、、 放乎一己之私自為之。而忘天下治忽欲退享此得乎。唐之末路是已」


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金沢 神社めぐり

2016-07-27 09:43:24 | 

市内の神社めぐりは金沢城の西端にある尾崎神社からスタートした。
 
 
この神社は寛永二十年 (1643)に四代藩主前田光高が金沢城北の丸に天照大神・源朝臣家康(徳川家康)・菅原朝臣利常(加賀藩三代藩主)を祀る東照三所大権現社として建立したもので、明治になり神仏分離のため本地堂が現在の長田菅原神社の拝殿として移され、城内に残っていた「御宮」も明治七年に尾崎神社と名称を変更し、明治十一年に現在地に移築されたという。
 
藩祖前田利家が豊臣政権の筆頭大老だったこともあり、利家亡き後、慶長・元和・寛永の時代、徳川家との緊張関係が残っていた。利家の妻(芳春院)が江戸から解放されたのが三代藩主利長死去の翌月、慶長十九年(1614)六月で同年九月にやっと、将軍秀忠は前田利常に加越能三州を領すべき朱印状を与えた。家康は同年十月に大坂征討を命令、前田家は徳川勢として大坂冬の陣に参加した。慶長五年(1600)、三代藩主利常は徳川秀忠の娘、珠(天徳院)を正室として迎え、寛永十年(1633)、水戸徳川頼房娘(光圀姉・清泰院)を徳川家光の養女にして四代藩主光高の正室とし、更に万治元年(1658)五代藩主綱紀は家光の異母弟、保科正之の娘巻摩須(松・松嶺院)を正室として徳川幕府との融和を図っていった。
 
尾崎神社から城に沿って南に五分も歩くと尾山神社の横の駐車場に着く。
 
尾山神社は慶長四年(1599)に加賀藩の藩祖前田利家を祭り創建された卯辰八幡宮を、明治六年に卯辰山から現在地に移し尾山神社とし、今、神門は国の重要文化財に指定されている。明治八年に建てられた和漢洋折衷の三層式建物という変わった建築様式で当時の金沢の評判はどんなだったのだろう
 
ここは元々、小立野台地の端で加賀一向一揆の拠点であった尾山御坊と呼ばれる浄土真宗の寺院があった所で、山のしっぽ(尾)から尾山(御山)と呼ばれたとも言われる。そうすると尾崎は山のしっぽ(尾)の先(崎)という事になるのだろうか。早めのお昼を近江市場で取って、またお城兼六公園の西隣に在る石川護国神社に向かう。
 
石川護國神社は石川県出身者及び旧陸軍第九師団の他県出身の戦没者の御霊をお祀りしている。明治戊辰の役で戦死した加賀藩の百八名の戦没者を、明治三年、卯辰山に招魂社を造営して祀ったのが始まりで、昭和十年に卯辰山から現在地に遷座、昭和十四年社名を石川護國神社と改称した。ここに旧招魂社碑が残されているというので境内を探しまわってしまった。本殿左奥と社務所(事務所)との間の雑草の中にポツンと残されていた。
 
金沢の陸軍埋葬地は明治9年、野田山の山ノ内に設けられ、この陸軍墓地は戦後の一時期、野田山陸軍墓地と呼ばれたこともある。現在、石川県戦没者墓苑として県が維持管理を行っている。野田山にある石川県戦没者墓苑配置図説明に「この墓苑は明治時代に、陸軍が戦没者の墓地として整備したもので、古くは戊辰戦争、西南戦争から太平洋戦争にいたるまでの戦没者が合葬されています」とある。
 
 
日中戦争の戦没者を慰霊するため、陸軍などにより建立された忠霊塔や卯辰山の金沢市共同墓地及び天徳院境内に個々に埋葬されていた西南役、北越役関係戦没者を合葬した陸軍軍人合葬之墓、
 
征清役戦死軍人・病歿軍人合葬碑 日露役陣歿者合葬碑が建立されている。
 


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能登 輪島門前町

2016-07-19 10:25:05 | 

金沢に泊まって能登のお寺さんを廻る。総持寺祖院等を訪ねるのも非常に不便で、電車で行くか、高速バスで行くか迷ったが、のと鉄道の観光列車に一度は乗りたくて電車を利用することにした。JR七尾線とのと鉄道の車両がラッピング車両で、JR七尾線車両は昔話ばなしの主人公かと思ったら、七尾市のマスコットキャラクター「とうはくん」で、のと鉄道のラッピング車両は、なんでもTVアニメ「花咲くいろは」の主人公だという。
 
 
車窓から眺めていたら、ピンク色の駅舎の愛称「能登さくら駅」やホームに異なる2つの駅名標がある駅があった。「湯乃鷺駅」はTVアニメで使用した駅名だった。時刻表に記載のない駅名標で支線でもあるのかとびっくりした。
 
七尾湾に丸太組のやぐらを組んだ古い漁法、「ぼら待ちやぐら」が見えてきた。さすが能登は魚影が濃いな思っていたら、帰り望遠にして櫓の上の人をみたら、これが人形、すっかり騙されてしまった。
 
阿岸本誓寺から廻った。山門脇の石碑に「能登阿岸 新巻山本誓寺」とあり、門扉に三つ葉葵と二条藤の家紋が打ってあった。能登鳳至郡の百六ヶ寺の触頭寺院で在った事と本誓寺住職家に二条家の娘が嫁いできたことによるらしい。
 
本堂は文永五年(1268)、善了法師の創建と伝えられ、入母屋造り、平入り、総茅葺きで、正面に四本柱の三間向拝を設け、規模は、正面桁行柱間九間(約24m)梁行柱間十間の大規模な建物であり、安永九年(1780)に起工し、寛政四年(1792)に棟上げしたという。茅葺屋根では日本屈指の大きさでいかにも古刹という雰囲気で五木寛之の百寺巡礼に選ばれたのも納得する。
 
 
能登三十三観音霊場、北陸三十六不動の札所でもある鳴梅山宝泉寺に寄る。
 
山門の脇にあった真田伊豆守信乃の供養塔の事を聞こうと本堂を訪ねるといきなりお経が始まった。ご住職は不在で会えなかったがセンサーでお経の録音テープが鳴り出したのはビックリした。
    
太齢山覚皇院は応永六年(1399)開山は大徹宗令大和尚、創建より大本山總持寺の塔頭寺院で江戸時代の總持寺輪住制時代では輪住の住職が覚皇院で身支度を整えてから晋住したという。ここでもご住職には不在で会えなかった。もしかしたら祖院に詰めているのだろうか。
 
 
境内に一人の観光客も見かけず、ひっそりとした総持寺祖院を廻る。
 
總持寺は元亨元年(1321)、瑩山紹瑾禅師によって開創、山号は諸嶽山、後醍醐天皇綸旨により總持寺を勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定めた。明治三十一年、七堂伽藍の大部分を焼失し、明治四十四年に寺基を鶴見に移し、以後、能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれ曹洞宗専門道場となっている。
 
 
 
本堂で身寄りがないので生前供養をお願いしに東京からきたという年配の女性と会う。生前授戒で血脈を頂きにきたのだろうか。歳をとると考えないといけない事が色々起きてくる。祖院総門に入ってすぐ右側に前田利家の妻「まつ」の位牌所である芳春院がある。
 
穴水から和倉温泉駅でJR特急に接続する、のと鉄道の観光列車で金沢に戻る。
のと鉄道は七尾~穴水間、8駅約33kの短い路線で、片道35分前後の所を観光列車は1時間程度かけて走る。一生懸命ガイドしてくれる。横に来て車内装飾の説明をするが、話の内容が乏しい所為か相槌するのも疲れる。
左)のと鉄道始発駅七尾駅改札       右)穴水駅
 
 
のと鉄道能登中島駅に郵便車が保存してあった。現存する郵便車両は2台しかないそうです。


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加賀八家墓所 玉龍寺・開禅寺

2016-07-11 21:53:52 | 掃苔

金沢市内は妙に方角と距離感がとれない町である。町の中心、お城は金沢駅の東南の方向、約2kにあり、小立野台地の先端に浅野川と犀川とに挟まれたほぼ真ん中に築かれている。
 
城を中心に道が八方に伸び、菱形に城下町が形成されている。昔は地図の上方は北と決まっていたが、観光地図は見やすいように描く為か、南北が上下逆であったり、東西が反転していたり、そのうえ一方交通の路も多く、よけい方向感覚が無くなってしまう。
金沢城は浅野川と犀川を自然の濠に見立て、川の外側に三つの寺院群を移築し、城の東側の卯辰山には卯辰山山麓寺院群、南東の小立野台地には小立野寺院群、南の寺町・野町にある寺院を寺町寺院群と呼び、城の備えとしたという。
この寺町寺院群に加賀八家の対馬守家と呼ばれる前田家の墓所が玉龍寺に、同じく加賀八家の長家の初代・六代・七代・八代の墓が開禅寺にある。(九代以降は前田家三代利常公と九代重靖公の墓所の北側、野田山芝山地区)
前田長種家の菩提寺玉龍寺に行く。タクシーで「寺町の玉龍寺」にと云うと、運転手の方が首をかしげる。七十近いお寺さんがあっては知らないのも無理はない。お寺の在る町名も間違っていた。地図にあった沼田の交差点に行って貰った。ここからが大変だった。お寺の入口が判らず、細い道を行ったり袋小路をバックで戻ったり運転手も大変だった。
前田長種は織田信長家臣だった前田長定の嫡男で利家の娘、幸を正室とし加賀前田一門に列した。長種家は荒子城主尾張前田氏とは別系統の下之一色村城主前田氏で系図ははっきりしないが、前田仲利の嫡男家とも言われている。
長種の子直知の最初の正室が稲葉一鉄の孫おなあ(祖心尼)、一鉄の兄弟、重通の娘おあんが嫁いだ先が斎藤道三の孫で叔父が明智光秀になる斎藤利三で、その娘が三代将軍徳川家光の乳母となったおふく(春日局)、おなあが再婚したのが蒲生氏郷重臣町野繁仍の子幸和で、その孫娘振(自証院)は家光の側室となっている。最後の会津武士と称され、小説の主人公にもなった会津藩士町野主水重安の祖、町野重成は町野繁仍弟の町野秀俊の孫にあたる。
東京牛込済松寺       祖心尼墓
 
玉龍寺は曹洞宗の寺院で山号は大亀山、開山は桂厳慧芳大和尚、開基は菅原泰学長規(前田家家老前田対馬守長種祖父)としている。山門は薬医門で脇塀付桟瓦葺と云うそうです。
 
左)前田氏先祖安楽院殿、二代玉龍寺殿、その配天桂院、三宝塔之銘
右)手前から前田長種墓、長種室墓、二代直知墓
 
 
玉龍寺の前の道を南に250m位下がると開禅寺に着く。
 
開禅寺の勧請開基は大乗寺二世瑩山紹瑾大和尚、開基は加賀八家の一つ長家元祖長谷部信連、山号は華嶽山、加賀八家長家の墓所の一つで前田家二代利長と共に金沢に移転したと伝わる。長連龍の娘で、利長の幼女となり、前田美作守直知の継妻となった久香院(求光院)の墓もあるという。
六代長善連墓         右)七代連起・室墓
 
八代連愛・室墓        右)長家墓域
 
野町のお寺を巡った日は30度を超える猛暑日で他のお寺さんを廻る元気もなく、駅へ帰るタクシーを待つ間、開禅寺の前の龍淵寺の山門の石段で休ませてもらった。
 
この開禅寺の寺域全体が金沢市の保存樹林になっているそうで、涼しい風が吹き抜けていた。


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金沢 大乗寺

2016-07-05 10:53:44 | 掃苔

加賀藩八家の筆頭家老本多氏の菩提寺、大乗寺を訪ねる。
 
東香山大乘寺は、山号を古くは椙樹林、後には金獅峯と号した。開山は曹洞宗大本山永平寺開祖道元禅師、その一番弟子の懐弉禅師、またその弟子の徹通義介禅師で、大本山總持寺を開創した瑩山紹瑾禅師は大乘寺の第二世です。大乗寺は石川県で一番古い曹洞宗のお寺さんで、福井県大野の薦福山宝慶寺、熊本県熊本の大梁山大慈寺、京都府宇治の仏徳山興聖寺と共に大本山永平寺の四門首の一に数えられている。
 
  
曹洞宗の古刹らしく大乘寺の伽藍は、曹洞宗寺院建築の典型的な七堂伽藍の配置を示しており、仏殿は国指定重文、総門・山門・法堂は石川県の指定有形文化財となっている。
 
 
大乗寺は金沢の市街地から少し離れた野田山の中腹に在るせいか、訪れる観光客もなく、曹洞宗の大乗寺専門僧堂として鬱蒼とした静寂さを保っていた。
 
 
加賀八家の本多家の墓所は新旧、二ヵ所に分かれている。大乗寺の墓所も広くてウロウロしてしまった。山門の手前の横道を入ったとこに本多家旧墓所、
 
 
総門の横奥に本多家新墓所がある。
 
 
 
本多家の新墓所の手前に日本最後の仇討「十二義士の墓」というのがあった。
「加賀前田藩は幕末より明治に移る時 藩内の意見が対立した 筆頭家老本多政均は保守派の反対にあい暗殺された 明治四年十二人の家臣はその仇討ちを果したが翌年政府より切腹を命ぜられる 本多家墓地前に十二義士の墓として供養す」と石柱が建っている。
 
             
この事件は、明治二年、加賀八家である加賀藩前田家執政本多政均が城内二ノ丸で藩士、山辺沖太郎・井口義平に刺殺された。この首謀者二名は明治四年に切腹、明治五年、暗殺にかかわった岡野悌五郎・管野輔吉・多賀賢三郎を本多家家臣が金沢と彦根で殺害し、仇討を果たした。仇討の実行犯の本多家家臣、本多弥一、鏑木勝喜知、富田総、吉見亥三郎、西村熊、矢野策平、舟喜鉄外、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎、柴木喜内、藤江松三郎の十二人が切腹となった。本多政均の暗殺理由は何だったのだろうか。明治維新前後の藩政の舵取りで、佐幕派と尊王攘夷派、革新派と保守派による複雑な対立が本多政均の暗殺なったのか。県史にある首謀者二名の口上書や本多家家臣の復讐趣意書などを読んでも事の本質は理解できなかった。この事件を扱った松本清張の短編小説「明治金沢事件」では廃藩置県による直臣と陪臣の対立として描いている。この事件が契機となって、明治六年、明治政府は「復讐厳禁」を布達した。

近くに陸軍大将で総理大臣を務めた林銑十郎家の墓所や上杉謙信の能登侵攻で滅亡した能登七尾の守護畠山氏の墓所 があった。
 
 

参考:太政官布達   明治六年二月七日
人ヲ殺スハ國家ノ大禁ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公權ニ候處古來ヨリ父兄ノ爲ニ讐ヲ復スルヲ以テ子弟ノ義務トナスノ風習アリ右ハ至情不得止ニ出ルト雖トモ畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ私義ヲ以テ公權ヲ犯ス者ニシテ固ヨリ擅殺ノ罪ヲ免レス加之甚シキニ至リテハ其事ノ故誤ヲ問ハス其理ノ當否ヲ顧ミス復讐ノ名義ヲ挾ミ濫リニ相搆害スルノ弊往往有之甚以不相濟事ニ候依之復讐嚴禁被 仰出候條今後不幸至親ヲ害セラルル者於有之ハ事實ヲ詳ニシ速ニ其筋ヘ可訴出候若無其儀舊習ニ泥ミ擅殺スルニ於テハ相當ノ罪料ニ可處候條心得違無之樣可致事


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加賀八家墓所 野田山

2016-06-29 09:15:36 | 掃苔

加賀藩の職制は大雑把に人持組頭、人持組、平士、与力、御歩、足軽とに分かれるという。金沢市のH・Pに「加賀藩では、元禄3年(1690年)以降、8つの家柄が藩の重役である年寄衆を代々世襲しました。これを八家(はっか)といい、家臣の中でも別格の扱いとされ、月交代で藩の執政を担当、重要事項の決定には合議制をしきました」とあった。日置謙が前田家からの依頼で編纂した加賀藩の編年史料集、加賀藩史料に貞享三年(1686)、五代藩主綱紀は老臣の職名を定めたとある。「大年寄或云大老 本多安房政長 前田佐渡孝貞 奥村壱岐庸禮 奥村伊予時成。人持組頭或云七手頭 前田備後直作 長九郎左衛門尚連 横山左衛門英盛、年寄役或云家老 横山筑後正房 津田玄蕃正忠 奥村因幡悳輝。若年寄 前田対馬孝行 前田備前直親 多賀新左衛門直方。備後並は人持組頭、又は七手之頭中と御目通に而可申候。尤人持組頭又は七手之頭と申事は、安房・佐渡・壱岐・伊予・備後・九郎左衛門・左衛門、此七人之義により、其内安房並に七手之頭より大年寄相兼申義に候」とある。

本多政長、前田孝貞、奥村康礼、奥村時成、前田直作、長尚連、横山英盛の七手頭に村井豊後親長を加えたのが加賀八家で、藩主から諮問を受ける合議機関だという。貞享三年の定めによる、人持組頭七人に村井家を加え加賀八家と呼ばれたのは、何時の時代からだったのだろうか。金沢市史では八家の成立を、村井親長が人持組頭兼家老に就いた元禄三年(1690)としている。しかし正徳三年(1713)、藩主綱紀が定めた老臣の班列は、本多政長、前田直之、長 連頼、横山忠次、前田孝貞、奥村栄清、奥村庸禮の座列となっていて、村井家は入っていない。この村井家は慶長期に村井長頼の子長次が前田利家の七女(千世)を正室として迎えているので別格の家柄なのだろうか。村井氏由緒に「天正十九年(1591)、村井長頼従五位に叙せられ、諸大夫となり、名を豊後守に改め、人持組頭、御政務之御用相勤」とある。人持組頭兼家老が世襲制になったのは何時からなのだろうか。

八家墓所のうち野田山墓所の上野地区に村井家、奥村支家、芝山地区に長家、中割地区に横山家、奥村宗家、前田家(直之系)で本多家(筆頭家老)は野田山麓の大乗寺、前田家(長種系)は野町の玉龍寺、長家は野町の開禅寺が七・八・九代の墓所になっている。野田山の前田家墓所の造成拡大に伴い、加賀八家の墳墓の規模の変更や改葬が行われたものと思われる。野田山にある加賀八家の墓所すべては時間とクマの出没に怯えながらで廻れなかったが、村井家と奥村支家の墓所は廻れた。村井家の墓所の入口が分からなかったが、たまたま入り込んだ場所が村井家の墓所だった。
村井又兵衛豊後守平長頼

村井家の初代又兵衛長頼は鎧・兜の甲冑姿で江戸の方向を睨みながら立ったまま埋葬されたと伝わる。
奥村支家墓所入口にある亀趺(初代永福顕彰碑)
 
奥村快心居士之碑 撰文は二代前田利常に仕えた木下順庵
 
笠に四角い方穿があり、蓑亀みたいに苔が付いていたが、牙や尻尾はなかった。寛永十三年(1636)建立で現存する亀趺のなかでは古い方にあたる。
  

加賀八家墓所 大乗寺・開禅寺・玉龍寺


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金沢野田山前田家墓所

2016-06-23 08:56:36 | 掃苔

北陸新幹線が開通してから1年経った。少しは落ち着いたかと思っていたら、案の定6・7割の乗車で結構富山駅で降りる客も多かった。小田原からだと3時間30分ほどで金沢駅に着く。駅前の広場に鼓を二張立てたような巨大なモニュメントがあった。何のためにあるのか判らなかったが外国人に混ざって写真を撮る。昼に着いたので構内にあった加賀屋(金沢店)で、ランチは加賀屋創立110周年記念メニュ―だという「加賀屋御膳」。料理は大したことなかったが、店員さんの古風と云うかユニークな制帽姿にびっくりする。
 
 
昼過ぎから加賀前田家の墓所のある野田山にいく。金沢は3・40年前に来たことがあるが、全く記憶がない。タクシーを時間借りして野田山に行って貰った。長い間、運転手をしているが、野田山の前田家墓所に案内するのは2度目で、お客さん変わっているねと言われてしまった。道の途中、墓地駐車場にクマ出没を知らせる看板が到る所にあり、聞くとよくクマを目撃 する場所だという。墓所に運転手の方が棒を持って付いてきてくれた。
加賀前田家、江戸時代の菩提寺は下谷広徳寺(今練馬)、駒込長元寺、明治になって西日暮里の道灌山南端(今の西日暮里公園)が前田家の墓地になっていた。広徳寺の前田家の墓は関東大震災の区画整理で大正十四年、寺が下谷から練馬に移転時、野田山に改葬された。加州侯五代吉徳母随玄院が開基の長元寺にはまだ一部前田家家紋の入った墓碑が残っている。西日暮里公園の場所は明治七年に加賀前田家にこの地が売却され、前田家の墓地として改修されたが、昭和四十七年に金沢野田山前田家墓所に改葬し、その跡を公園とした。
台東区役所横・広徳寺遺趾      練馬広徳寺
 
右・広徳寺会津松平家墓所
 
駒込長元寺
 
   
荒川西日暮里公園
 
 
二代藩主利長は越中高岡、四代藩主光高と九代藩主重靖は当初、金沢市内の天徳院に葬られたが昭和二十年代に天徳院から野田山へと改葬され、現在、全ての加賀藩主の墓は野田山の前田家墓所にあるという。
野田山の前田家墓所は天正十五年(1587)、前田利家の兄利久をいづみ野迄野おくりしたことに始まる。いづみ野が何所だか特定されていないが、利久の改葬記録が無い事から泉野が野田山の別名ではないかとも考えられている。前田利家の「長持に入、加賀え下し野田山に墓をつかせ」との遺言により慶長四年(1599)、野田山に利家は埋葬された。
藩祖 利家公(左)     藩祖正室 芳春院(右)
 
 
 
前田家一族は始め土饅頭の墳墓として埋葬されていたが、明治七年(1874)前田家の祭祀が神式に改められ、廟所の廟堂を取除き、藩主墓の入口には鳥居、その奥に塚を築き、その前に碑石が建てられている。ここ野田山に大正になって下谷円満山広徳寺の前田家墓所にあった会津保科正之の娘で加賀藩五代藩主綱紀室となった松(松嶺院殿信嶽宗正大禅定尼)、会津保科正容娘で加賀藩七代藩主宗辰室となった常(梅園院殿心操紹源大姉)の墓が改葬されている。
五代 綱紀公(左)     綱紀公正室松嶺院(右) 
 
七代 宗辰公(左)     宗辰公正室梅園院(右)
 
二代 利長公(左)  利家公娘宇喜多秀家室 豪・樹正院(右)
 
山側環状道路22号からの前田家墓所への参道途中の東側と前田家墓所北側を囲むように加賀八家墓所が点在している。今回は体力と時間の関係ですべて廻れなかったのは残念だった。

 

加賀八家墓所(野田山・大乗寺・開禅寺・玉龍寺)


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杉田間宮氏

2016-06-18 09:10:07 | 掃苔

佐々木氏流近江源氏流間宮氏は、寛政重修諸家譜によると始め萬石氏から真野氏、船木氏を名乗り信冬のとき間野氏となり、信盛より豊前守を名乗り、北條氏に仕えた。間宮本家の間宮信冬、信盛父子は北条早雲に仕え、信盛の子信元は氏綱に仕え、その子康俊は玉縄北條の家老として武蔵國久良岐郡笹下城主となり、間宮氏は北條家に仕えた。北條家滅亡後、一族は徳川家の旗本として仕え、康俊の娘お久(華陽院)は徳川家康の側室になっている。千島・西蝦夷・樺太を探検した間宮林蔵の家系は、はっきりしないが、康俊の子傳右衛門元重の八代頼名が林蔵を名乗っているので、この一族ではないだろうか。

北條氏所領役帳に玉縄衆間宮豊前守都合六百九拾八貫百弐拾弐文の内、久良岐郡杉田参百貫文とあり、久良岐郡杉田は間宮氏の知行地であった。新編武蔵風土記稿に「杉田村は正保元禄二図は寺家村と記す杉田は古名にて妙法寺大寺なりし故中頃寺家と号し今古名に復せり彼寺縁起に古此地杉多し故に杉田の名起れり」という。風土記稿は杉田村の陣屋蹟として「間宮左衛門尉信次(或は常信に作る)以来世々の陣屋なりと云傳ふ、家譜に拠るに信次は豊前守信盛が二男にて北條氏綱及び氏康に仕ふ、天文十五年八月二十七日相州三浦走水に於て戦死す法名法西、妙法寺に墳墓あり其子左衛門尉信忠初め藤太郎と稱す氏康及び氏政に仕ふ云々」とあり、北條五世に間宮氏は仕え小田原没落後、一族は御家人となり二十一家の多きに至っている。

JR新杉田駅の近くにある間宮氏の菩提寺、妙法寺を訪ねた。
 
 
妙法寺は風土記稿によると「法華宗下総国中山法華経寺末牛頭山と号し開山は日祐上人開基妙法日荷上人此僧俗たりし時荒井次郎光善と称し後又因幡大掾と改む云々、文和元年(1352)当寺を起立す」とある。荒井次郎因幡守光善の子孫、源左衛門威忠は天正十八年東照宮に仕え、間宮左衛門信繁に属した。新編武蔵風土記稿は「子孫江戸に移り今の代官職荒井平兵衛保恵が祖なり」と云う。会津藩士山本権八の娘八重が嫁いだ新島襄の母とみ(旧姓中田)が十四歳のとき、行儀見習いのため腰元奉公に上がったのが小川町神保小路の荒井平兵衛(信州中之条御代官)で、この幕臣荒井平兵衛の遠祖が妙法寺開基妙法日荷上人(荒井次郎光善)という事になる。

間宮氏一族でも妙法寺を菩提寺としているのは、間宮豊前守信盛の二男、左衛門尉信次一族で信次(法名法西)・信忠(日法)・信繁(日縁)・信之(日諦)・信勝(日賢)・信久(日誠)・敦信(日了)・信勝(日登)と継く。妙法寺の間宮家の墓域は二ヶ所にわかれていて、寺庭にある杉田梅林之碑傍の日本武尊ゆかりの牛頭天王殿への石段を上り三十番神堂の右手奥に一列に並んでいる。
 
 
神堂の横の墓域に二基の宝篋印塔があり、一基は塔身の日附けから間宮信之(日諦)、もう一基の宝篋印塔には施主と入っていることから、この二基の宝篋印塔は供養塔なのか墓塔なのか判らなかった。
 
          
この墓域から北側奥(本堂左手上)に間宮家の墓域があった。いずれも家紋は角四目結紋であった
 
帰り、背に銘を刻まれている珍しい和様狛犬がある杉田神社に寄る。
 
  


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