うたことば歳時記

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薬玉

2016-04-24 16:01:54 | 年中行事・節気・暦
五月五日が近くなると、薬玉のことが思い浮かびます。薬玉に季節が関係あるのかと言われそうですが、薬玉を作るには季節の植物が欠かせないので、その時期にしか作れなかったのです。現在では薬玉というと、何かの記念行事で、半球を合わせて玉状にこしらえた物の中に五色の紐などを隠し置き、綱を引いてその玉を割ると、その紐が美しく垂れ下がって、式に彩りを添える小道具として用いられています。そこには、季節性は全くありません。しかし本来の薬玉は、その形状も目的も全く異なる物でした。

 辞書で検索すると、麝香・沈香・丁子などの香料を袋に入れ、五色の糸や造花で玉状に飾ったもので、五月五日の端午の節句に柱にかけた縁起物というように説明されています。そして「くす玉」は「薬玉」で、麝香などの高価な香料のことであると理解されています。しかし五月五日の節句に菖蒲や花橘や蓬などの植物で「玉」を作るという歌は『万葉集』にたくさん伝えられていて、庶民が手に入れることのできない高価な香料を材料にした薬玉のはずはありません。平安時代に高貴な人はそのような材料も使ったかもしれませんが、五月五日に飾られた本来の「玉」は、もっと素朴の物だったと思います。現代の薬玉と、平安時代に貴族の邸宅で飾られた薬玉と、万葉時代の薬玉は、言葉は同じでもかなり異なっているようです。

 『万葉集』のそのような「玉」を詠んだ歌をあげてみましょう。
①ほととぎす鳴く五月には菖蒲(あやめぐさ) 花橘を玉に貫き蔓(かづら)にせむと(万葉集 423)
②ほととぎす来鳴く五月のあやめぐさ花橘に貫き交え 蔓にせよと包みて遣らむ(万葉集 4102)
③菖蒲(あやめぐさ)花橘ををとめらが玉貫くまでに(万葉集 4166)
④玉に貫く楝(あふち)を家に植ゑたらば山ほととぎす離(か)れず来むかも(万葉集 3910)
⑤ほととぎす来鳴く五月のあやめ草蓬(よもぎ)かづらぎさかみずき(万葉集 4116)
①~④には、花橘とあやめ草を玉に貫くこと、またそれらを蔓(かづら)にすることが詠まれていますが、花橘は柑橘類の花のこと、あやめ草は菖蒲湯に入れる菖蒲のこと。「玉に貫く」とは、本来は玉に糸を通して環に作ることで、玉の代わりに菖蒲や橘の花を使ったことを表しているのでしょう。蔓とは植物の葉や花を髪に挿したり頭に巻き付けて、長寿の呪いとする物のことです。⑤には玉に貫くことは詠まれていませんが、その内容からして、蓬も材料になったと考えられます。

 玉に貫く植物としてあやめ草・花橘・楝・蓬が詠まれていますが、いずれにも芳香があることが共通しています。これらの芳香のある植物が癖邪の呪力を持っているという理解は、日本古来のものではありません。
6世紀に成立した中国最初の歳時記である『荊楚歳時記』には、五月五日に艾(よもぎ)を採って人の形に作り、門戸の上に懸けて邪気を祓ったり、菖蒲を刻んで杯に浮かべて飲んだり、楝の葉を頭に挿して蔓にしたりすることが記されています。

 すると薬玉という習俗は全て渡来したものかというと、そうでもなさそうです。素人の私が調べたので漏れはあるかもしれないのですが、「玉に貫く」という要素は、中国の文献には見当たらなく、これは日本古来のものらしいのです。もしかしてそのような文献があったら私の力不足ですのでお許し下さい。貴重な玉を糸で貫いて首飾りのようにしたものは埴輪などにも多くの例があり、呪力を持っていることを表すと考えられています。古代の首飾りは、単なる装飾品ではありません。癖邪の呪力を持つ植物を環状に連ね、それに五色の糸を垂らした程度の初期の薬玉があったのではないかと思っています。
 
 平安時代になっても、五月五日に薬玉を懸ける習俗は続いています。
⑥沼ごとに袖ぞ濡れぬる あやめ草心ににたるねをもとむとて(新古今 恋 1042)
⑦あかなくに散りにし花のいろいろは残りにけりな君が袂に(新古今 夏 222)
⑧あやめ草涙の玉に貫きかへて折りならぬねをなほぞ懸けつる(千載集 哀 556)
⑦はに、「薬玉を女につかはすとて、男に代りて」という詞書きが添えられています。歌の意味は、あやめの根を引き抜こうとして、どの沼でも袖が濡れました。あなたを思う私の心に似た、深くて長いあやめの根を探して、ということなのですが、この場合は歌そのものよりも詞書きが重要です。恋しい人に、五月五日にあやめの根を材料にしてこしらえた薬玉を贈るという習俗があったことがわかります。

 ⑦にも五月五日、「薬玉つかはして侍ける人に」という詞書きが添えられています。意味は、まだ見飽きないうちに散ってしまった春の色とりどりの花が、あなたの袖の袂に残っていたなあ、ということです。これには少々説明が要りそうです。人から贈られた薬玉を肩から腰に下げているのですが、その薬玉は造花で飾られていたのでしょう。袂に下がる花いっぱいの薬玉を、袖に拾い集めた春の花に見立てているのです。この歌でも、人から贈られた薬玉を肩から脇の下あたりに懸けておく習俗があったことがわかります。またその薬玉は、おそらくは造花で飾られていたと思われるのです。 

 ⑧は詞書きによれば、藤原道長の娘姸子が亡くなったとき、その娘の乳母であった女官が、姸子の旧邸の御帳内に枯れたまま懸けられていた薬玉を見て詠んだ歌です。意味は、季節外れの薬玉が懸けられているのを見て、薬玉ならぬ涙の玉を貫いて声をあげて泣いてしまいました、というものです。「ね」は「音」と「根」を懸けていますから、あやめ草の根でこしらえた薬玉であったことがわかります。また五月五日に御帳内に薬玉を懸け、それが干涸らびても懸けたままにしておいたことがわかります。平安時代にはこの薬玉は、九月九日の重陽の節句に、茱萸(しゅゆ)袋と交換されるまで懸けられていました。このような宮中やそれに準ずる所に懸けられた薬玉には、麝香や丁子や沈香などの高価な香料が使われたのでしょうが、あやめ草を材料にするという本来の形は伝えられたようです。ただ花橘や楝などの生花は小さく傷みが早いので、造花に代えられたと思われます。長期間懸けっぱなしであったことがそれをうかがわせます。

 私の不十分な検証ではありますが、まず薬玉と言っても、万葉時代の薬玉と平安時代の薬玉は異なること。また芳香のある植物に癖邪の呪力があるとして、五月五日の呪物としたことは唐文化の影響ですが、玉に貫くということは日本古来の習俗ではないかと思っています。また平安時代には、小さな薬玉を人に贈る習俗があったということも確認しておきましょう。現在の薬玉は造花で飾られていることもあります。玉を割るということは新しい様式ですが、五色の糸やテープが下げられることは古い様式にもあり、以外に古来の様式が残されているものだと思いました。

 私は薬玉をわざわざ作りはしませんが、あやめ草(菖蒲)と蓬を風呂に入れたりすることはあります。ただは新暦の五月五日ではなく、旧暦でやっています。蓬はいくらでも道端に生えていますし、あやめ草も、散歩道の途中で摘むことができます。

 


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