大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

相模沼田 西念寺

2017-01-18 08:55:43 | 小田原

伊豆箱根鉄道大雄山線相模沼田駅から西に徒歩7・8分程のところに西念寺という浄土宗のお寺がある。
 
 
 
ここに南足柄市の文化財(史跡)に指定されている天野康景の墓がある。新編相模国風土記稿によれば「壽傳山無量院と号す、浄土宗、京知恩院末、永和元年(1375)の起立なり、当時は足柄下郡飯田岡村にありしが、文安三年(1446)水溢に罹り堂宇流失す、よりて同年六月当所に移転すと云」、また、天野三郎兵衛康景墓として、「貞享四年(1687)子孫三郎兵衛康命が改建する所なり」とあり、天野康景の墓は西念寺本堂横にあった。墓を改建した旗本天野康命は西念寺にある前興国寺主天野君碑によれば、駿州興国寺城主で慶長十二年(1607)、天野三郎兵衛尉康景の足軽が公民を殺害した事に坐して家康の勘気を受け、興国寺城を去り小田原西念寺に蟄居した天野康景の長子康遠(対馬守)の子とあるが、寛政重修諸家譜によると、天野康景、康宗(対馬守)、康隆、康命と続き、康景の曾孫となっている。

 
墓碑
興圀寺殿報誉宗恩大居士 慶長十八癸丑二月二十四日 駿州興国寺城主俗名天野三郎兵衛尉康景 (碑陰) 興国寺殿之末孫裔旗本天野三郎兵衛尉康命貞享四丁卯歳仲春下澣日是改命再興畢敬白

本堂の前に寒さの厳しい小寒から節分までの三十日間、鉦を叩きながら民家の軒先や社寺を巡って念仏や和讃を唱え歩いた寒念仏修行の供養塔や中山孝麿篆額「廉潔映永」とある前興国寺主天野君碑がある。
 
 
八乙女と云う名前に引かれて西念寺の横にある神社に寄る。
 
この八乙女神社はもと西念寺にあり、戦国の頃、二抱えもある杉の木が矢を受け止めたことから矢留権現と云われていたという。「やおとめ」と「やとめ」ではえらい違いで、何がと云う訳ではないが、少しガッカリする。この神社の場所は沼田城の出郭だったと云われている。観光案内にこの神社から城に向かう道は急坂だとあったので、城址探訪は次回にして大森一族の墓があるという岩原城址に向かう。

参考(天野三郎兵衛康景碑文)

前興国寺主天野君碑          東宮侍講正五位三島毅撰 
行一不義殺一不孝而有天下不為也昔聞其語今見其人天野君是也君諱元景稱三郎兵
衛尉其先藤原遠景居伊豆天野邑因氏篤遠景十七世孫景恒始士徳川氏移参河是為君
父君少従東照公質于駿或欺之于路送尾君甫十一歳敏慧知陥姦計竊遣奴報参既而今
川氏伐尾取公君常侍従共甞酸苦後随公還岡崎屢従軍有功一向僧徒之乱殪賊勇士馬
場小平太公賜偏諱賞之更曰康景永禄八年公置奉行三人掌政形君及高力與左衛門清
長本多作左衛門重次任之国内大治清長寛慈重次剛猛君沈重善謀民為之話曰菩薩高
力夜叉作左彼此無偏天野三郎蓋謂其無寛無猛唯義之比也姉川之役刺客混麾下覗公
君知而斬之三形原之敗公欲入浜松城敵騎據邱彎弓要之君直進刺之公得間乃入其後
長篠小牧小田原諸役皆有功併舊禄食下総香取地五千石慶長五年更賜駿河興國寺城
食三萬石地十一年君将修城多畜竹田原民乗夜盗之監卒捕殺之田原為公邑邑宰井出
正次欲獲卒戮之君拒之曰殺盗於律無罪且渠奉吾命若有罪吾當之正次乃因執政太田
正純誣訴之曰康景壇殺公邑民公曰彼自少事我謹慎且通吏事非為此非度者命正純覆
審之正純□命迫之曰私卒殺公邑民假命有説奈公威何君憤然不屈曰吾敢蔑公威然□
不辜而全利禄勇士所不為乃拉卒而出亡實十二年二月九日也所在流離遂潜匿□之狩
野荘十八年二月廿四日病卒葬沼田村西念寺年七十七公後懐舊勲欲復之聞其死而上
嗚呼響使君含恥忍辱殺不辜而食不義之禄固應與勲舊諸侯倶享富貴雖然自今日観之
徳川氏且不能保封土況諸侯乎二百年栄華不過黄梁一夢比之君正義凛然百世之下頑
夫廉儒夫立志維持風教於無彊孰得孰夫不持弁而明矣君多子長曰康遠稱対馬守寛永
五年幕府召賜俸米千苞奉祀次曰康武曰康世曰康由餘皆為僧貞享四年康遠子康命建
墓表其後毎五十年子孫来修法會今則廃云頃寺主蟻閣上人恐其堙没與檀衆安藤裕等
謀募同志建碑徴余銘余曽往弔有詩掲以代銘曰
覇府直臣誰若君貔貅隊裏見麒麟寧抛有土封三萬不殺無辜卒一人古寺園荒多竹樹
 遺墳石蝕荊没荊棒高風千載難諼得何啻驩虞二百春
明治二十九年八月  正四位勲四等侯爵中山孝麻呂篆額   石川英書


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小田原七福神

2017-01-08 09:12:45 | 小田原

小田原にも七福神めぐりがある。何時ごろから小田原の七福神めぐりが始まったかは知らないが、小田急トラベルで募集している「小田原七福神めぐり 宝船号バスツアー」が今年で17回だという。まだ訪れたことが無いお寺さんが2つほどあった。暮れに旅行会社に行ったら、丁度キャンセルがあり、このバスツアーを申込んだ。毎年3日から6日の4日間、午前・午後の2便、各便22名、計8便で募集人員も少ないせいか、すぐ満員になるという。三寺が曹洞宗、二寺が浄土宗、日蓮宗、東寺真言宗が各一寺を小田原駅からスタートして毘沙門天(久野坂下潮音寺)、満願弁財天(谷津福泉寺)、寿老人(入谷津鳳巣院)、大黒天(小峯蓮船寺)、恵比寿神(荒久報身寺)、福禄寿(水主長屋大蓮寺)、水掛布袋(茶畑圓福寺)、最後に報徳二宮神社をまわる約3時間のバスツアーに参加した。
 
小田急足柄駅から徒歩でも五分程の小田原城の真北にあたる久野の大徳山潮音寺の毘沙門天功徳経に真言を念ずれば十種の福徳が得られるという毘沙門天にお参りする。残念な事に毘沙門天功徳経を知らないので、無難に厄除けを祈願する。
 
 
 
城山谷津の華岳山福泉寺の満願弁財天は知恵を授かる、富と開運の神だという。今更、知恵や開運かと思ったが、思わず風水でいう金運が上る黄色の札入れを買ってしまった。
 
 
 
城山入谷津の實平山鳳巣院は小田原城百姓曲輪の北側斜面にあり山門から本堂までバスがひっくり返りそうになる程急な坂で歩きでなくてよかったと思う。寺伝では開基は土肥次郎實平だと云う。ここの寿老人は手に桃と長寿の秘訣が書かれた巻物を持って、長寿と福徳を授けると云う。ご住職に不老長寿の果物の桃の替りにミカンを貰った。
 
 
城山小峯の惺雄山蓮船寺には福富円満の神、大黒天を祀る。開創は北条美濃守氏規家臣井出内匠正。昭和35年、新幹線開通工事により小田原市内板橋見附から現在地に移転。
 
 
境内地に隣接した東側に小田原北条時代の代表的な城郭の遺跡、小峰御鐘ノ台大堀切と言われる空堀が残っている。ここは小田原城北側古郭群の御前曲輪南側、鍛冶曲輪西側、「毒榎平(どくえだいら)」の西方防禦部分にあたる。
 
 
平成輔墓所の事で話を聞きに行った荒久の永劫山報身寺には本来、海の神様恵比須神を安置している。本堂内陣の裏側に立派な位牌所があり、平成輔位牌の事を聞きたかったが、ご住職が不在で残念だった。この辺りになると、用意したお賽銭も少なくなってくる。お寺と七福神用と一つのお寺で二回お賽銭が必要になるとは思わなかった。100円と50円のお賽銭箱に入れた音が違うのも気になる。
 
 
箱根口の稲荷山大蓮寺には幸福・安定・長寿の神様を授けてくれる福禄寿が祀られている。このお寺は北條家重臣、大道寺駿河守政繁母(寳地院法名孤峯蓮馨比丘尼)の中興開基、上州安中大信寺に墓碑あり、其大信蓮馨の文字を摘て大蓮と名けて今の寺號を授く授けたと云う。
 
 
正席22席の小型バスツアー、乗ったり、降りたり、たいして歩きもしないのに結構疲れる。茶畑の医王山薬師院圓福寺の軍扇で魔を払うと言われる水掛布袋尊にお参り。
 
 
最後は城内の報徳二宮神社へ着いて大勢の人がいたのに驚く。鳥居の下から遥拝で済ませる。これだけ廻れば、七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると思いきや、翌日、歯医者に行ったら、歯を抜かれた。欲張って、色々な事を頼み過ぎたかな!
  
  
  


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新田義貞公首塚

2016-12-15 10:18:14 | 小田原

網一色八幡神社から国道一号線を横切って総合ビジネス高校正門先の千貫橋を渡ると新田義貞首塚の案内板がある。

 
 
千貫橋は用水堀に架けた橋で、もと木橋であったものを延宝七年(1679)、長二間(3.6m)、横二間半(4.5m)の欄干のある石橋にした。その費用が千貫目に及んだので橋の名になったという。橋の欄干に丸い穴が沢山あった。何に使ったのだろう?
  
網一色八幡神社の御大典記念碑文では「新田義貞ノ臣船田入道某義貞ノ御首ヲ持チ来リテ埋メケリト」、また義貞に属した宇都宮泰藤が義貞の御首を「上州新田公ノ本国ヘト志ス途次、相州小田原駅ニテ異例常ナラス其御首ヲ甕ニ納メ酒匂川ノ邊ニ埋メケル即チ新田大明神ト崇メケル」と二説を載せているが、明治維新の際、新田神社の由緒は証拠不明として廃社させられたという。徳川氏が新田一族の末裔であると公称し、また持明院統と対立していた大覚寺統の後宇多天皇第二皇子の後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕後、離反した足利尊氏に敗れ、吉野に南朝を建てた。南朝の忠臣だった新田義貞を祀った神社を認める訳にはいかなかったのだろう。
 
 
明治九年、足柄県から神奈川県に管轄替えされた時の小田原市域に属する大区小区の行政区画図をみると新田義貞公墓塚として東海道の海岸側に記載されているので、東海道分間延絵図に記載のある新田大明神と行政区画図にある新田義貞公首塚とは別々の場所に在ったのだろうか。

新田義貞公首塚碑 (碑陰文)
新田義貞公は八幡太郎義家の十世の裔で南朝柱石の名将であった延元三年閏七月二日越前藤島の合戦に討死のとき臣将宇都宮泰藤その首級を抱いて公の生国上州新田を志ざしてこの地網一色に至ったが不孝病に侵されて再起おぼつかなく首級を酒匂川の河口の辺に埋葬し自らもここに没し終ったと云う この新田義貞公首塚は実にその由緒深き旧跡である
里人塚の側に新田神明社を祀り篤く崇敬しまた泰藤の直裔大久保氏が小田原城主に封せられてよりは代々の藩主の保護をうけて永く名跡として聞えたが星霜春秋流れて久しく近年暫く荒廃に赴いたので今日地区民並に有志相計って首塚を復興した依って記念のために碑を建て由来を刻して後昆に残
  昭和三十六年三月 新田義貞公首塚復興委員会  撰文並書 中野敬次郎


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網一色 八幡神社

2016-12-05 10:09:00 | 小田原

東海道分間延絵図を見ると酒匂川右岸(小田原側)の川越場所は旧東海道、酒匂川の手前300m程からクランク状に折れて、今の国道一号線(東海道)から60m程上流に在ったことがわかる。

絵図では、このクランクの付根のところに御霊八幡宮があり、常劒寺の間に新田大明神が記載されている。
神奈川県神社庁によれば網一色八幡神社の祭神は応神天皇となっている。鎌倉権五郎景政を祀る御霊八幡宮から応神天皇を祭神とする神社にいつ替わってしまったのだろうか。ビジネス高校前バス停から徒歩3・4分の東町5丁目にある八幡神社を訪ねた。
 
神社の扁額には御霊八幡宮の名が!
 
  
小田原市指定保存樹林第2号指定されている境内に大正四年御即位紀念と昭和三年御大典記念の碑があった。
 
御大典記念碑は小田原藩士関重麿の長男関重忠題字、酒匂小学校長だった森丑太郎書によるもので、網一色青年会により建立された。この碑は昭和三年の昭和天皇御大典を記念して建てられたが、碑文をみると、網一色の由来とこの八幡神社の由緒が書かれていた。副社の新田社は新編相模風土記稿に「本地仏地蔵、 社伝に延元二年(1337)新田左中将義貞、越前にて討死の後、其臣船田入道、義貞の首級を捧持し、東国に下向して爰に葬る、入道は名を久保明翁と改め、則此地に隠栖すとなり、故に今も立願する者は、久保明翁の子孫なる由告れば願望成就すと云」とあるが、太平記では「船田入道は義貞討死より前、建武二年(1335)正月京都の戦に討死せし人なり、 然れば社伝信じがたし」として、「宇都宮左近将監泰藤、其首を奉じ、義貞の本国上州へと志し関東に下りしに、小田原駅に著し時、泰藤偶疾に臥す、 依て其首級を瓶に収め、酒匂川の辺に埋む、 後に新田明神と崇むとあり」と三州妙国寺伝を掲載している。
 
 

御大典記念 碑文    
題字   海軍少将従四位勲三等功四級関重忠書
此ノ地ハ往昔足柄郷ニ属シ早川荘ノ一部宮城村ト稱ヘシカ後足利家ノ臣一色某冤罪ニヨリテ本村ニ来リ荒地ヲ開キテ一色村ト改メタリト云フ小田原盛衰記ニ北條氏康西国ヨリ漁師ヲ招キテ千度小路ニ住マハセ地獄網ト云ヘルヲ用ヒ海底ノ魚貝ヲ捕ラセ大イニ民利ヲ劃リ網ヲ一色ノ海岸マテ干サシメタルヲ以テ網一色ノ稱起ルニ至レリト尚當社八幡神社ハ後三年ノ役ノ剛者鎌倉権五郎景政ノ霊ヲ祀ル副社新田神社ハ元西上百六十八番地ニアリ社傳ニ新田義貞ノ臣船田入道某義貞ノ御首ヲ持チ来リテ埋メケリト又三河國碧海郡上和田村法華宗本寿山妙園寺ノ元禄八年ノ記ニ泰藤後首ヲ持チテ濃州ニ下リ夫ヨリ本領三州和田ニ妻子ニ暇ヲ告ケ上州新田公ノ本国ヘト志ス途次相州小田原駅ニテ異例常ナラス其御首ヲ甕ニ納メ酒匂川ノ邊ニ埋メケル即チ新田大明神ト崇メケル云々ト然レトモ明治維新ノ際証據不明ノ為メ廃社トナリシハ誠ニ遺憾ナリ近クハ六十餘年前 明治大帝京都ヨリ東幸ノ砌リ川越ヲ為シ給ヘル由緒アル地ナリ 
聖上陛下天津日嗣ヲフマセ給フ鉅典ヲ挙ケサセラルルニ際シ我等ハ本村ノ沿革ヲ願ミココニ記念碑ヲ建設スル所以ノモノハ温故知新以テ 叡旨ニ副ヒ奉ル忠良ナル青年タルコトヲ期セントスルニ外ナラス  従六位森丑太郎敬書


新田義貞公首塚


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小田原 平成輔墓所

2016-11-22 10:54:49 | 掃苔

小田原城下の西南、早川の河口近く南町3丁目に永劫山最勝院報身寺という浄土宗のお寺がある。
 
 
この報身寺境外墓地と言っても東側、一本小道を挟んだ向側に平宰相成輔の墓がある。
 
 
宇多天皇第二皇子の後醍醐天皇は即位した後、鎌倉幕府の打倒を密かに計画したが、正中元年(1324)六波羅探題に発覚した正中の変のあと、元弘元年(1331)、後醍醐天皇は再び倒幕を計画して幕府方に敗れた。笠置落城後、中心人物の後醍醐天皇は隠岐島に配流になり、討幕計画に参加した権中納言平惟輔の子、平成輔は鎌倉幕府に拘束されて斬罪に処された。「太平記」巻四「笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事」の項に死罪、流刑となった人々の事が語られている。「平宰相成輔ヲハ、河越三河ノ入道円重具足シ奉テ、是モ鎌倉ヘト聞ヘシカ、鎌倉迄モ下シ着奉ラデ、相摸ノ早河尻ニテ奉失」とある(国文学会編)。新編相模国風土記稿に「潮音寺 元享三年(1323)三月建、平宰相成輔墓、石祠を置、側に五輪の頽碑あり」「成輔、弘元二年(1332)五月、早川尻にて殺害せらる、故に当所に葬埋せしなり」とあった。早川尻というのは、東海道の箱根板橋から海岸を通り熱海に向う脇街道の早川河口付近で、東海道分間延絵図にも早川河口左岸に報身寺と潮音寺が記載されている。
 
この潮音寺は明治になり報身寺に合併され、この墓所も報身寺の管理となった。平成輔墓の傍に有栖川宮威仁親王篆額の宰相平成輔碑がある。碑陰によると、福住正兄(二宮尊徳高弟で箱根塔ノ沢温泉旅館福住楼主人)が小田原の西南端にある成輔卿御墓所附近の熱海街道早川口に建立したが、道路拡張により二宮神社に移し、さらに昭和七年三月に平成輔塋域内に移したという。

(宰相平成輔碑文)
宰相平成輔碑
  海軍少佐三品大勲位威仁親王  篆額   
函嶺之巨浸溢為澗流東注十里至小田原入海其與潮
合處白沙堆積民屋散布謂之早川傳曰地有不浄松者
宰相平成輔遭害處矣按史元弘元年笠置城陥翌年成
輔為賊兵執送鎌倉已而道殺之實為其季五月二十二
日也嗚呼元弘之亂倒行逆施擧海内不知名分為何物
成輔與源具行等謀糾合義旅謀誅高時精神有足動人
者然而後世無為成輔道者地方有志某等有慨于此欲
昭其遺跡而歳月之久松樹枯朽遭害之處不可知焉乃
更卜地建碑属余記之於是成輔事蹟始著於世而千載
之下使人低佪咨嗟則有志者之擧不亦偉耶南朝之事
係世道人心余取以喜而援筆
   元老院議官従三位勲三等男爵楫取哲撰
明治二十二年十二月建       永原俊章書


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西川鉄次郎 墓所

2016-11-14 13:37:02 | 掃苔

静岡藩に仕えた旧会津藩士林三郎惟純を調べていて、白虎隊にいた西川鉄次郎が沼津兵学校付属小学校で学んでいたことを知った。早速、沼津兵学校の資料が揃っている沼津市明治史料館を訪ねたのが今から8年前の残暑が残る8月の末だった。史料館に着くと窓が全て開いていて、エッと思いながら館内に入ると年に何回も無い休館日で丁度、清掃中だったが、館のご厚意で資料だけは閲覧させて貰うことができた。
 
ここの資料(通卷第75号)によれば、西川鉄次郎は会津藩御書簡所物書六石五升二人扶持西川俊治(舛益・定之助・鐡之助)次男で白虎寄合二番隊に属して越後を転戦して降伏後は越後高田で謹慎とある。東京で謹慎となった旧会津藩士を護送した小倉藩羽州出兵戦記に朱雀寄合四番隊で戦った兄、西川彦太郎と共に西川鉄次郎の名があり、東京での謹慎後の明治三年(1870)、兄は斗南へ移住し、弟の鉄次郎は沼津兵学校付属小学校に留学したと思われる。大学卒業後の官歴については「白虎隊西川鉄次郎」で詳しく述べた。明治三十八年出版の中央大学二十年史に創立以来現在に至るまでの講師陣の中に、創立者の一人である西川鉄次郎の名があるのは当然であるが、石渡敏一の名があったのは驚いた。石渡敏一は旧会津藩士との結び付の強い石渡栄治郎の長男で妹登美は旧会津藩家老萱野長修(権兵衛)の三男郡寛四郎の嫁となった。小倉で自刃した郡長正は寛四郎の兄になる。他に会津山内氏一族で長野の横田秀雄、その弟の小松謙次郎の名も講師陣にあった。
昭和七年六月一日付けの西川鉄次郎葬儀広告を見つけた。葬儀は嗣子西川栄祐、親戚総代が長谷川久一、桐山菊太郎で小田原町板橋の興徳寺で行われるとあった。小田原の興徳寺を訪ねた。
   
西川という檀家さんはいないとの事であったが、近所に偉い裁判官が住んでいたと聞いて、その家の近くのお寺、霊壽院の墓域に東京新宿の正受院から改葬された旧会津藩家老萱野長修(権兵衛)の弟、三淵家の墓所があった。
 
 
三淵隆衛長男忠彦の娘多摩は石渡敏一の五男慎五郎に嫁にいった。親戚総代の長谷川久一(唐津藩士長谷川芳之助子)は西川鉄次郎妻文子の兄で第三十六代警視総監を勤めている。長谷川久一は長崎唐通事だった何礼之に大阪洋学校で英語を教わっている。何礼之の門下生として日下義男(本名石田五助、会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男、弟に白虎士中二番隊の一人で、飯盛山で自刃した石田和助)や海援隊瓜生震らがいる。
小田原で葬儀を済ませた西川鉄次郎の墓所を探して小田原市内のお寺の半分は廻った。今年になって、サイト情報で西川鉄次郎の墓所が青山霊園附属立山墓地にあるのを知った。明治四十二年出版の立山墓地明細案内図で調べると、西川という名の墓域が三ヶ所ある事が判った。ともかく立山墓地に行ってみた。
 
三ヶ所の一つが西川鉄次郎の墓域で、旧会津藩士で京都から江戸まで孝明天皇の御宸翰を運んだ浅羽忠之助の三男五三郎が婿に入った騎西家の墓域の近くにあった。


白虎隊士西川鉄次郎


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北條氏 香沼姫

2016-11-06 10:21:14 | 小田原

新編相模国風土記稿、高源院の項に北條氏康妹にて山木御大方と称した高源院と香沼姫の位牌を安置するとあった。高源院は遠江の堀越貞基に嫁いだ北條氏綱の五女崎姫の事で、今川家の家督相続争い「花倉の乱」で玄広恵探(今川義元の庶兄)側に与した堀越六郎貞基は栴岳承芳(今川義元)側と戦い討死した。崎姫は北條方に戻り、韮山城に近い山木に住まいしたことから「山木御大方」と呼ばれた。香沼姫は新編相模国風土記稿谷津村旧家山本庄左衛門の項にその名が出てくる。「累代浪士なり、今住する宅地は、北條氏綱の女香沼女の邸蹟なり」とあり、終身嫁に行かなかったとある。さらに「香沼女の側に給仕する山本氏(香沼女の外戚と云)の女あり、後年媒酌して渡邊外記に嫁ぎ、外記山本姓を名乗と云、香沼女は氏直の内室(東照宮の娘、督姫)と懇交あり、常に和歌の贈答などありしなり。香沼女、木(棺桶)につき、其遺言に任せ、居邸を外記の屋敷となし、其山頂に葬れり」とある。
風土記稿と同時期の天保十年前後に小田原藩士三浦義方により相模国内の歴史、地誌、史蹟、社寺等について編纂された「相中雑志」に同じような記述がある。「香沼殿ト申女儀者北条家元祖伊豆守早雲氏茂ノ孫女相模守氏綱ノ娘左京大夫氏政之叔母也独身ニテ実母方ノ親類山本氏ノ娘ヲ幼年ヨリ側ニテ召仕附人渡辺外記ニ嫁山本氏ニ改屋舗ヲ譲リ遺跡相続牢人ヲ立永代年貢諸役御御免之御除地也 但シ百間四方」とある。屋敷は約1万坪の土地だったことが分かる。
 
小田原駅西口から県道74号小田原山北線(通称足柄街道)にある城山競技場入口交差点を慈眼寺方向に向かい、6・7分で左側に城山第一公園がある。
 
 
その先の1区画とその西側のブロックで約1万坪になり、概ねここが山本屋敷跡と思われる。山本屋敷跡にあるという香沼姫の墓所を探してウロウロして同じブロックを何周もしてしまった。山本家に伝わる「語り書」をまとめた「小田原北條女物語」に、山本家では屋敷の上段に御霊屋を作り、子々孫々四百年に亘り供養しているという。そう言えば、この住宅街の南側に急坂があり、住宅が続いているのを思い出し、再度、探しに行った。急坂の途中に墓所があった。
 
今は開発が進んでしまったが、昔は屋敷を一望に見渡せる小山の中腹に香沼姫の御霊屋を作ったという記述通りだった。
 
 
 
山本家では、香沼姫の実母方ノ親類山本氏ノ娘というのは、実は山木(高源院)の娘で渡辺外記に嫁するに当たり、山木の木に一を加えて山本を名乗らせたと伝わる。他に香沼姫は高源院崎姫の娘という説もあり、高源院崎姫(山木御大方)と香沼女の関係はハッキリしない。それにしても北條家の娘たちは殆どが政略結婚で姻戚関係を強化していった。そのなかで香沼姫だけが嫁に行かなかったのは、どんな理由があったのだろうか。


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小田原 高長寺から新光明寺へ

2016-10-27 09:56:47 | 小田原

小田原城山の高長寺は、明治三十九年(1906)横浜監獄小田原分署幼年監(現小田原少年院)が設置された際に、建設予定地内の高源院と、隣接の長吉寺が合併され、それぞれの頭文字を取って高長寺と名付けられた。
 
 
新編相模国風土記稿に高源院は武蔵越生龍穏寺の末寺で栖龍山と号し、開山梅臾林呑(北條氏直の伯父と伝う)、開基である高源院長流泉香大姉は北條氏康妹にて山木御大方と称して、高源院と香沼姫(法名天桂院梅林祐香大姉)の位牌を安置するとある。高長寺の山門は、かつて西栢山村の旧家井上八右衛門家のものだったと伝わる。境内にあるという市の天然記念物の白木蓮の大木は残念ながら十五年に枯れてしまい、跡地に若木が植えてあった。ここに敵討ちで侍分に取り立てられた浅田鉄蔵の墓がある。
  
墓域に仇討由来があった。
文政元戊寅年七月小田原藩浅田只助藩中成瀧萬助ノ為メニ公私怨ヲ以テ殺害セラル依ツテ遺子兄鐡蔵當時二十一才弟門次郎十二歳ハ時ノ老中藩主大久保加賀守忠真公ノ免許ヲ得七ヶ年ノ間薩南ノ地ニマデ仇ヲ尋ネ艱難辛苦ノ末遂ニ水戸領岩船ニ於テ仇萬助ヲ討果シ首尾克ク本懐ヲトゲ帰参ノ上藩主ニ忠勤ヲ勵ム 此ノ仇討ハ日本最後ノ公許トナル鐡蔵ハ元治元年六十五才ヲ以テ歿ス  仇討孝子浅田鐡蔵ノ墓所是也
昭和三十五年一月  墓碑銘維新勤王家中垣謙斎撰文 孫 浅田勇次書
  
浅田光儀建立の鉄蔵墓碑に刻まれた小田原藩家老中垣秀實による撰文は風化して読取れなかったが、僅かに墓碑正面に鉄蔵の戒名、潜龍院大道義孝居士は辛うじて読取れる。(「小田原の金石文」に浅田光勝墓の中垣秀実による撰文が記載されているが、まったく照合することが出来なかった)
鐡蔵弟、浅田門次郎の墓がある新光明寺は高長寺から歩いて10分程度で、ちょうど少年院の反対側になる。
 
新光明寺は鎌倉光明寺の末寺で、号は天照山蓮華院、開山良記は貞誉と号し俗姓北條氏で、ここ新光明寺に浅田門次郎家の墓域がある。
 
三基ある墓の中央が浅田左五兵衛光乗(鐡蔵弟門次郎)と門次郎光通、左側が門次郎光通妻、右側は読み取れなかった。
 
浅田左五兵衛光乗(戒名、猛進院志願光乗居士)が浅田鐡蔵の弟の門次郎なのは安政五年の小田原藩順席帳にて確認できる。順席帳に記載のある門次郎光通は、御家中先祖並親類書によると浅田鐡蔵弟浅田左五兵衛、浅田鐡蔵甥門次郎とあるので左五兵衛の嫡子と思われる。
 

御家中先祖並親類書によると、浅田兄弟父、唯助は御切米五石御扶持二人分の諸組之者であったが、享和元年(1801)組抜(足軽のまま御番帳外の役職を勤める)、御料理人頭支配手伝いを勤めたが、文化六年(1809)十月、かねがね心掛け不宜、不慎之儀に付、隠居を命じられ、慌てて翌年の文化七年二月に井細田村の新蔵倅鐡蔵を養子として跡目を継がしている。

小田原 浅田兄弟敵討


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小田原 浅田兄弟敵討

2016-10-20 10:07:56 | 小田原

16年5月に小田原城常盤木門の二階渡り櫓部分に「常盤木門SAMURAI館」がオープンした。小さなスペースだが、鎧冑や刀剣類など武具に特化した展示をするという。
 
ここに小田原藩、浅田兄弟の仇討ちの遺品が展示されているのを知って訪ねた。この展示館はカメラのフラッシュを使わなければカメラでの撮影も出来るのも嬉しい。
 
 
浅田兄弟の仇討ちと云うのは、文政元年(1818)七月、小田原藩足軽浅田唯助は乱心した傍輩足軽の成瀧万助に切り殺された。入牢を命じられた万助は三年後の文政三年、脱獄に成功して行方不明となった。浅田唯助の養子となった浅田鉄蔵と唯助の実子で浅田五兵衛家に養子に入った浅田門次郎は敵討ちの伺書を提出、藩は直ちに幕府に届け、町奉行所は敵討帳、言上帳に帳付けして浅田兄弟に書替(謄本)を渡し、正式に敵討の許可が下された。万助を捜して各地を廻っていた鉄蔵(二十四歳)門次郎(十六歳)の時の文政七年(1824)、水戸願入寺領磯浜村祝町(今・茨城郡大洗町)にいた万助を討取った。

神奈川県立公文書館資料(ID2201320013)資料名「文政七申年大久保加賀守様足軽、父之敵討候始末 浅田鉄蔵、浅田門次郎敵討一件」に岩船地田町大黒屋庄吉店借九兵衛による万助死骸改書が記載されている。
一 左之耳よりほふを切下長五寸横四寸三分
一 首の左右より矢はらニ切下前之方少々は残り長九寸三分深サ三寸巾七寸
  但ひたい長壱寸程之古疵有之候処刀疵共難見分
一 右之肩先へ背ニかけ長壱寸六分、深サニ寸巾二寸五分
一 左之腕先より二ノ腕迄切下長壱尺二分深三寸巾四寸
一 右之二ノ腕深壱寸巾壱寸
一 左之大指切落背より左之脇へかけ長九寸三分深二寸巾二寸三分
一 左之あはら長八寸四分深八分巾二寸三分
一 左之足ひさ下長四寸壱分深壱寸巾壱寸六分
万助の体には、古疵か見分けがつかない疵を含めると都合九ケ処の刀疵があったことになる。凄まじい敵討だったことがわかる。

帰参した浅田鉄蔵・門次郎兄弟に藩主大久保加賀守忠真が与えた御教書が「常盤木門SAMURAI館」に展示してあった。(彰道院殿御教書御染筆)

其方共孝志厚く、殊兼而申渡置候相守り、此度本望を遂、一段の事候、出極ニ取立候上ハ、猶更一己を慎ミ人にほこるましく候、世上へも相響き候次第ニ付、其身者勿論、我等名迄末長く汚さゝる様心掛、忠孝之道弥可相励候

浅田兄弟は敵討ちの成功により下級藩士の諸組之者から五十石の知行取の代々御番帳入りの中級藩士として抜擢された。
(安政五年小田原藩順席帳より)
   
浅田鉄蔵の墓は高長寺に、浅田門次郎の墓は新光明寺にある。

 小田原 高長寺から新光明寺へ


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小田原 うなぎ 柏又

2016-10-09 10:55:29 | 

小田原駅から歩いて15分程の小田原城三ノ丸のあった本町に古い鰻屋がある。店名は家紋の柏と初代又次郎の名を取って「柏又・かしまた」という。開業して百四十年ほど経つという。古地図をみると店の場所は丁度小田原城外堀の東南端付近になる。小田原城の廃城は明治三年(1870)、それから城内の一部や堀を埋立てして民間に払い下げられた。小田原城絵図(明治図)には城内の一部や堀の中に分筆線と地番が記入されていて、民間に払い下げ、田畑などに転用された経緯がわかるという。古い建物の玄関を入ろうとしたら、横の市松模様のガラス戸のある建物から声がかかり、そこは座敷とテーブル席があり、ガラス戸がレトロな雰囲気をかもしだしていた。
 
 
 

1回目は子供を連れて行った。親の見栄で一番高い松の鰻重を頼んだ。小田原の他の鰻屋と比べてかなり甘みを抑え、古くから続く味を伝えているような感じだった。
一週間程経って、また柏又を訪ねた。今度は家人と行ったので竹の鰻重を頼んだが、竹は切らしているというので梅の鰻重を頼んだ。竹と梅の違いは判らなかったが、多分大きさが違うのだろう。左:松重  右:梅重
 
きじ丼と鳥わさ
 
トマトサラダ
 
ふっくらと焼き上がっており、辛めの味も申し分なかったが、続けてこの店に行ったのは、最初に行った時、菊池寛の色紙もさることながら、目に付いたのがチョット色っぽい絵だった。
 
この絵を撮りたくて再訪した。「男難師 垢石」とあり、女性がうなぎを捕まえようとしている絵で、最初、この絵も垢石が描いたと思っていた。写真を拡大したら絵は佐世男と云う人の作品だった。
垢石(こうせき)は釣り人の間では有名で、本名佐藤亀吉、号は鮎が好む水中の石の表面につく水コケの「垢」から採り、勤めていた報知社の記者から釣りなどのエッセイストとして独立、雑誌「つり人」の初代編集人となっている。昭和16年の熊野川の鮎釣りから始まる「たぬき汁」は有名。どうゆう経緯で柏又の絵が描かれたのか不明ですが、小野佐世男は現代女性風俗を描いた漫画家で報知新聞に在籍していたことから佐世男は垢石の後輩にあたり、酒匂川か早川に鮎釣りの帰りにでも柏又に寄り、頼まれて一筆書いたのだろうか。この絵が載っている平成25年暮れから翌年1月に川崎の岡本太郎美術館で開催された小野佐世男展の図録をお店でみせて貰った。解説に佐藤垢石書、小野佐世男絵「男難捕」とあった。
 

「管仲随馬」という四字熟語がある。中国戦国時代の思想家、韓非子「説林・上」に、中国の春秋時代、斉国の桓公の名宰相といわれていた管仲が戦いから帰るときに道に迷い、老馬を放ち、後についていくと馬が道を見つけ斉に戻ることができたという故事からできた熟語で「管仲馬に随う」とも読むという。
管仲、隰朋從於桓公而伐孤竹、春往冬反、迷惑失道、管仲曰「老馬之智可用也」乃放老馬而隨之、遂得道 。行山中無水、 隰朋曰「蟻冬居山之陽、夏居山之陰、蟻壤一寸而仞有水」乃掘地、遂得水。以管仲之聖、而隰朋之智、至其所不知、不難師於老馬與蟻、今人不知以其愚心而師聖人之智、不亦過乎。
管仲は聡明にして隰朋は博識であったが、それでもわからないことがあれば、老馬やアリを師と仰ぐことをためらわなかった。 いっぽう人々は、愚かなこころをもちながらも、聖人の知恵を師と仰ぐことを知らないでいる。 なんと間違ったことではないか。(漢籍国字解全書先哲遺著韓非子国字解上巻)
柏又にある絵は韓非子の「不難師於老馬與蟻」から「不難師」の言葉をもじって「男難師」と書いたのではないだろうか。何と訓読みするのか解らないが、鰻を捕まえるのは男性を師としても難しいと、ちょっとエロチックな絵に仕上がっている。お店で働いていた女性の若かりし頃を想像すると、この絵の女性に似てきたから不思議である。


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