大佗坊の在目在口

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鳥取宇倍神社から樗谿神社(鳥取東照宮)へ

2017-08-10 | 

池田家墓所から宇倍神社に向かう。法美街道(雨滝道・現県道31号)にでる途中に奥谷古城址の説明板があった。「前方にそびえる丸い山(標高八十一.七メートル)が因幡誌に記されている、奥谷古城跡である。山頂を削平して構築され、展望はきわめて良好である。築城の年代、由来等は不明であるが地元では古くから城山と呼んで親しまれている」とあった。
 
因幡誌に「国府奥谷城 仔細知レス城跡ニ廃井アリ安永年中村民銭ヲ堀上タリ」と古城にしてはそっけない記述があった。結局、どこがそびえる丸い山だか分からなかつた。近くに清源寺古墳と呼ばれる線刻画が描かれている装飾古墳があるという。
因幡一之宮宇倍神社の御祭神は武内宿禰、孝徳天皇大化四年(六四八)の創建伝えられ、平安時代の延喜式では県下唯一の名神大社(特別な社格が与えられた神社)とされ明治四年に国幣中社となる。
 
 
因幡誌によると宇倍神社「稲葉ノ郷宮下村ノ山上ニアリ国中第一ノ大社タリ呼テ一ノ宮ト云是ナリ古来其山ヲ宇倍ノ山ト号ス(上野山今誰謂)是地名ヲ呼モノナリ」とあった。
 
 
明治四十四年発行の「鳥取名所」は「因幡山は一に宇倍野山と称す、武内宿禰を祀る国幣中社なり、仁徳天皇五十五年春武内宿禰、三百六十余歳因幡の国守としてこの国に下向したまま、亀金の岡に双の履(くつ)を残し置きて世を去り給うひし」という。本殿の左後ろの亀金岡に双履石と呼ばれる御祭神終焉の地があるのに気が付かなかったのは残念だった。
宇倍神社から西北の方向約4k位のところに樗谿(おうちだに)神社がある。
 
 
この地は明治四十二年発行の「鳥取案内」に「境内滾々として、社前を流れ、飛瀑岸に懸り、幾百年の老杉古松蓊鬱として四面を掩ひ昼尚暗く、地は市中人家を距る僅々一町餘なれども斧鉞を加へざること二百年餘、幽邃にして殆ど深谷に入るの思ひあり」、県下有数の霊地なりとある。池田家墓所では誰も見かけず熊が出ないか心配だったが、樗谿神社の奥は草叢も多く、小川も流れておりマムシがいそうでビクビクもんだった。樗谿の読み方が全く解らなかったが、鳥取市のH・Pの説明に「「樗谿」の由来については、古来、樗谿の山中に「王子(寺)」(おうじ)という寺院があったことにより、「王子(寺)谷」(おうじだに)と言われていたとの説と、かつて「大日村」という村落があったことから「大日谷」(おおひだに)と言われていたとの2つの説があります。「樗谿」の字が当てられるようになったのは、園内にある東照宮が明治時代に「樗谿神社」と改称されてからのようです」とあり、更に樗谿神社本殿・唐門・拝殿及び幣殿について「鳥取藩主池田光仲は、東照大権現廟舎の造営を幕府に願い出て、慶安2年(1649)に大日谷(樗谿)を選んで着手し、翌3年9月13日完成した。東照大権現は徳川家康の死後に与えられた神号で、寛永13年(1636)に日光東照宮が完成している。造営は、家老荒尾但馬守成直を総奉行として、幕府お抱えの御大工・木原木工允、藤原義久らがこれに参加した。木原木工允は、日光東照宮・芝東照宮(安国殿)、上野東照宮、浅草寺(本堂・五重塔)などを建立した棟梁である。各地の東照宮の多くは権現造りであるが、鳥取東照宮は本殿を周囲に石玉垣をめぐらして独立させ、本殿前に平唐門の中門を設け、拝殿と幣殿は接続している。『因府録』には、「御本社は欅白木の造営檜皮葺なり、智頭郡より伐出る良材にて1本をもって御本社を建てらるるに其用猶余り有といひ伝ふ」とあり、細部の手法は日光東照宮にならった華麗なもので、内外部・軒廻り・妻飾りなどは生漆塗り仕上げ、本殿・唐門の一部は彩色塗・本漆塗がほどこされていて、桃山風型式の豪華な飾り金具が各所に使われて美しい品格をみせている」とある。
 
 
創建時「東照宮」と呼び、明治七年(1874)、「樗谿神社」と改称し、平成23年(2011)、現在の「鳥取東照宮」に変更したという。隋身門から本殿に昇る参道路傍に連立する石灯籠は鳥取藩士十四名により奉納されたと云う。
  

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