うたことば歳時記

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本来の端午の節句

2017-06-20 15:49:42 | 年中行事・節気・暦
 最近、各種の節句について文章を書いているのですが、端午の節句についてどうにも気になるネット情報が氾濫しているので、反論の意味を込めて書いてみます。ただし今回は端午の節句の起原に関することだけで、日本の近現代の端午の節句の風俗については触れていません。鯉のぼりや柏餅や五月人形については、いずれあらためて書くつもりです。

 ネット上には、次のような解説がたくさん見られます。「端午の節供は五月忌みと中国の端午の行事が合わさり、時代と共に変容していったものと考えられます。」「旧暦の5月は日本では田植えの時期にあたる。そのため、田植えをする若い女性(早乙女)が田植え時期に入る前の旧暦の端午の日、一定期間飲食や行為を慎み、不浄を避けて心身を清浄に保つ「五月忌み」をする習慣があったとされる。」中には端午の節句は実は女の子の節句だったなどと、よくもまあ出鱈目なことをと呆れてしまうないようまであります。

 ネット情報には五月忌みという言葉がたくさん出て来るのですが、その史料的根拠を示した解説にいまだお目にかかったことがありません。もちろん田植えは女性が行うことであったことや、田植えが神事と理解されていたことを示す古代の史料はあります。しかし端午の節句の風習は7世紀には日本に伝えられていますから、その頃の文献に五月忌みを示す文献史料がたくさんなければならないのですが、それが一つもないのです。また仮にあったとしても、中国伝来の風習と習合したことを示す史料を示さなくてはなりません。それらが全く紹介されずに、まるで判で押したように同じ解説が氾濫しています。反論があるなら、史料を明記したものでなければなりませんが、いまだかつて面と向かって反論されたことがありません。民俗学の立場で解説している人によくあることなのですが、起原にかかわる根拠として近現代の風俗を指摘することがあります。しかしこれでは全く説得力がありません。「・・・・と言われています」とか「伝承では・・・・」という解説をしている場合は、まず疑わしいものと思ってよいでしょう。史料的根拠を示せないので、そのように表現せざるを得ないからです。

 そもそも田植えの時期はその地方の気候条件によって異なるのであって、旧暦5月5日に統一されていたはずがありません。5月の前に閏月でも挟まれる年では、1カ月も遅れてしまいます。全国一斉に旧暦の5月5日に田植えをするということが、実際にはあり得ないことだということに、なぜ疑問を持たないのでしょうか。

 5月5日は「こどもの日」ですが、これは祝日法という法律により、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」祝日として、昭和23年(1948年)に定められました。5月5日はもともとは端午の節句で、こどもとは何の関係もありませんでしたが、江戸時代以来男児の健やかな成長を祈願するという新しい要素が付け加えられ、子どもの日にふさわしいと考えられたのでしょう。

 そもそも「端午」とはどのような意味なのでしょうか。「端」は両端という言葉があるように、物の端(はじ)とか始まりという意味、「午」は十二支の「うま」のことです。十二支は順番に日に当てはめられますから、端午とはある月の最初の午の日のことです。また十二支は日だけではなく月にも当てはめられ、午の月は旧暦の5月に当たります。古代中国の暦の原形がほぼできた周代には、1年は冬至を含む月から数え始めたため、旧暦11月から子・丑・寅と数えると、旧暦5月は午の月になります。つまり端午とは、午の月である5月の最初の午の日、という意味になるわけです。そして最初の「午」の日は五日とは限らなかったのですが、「午」の「ご」という音が「五」に通じ、奇数の重なる日を節日とする陰陽五行説の影響もあって「端五」とも表記され、中国の漢代から「端午」と言えば旧暦5月の5日を指すようになったものです。また「重午」「重五」も呼ばれました。

 旧暦の5月は、東アジアのモンスーン気候のもとでは、ちょうど鬱陶しい雨季、日本では梅雨の時期で、悪疫(流行病)や害虫が発生しやすい時期と理解されていました。前漢時代の儒教の経典の一つである『礼記』(らいき)という書物の月令篇には、「是の月や日の長きこと至(きわ)まり,陰陽争い,死生分かる,君子斎戒し,処(お)るときは必ず身を掩(かく)して躁(さわ)ぐことなかれ」と記されています。「陰陽争う」とは、夏至が陰と陽の分岐点と成り、それ以後は日が短くなることを指しているものと思われます。またしばしば登場する『荊楚歳時記』には、「五月を悪月と称し、禁多し」とも記されています。旧暦5月には何かと災いが多いので、それを逃れるためにいろいろな禁止事項があるというのです。それで邪気を払うさまざまな癖邪の俗信が行われたのでした。本来の端午の節句の行事の原点は、そのようなところにあったのです。

 6世紀の黄河中流域の風俗について述べた『荊楚歳時記』には、「五月五日、四民並びに蹋百草の戯あり。…是の日、雑薬を採る。艾を採り以て人と為し、門戸の上に懸けて、以て毒気を払う。」と記されています。古代中国ではこの日に人々は薬草を摘みに出かけました。「艾」とは蓬(よもぎ)のことで、これで人の形に作り、門の上に懸けて邪気を払ったというのです。このように薬草を採取する風習は日本にも伝えられました。『日本書紀』には、推古天皇19年(611年)の5月5日,大和国の宇陀野(うだの)で、同じく翌20年、22年の同日、「薬猟」(くすりがり)が行われたことが記されています。

 蓬の他には、菖蒲も採取されたことでしょう。『荊楚歳時記』には「菖蒲を以て或るいは鏤(きざ)み或いは屑(こな)とし以て酒に泛(うか)ぶ。」と記されていて、刻んだ菖蒲を酒に浮かべて飲んでいたことがわかります。『続日本紀』の天平19年(747)5月5日には、「昔は五月五日には菖蒲の蘰(かずら)を用いていたのに、この頃は行われなくなった。今後は菖蒲の蘰を着けていない者は宮中に入ってはならない。」という元正上皇の詔が記されています。蘰というのは、花や枝葉を髪や冠に挿して、長寿や魔除けの呪いとするもののことで、菖蒲の蘰は蓬と同じように邪気を払う呪いとして、早くから行われていたようです。蓬と菖蒲に共通することは、共に爽やかな芳香があることで、この香が邪気を払うと信じられていたのです。『万葉集』には菖蒲を5月5日の蘰や薬玉に作ることを詠んだ歌がいくつもあり、『古今和歌集』以後の和歌集には、5月5日に菖蒲と蓬を軒先に葺く歌が、数えきれない程収められています。

 現在では新暦の5月5日に菖蒲湯に入る風習があります。室町時代から江戸時代の後期にかけての350年間、御所の女官が書き継いだ『御湯殿上日記』(おゆどののうえのにっき)という珍しい当番日誌があるのですが、天文2年(1533年)5月5日の条に「こよひの御いわい(祝)もいつものことし、しやうふ(菖蒲)の御ゆ(湯)めさします」と記されていて、16世紀には行われていたことがわかります。江戸時代には川柳などにも詠まれていますから、庶民の間に普及したようです。

 ところで菖蒲とはどのような植物なのでしょう。実はこれが大問題なのです。古くは「菖蒲」と書いて「あやめ」と読んでいたため、紫色の美しい花が咲く「あやめ」だと思い込んでいる人がかなりいるのです。しかし紫色の花が咲くあやめは菖蒲湯に用いられるあやめと、外見は区別ができない程よく似ているのですが、芳香が全くありません。また湿地には絶対に生育しません。こどもの日の風俗を描いた絵図には、よくこの紫色のあやめが描かれているのですが、これは本来は全く関係ないのです。それに対して菖蒲湯のあやめの茎を揉んで嗅いでみると、本当に爽やかな香がします。また湿地や池・沼に群生します。最近はその時期になると店頭で売られていますが、田舎の湿地には持て余すほどに生育していて、店で買うものではありませんでした。決して珍しいものではありませんから、是非探してみて下さい。

 端午の節句の行事食としては、粽(きまき)がよく知られています。童謡の『背くらべ』にも「柱の傷はおととしの 五月五日の背くらべ ちまきたべたべ兄さんが 計ってくれた背のたけ」と歌われていますね。そもそも粽とはどのような物なのでしょうか。粽を食べる文化は東アジア一帯に広がっています。それぞれの地域でさまざまなバリエーションがありますが、多くに共通しているのは、餅米を笹・竹の皮・茅萱・蓮・真菰などの葉で包み、蒸したり灰汁で茹でたりして作られています。

 端午の節句に粽を食べるようになったことについて、一般には以下のように説かれています。中国の戦国時代、紀元前3世紀に、楚の国の政治家で屈原という愛国的詩人がいました。彼は陰謀により失脚に追い込まれ、国の将来を憂えつつ、(紀元前278年)5月5日に汨羅(べきら)という川で入水自殺をしてしまいます。それを悲しんだ人々は、魚が屈原の遺骸を食べて傷つけないよう、魚の餌として竹筒に米を詰めて川に投げ入れました。ところが後漢の建武年間(紀元1世紀)に、川のほとりに屈原の霊が現れて、「毎年供物を捧げてくれるのはありがたいが、手許に届く前に蛟龍(みずち)という悪龍に盗まれてしまう。だからできることならば、今後は蛟龍が嫌うという楝(おうち)の葉で米を包み、五色の糸で縛ってほしい。」 と言いました。それで里人はそのようにしてそれ以来、楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み五色の糸で縛って川へ流した、というのです。

 このお話しは6世紀の怪奇小説である『続斉諧記』(ぞくせいかいき)に初めて出現します。しかし3世紀の『周処風土記』という書物には、「仲夏端午、烹鶩角黍。」と記され、真夏の端午の節句に角黍(粽)を調理していたことがわかります。また2世紀末の『風俗通義』という書物では、端午と夏至には角黍(粽)を食べる風習が記録されています。また6世紀の『荊楚歳時記』では、夏至に粽を食べる風習があることが記されていますが、いずれの書物にも屈原との関係には触れられていません。つまり端午の節句の粽と屈原との関係は、本来は全くなかったと考えられます。しかも夏至に食べるという風習もあり、端午だけではなかったと考えられるのです。歴史的には確かに無関係のようですが、『続斉諧記』以来、伝承として屈原と粽の故事が語り伝えられたということ自体は歴史的事実ですから、それを承知の上で起源説話と理解すればよいのでしょう。

 ネット情報には、屈原の故事がさも歴史事実であるかのように解説されています。後にそのように伝えられたこと自体は事実ですが、そもそも屈原の命日が5月5日であることを証明する史料が実際にはないのは、中国史を少し詳しく学んだ人なら、先刻承知のことなのです。せっかく面白い話と思っていたのに、事実を知ってがっかりしたと言われそうですが、やむを得ません。伝統的年中行事を解説をした一般向けの解説書はたくさんあるのですが、内容の怪しいものがかなりあることが残念でなりません。