徳島に帰省しております。やっぱり今年は日本中寒い。
帰省の道中と徳島での撮り鉄は次回以降に。
前回の続きです。
有名な「ちっか」売りのおばちゃん達。昔々の乳母車をカスタマイズしたような専用ワゴンです。フェリー化される前は奥のガラス戸の先にある岸壁に着いて居ました。
奥でちっかを見ている男性は小生の父だと思います。
50系が入線して客待ち中です。左手の道路と直ぐ先で交差して左に曲がった所に小松島駅(本駅)のホームがあります。
高校時代、小松島へは月4回は行っていたんですがこの辺は「そのうち撮りゃええわ」と高をくくって撮らずじまいでした。
※実は帰省前に記事を下書きし、徳島からケータイでアップするつもりだったんですが、初めてやってみるとここで切れていました。で、以下は再作成。トホホですぅ・・・
17時丁度発の列車(たぶん423レだと思います)が既に入線中。
手元にこの年の時刻表がなく直近で有るのが’75年3月(新幹線博多開業の時)。10年前じゃ参考にならんか。ところで今回この時刻表を見ると、小松島線は既に単独の枠を与えられず高松-海部間で中田と南小松島の間に挿入されています。なんと夕方に小松島発の客レが3本あります。423レは小松島16:52の池田行き、425レが17:23発穴吹行き、でその後427レとして小松島港18:20発の池田行きがあります。
ところが、折角の小松島港発にも拘わらず船の方は南海が17:30着、共同汽船にいたっては15:30着しかありません(共同汽船は連絡運輸になっていません)。ただ、この427レは通勤列車かと思いますが、池田で30分まてば高知行き土佐6号にちゃんと接続するのが国鉄の凄いところです。
小松島港駅ホーム端の踏切から本駅方向を見たところ。カーブする線路の左にあるのが小松島(本駅)の臨港線ホーム。本駅ホームは左奥で臨港線から直接入線することは出来ません。
上と同じ場所から反対側、小松島港駅を望んだところ。列車に出発合図を出すためでしょうか、本駅から助役さんがやってきました。
ほぼ同じアングルですが、どっちが先に撮ったかは不明。左手のビルは合同庁舎。全体的に緑っぽくなる色調はアグファの特徴、と言う勝手な先入観を持っています。
ここからの下の写真は小生が撮ったものではありません。プリントされた写真だけが残っています。たぶん、同じ日に父が撮ったものだと思うんですが・・・
小松島港駅を出て徳島に向かって踏切通過中です。ドアが開いたままですが、50系って自動扉だったはずなんですが。直ぐ近くなんで開けたまま走ってるのか、はたまたこの少年が勝手に操作したんか。小学校高学年~中学生くらいのこの子も今じゃ40過ぎのおっさんですね。
上の写真と順序が逆かもしれません。一人だけ乗客が居て煙草を吸っているようです。背後の巡視船はくわのか、そうだとすると就役間もない頃となります。
踏切を通り切ろうとしています。交通量の多い踏切ですが列車本数が少ないせいか遮断棒はありません。なんで、右端では既に車が渡り始めています。
完全に順番が逆ですね。
助役さんが列車を見送っています。さっき小松島港駅まで歩いていた方だとすると、ここまで列車に乗ってきたんでしょう。だとすると、この区間は車掌が乗務しない構内運転扱いかもしれません。
これはたぶん発車後に撮ったんだろうと思います。小生がここらで撮っていた頃は、写真左手のホームの直ぐ横に船が着いていましたが、この頃は神田瀬川河口の方に変わっていました。
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初めまして・・・
いつも更新楽しみに拝見させて頂いてます。
懐かしい画像ありがとうございます。
小松島港もフェリ-がなくなり寂しくなりましたね。
50系の客車で小学生が写ってる写真・・・
私も小松島線廃止当日、旧型客車編成で小松島港発に乗車しましたが、5~7両?長編成で小松島駅臨港線ホ-ムに収まるわけなく
県道の踏み切りまではみだしてましたよ。
入場券の硬券のセットは鉄っチャンを卒業した今でも宝物です。
ご覧いただきありがとうございます。
実は
年に1~2回帰省しますが、
この時以来30年近く小松島に行っていません。
先週も帰省していたんですが
撮り鉄に終始していました。
昔の写真も底をつきかけてるんで
今度は寄ってみようと思っています。
それとこの踏み切り私が知っている限り結構写真のごとく車は通過していましたね、特にタクシーは駅ホームの後方建物が警察の官舎だったと思うのですが!!
毎度コメントありがとうございます。
ドラゴン様への返信にも書きましたが、
この時以来、小松島に行っていません。
今回帰省時も、雨だったら小松島に行ってみよう
と思っていましたが、天気が良かったんで
撮り鉄に没頭してしまいました。
踏切の交通量、フェリー乗り場前はタクシーが屯していましたね。
逆に本駅前には居なかったと思います。
ビルには消防車が居るのは写っていますが、
合同庁舎なんで警察も居たかもしれませんね。
この画像が撮影される5年前まで港に住んでいました。
ドアが開いた少年の写真の後ろが実家です。
ドラゴンさんがおっしゃる通り、小松島駅は長い編成になるとホームからはみ出し踏切の途中で停車します。ドアが開いたまま走ったのではなく停車したからドアが開いています。私もよく徳島に行く時は踏切から乗車しました(笑´∀`)
合同庁舎は海上保安部、税関、植防等港湾関係が入っているだけで警察は入っていません。ただ海上保安部には留置場がありました。
昔は警察の官舎(現在売りに出ています)あたりからが機関区で子供の頃のよい遊び場でした。
懐かしい画像を拝見させて頂いて感謝申し上げます。
「ドアが開いたままの客車」、
解答をありがとうございます。
30年ぶりに謎が解けたカンジです。
まさに港にお住まいだったんですね。
記事作成時から引き続き、
未だ最近の小松島に行ってません。
あの辺だと
1万トン岸壁裏の倉庫に延びていた
臨港線を撮ってなかったのが
未だに心残りです。
今の小松島港は過去の活気が嘘のように静です。
※今は港湾法上正式名は徳島小松島港だそうです。
阿波踊りの頃は8両(確か?)編成の列車が走っていましたが、小松島港駅を出て小松島駅に停車しても最後尾はまだ小松島港駅でした(笑)
船も臨時便が何便も出ていたので、それはそれは凄い賑わいでした。
倉庫の引き込み線は小学校の通学路にあったので、よくその辺で遊んでいました。
今月下旬に帰省しますが、小松島市営バスが3月で廃止になるので乗り納めをしてこようと思います。
鳴門市営続いて小松島市営も廃止ですか。
競輪の送迎バスみたいになっても
徳島駅まで乗り入れてましたね
徳島市営も徳バスに委託してる
路線があるそうですから、
今まで残っとったんはようやったと思います。
ところで
「須磨丸」ってひょっとして
関西汽船にあったんかと検索しましたが
無かったです。
※南海に来る前は関西汽船にチャーターされていました。
フェリー化前の和歌山航路は「わか丸」、「なると丸」(沈没した南海丸を引き揚げて改名)、「須磨丸」、「よしの丸」の客船で運航されていました。
繁忙期になると東海汽船や宇和島運輸から傭船するくらい華やかな航路でした。
客船の頃は実家の前から船が出ていたので、機関区同様停泊中の船は子供の頃の遊び場でした。
中でも「須磨丸」は一番好きな船でした。
今では考えられませんが航海にも連れて行ってくれて、朝和歌山港行きに乗り、昼ご飯を食べさせてもらい夕方小松島港に帰ってきました。
航海中はブリッジや機関室もフリーパスで、5歳児にコンパスの見方や梶の取り方まで教えてくれました。
しかも食事付きとは・・・
フェリー化前の南海ラインは
何度か乗った記憶があります。
関西汽船の方が大きい船が就航してように
思いますが、母が船に弱く
乗船時間が短く
親戚のあった阿倍野に便利な南海ばかりでした。
南海丸の沈没事件は
小生が幼稚園ぐらいの時だったと思います。
台風の夜、ラジオのニュースに
家族が騒いでいたのを覚えています。