リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

靖国神社参拝

2013-12-29 08:20:00 | オヤジの日記
年末だから、というわけではないが、真面目な話を。

安倍晋三首相が靖国神社に参拝したことに対して、近隣諸国が、お決まりのように抗議をしている。

言い方は悪いが、これは行事のようなものだ。
安倍総理は、国内の保守層に向けて、参拝の事実を作った。
そして、近隣国は、国内の反日層に向けて、抗議のポーズを作った。

つまり、どちらも国内に向けてのアピールだ。

どうせ、「行事」だから、すぐに終わる。

と思っていたら、アメリカ政府やEUが過剰に反応したことによって、日本は孤立化の道を余儀なくされそうな気配になってきた。
参拝の是非より、今や靖国参拝は、国際的な「政治道具」という認識だ。
欧米中韓に、その政治道具を封印されたら、日本の政治は、さらに内向きになるだろう。


一国のリーダーが右寄りに舵を取ったとき、それを止める人がいない政治状況は危険だ。


特定秘密保護法案、集団的自衛権、韓国軍への銃弾供与など、安定政権を手に入れた自民党の力づくの政策が目立ってきた。

武器供与を「人道上」と言って、「武器輸出三原則の例外」と強弁されたら、すべてが、なし崩しになるのは目に見えている。
実際に、一つの例を作ってしまったのだ。

司法の場でも、「判例」というのが大きな既成事実になっている。
一つでも判例として残されたら、それが後の裁判に効力を及ぼすのは、過去の事例が証明している。

「例外」とは言いつつも、一つの既成事実ができてしまえば、あのとき例外を作ったのだから、これも例外としてもいいだろう、あれも例外にしてしまおう、と中央突破するのが、権力者のいつものやり方である。

だから、「特定秘密保護法案の執行は、慎重に行いたい」と言っても、圧倒的議席を有する政党は、少なくとも国内向けの政策は、フリーハンドを得たも同然だ。
戦前の治安維持法とは違う、とは言っても、為政者に強大な権力を与えてしまったら、細かい法律の解釈は、今回の武器供与と同じでなし崩しになるのは、目に見えている。

選挙で国民が、巨大与党を選択するというのは、そのリスクを容認したことにもなる。
選挙民は、そのリスクをも背負わなければいけない。


私は、かつて一度も自民党に投票したことがない。
つまり、アンチ自民である。

ただ、無闇に嫌っているわけではない。
かつて優秀な政治家が、自民党に少なからずいたことは強く認識している。

自民党内が右寄りに舵を取ろうとしたとき、その舵を懸命に戻そうとした人たちがいた。

三木武夫氏、伊東正義氏、後藤田正晴氏、野中広務氏など。

国際平和への貢献は、日本は武力以外の方法で行うことが憲法に適う、と説いた人たちだ。
過去の自民党には、彼らがいたから「なし崩し」がなかった。
彼らが、歯止めになってくれた。

例えは古いが、「重鎮政治家」と言っていい。

だが、一度下野して、再び返り咲き、「大自民党」となった今の政治家の中には、大量議席に浮かれてしまったのか、「なし崩し」を止める人がいない。
大量の議席を所有している間に、拙速でもいいから国の体制を変えてしまおう、と目論んでいる権力亡者的政治家が多いような気がする。

「もう少し議論を」という少数意見は、圧倒的な数の亡者に生気を吸い取られて、簡単に消滅してしまったように見える。


異論はあるかもしれないが、日本は平和な国である。

「平和ボケ」という言い方をする人もいるようだが、はたして「平和ボケ」は、悪いことなのか。

68年間、自衛隊は、人を一人も殺さなかったし、一人も殺されることがなかった。
そんな平和ボケなら、世界の紛争各国に分け与えたいものだ。

紛争地域の方々は、自分たちの平和のために戦っているのだと思う。
戦いたくはないのに、平和のために銃を持ち、戦う。

それに対して、日本は戦わなくていい国だ。
戦後68年の間に、そういう国になった(日米安保のおかげだという見方もできるが)。

日本は、世界の歴史上、68年間国際紛争で死者が出ない、出さないという壮大な実験をしている国、と言ってもいい。

それが、百年続き、二百年続いたら、それは「輝ける歴史」になるのではないのか。
それを見た後世の歴史家たちは、きっと「ミラクル!」と叫ぶに違いない。


「人道」を理由に、紛争地域に弾薬をバラまくことは、この壮大な実験の終わりを告げているようにも思える。
弾薬供与を国連が認め、同盟国が、その行為を賞賛する。
「緊急性」「人道上」の言い訳は、すべての議論をなし崩しに停止させる。

そして、戦後の壮大な実験も、なし崩しに停止するときがくる。


いつか、第二次世界大戦前のように、国際社会から孤立した暗黒の時代がやってきたとき、あのとき自民党を勝たせるんじゃなかったと後悔する日が来るかもしれない。




いずれにしましても、みなさま、よいお年を。



変人がディスられる

2013-12-22 08:28:01 | オヤジの日記
教育者には、勘違いしている人が、稀にだがいるようだ。

変人も少なからずいるような気がする。
だが、彼らよりも私の方が間違いなく変人だという話を。


大学時代の友人に、中学校の教師をしていたが、訳あって40過ぎに教師をやめた男がいる。
その後は、自宅で小さな塾を開き、代筆のアルバイトなどもしながら、生計を立てていた。

その彼が、昨年から、少年野球の監督をしている。
ほとんど野球経験がないのだが、塾生の親に頼み込まれて、仕方なく引き受けたという。

興味があったので、日曜日の朝、2回ほど彼が教えているところを見に行ったことがある。
素人の割には、的確に教えていたと思う。
ただ、一つだけ違和感を持った。

今年の10月には、初めて試合を見に行った。
そのときも、違和感を持った。

試合のとき、会心の当たりを打った少年が、「おーし!」と吼えた。
それを監督である彼は、注意したのである。

「いつも言ってるだろ。いちいち喜ぶな」と。

少年は「はい」と、ヘルメットをとって、素直に答えていた。

次に、セカンドの少年が、ファインプレーをした。
それをナインと父兄が喜んだので、ガッツポーズで返答した。

しかし、彼は守備を終えて帰ってきた少年に、「ガッツポーズはやらない約束だろ」と注意したのである。

試合は、残念ながら負けた。
そして、試合後は、お決まりのホームベース前での帽子を取っての挨拶。
挨拶のあと、勝った相手チームの少年たちは、ハイタッチをしたり、肩を叩き合ったりして喜びを表現していた。
父兄たちも、大声で喜び合っていた。

それは、普通の光景だった。

だが、そのあと、普通ではない光景を私は見た。

友人が、負けて帰ってきた少年たちに、「いいか、君たちは、たとえ勝ったとしても、あんな風には喜ぶなよ。負けた方に敬意を表すのが、スポーツのマナーだ」と言ったのだ。

少年たちは、素直に「はい」と答えていた。
父兄たちも、頷いていた。


あとで、友人と昼メシを食ったとき、なんでガッツポーズがいけないんだ、なんで勝って喜んじゃいけないんだ、彼らは修行僧なのか、と聞いた。

友人が言う。
「だって、相手に失礼だろ。負けた方のことも考えないと」

しかし、勝負は、勝って喜び、負けて悔しがるものじゃないのか。
スポーツの場合は、一つ一つのプレイに意味がある。
その意味を知るために、彼らは練習をしているんじゃないのか。

一つの答えが見つかったときに、なぜ喜んではいけないんだ。
喜び、悔しがり、怒り、ときに泣き、それを上達や成長の糧にする。

負けたら悔しがる。
それをバネしにして練習を頑張る。
勝ったら、素直に喜び、その喜びを次に繋げるために、また頑張る。
それは、いけないことなのか。

それを抑えて、何の意味があるんだ。
おまえ、教師をしていたとき、生徒に対して、そんなに抑圧的だったのか。

「我慢を教えていたんだよ」と友人が言う。
「我慢のできないやつはダメだ。人に迷惑をかける」

しかし、我慢は強制するものじゃないだろう。
我慢だけを教えるが、教育なのか。

我慢の先に、達成感はあるのか。

「もちろんある。我慢のできる人間だけが、達成感を味わえるんだ」

それが強制された我慢だとしても、か。

「教育としての我慢を覚えた人間は、成長が早いんだ」

では、人間としての喜怒哀楽は、どうなる?

「我慢を覚えてからだな」

つまり、すべてのものの上に、我慢があるということか。

「そうなる」

たいへん嫌な言い方になるし、友人を傷つけるとになるかもしれないと思ったが、このままでは釈然としないので聞いてみた。

それなら、おまえ、なんで教師をやめた。
我慢できなかったから、やめたんじゃないのか。
それとも、達成感を味わったから、やめたのか。
俺は、教師として上り詰めたと思ったから、やめたのか。
おまえは、40代で教職を極めたのか。

すると、友人は、こう答えた。
「我慢ができない人間が、我慢を教えることは許されないのか。
俺は教職には我慢できなかったが、他のことは我慢できる。だから、ひとに我慢を教えられる。
世間の評論家なんて、そんなもんだろ? 実戦は苦手でも理論武装はできる。
教育者に実践は必要ない。理論があればいい。
そして、それを無理強いしたとしても結果がついてくればいい。
一つのクラスに馬鹿は何人もいる。野球チームに下手くそなやつもたくさんいる。
それを束ねるのは、上に立つものの『強制力』だよ。その力が強い方が上手くいく。
中学では失敗したが、今度は成功しそうなんだ。
一度見ただけで文句を言わないでくれ、何か言うのなら、結果が出てからだ」


動物好き、特に小動物が好きな気の優しい友人だが、「年少者への支配」という「うまみ」を一度味わうと、自分が王様にでもなったつもりになるのだろうか。
あるいは、意地悪な言い方になるが、小動物が好きなのも、支配ができるからか。


友人に言った。

なあ、俺んちのアパートの庭の段ボールに野良猫が住み着いているんだが、俺と野良猫は、対等だぞ。

「馬鹿じゃねえか」


そうか………馬鹿か。

俺は、自分が馬鹿だということを知っているが、おまえはどうだ?

「知らん」


会話にならなかった。



ただ冷静に考えると、この場合は、野良猫と対等の私の方が、変人と捉えることもできる。

世間一般の考え方としては、おそらく、そうだろう。


無駄だとは思ったが、友人に言ってみた。

俺は、野良猫と会話ができるんだぜ。


「おまえ、俺だからいいが、他のやつには、そんなことを言うなよ。確実にディスられるぞ」


ハハハハハ、と笑っておいたが、「ディスられる」って、どういう意味?


(ネットで検索すれば簡単にわかるのだろうが、意地でも調べない。それは、私が変人だからだと思う)


我が家のボーナス

2013-12-15 07:50:50 | オヤジの日記
ボーナスを貰わない生活から、ほぼ20年。

ボーナスのありがたみと羨ましさを完全に忘れてしまった。

取引先のほとんどは、ボーナスが出たようだ。

アベノミクスの影響でボーナスも上がったでしょう、と聞くと、得意先の若い人に「全然、関係ありませんね。あれは特定の業種だけでしょ!」とキレられた。

まあ、そういうところもあるだろう。

地方銀行に勤めている友人に、上がったろ、と聞くと「ナイショ」と言われた。
上がった、と思われる。


25年連れ添っているヨメが、結婚前に勤めていた会社は、社団法人だった。

ここが、恐ろしいほど気前のいい会社だった。

ボーナスが、年に3回、トータルで6ヶ月分出た。
他に有給が、人によって違うが、20~30日。
消化しないと上司から注意されたという。
また、残業をしていても、上司から注意されたらしい。

そして、2年に1回、研修と称して、ハワイかグアム旅行があった。
研修とは言うが、研修は2日目と3日目の午前中だけで、あとはフリータイム。
お小遣いまで出たというから驚く。

バブル全盛期とはいえ、夢のような会社ではないか。

ブラック企業ではなく、間違いなく「ゴールド企業」。

今では、それほどの待遇ではなくなったというが、他の会社よりは大分ましらしい。
だから、女子社員が結婚したがらず、女子社員の結婚率が低い。

結婚したとしても、自分の結婚した相手が、長時間労働にも関わらず少しも給料が上がらないことに嫌気がさして離婚し、会社に舞い戻ってきた人もいるという。

罪な会社である。

それを思うと、そんな楽園を経験しながら、我が極貧生活に耐えているヨメには、感謝の言葉しか見つからない。
大切にすべきだろう。


ところで、つい最近のブログだかツィッターだか忘れたが、「勘違いしてる奴多いけど賞与って企業には支払い義務ないんですよね。給与が安いって文句言うなら給与の高い所に行けばいいじゃん」と書いているお方がいた。

ご本人は、正論を吐いたつもりだろうが、企業に支払い義務はなくても、「社会慣習」というのがある。

多くの企業がボーナスを支給し、国や地方も公務員にボーナスを支給する。
支払い義務はなくても、それは慣習になっている。
それは、義務とは、確実に切り離されたものである。
だから、根底から理論が破綻している。

だが、不況でボーナスを出せない会社も多い。
その苦しさは、わかる。

私は、個人で仕事をしているが、金の収支の厳しい現実というのは、額が少なくても毎回強く実感している。
収支のマイナスは、会社の死活問題である。
ボーナスどころではない。

ただ、そうは言っても、慣習としてのボーナスは、金額の多寡はあっても、出せるように努力すべきだと思っている。

慣習としてのボーナスを出せない経営者は、無能だ。


取引先の社長で、「俺はもう4ヶ月給料貰ってないよ」という人がいた。
「この状態があと2ヶ月続いたら、俺んところは危ないよ」と、第三者である私に、平然として言うのだ。
そして、「でも、社員の給料だけは、ちゃんと払っているからね」とも言っていた。

それを聞いて、この社長は偉いな、とは私は思えないのだ。
社長が、社員に働いた分だけの給料を払うのは、当たり前のことだ。
威張ることではない。

自分の給料を犠牲にしてまで……、というのは美談に思えるかもしれないが、経営者は、会社を維持し、社員の生活を維持するのが役目である。

社長は、「俺のような末端の会社には、アベノミクスは関係ないね」とも言っていた。
そして、「まわりが、どんなに景気が良くなっても、俺には関係ない。俺のところにまで景気は来ない。だから、ボーナスは出せない。もう10年近く出していない」と言う。

つまり、ボーナスを出せないことが当たり前になっている現状を開き直っている。

それは、「俺は、経営者として無能だ」と言っているようなものだ。


私の同業者の一人は、「それほど儲かっているわけではないけど」と言いつつ、「俺は、毎年、頑張ってくれている女房に、年末にボーナスをあげるようにしているんだ。額は少ないけど、女房はいつも喜んでくれてね。その顔を見ると、張り合いが出て、来年も頑張ろうって気になるんだよ」と恥ずかしげに語っていた。


それを私は真似て、昨年から、ヨメにささやかなボーナスを渡すことにした。
ヨメは、泣いて喜んでくれた。

子どもたちにも、クリスマスやお年玉とは別に、一年間頑張ったご褒美に、ささやかなボーナスを渡した。
飛び上がって、喜んでくれた。

今年も、昨日、ボーナスを渡した。

喜んでくれたが、高校3年の娘は「大丈夫か。儲かっているわけでもないのに、こんなことして。アベノミクスのおかげなんてことは言うなよ。うちは、まったく関係ないのはわかっているからな。無理すんなよ」と、いたわってくれた。

ヨメと息子も、頷いていた。

では、ボーナスを返還するのか、と聞いたら、「それとこれとは別だ」と言われた。


人間とは、欲深き生き物のようだ。


流行語大賞

2013-12-08 08:17:00 | オヤジの日記
今年の流行語大賞が決まった。

しかし、大賞が4つだったことに、文句を言っている人がいた。

取引先の25歳の若い人は、「なんですか! 4つって! 普通は『今でしょ』が選ばれるでしょ。メチャクチャじゃないですか!」と憤っていた。

50代の同業者も、「決断力がなさ過ぎる。なんで一つが選べないんだ!」と電話口で吠えていた。


申し訳ない言い方になるが、何を真面目に反応しているのか、と思う。
毎年、年輩の審査員の方々が、持ち前の調整能力を発揮して、波風が立たないように選ぶのが「流行語大賞」だと私は思っている。
その何割かの部分には、シャレも入っていると思う。

ノーベル賞や文化勲章とは違うのだ。
「権威」というより「遊び」の要素の方が近い賞だ。

そんなお遊びの賞に、熱く異議を唱える神経が私にはわからない。


ニュースを見ていたら、繁華街で、今年の流行語は何だと思いますか、と道行く人に聞いていた。
そのランキングを5位まで提示していた。
「今でしょ」が1位だった。

しかし、だから、何? としか私は思わない。

それは、一つのサンプルにはなるが、すべてではない。
私を含めて、多くの人は狭い範囲でしか流行語を使わない。
狭い範囲で流行った言葉だけが印象に残る。

「今でしょ」のテレビでの露出は多かったから、テレビでの露出度だけで選ぶなら、確かに1位だ。
「倍返し」「じぇじぇじぇ」は、テレビドラマの決まり文句。
しかし、私は見ていないので、知り合いがそれを使っていても「?」になる。
私は、「おもてなし」を使っている人を見たことはないが、各媒体の言葉の露出度で言えば、「倍返し」「じぇじぇじぇ」よりも多いような気がする。

ご高齢の知識人たちが、それを「流行語」だと認知したら、流行語になる。
しかし、彼らが、いったい流行の何を知っているのか、私は首をひねらざるを得ない。

シャレだ、とでも思っておかなければ、このバカバカしさのお付き合いはできない。


今年は、たまたま「瞬発力のある言葉」が、数多く出た。
そして、その爆発的な瞬発力を持つ言葉が、今年は4つもあった。

どうして、その中から一つだけを選ばなければいけないのか。
その欲求は、生真面目すぎて、私は興ざめする。

「年末の風物詩です」と語っているアナウンサーがいた。
確かに、そうだと思う。
つまらないことでも、歴史を重ねれば、年次的なイベントになる。

しかし、その程度のことだ。

大賞が4つだろうが10だろうが、いいではないか。
どうせ、ほとんどの言葉は、時とともに忘れられて、「死語」になっていく。

どんな言葉にも「賞味期限」がある。
所詮は、賞味期限が切れたら、捨てられるだけのもの。

運が良ければ、定着することもあるが、一年だけ輝いて、おそらく、忘れられてしまう言葉。
それ以上でも以下でもない。

だが、取引先の若い人の憤りは止まらない。

「『今でしょ』が、ゼッタイ一番でしょ! 審査員のセンスを疑うよ!」

この程度のことで熱くなれる人が、うらやましい。
その熱くなった人に、聞いてみた。

去年の流行語大賞、覚えてます?

「えー? あーーっと? あれ? なんだっけ?」


まあ、そういうもんですよ。


電車でアンジャ

2013-12-01 08:01:36 | オヤジの日記
道を歩いているときや電車に乗っているとき、突然ひとり言が口から出て、驚くことはないだろうか。

若い人は、ないかもしれない。
私も若い頃はなかった(と思う)。

しかし、年を重ねると、たまに勝手に言葉が出てくることがある。

この間は、電車に乗っていて、「麦とろご飯 食いたい」という言葉が勝手に出てしまった。
最初は気づかなかったのだが、隣に座っていた30歳くらいのサラリーマンが、「え!」というように、首を高速で動かして私の方を見たから、ああ、やっちまったな、と思った。

自転車に乗っていたとき、突然「ズッキーニ!」と叫んでしまったこともある。
別に、ズッキーニを食いたいわけではなかったと思うが、なぜか出てしまったのである。
まわりに誰もいなくて、助かった。

図書館で調べものをしていたとき、本の説明がくどかったので、つい「回りくどいんだよ!」と声に出してしまったことがある。
まわりの視線が、痛かった。


一昨日、東横線に乗っていたときのことだ。
昼間の東横線は、空いていた。

日吉から渋谷まで。

一つの車両には、私も含めて、6、7人しか乗っていなかった。
ゆったりした気分で、車窓を楽しむことができた。

しかし、田園調布から乗ってきた40歳くらいの女性が、私の斜め前4メートルほどのところに座ってから、環境が一変した。

痩せているか太っているかと言えば、お世辞にも痩せているとは言えない。
かといって、普通かと言えば、お世辞にも普通とは言えない。
要するに、太っていた。

ただ、高級そうなコートを着ていたので、金持ちの奥様かもしれない。

その太った金持ちの女性が、突然「そんなことある?」と言ったのである。

え?

彼女から一番近い距離にいる人間は、私だ。
だが、私は、ただ車窓を見ていただけだ。

車窓を見ただけで「そんなことある?」と言うのなら、テレビ朝日系列の「世界の車窓から」はみな、「そんなことある?」になってしまう。

そんなことを思っていたら、今度は「何それ!」と言うではないか。

車窓を見ていただけで「何それ!」なら、「世界の車窓から」だって…………。


しかし、よく女性を観察してみると、女性の右耳にはイヤフォンが突き刺さっていた。
つまり、何かを聞いていたのだろう。

そして、次は「おかしいって!」と言ったあとで「ハハハ」である。

これは、音楽ではないだろう。
ワン・ダイレクションやケイテイ・ペリーの歌を聴いて、「そんなことある?」「何それ!」「おかしいって!」「ハハハ」と反応する人は、明らかに脳のネジが2本取れている人だ。

もう一度、女性を観察してみたが、脳のネジが2本取れているかどうかは、判別できなかった。

だから、これは保留にした。

保留にしている間に、祐天寺駅が近づいてきた。

太った金持ちの女性が、腰を浮かせた。
ここで降りるようだ。

ゆっくりと腰を上げた女性は、満足そうな顔で、「まったくアンジャは、面白いわ」と呟いた。
そして、巨体を反らせながら、堂々と降りていった。


アンジャ?

もしかして、アンジャッシュのこと?
アンジャッシュのコントを映像なしの声だけで聞いていたということか。

それは、予想外だった。

アンジャッシュくらいの完成されたコントなら、声だけでも面白いとは思うが、それをわざわざ電車の中で聞くという発想は、私にはないものだ。

しかも、声に出して喜んでいらっしゃったのである。

電車が空いていたからいいようなものの、混んでいたら、ただの迷惑オバさんになってしまう。

大丈夫なのだろうか。
いままで、トラブルはなかったのだろうか。

余計なお世話だとは思うが、心配になった。


いずれにしても、ひとり言には気をつけなければならない。


だから私も、電車の中で、アンジャだけは、やめておこうと思う。





ところで、頭の悪い政治家がいたものである。

自民党の石破茂幹事長がブログで、特定秘密保護法案に反対する市民のデモについて「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」と言ったそうだ。

自分たちの政策に反対することを「テロ行為」と表現するなど、どこの国のどの文献にも載っていないのではないか。

反対の声をあげられない国家は「暗黒国家」だ。
そして、それを強要する政治家は独裁者の本質を持つ。

石破茂氏の本質を突き詰めると、独裁政治家に行き着くかもしれない。


怖いことだ。