リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

薄弱なアイデンティティ

2015-06-29 06:23:00 | オヤジの日記
今も流行っているのか知らないが、1年くらい前から、日本礼賛(にほんらいさん)の番組をテレビで見かけるようになった。

最初は、耳に心地よかった。
日本は、今も変わらず世界的に上位にいるのだ、と自尊心をくすぐられた。

だが、その過剰なほどの礼賛がテレビやネットの媒体に溢れてくると、食傷気味になった。

日本は、そこまで他国に褒めてもらわないとアイデンティティが保てない国になったのか、と辟易してきた。

東日本大震災という歴史上稀な災害を体験した日本人のメンタリティを取り戻すためには、国民に自信を持たせるという手段での礼賛は、多くの部分で功を奏していると思う。

ただ、日本が政治以外で、世界の一流国の座を占めている現実は嬉しい限りだが、礼賛に気をよくしている裏で、マイナス面が置き去りにされているのは考えものだ。

「日本はどこに行っても綺麗」と、テレビの中の外国人は言う。
私は、国際派ではないので、20年前の香港の裏通りの倫理的、衛生的でない風景は知っているが、他の国のことは知らない。

だから、本当に日本が他国と比べて、それほど綺麗なのかを判断できる材料を持っていない。

名指しをするのは気が引けるのだが、例えば東京蒲田や大井町の繁華街の裏道の退廃的な景色と臭いは、あまり衛生的に感じられない。
もちろん、観光地とは違うよ、という反論はあるだろうが、それは諸外国でも同じだろう。
20年前の香港は、表の顔・観光地としての佇まいには、煌びやかさと美しさがあった。

つまり、日常生活を引きずったまま日本の観光地に来たら、別世界の感覚がするのは、当たり前だということだ。
それを真に受けて過大評価するのは、マスコミの作為的な演出だろうが、ただ単純に喜ぶだけでいいのかと思う。


ほかに日本人は民度が高い、という自画自賛もある。
それは、ある意味あたっていると思う。
中国人の父を持つ友人から聞く北京の風景と人の振る舞いは、モラルを後回しにした自我の崩壊が蔓延しているようで、話を聞いただけで憂鬱になる。

だが、たとえば、群馬県高崎市の駅で、無料レンタサイクルのサービスを始めたら、6割以上の自転車が返ってこなかったという日本の現実もある。

たとえば、北海道の盲学校で、目の見えない生徒のために盲導鈴(もうどうれい)を鳴らしたら、近隣から「うるさい」という苦情が多く寄せられたという。

昨年は、さいたま市の駅で、目の見えない人の杖が当たったことに腹を立てた人が、盲人を蹴ったという事件もあった。

他にも今年、私が目撃したことだが、八王子駅で視覚障害者誘導ブロックの上に、自転車を置いて通行を邪魔している人を見かけた。
注意する勇気がなかったので、黙って自転車を移動させたのだが、自転車が数メートルおきに視覚障害者誘導ブロックを塞いでいるのを見て、暗澹たる気持ちになった。

そして、政治の世界では、奢り高ぶった自民党議員が、「マスコミの広告収入をなくせ」と口々に吼えたこと。

ベストセラー作家が、自民党の勉強会で「沖縄の2紙を潰せ」と暴言を吐いたことで批判され、「あれは冗談のつもりだった」「あんなことは呑み屋でしゃべっているようななもの。俺は飲み屋では何でもしゃべる」と弁明したこと。
それを聞いて、唯我独尊の作家は、勉強会と酒の席は同じ、という幼稚な頭脳しか持っていないことを知り愕然とさせられた。

他に、自己の不祥事を指摘されても絶対に謝らないNHKの幼稚で頑迷な会長などもいらっしゃる。


日本の民間人は、勤勉で清らかな心を持った人が多いことを私は疑っていない。

しかし、一部のまるで滅亡間近の平家のような奢り高ぶった大人たちが作る「民度平均値」は、世界に自慢するほどのものではないのかもしれない、とも思っている。

ひねくれた私は、日本全国に点在するそんな暗黒面を隠すために、何か目に見えない勢力が、「日本礼賛」を喧伝しているのではないか、と穿った見方をしている。

日本の技術力や都市工学、サービス提供力の水準は、かなり高いとは思うが、それは観光客を満足させることができても、増え続ける「もの言わぬ貧困層」を満足させるものではない。


日本礼賛は、ただいっときだけ日本人を気持ちよくさせるが、冷静に考えれば、観光客でない日本人にとっては現実味に乏しいものだ。

「日本はいい国だ」というのは、それぞれの人が判断すればいいのであって、誰かに押し付けられるものではない。


物の本によると、第二次世界大戦末期、日本には「大本営発表」というのがあって、現実は連戦連敗だったのに、国民には「大勝利」と触れ回っていたという。
そして、報道も軍部の嘘に乗って、「大勝利」を吹聴していたらしい。


権力者と報道は嘘をつく。
そして、心地いい話は、誰かが印象操作をしている。

私は、そう思っている。



お笑い芸人の賞味期限

2015-06-02 06:27:00 | オヤジの日記
最近のことだが、ヤフーのトップページのタイトルを流し読みすると、頻繁に「松本人志が○○に対して持論」とあるのが目に付く。

もちろん、松本人志氏が、お笑いコンビ、ダウンタウンの坊主頭の人だということは知っている。
年末の「笑ってはいけない~」の主役の一人だということも知っている。

しかし、それしか知らない。

その松本氏のご意見が、いつも「持論」という形で重用されるのは、なぜだろう。
彼は、政治家や評論家を差し置いて、現代日本のオピニオンリーダーに祭り上げられているということか。

ヤフーのトップページは、流し読みするだけで、内容を見ることはない。

だから、松本氏が、どんなご意見を述べているのか、私にはわからない。
内容も知らずにコメントをするのは卑怯なので、これ以上のことは詮索しない。

ただ、お笑い芸人として、それほどご意見を注目される存在は、大したものだな、と関心だけは示しておきたい。


そして、北野武氏の話に移る。

北野武氏は、映画監督として非凡なものを持っていると思う。

暴力的な映画は趣味でないので見ていないが、その他のものは、全て見ている。
「キッズリターン」と「あの夏、いちばん静かな海」は、好きな映画だ。

北野氏は、現代日本を代表する映画監督であると思う。

ただ、お笑い芸人としての北野氏の今は、少しも面白くない。

我が家に、頻繁に餃子やハンバーグを食いに来る大学2年の娘の高校時代の友だち6人の共通意見は、「笑いが痛すぎて、耳を塞ぎたくなる」というものだ。

私もそう思う。

笑いに関しては、古臭すぎて、賞味期限が過ぎていると思う。
大御所ではあるが、キャリアが長いゆえに、笑いの質が、「古典」と表現するのも憚られるほど、錆び付いているように、私には思える。

そして、私が一番痛いと思うのは、その大御所に対して、中堅、若手芸人が、気を使いすぎる光景だ。

もちろん、それは北野氏をリスペクトしているから、そういう態度になるのだろうが、たとえば北野氏のお笑い芸人としての全盛期を知らない娘のお友だちには、「なに、あの人たち、卑屈になってるの?」ということになる。

この現象は、たとえば、若手芸人や若いタレントさんたちの態度が、明石家さんま氏に対して「機嫌を損ねないように」という、あからさまな阿り方と共通している、と彼女たちは言うのだ。

「お笑い芸人が、必要以上に、お笑い芸人や大御所に気を使う姿は、見苦しいよね」
「だって、私たちには、彼らがどんなに大物でも、面白くなければ、『痛いオッサン』でしかないからね」


北野氏やさんま氏は、日本の芸能社会では、大きな宝だとは思うが、彼らをリスペクトする人たちの「過剰な気遣い」が、彼らを「笑えないブラックホール」に落ち込ませているような気がする。


彼らを「現役のお笑い芸人」として賞味したいのであれば、「つまらない」という勇気も必要なのではないか、と私は思っている。

世間の目は、使い捨ての「一発屋芸人」には厳しいが、少し昔に賞味期限が切れた体を張らない大御所芸人には、とても温かいように思える。
(それはリスペクトというより、ただ古い業績を奉りたいという保守志向の強さから来ていると思う。そして、そういう人は必ずこう言うのだ。『昔のお笑いは面白かったね、でも、今のお笑いは、全然つまらない』と。実は、10年前も20年前も、そう言われていた記憶が私にはあるのだが、つまり、いつの時代も、今のお笑いは、つまらないということになるのですね)



さて、冒頭の松本人志氏は、どのポジションにいるのだろうか。

「現役」なのか「賞味期限切れ間近」なのか。

少し気になる。