美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「条約」についての一視点 (イザ!ブログ 2013・9・4 掲載)

2013年12月21日 22時12分36秒 | 外交
「条約」についての一視点



Wikipediaによれば、条約(treaty)とは、「国際法上で国家間ないし公的な国際機構で結ばれる成文法である。すなわち、国際法にもとづいて成立する国際的合意であり、国家および国際機構を拘束する国際的文書が条約である」と規定されます。また、「日本国においては、政府が同意している条約は、天皇が国事行為として公布し、日本では国内法と同等に受容され、効力は一般的な法律よりも優先する(憲法第98条2項による。ただし憲法に対しては劣位にある)」とも記載されています。このことはTPPのISD条項をめぐって一般に広く知られるようになりました。野田前総理が、この「法律に対する条約の優越」をめぐって、自民党の佐藤ゆかり議員の質問にまともに答えられず、とんだ赤恥をかいたのは記憶に新しいですね。

このように一見、強い効力を有するかのような条約なのではありますが、わたしたち日本人は、国家間の条約がいとも簡単に相手国によって一方的に破られる苦い経験をしたことを忘れていません。大東亜戦争における日本の敗北が決定的となった段階で、一九四一年年四月十三日に日本と中立条約を結んでいたソ連は、日本に対して宣戦布告をし、旧日本領への侵攻を断行し、同条約を破棄したのです。Wikipediaから、その詳細を少しだけ拾ってみましょう。ソ連は、一九四五年「8月8日(モスクワ時間で午後5時、満州との国境地帯であるザバイカル時間では午後11時)に突如、ポツダム宣言への参加を表明した上で『日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた』として宣戦を布告、事実上条約を破棄した。9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し、南樺太・千島列島および満州国・朝鮮半島北部等へ侵攻した。この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった」。

当時の日本政府にとって、これは痛事という言葉では足りないほどの衝撃を与えられた出来事でした。晴天の霹靂とは、まさにこういうことをいうのでしょう。なぜなら、一九四五年四月五日、翌年期限切れとなる条約をソ連側は延長しないことを日本に通達してきたのですが、日本側はなおも条約が有効と判断して、アメリカとの和平工作をめぐって、ソ連側にその仲介をしてくれるよう再三にわたって依頼したのですから。

実は、ソ連のこの(日本側にとっては)卑劣な行動は、あらかじめ、国際社会からの承認を受けたものだったのです。ご存じのこととは思われますが、一応そのこともかいつまんで説明しておきましょう。

戦況がほぼ明らかになってきた一九四五年二月四日~十一日に、アメリカのフランクリン・ルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンという世界の三巨頭がソ連領クリミア半島のヤルタで協議をしました。有名なヤルタ会議です。ここでルーズベルトは、スターリンに対して、ドイツ降伏の二、三ヵ月後に日ソ中立条約を破棄して対日参戦するよう要請しました。ルーズベルトはその見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、そして満州に日本が有する諸々の権益(日露戦争後のポーツマス条約により日本が得た旅順港や南満洲鉄道といった日本の権益)をソ連に与えるという密約を交わしたのです(ヤルタ協定)。

スターリンからすれば、日本側の痛憤をあえて突き放した言い方をすると、事実上の世界の覇権国家からお墨付きを前もって得ていることがらを現実のものにしただけのことなのです。それに対する日本の抗議など負け犬の愚かしい遠吠えにしか聞こえなかったことでしょう。そうして、それは至極まっとうな感覚なのです。このことから、私たち日本人はおそらく無限の教訓を導き出すことができるものと思われますが、いまはそのことは措きましょう。

ソ連の日ソ中立条約の破棄という歴史的な事実に関して、故・高坂正堯(こうさかまさたか)氏が『海洋国家日本の構想』(1969年増補版発刊)でとても興味深いことを言っています。以下、引用します。

ソ連との間に不可侵条約を締結しても、かつて日ソ不可侵条約が簡単に破棄されたことから観て意味がない、とする議論に触れて西春彦氏が述べていることはまことに興味深い。

ふたつほど注が必要でしょう。

ひとつは、引用文中に「かつて日ソ不可侵条約が簡単に破棄された」とありますが、これは率直に言えばいただけないということ。ここは「日ソ不可侵条約」ではなく、「日ソ中立条約」と正されねばなりません。なぜなら、「日ソ不可侵条約」は、一九三九年当時、駐ソ大使だった東郷茂徳が盛んに政府にその交渉・締結の進言をしていた対ソ外交のアイデアであって、そこには、日独伊三国軍事同盟阻止の意志がはっきりと織りこまれていたからです。東郷茂徳は、権力政治の観点から、三国軍事同盟は明らかに日本にとってマイナスに作用すると判断していたのです。つまり彼は、日本が軍備の強化につとめることはやむを得ないが、いたずらに国際紛争に巻き込まれることはできうるだけ避けたいと考えていたのです。そう考える東郷は、ドイツの仲介抜きの「日ソ不可侵条約」を構想していたのです(『東郷茂徳 伝記と解説』藤原延壽・ふじわらのぶとし)。

それと、東郷を駐ソ大使のポストから強引に更迭した松岡外相が、三国同盟締結の後にソ連と結んだ「日ソ中立条約」とは、性質のまったく異なるものでした。その点に関して、Wikipediaは、次のように述べています。

当時の日本はアメリカなどと関係が極端に悪化していた。当時の駐ソ連大使・東郷茂徳は、日独伊三国軍事同盟の締結に反対し、むしろ思想問題以外の面で国益が近似する日ソ両国が連携することによって、ドイツ、アメリカ、中華民国の三者を牽制する事による戦争回避を考え、日ソ不可侵条約締結を模索していた。

ところが、松岡洋右が外務大臣に就任すると、構想は変質させられ、日独伊三国軍事同盟に続き、日ソ中立条約を結ぶことによりソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には四国による同盟を結ぶ(「日独伊ソ四国同盟構想」。松岡自身は「ユーラシア大陸同盟」と呼称)ことで、国力に勝るアメリカに対抗することが目的とされた。

できうるかぎり対米戦争を回避しようとした東郷の「日ソ不可侵条約」構想と、対米戦争が勃発した際に日本をなるべく軍事的に有利なポジションに置こうとした松岡の「日ソ中立条約」とは、似て非なるものだったのです。

ふたつめは、西春彦氏がどういう人物かについて。人脈的には、東郷茂徳筋の外交官です。東郷茂徳が駐ソ大使を務めているころは本省勤務でしたが、先ほど述べた東郷の駐ソ大使更迭をもたらした一九四〇年七月の「松岡人事」によって、建川美次駐ソ大使に随行する形で、公使としてモスクワに赴任しました。そうして、日ソ中立条約調印までのプロセスを現場でつぶさに目撃しました。また、一九四一年、東條内閣の外務大臣となった東郷は、西を日本に呼び戻して外務次官に任じました。さらに、後の東京裁判のときには、東郷の弁護人をつとめた人でもあります。

前置きが長くなりました。西氏の発言を見てみましょう。

太平洋戦争が始まるときから、日本政府としては、この戦争で日本の国力が疲弊したならば、ソ連は満州その他にやってくるだろうということを想定していたのです。・・・・・だからこっちが忠実に条約を守り、バランス・オブ・パワーを失わないようにする。この点はソ連との外交の特質といっていいくらいだから、大いに用心すべき点である。がその覚悟があれば、ソ連と条約を結んでもいいと思う」(『中央公論』一九六一年一月号)

外交官の、条約をめぐる現場感覚がどういうものであるかを知るうえで、とても興味深い発言ですね。一般の日本人がソ連の条約破棄を憤るのとかなり趣を異にしています。国際政治のバランス・オブ・パワーへの透徹した視線を感じます。これをとらえて、高坂氏がとても鋭い指摘をしています。

西氏は不可侵条約が無意味だといっているのではない。また逆に、不可侵条約さえ結べば丸裸でよいともいってはいない。条約はその背後の力関係が大きく崩れない限り有用であると述べているのである。(太字は引用者によるもの。以下同じ)

こう述べたうえで、高坂氏は、戦後日本の知識人批判をする。その言葉は、左翼系知識人と保守系知識人との両方の弱点を射抜いているように、私には感じられます。

日本には、一方では条約を神聖視して、条約さえあればそれでよいと考える人々と、条約などというものはあてにならぬから赤裸々な権力政治以外に国際社会のなかで生きる道はないとする人々とがある。明治以来、ずっとこの二つの態度が交錯して来た。しかし、それはともに間違っているのである。

では、どう考えればいいのか。高坂氏は、条約の本質を次のように述べます。

国際社会の現実と遊離した条約は意味を持たない。しかし、そうかといって、すべての条約が無意味であるわけではない。条約は現実を法的なものにし、強めるのである。

私は、これで条約の「現実的な意味における」本質は尽きているのではないかと思われます。私なりにそれをあえて言いかえれば、自国の国力の充実を抜きにして、条約の文言の一字一句を後生大事に抱えていても、あまり意味がないということでしょう。つまり、国力が充実している国は、相手国がそれ相応の敬意を表さざるをえないので、条約の文言はおのずと守られることになる。反対に、国力が衰退傾向にある国は、相手国が敬意を表する意味が次第になくなってくるので、条約の文言がどれほどに素晴らしいものであろうと、それは破られやすくなる。そういうことになるのではないかと思われます。

ここまで読み進められた方は、おそらく、高坂氏は日米安保条約についてどう言っているのか、知りたがっているのではないでしょうか。彼は、それについて次のように言っています。

日米安保条約についても同じことがいえる。日本には日米安保条約さえ結んでいればよいかのようにいう人があるが、日本の安全は極東の情勢にかかっているし、日米関係は全般的な友好関係の有無にかかっている。日米両国の全般的な友好関係が崩れた場合、仮に日米安保条約があっても、それは意味がないのである。

これを読んで思うことが、ふたつあります。

ひとつめ。高坂氏は、1960年代の半ばにおいてすでに、これからの外交問題の中心は、対中国関係であると断定しています。その見通しが正しかったことは、近年ますます明らかになってきています。それどころか、最近の中国の国力は、高坂氏がそう断言したころと比べて、格段に大きくなっています。その膨張する国力を背景に、尖閣問題に象徴されるように、近年の中国は露骨に日本の領土侵犯を繰り返し、日本がわずかの隙を見せれば、その領土を掠め取ることを辞さない態度を示しています。「日本の安全は極東の情勢にかかっている」という観点からすれば、日本の安全は明らかに脅かされているのです。

ふたつめ。「日米関係は全般的な友好関係の有無にかかっている」という観点からすれば、民主党政権の三年三ヶ月は、非常に危なかったことが分かります。そのころは、日米関係に「全般的な友好関係」なんてまったくなかったし、特に、鳩山と菅は、その関係をあえて破壊しようとさえ試みたのですから。彼らは、本当に恐ろしいことをしてくれたものです。いま思い出しても、妙な脂汗が出てきます。また、そのころの日本は全般的な国力が衰退して、アメリカが日本との条約をまともに守る気分が明らかに低下していました。

「そのときに比べればいまの方がマシ」という、恐怖で萎縮した精神が、言いかえれば、「羹に懲りて膾を吹く」精神が、いまの安倍政権支持の心理的な基盤になっていなければいいのですけれど。なぜなら、そういう心理的な状態では、まともな判断がしにくくなるからです。

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