英語・ダイエット・その他徒然なるままに

趣味の英語学習(TOEIC 970点)やダイエットの成功談など、色々書いていきます。

Windows 10

2016年07月31日 21時49分49秒 | コンピュータ
このところ何かと忙しく、少し間が空いてしまいました。

英語関連で書きたい事が幾つかあるのですが、今日は時間がないので英語とは関係ない話を軽く。

金曜日に(正確には、日本時間土曜日の18時59分に)、あのWindows 10への無償アップグレード期間が終了したのはご存知の方も多いと思います。

私はWindows 7, 8.0, 8.1, Vista, OS X, 各種Linux と公私で色々なOSを使っている人ですが(さすがにXPはもう無い)、Windows 10だけは触ったことがないので、金曜日の夜中にWindows 8.0マシンを10にUGしようと思い立ち、トライしてみました。

結果は、、、見事に失敗。UGについてはすんなりと行かない場合も少なくないようですが、今回の原因は私の側にありました。詳しい方はお分かりだと思いますが、8.0から10へのUGを行うことはできず、一度 8.1 に上げた後、さらに10に上げる必要があります。

なので、まずは8.0を8.1にUGしようとしたのですが、これをやるにはまず8.0の上で、windows updateの”重要”カテゴリの更新プログラムを全て適用しておく必要があります。結局、この作業を丸一日かけても終えることができず、win 10へのUGはタイムオーバーとなってしまいました。

原因は、間抜けな話なんですけど、win 8.0マシンを仮想マシンで作っていたためにディスクの容量が足りず、更新プログラムのダウンロードに失敗してしまっていたのです。8.0のマシンは普段ほとんど使っていなかったので更新プログラムが溜まっていたのと、仮想マシンのディスクの切り方が少なかった(という事に気づいていなかった)のでそれがダウンロードできなかった、というオチでした。

ダウンロード中に”ディスクが足りないよ”と教えてくれればいいものを。。。結局、最後の最後にエラーメッセージを見て気づいてしまった次第。この時点でもうwin 10へのアップグレードは絶望的だったのですが、せめてwindows updateくらいは終えておかないとセキュリティ上よくない、ということで、ディスククリーンアップを駆使して、何とかwindows updateだけは無事に終え、これにて終了となったわけです。8.1へのUGも難しいでしょう。

まあ、手元に色々なOSを残しておきたい人なので、8.0が残ったのは、それはそれで良かったです。これからはもう少しちゃんとメンテナンスしながら使わなきゃ。win 10 は、、たぶん自腹で買うんだろうな。

本質、枝葉の繰り返し(2)

2016年07月17日 14時46分23秒 | 英語
記事のカテゴリーを英語に変えて、前回の続きを。

幹と枝を区別しろ、まずは幹だ、という話をしましたが、「幹ってなんだろう?」という事をきちんと議論しておく必要があるかと思います。

話を英語に戻すなら、”幹って何”って言ったときに、「使用頻度の高い語彙と重要な文法事項を使ったシンプルな基本例文集」、さしずめこんな感じのものをイメージされるのではないでしょうか?しかし、これって本当に幹、英語の本質、でしょうか?私は少し違うと思うんです。

上記のような、基本例文集みたいなものをそのまま英語の幹にしてしまえる人もいます。重要例文を眺めながら重要な文法事項を勉強して、それを糧に”英語ってこんな感じなのね”と理解したつもりになってどんどん先に進めてしまう人です。

しかし、そうじゃない人もいます。例えばですけど、関係代名詞とか、現在完了とか、何でもいいですけど、そういう例文と少しばかりの説明を聞いただけでは納得できない人。”要するに関係代名詞って何なの?現在完了って何なの?そういう言い方でちゃんと定義してよ”という説明を求める人。そういう説明が無い限り理解した気になれず、気持ち悪くて先に進めない人。たとえある程度問題は解けても欲求不満が拭いきれない人、そういう人達もいるのです。

私は、後者のタイプが求める本質的な説明こそが、”英語における幹”だと思います。そして、ここが重要なのですが、その幹はもはや”英語の体を成していない”ということです。だって、単純な英語の例文ではなくて”説明”なのですから。だから、見過ごされやすいというか、きちんと扱われることが少ない。

我々の時代と違って最近は参考書や教え方もかなり向上していると思いますが、それでも、そういう”本質的な説明”を求める人達を満足させる教育が完全に浸透しているとは言えないのではないでしょうか。もしそれができているのなら、こんなにも大量の英語嫌いは生まれてこないはずです。

今回は教育する側の話ではなく勉強する側の話をしているので、結論としては、そういう疑問を持ったなら、それにある程度きちんと答えてくれる本なり指導者なりを探す必要がある、ということです。もちろん、学者じゃないので本質に拘りすぎてもダメなんですけど(語学なんて、たとえよく分かっていなくても場数をこなした者勝ちという側面もありますから)、もしあなたが、そういう本質的な説明がないと気持ち悪くて仕方が無いというタイプなら、きちんと解決べきです。書籍レベルでなかなか決定版みたいなモノはないですが、一部にはいい物もあります。ただ、こればっかりは好みなので、今回は特定の本の紹介はしませんが。

ちなみに、先の問いに対して、私ならこう答えます。

Q. 関係代名詞って何?
A. 名詞をS+V(何がどうした)という文で説明するための機能語

Q. 現在完了って何?
A. 過去のある動作が現在に何らかの形で影響していて、その現在の心にフォーカスする言い方
(影響の仕方をあえて細かく分類すると完了/結果/経験/継続、となりますが、そんな物は本質じゃない!)

他にもこんな感じで理解しておけば良いというものを挙げておきます。もちろん、学術的な意味での厳密さは目をつむって下さい。

Q. 現在形って何?
A. いつもそうなっているという定常状態を言う言い方

Q. 過去形って何?
A. 時間的・心理的・事実関係的に距離を置く言い方

Q. 分詞って何?
A. 動詞を形容詞化したもの(分詞構文は副詞として機能しますけどね)。動詞に対応する形容詞をいちいち新しく作るのは馬鹿げてるので、ちょっと形を変えて形容詞にしちゃうんです。

Q. 動名詞って何?
A. 動詞を名詞化したもの。こちらも、いちいち新しい名詞を作りたくないんです。

Q. 不定詞って何?
A. 活用や限定がなされていない生のままの動詞。”未確定”という意味を帯びる。to不定詞と原形不定詞がある。

Q. 助動詞って何?
A. 話者の主観を入れる場合に使うもの(厳密には法助動詞、ですが)
(”動詞を助ける”では説明になってない!副詞だって動詞を修飾して助けてる)

過去形と助動詞がタッグを組んでいるのが、あの忌まわしい「仮定法」です。例えば仮定法過去だと、”(本当は違うんだけど)もし~だったら”という現在の事実と距離のあることを過去形で言って、”~だろうに”という気持ちを述べるのに法助動詞の過去形(主観+心理的距離)を使っているわけです。ちなみに、法助動詞の過去形は「時間的」な過去ではなく心理的距離を表すので、逆に法助動詞を使って時間的過去を表したい場合は”法助動詞の過去形+have+過去分詞”という形にする必要があり、これを使っているのが仮定法過去完了です。このように過去形の本質、法助動詞の本質を理解していれば仮定法の公式は覚える必要はなく、嫌でもあの形になるということが実感できます。というか、そういう捉え方をしていないと仮定法の構文なんて使いこなせるわけがない。ということで仮定法も入れておきましょう。

Q. 仮定法って何?
A. 事実に反すること、起こる可能性が低い未来のこと、願望、を表す言い方。単なる”条件”とは異なる。

基本例文みたいなモノを教わって何となく分かった気になるだけでもまあ十分と言えば十分ですが、こういう理解の仕方をしておくともっとバシッと決まりますよね。こういう幹を頭の中に築いていって、その上に例文を乗っけていくと、英語を深く理解し、実感を伴って扱えるようになります。

幹と枝について、あと一回くらいお話ししようと思います。次回は軽く。

本質、枝葉の繰り返し

2016年07月17日 00時39分07秒 | 日記
生麦を訪れたのは1週間くらい前なのですが、その後の1週間(というか実質3日ほど)で日本史の勉強を一通りやり直しました。

仕事が終わって帰宅してから、動画サイトで良さげな動画を探して。世の中色々詳しいというか、才能のある方が沢山いらっしゃるようで、日本史についても非常にコンパクトに要領よくまとめて下さっている動画が少なくありません。そういうのを見ながら、せっせとノートを取って、古代から昭和の戦後まで、大雑把ではありますが全部まとめて勉強し直した次第です。いちいち本を買わなくてもこんな事ができるんですから、本当にいい時代になったもんです。

こんなに短期間に大量の字を書いたのは学生時代以来なので手が痛くなりましたが(普段の英語の勉強ではノートは全く使わないので)。40過ぎのオッサンがすることでは無いのかもしれませんが、自分が住んでいる国の歴史くらい、やっぱり最低限の知識は持っておかないと恥ずかしいでしょう?生麦事件って何だっけ?なんてことを言うアホな大人にはなりたくないですよ。

私自身は高校日本史の成績も良かったですが、今にして思うと所詮は子供の頭というか、決して”歴史”を理解していたわけではないんですよね。所詮は試験にでる用語や年代を頭に詰め込んでいただけ。この歳になって勉強し直してみるとそういう事がよく分かります。やっぱり大人は”なんでこんな事件が起こったんだ?この事件はどういう意味を持つんだ?”という大人の頭でちゃんと考えることができる。

そういう大人の頭にとっては、細かい枝葉末節なんか二の次、三の次。年号すら、どうでもいい。年号なんかよりも、どの出来事が引き金になって次のどの出来事が起こったのか、そういう因果関係、前後関係の方がはるかに大事だし、そもそも大人の頭はそういう理解を伴わないと知識を受け付けないですよね。そして、本来、歴史の勉強というのはそういうもののはずです。

逆に子供は、そういう論理的な理解を伴わなくても大量の単純記憶ができてしまうし、その事自体に意味や喜びを見出すこともできてしまいます。良く分かっていなくてもキーワードを覚えていればテスト(あくまで定期試験レベルですけど)でいい点とって褒められますから。言ってしまえば”ゲーム感覚”で単純な知識の暗記競争を楽しんでしまえるんです。

でも、それは、はっきり言えば”不幸の始まり”です。やっぱり、本質部分の深い理解を伴わない記憶というのは本当の意味での勉強じゃありませんから、いつかは化けの皮が剥がれて痛い目にあうんです。

で、今日言いたいのは子供の教育の話ではなくて大人の我々が勉強する時の話です。いつもは英語をベースに話をしていますが、”本質をえぐる”という意味では、英語よりも歴史の勉強を例に考えた方が、そういう”いい勉強”と”悪い勉強”の違いが分かりやすいと思うのです。

もう答えは言ってしまっていますが、細かい枝葉末節に入り込むほど、本質は見えなくなるんです。当たり前ですね。年号とか、場所の名前とか、人の名前とか、そういう細かい事に目を向けようとするほど、1つ1つの出来事が持つ歴史上の意義といったような本質は見えなくなります。何故か?細かい情報の洪水が我々の脳のキャパシティを超えてしまうからです。

しかし、これは、

一度に勉強しようとすると

キャパシティを超えてしまうということであって、最終的に細かいことを全部頭に入れることが不可能であるということではありません。現に、その道の専門家はかなり細かいことまでほとんど覚えていますからね。

じゃあどうすればいいのか?簡単ですね。まずは本当に本質的なエキスだけを搾り取った「骨組み」をしっかりと、一通り勉強して、その後、2週、3週、4週しながら、細かい知識を肉付けしていけばいいんです。というか、そういうやり方しかあり得ませんよね。

だから、歴史の勉強も、1週で全部を賄おうとしても本当はダメなんです。1回で何もかも覚えられるわけがないし、無理して覚えると、逆に本質を掴みそこねてしまいます。まずはぶっとい幹をしっかり理解して、そこに枝葉を肉付けするために2週目、3週目をやる。その過程がまた幹の理解を深めることにもなる。人間の頭の構造を考えた場合、それが王道でしょう。

英語にも言えることです。勉強の仕方が上手な人というのは、そういうやり方をしていると思います。幹がないと、そこに枝葉をつけることなんてできません。そして、幹ですら、一発で完璧にすることはできません。枝葉をつける勉強をしながら、改めて幹の品質も上げていくのです。

言葉を変えていうと、「物凄く詳しい参考書」を1回読めば物凄く質の高い知識が身に付く、というようなものではないんです。そんな詳しい参考書なんてそもそも覚えきれませんから。まずは幹をシンプルにやって、次に枝を増やして、その際に幹の忘れていた部分や未知だった部分を補強して、、、高いレベルの技術・知識というのは、そういう営みを繰り返して身につけるものです。つまり、

視点を変えながら何回もまわす

ということです。

そして、幹がしっかりしてくるほど、枝葉をつける作業もラクになってきます。私は日本史ではその境地は経験していませんが(そこまでやるつもりもない)、TOEICに関して言えば、今まさにそういう状態です。「これからは問題解きまくります」と言ったのはそういうことです。問題慣れするとかそんな低レベルな話ではなくて、枝葉末節だけを大量に吸収できるモードに入れたということです。

生麦

2016年07月15日 22時45分28秒 | 日記
放浪編、町田に引き続いて、今回は生麦です。何の脈絡もありません。思いつくままに近場の気が向いた所に出向いています。

横浜市鶴見区生麦。なんか聞いたことある地名じゃないですか?そう、日本史で習った”生麦事件(1862年)”の、あの生麦です。京急沿線に住む身として一度は訪れたいと思っていた所です。まずは生麦周辺の地図を。

今回の目標は生麦事件碑(図中D地点)です。図中に”仮設置中”と書いていますが、本来ならこの事件碑は今回訪れたD地点より約200mほど西に行った所(第一京浜と旧東海道が交わる辺り)に設置されているのですが、現在は高速道路(横浜環状北線)の建設工事の影響で移転中なのです。なので、今回はこの移転中の事件碑を見に行った、ということになります。なお、「生麦事件参考館」は予約が必要だったので行っていません。

まずはスタート地点、京急生麦駅(図中A地点)。


次にB地点からC地点方向を臨んで。


テクテクと南方向に下っていくと、C地点に着きました。生麦はキリンビール横浜工場があることでも有名ですね。生麦という地名とビールとは見事なマッチですが、それを狙ってこの地に建てたのかどうかは知りません。ここを右に曲がって目標を目指します。


C地点からD地点方向を臨む。この道は「旧東海道」。あの”東海道五十三次”の東海道、江戸・日本橋と京都・三条大橋を結んだ、あの東海道です。写真に写っているこの道、実は非常に由緒ある道なんですよ。生麦周辺は川崎宿と神奈川宿の間になります。両端の日本橋と三条大橋を除いて、間に53の宿がありました。


その旧東海道をテクテクと数分歩くと、、ありました!今回の目標の「生麦事件碑」です。


正面から見るとこんな感じです。先にも書きましたが、現在は移設中の身です。さっきの旧東海道の写真で道路工事の様子が写っていますね。あの工事の影響でこの場所に移設されています。


これが石碑。ぱっと見、大きいタイトル字の部分も、なんて書いてあるか分からないですよね。


説明看板の真ん中上段部分にこの石碑に刻まれている全文が掲載されていますが、タイトル部分は”蹟舊”となっています(写真が小さくて見づらいでしょうが)。「舊」は「旧」の旧字体、「蹟」は現在では人名用の漢字とされていて、現在でいう所の「跡」のことです。つまり、先ほどの写真の石碑に彫られていた大きな文字は”旧跡”です。名所旧跡の旧跡、だったんですね。ちなみに、何故「舊」が旧になったかと言うと、舊の「臼」の部分を「旧」と書く書き方もあったそうで、それが簡略化されて現在の旧の字になったそうです。


さて、本来ならこの事件碑が通常設置されている場所(さらに200mほど西に行った所)にも行ってみるべきだったのです。何故かというと、その本来の設置場所というのは、生麦事件で殺されたイギリス人(チャールズ・リチャードソン)が最後に力尽きて落馬しとどめを刺されてしまった、まさにその場所なのです。これは見ておいて、合掌の一つでもしておきたい場所です。しかし、この現場に出向いた時点では残念ながらそこまで詳しい知識を持っていなかったので、今回の訪問では行きそびれてしまいました。予習が足りませんでしたね。またの機会に訪問します。

で、リチャードソン氏が最初に斬りつけられた場所、すなわち、生麦事件の発生場所というのがこの現在の事件碑の地点から東に700mほど行った所だというのは看板にも書かれていたので、頑張ってそこまで足を伸ばしてみました。

それがこの場所、最初の図中のE地点で、東方向に向かってとった写真です。もう日が暮れてしまっていますが。で、またまた予習不足だったのですが、実はこの交差点を渡ったすぐの所に、事件の発生場所だということが書かれた看板があるんです。でも、この写真を撮っている時点ではそんな事は露知らずだったので、残念ながらその看板も見損なってしまいました。まあ、ネットで探せば出てくるので、興味のある方は探してみて下さい。リチャードソン氏はこの場所で切りつけられ、命からがら馬に乗ったまま西の方向に1kmくらい頑張って逃げたのですが、とうとう力尽きてしまった、というわけです。合掌。


今回は生麦事件の舞台である生麦を取り上げました。さて、この生麦事件の名前を覚えている人は多いと思いますが、その歴史的意味は何ですか?と聞かれて、答えられますか?一言で言うと「薩摩藩が攘夷から倒幕へと方針転換するきっかけとなった事件」ということです。

生麦事件の後、その処理方法(賠償金額とか犯人の処分とか)をめぐって幕府や薩摩藩とイギリスが揉めます。このときイギリスは横浜、後に薩摩に軍艦を停泊させて武力で脅しながら外交をし、幕府は賠償金支払いに応じたものの薩摩は拒否、結局、薩摩湾での小競り合いをきっかけに薩英戦争へと発展します。戦争の結果については、イギリスの勝ちと見る向きも薩摩の勝ちと見る向きもあるようですが、どちらも大きな損害を受け、薩摩としては「攘夷なんて言ったってそんなのムリ。これからは外国の進んだ技術を取り入れて発展していかなきゃ。そのためには倒幕だ」という考えになっていったのです。で、時を同じくして長州藩も外国にボコボコにされて(下関戦争)、やはり攘夷なんてとてもムリだと悟ることになり、やがて坂本竜馬の仲介で両者が手を結んで(薩長同盟)倒幕の一大勢力になっていく、という流れです。なお、イギリスと薩摩・長州は戦争の後、互いに認め合って逆に急接近していくことになります。イギリス側も、「腰抜けの幕府より薩長の方が見所がある。あいつらと付き合った方が得じゃね?」となったようです。

もう少し薀蓄を垂れておくと、生麦事件は攘夷(外国人排斥)事件の1例として語られることが多いですが、それは間違いだと言う人もいます。理由は、島津久光の行列に遭遇したイギリス人4人が馬から下りずにそのまますれ違おうとした行為について、仮に日本人が同じことをしても間違いなく斬られていたと思われるからです。つまり、「外国人だから」襲ったわけではない、だから事件そのものはいわゆる攘夷思想に基づくインシデントとは違う、という説明です。そう言われてみれば確かにそんな気もします。ちなみに、島津久光の一行が生麦事件を起こしたのは江戸幕府に政治に関する進言をしに行った帰りなんですが、実は往路では京都で「寺田屋事件」を起こしてるんですねぇ。いやはや何とも。

ちなみに3年ほど前、生麦事件で命を失ったチャールズ・リチャードソン氏の生前の写真が初めて発見されたそうです。

実は知らない英文法の真相

2016年07月09日 19時21分55秒 | 英語
プレイスという会社が発行している表記の本、以前にも紹介したことがありますが、今回改めて読み直してみました。3週目です。

TOEICの問題集やりながらよくそんな時間があるなと思われると思いますが、この半年くらいは、往復の通勤で3時間、昼休みに1時間弱、そして、帰宅してから寝るまでに小一時間と、毎日5~6時間は英語に触れているので、それくらいはできてしまいます。大体、1週間に2冊くらいのペースで何らかの本を潰したりやり直したりしていますね。私に限らず世の中の野心的な方々はみな、この程度の勉強量はこなしていると思いますよ。

まあ、そんなことはどうでもよくて、表題の本、本当に勉強になるんですよ。最初に読んだ時は頭がクラクラして付いていけない箇所も多かったですが、今回は3週目にして、ほとんど全部の内容を実感をもって納得・吸収することができたという感じです。

前回この本を手に取ったのはもう1年以上も前だと思いますが、その間勉強を積み重ねていくうちに私自身の見識もそれなりに向上したのか、前回読んだときよりも非常に取っ付き易く感じることができて、一気に最後まで再読しました。

高校の授業ではあまり深入りしない、というか、きちんとした説明がなされていない話を扱っている本なので、簡単ではありません。もちろん学術書ではありませんが、英文法を学問として扱っているようなレベルでのトピックと、高校生や社会人向けの大衆英文法との橋渡しを狙ったような感じの本です。ただし、英文法に関する網羅的・体系的な説明構成はとっておらず、大衆英文法の盲点となっているようなトピックを断片的に取り上げて解説するスタイルになっています。高校レベルの英文法はほぼ完璧にできているというくらいの力がないと読める本ではありませんが、それくらいの力がある人なら、色々と発見があって知見を深めることができると思います。

で、この本を読んでいて感じたことなのですが、イマイチ理解し難いあの英文法とか構文って奴の裏には、

英語そのものの(変化の)歴史

が隠れているという事です。みなさんも高校時代に、「どうしてこんな構文でこういう意味になるのか」、とか、「どうしてこの形はNGなのにこの形はOKなのか」とか、理屈を理解しようとしても分からなかった、というか、理屈らしきものを全く教えてもらえなかった(覚えろで済まされてしまった)、という経験・記憶はお持ちでしょう。

そういう箇所についてはどうやら、昔の古い英語の言い方の名残とか、英語の形が徐々に変化して現在に至っている経緯とか、そういったものに理屈・根拠を見出せる場合が少なくないようです。この本を読んでいるとそんな事がよく分かります。

まあ、冷静に考えればそうですよね。言葉というものは長い期間に渡って人々の間で使われる中でできあがってきたものなのですから、どうしてそういう言い方をするんだ?という疑問に対する唯一の答え・理屈は、言葉の歴史の中にしかないはずなんです。

そう考えると、学校で英文法を教えるのなら、それと平行して「英語歴史学」みたいな科目を設けて、英語がどのように変化してきたのかというような講義でもやれば、今の英語を少しでも理屈立てて理解することができるようになるのかもしれません。でもまあ、そんな専門性が深すぎる話を中学・高校でやるわけにはいかないですよね。「文法、構文がよく分からんなあ」と思ったら、「たぶん英語の歴史の中に答えがあるんだろうな」くらいに思っておいてやり過ごすのが、ストレスを抱えこまないためのいい方策かもしれません。

もちろん、高校生でこれくらいの本が読めるのなら読んでみてもいいと思いますが、時間に制約のある学生さんがあまり背伸びをするのは危険だと思いますので、ほどほどに。それとも、超エリート教育の場では、このレベルの授業が行われているのでしょうか?まあ、著者の方も予備校の先生なので、高校生相手にこういう授業をしているかもしれませんね。いいなあ都会は。クソ田舎で高校時代を過ごした私なんか、都会育ちの人が本当にうらやましいです。