うたことば歳時記

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2017-12-01 16:22:03 | うたことば歳時記
早朝の散歩で、落ち葉に置かれた霜が美しい時期になりました。そもそも霜とは、地上やそれに近い所にある物の表面温度が0度以下になると、それに接する空気も冷やされて、空気中の水蒸気が微細な氷の結晶になって成長したもののことです。気体が液体になる間もなく固体になることを、昇華と言いますが、冷却された大気中の水蒸気が昇華して氷となった物とも言えるでしょう。

 その年の秋から冬にかけて見られる最初の霜を初霜と言いますが、地域の条件によって相当の幅があるようです。同じ緯度でも、冷却の早い内陸では早く、海の影響を受ける沿岸では遅くなります。北海道では10月、東北地方や北関東では11月、それ以南では概ね12月なのですが、地球の温暖化によって初霜の時期は相当に遅れているそうですから、古歌に詠まれた霜の歌の時期については、現代の感覚をそのまま当てはめられません。今年の京都における初霜は11月22日で、平年より4日遅いそうです。王朝和歌全盛の時代なら、もう立冬の頃には初霜が見られることもあったのかもしれません。しかし旧暦11月を「霜月」と呼ぶように、霜の本格的季節は、現在の暦では12月になるのでしょう。

 地上の物に霜が付くことを、一般には「霜が降りる」とか「霜が降る」と言いますが、これは「降霜」(こうそう)という漢語を日本語に和らげたものですから、初期の大和言葉ではありません。もちろん後にはよく詠まれるようになります。霜を詠んだ古歌には「置く」という動詞を導くことが圧倒的に多く、「結ぶ」も見られ、ますが、これは鎌倉期以降に増えてきます。「降る」は見当たりません。またいつの間にか解けてなくなることを「消ゆ」と言います。霜は音もなく現れ、朝にはいつの間にか消え、ひっそりと冬の夜を演出するのです。「霜が降る」という表現もなかなか風情がありますが、「置く」という言葉も使ってみてはいかがでしょう。

 霜は条件さえ合えば、何にでも置くのでしょうが、古歌では霜と相性のよい物が決まっていました。どんな物に霜が置くのか、いくつか読んでみましょう。

①心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花  (古今集 秋 277)
②我が宿の菊の垣根に置く霜の消えかへりてぞ恋しかりける (古今集 恋 564)
③朝まだき八重咲く菊の九重に見ゆるは霜の置けばなりけり (後拾遺 秋 351)
④紫にうつろひにしを置く霜のなほ白菊と見するなりけり  (後拾遺 秋 358) 

 まずは菊に置く霜を並べてみました。①は百人一首にも収められていて、よく知られています。霜が置いたので白菊と見間違うというのですが、現代人なら大げさすぎると思うでしょう。しかしわざとその様に詠むのが当時の詠み方なのです。当時は菊といえば九分九厘白菊ですから、白い霜が花に置いてもはっきりと見えるわけではありません。しかし中国には、菊は霜に当たっても負けることなく凛として咲くという理解があり、しばしば漢詩に詠まれています。そしてそのような理解は早くから日本にも伝えられていました。ですから白菊に霜が置くという詠み方は、多分に観念的なものと見るべきなのでしょう。霜と菊の取り合わせは、唱歌『庭の千草』には「霜に傲るや菊の花」、童謡『野菊』「霜がおりても負けないで」と歌われています。

 ②は、菊に置いた霜が朝には消えてしまうように、恋しさの余りに心が消えてしまいそうだ、というのでしょう。③は八重の白菊に霜が置くので、九重に見えるというのですが、詞書きによれば、宮中の庭の白菊を詠んだものです。宮中を「九重」と呼ぶことを踏まえて、九重の庭だから九重の菊が咲くと洒落たものなのです。④は、白菊は霜が置く頃には赤紫に色付くのですが、それを霜が置くのでまだ白菊に見えると詠んでいます。いずれにしても白菊に置く霜を、観念的に詠んでいることが共通していますね。実際に観察したと言うより、その様なものと決めて掛かっているわけです。

 観念的な霜と言えば、他にも水鳥の羽に置く霜というものがあります。歌ことばではこのような霜を「上毛(うわげ)の霜」と言います。そのような歌をいくつか並べてみましょう。

⑤夜を寒み寝覚めて聞けば鴛(おし)ぞ鳴く払ひもあへず霜や置くらん (後撰集 冬 478)
⑥霜置かぬ袖だにさゆる冬の夜に鴨の上毛を思ひこそやれ (拾遺集 冬 230)
⑦おきながら明かしつるかな共寢せぬ鴨の上毛の霜ならなくに (後拾遺 恋 681)

 ⑤の「夜を寒み」とは「夜が寒いので」という意味です。あまりの寒さで、夜中に目が覚めたのでしょう。ちょうどそこへ鴛の声が聞こえたのですが、「鴛鴦」ではなく「鴛」と表記されています。つがいで揃っていれば「鴛鴦」と書くわけですから、雄の鴛一羽なのです。雌とつがいになれない雄鳥が、背中の羽に置く霜を払いのけることが出来ずに鳴いているのだろう、というわけです。つがいであれば、互いに上毛の霜を払い合うことができるであろうが、一羽ではそれもできないという理解があったわけです。作者自身も冬の夜の寂しい独り寝をしているので、雄の鴛にその寂しさを投影しているのです。⑥は、夜の衣の袖も寒々しいので、霜の置く鴨の上毛もさぞかし寒いことだろう、という意味です。独り寝かどうかこれだけではわかりませんが、とくにことわらなくとも、そのような設定なのだと思います。⑦は和泉式部の恋の歌です。恋人の来訪を明け方まで待っていたのに、ついに来なかったのでしょう。明け方まで起きたままであったというのです。この「おきながら」は「霜を置いたままで」という意味を懸けています。夜が明けるまで置かれたままの鴨の上毛の霜ではありませんが、来ぬひとを待ちながら、夜が明けてしまったことです、という意味です。このように鴨の上毛の霜は、恋に絡めて詠まれるのが普通でした。

 しかしそれにしても鴨の羽に本当に霜が置くのでしょうか。鴨は夜は水辺の岸に上がって寝ていることが多いのですが、鳥の体温は人より高いはずですから、朝まで霜が残っているとも思えません。そもそも霜があるか見ようと近寄れば逃げてしまいますし、双眼鏡でも夜は見えません。要するに「鴨の上毛の霜」も観念的な霜なのです。

 鴨の上毛だけでなく、人間にも同じように観念的な霜が置きます。えっ、人に置く霜なんてあっただろうかと、一瞬考えるかもしれませんね。「頭の霜」がそれです。「頭の雪」と言う場合もありますが、共に白髪のことで、「老」の比喩として理解されています。

 ⑧年ふれば我がいただきに置く霜を草の上とも思ひけるかな (金葉集 雑 569)
年をとって霜のような白髪となったが、霜は草の上に置くものとばかり思っていた、という意味です。

 その他に人に関わる霜としては、「霜の上着」という表現があります。
 ⑨下冴ゆる草の枕のひとり寝に霜の上着をたれか重ねん   (堀河院百首 霜 918)
 ⑩笹の葉に置くよりもひとり寝るわが衣手ぞさえまさりける (古今集 恋 563)

 ⑨は、冬の旅の独寝の侘びしさを表現しているのですが、他にも「霜の衣」「霜の枕」などと詠まれることもあります。⑩の「衣手」とは袖のことで、袖に霜が置くと詠まれているわけではありませんが、霜の置く笹の葉よりも寒々と冴えるというのですから、袖にも霜が置くという理解があったことになります。もちろん実際に衣に霜が置くわけではないのですから、これも観念的な霜なのです。このように霜その物を詠むのではなく、寒く侘しい心を象徴的に表す言葉として、霜が選ばれていると言うことが出来るでしょう。

 それなら客観的に霜その物を詠んだ歌はあるのでしょうか。

⑪落ちつもる庭の木の葉を夜のほどに払ひてけりと見する朝霜  (後拾遺 冬 398)
⑫初霜もおきにけらしな今朝見れば野辺の浅茅も色づきにけり  (詞花集 秋 138)
⑬冬きては一夜ふた夜をたま笹の葉分けの霜のところせきかな  (千載集 冬 400)
⑭もみぢ葉はおのが染めたる色ぞかしよそげにおける今朝の霜かな (新古今 冬 602)

⑪は、落ち葉を敷き詰めた庭の早朝の様子を詠んだものです。落ち葉の上に一面に霜が置いているのを、一夜のうちに霜が落ち葉を払って覆い隠してしまったと見ているのです。⑫はわかりやすい歌ですね。浅茅が一面に生える野辺、つまり浅茅が原が赤く色付いているのを、霜が染めたと理解しています。浅茅、つまりチガヤが一面に生えている浅茅が原が赤く色付いているのを、霜が染めたと見ているわけです。赤く色付くのは楓ばかりではありません。野辺の草も紅葉し、「草もみぢ」と呼んだりします。⑬は、冬となってまだ一日二日しかたっていないのに、笹の葉の一枚一枚に霜がびっしりと隙間なく置いていることだ、という意味です。⑭は霜に呼びかけている歌で、木の葉が色付いているのは、霜よ、お前が染めたのだよ。まるで、よそ事のように素知らぬ顔で置いている霜であることよ、という意味です。霜が草木の葉を染めるという理解は、⑫にも共通しています。

 霜が置くことを詠まれる植物としては笹や菊が多く、落ち葉がこれに次いでいるように思います。⑩にも笹の葉の霜が詠まれていました。ちょうど今の時期には、早朝にはまだ霜が消えていないでしょうから、意図して道端の笹の葉を御覧になって下さい。他に笹の葉にすがる露や、積もる雪もよく詠まれました。現代人は笹に特に見るべき季節を感じないかもしれませんが、古人にとっては笹は秋から冬にかけて風情があるものと理解されていたのでしょう。

 話が前後してしまいますが、白髪の他にも霜に譬えられるものがあります。それは月の光、特に冬の月影がよく霜に見立てられるのです。

⑮白妙の衣の袖を霜かとて払へば月の光なりけり (後拾遺 秋 260)
⑯冬枯れのもりの朽葉の霜の上におちたる月の影の寒けさ  (新古今 冬 607)

 ⑮はあまり上手な歌とは思いませんが、月の光、つまり月影をストレートに霜に見立てています。実際の景色としては、夜の白い衣を月の光が窓越しに照らしているのでしょう。袖に霜が置くという観念的な理解を背景として、月影にほのかに白く浮かび上がる衣の袖を、霜に見立てているのです。「月影の霜」とでも言いましょうか。月の光の色を白と表現することは、古歌にはしばしば見られるところ。現代人は「白」というと乳白色を思い浮かべますが、古歌の世界の白は、透明感のある白なのです。夜の電灯の明るさを知ってしまった現代人は、月の明るさに驚くという感性を失いつつあります。月の煌々と照らす夜、豆球もすっかり消して真っ暗くしてみると、あらためてきっと驚くことと思います。

 ⑯は、朽葉の霜を照らして冴え渡る冬の月を詠んだものです。月影が霜であるとまでは詠んでいませんが、霜が月の光で輝いて見えたのでしょう。霜と月の光は相性のよいものと理解されていたのです。

 月の光と霜の取り合わせといえば、漢文の教科書にしばしば登場する唐代の李白の「静夜思」の漢詩を覚えている人も多いことでしょう。

牀前 月光を看る、疑うらくは是 地上の霜かと、頭を挙げて 山月を望み、頭を低れて 故鄕を思う

 意味は、静かな夜、ふと寝台の前に降る月の光を見ると、まるで地上に置いた霜ではないのかと思ったほどである。それであらためて、頭を挙げて山の上にある月をしみじみと眺めているうちに、故郷恋しさに頭を垂れてい感慨にふけるのである、といったところでしょうか。

 ただし王朝時代に、日本でもてはやされた唐の詩人は専ら白居易(白楽天)で、唐代の大詩人である李白や杜甫はほとんど知られていませんでした。当時の日本人の漢詩の基礎的テキストであった『和漢朗詠集』(藤原公任撰)には、白居易の詩で占められています。ですから李白のこの詩が直接に影響を与えたことはないでしょう。漢学者ならばもっと詳細な考証が出来るのでしょうが、浅学の私には手に負えません。

 霜に関する歌を見渡してみると、霜は和歌の主題その物になることは少なく、何か他の物に結び付いて、冷涼な景色や心理を表す詠み方が主流になっていると結論しておきましょう。