MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

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"メサイア" を巡って (11) 三鷹木曜会 ②

2008-11-25 01:05:20 | その他の音楽記事

11/25    ヘンデルの "メサイア" を巡って

            (11) 三鷹木曜会



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 すでに中田版という優れたものがありながら、さらに木曜会版を
出版するのは、かなり勇気の要ることではなかったか…、

 私にはそのように感じられます。 諸々の軋轢が生じることが
予想されるからです。


 もちろん、それは、絶えずより良い歌詞を求め続けた結果に
ほかなりません。 しかし同時に、もっと切実な事情もあった
ように思われます。




 これは私が後で知ったことですが、

 「中田版は、師の健康上の理由もあり、多くの積み残しを
そのままにして見切り発車的に出版されてしまうという
状態だった」

と斉藤氏は記しています。



 また氏の、以下のような述懐も見られます。

 「中田版の (出版に先立つ) 試訳には、歌いにくいところ、
響きの良くないところがあり、独唱者の中から苦情が
出ることも、当初からあった。

 羽後師は、批判的な感想や
ご自分の訳詞をいじられることを嫌った…。」




 ここでは、他の実例をご覧いただきたいのですが、
ある合唱曲 (No.12) の中には、

"Wonderful, Counselor" という歌詞があります。


 これは当初は "奇妙、義士" とされていた箇所ですが、

依頼を受けて中田師は、後になって

"(たえ) に、奇(く) しき" のように変更したと伝えられます。




No.12 "For Unto us a Child is born"、「神のひとり子を」


 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。

 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。

 王権はその肩にあり、その名は

 「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」

 と呼ばれる。               (イザヤ : 9-6)




1998年木曜会第二版


 神のひとり子を我ら賜わりぬ。 我ら今や受く。

  (まつりごと) 主の肩にあり、聖きその名は、

   妙に、奇(く) しき、力ある、とこしえの父、平和の君。

    御名を唱えよ。 君は我らの

     妙に、奇しき、力ある、とこしえの父、平和の君。




 以下は音源です。


    [コーラス楽譜入り ①

    [コーラス楽譜入り ②

    [実演動画画像 ①

    [実演動画画像 ②





 1992年秋に記した文章で斉藤氏は、メンバーの直 (じか) の声を
紹介しています。
  

 「多くの方々からこれ程の御理解と御支援をいただいている
 邦語メサイアのチラシに、こんな項目はおかしいが、
 木曜会の会誌からメンバーの手記を引用させて頂く。
 なるほどと思われる方も多いだろう。」




 以下にご覧いただくのは、当時の木曜会メンバーの声です。




 「…なぜ、わざわざ日本語で歌うのか、
"英語の方が、かっこいいのに" と
最近まで生意気にもそんなことを考えていました。

 ですが、その不満?も先頃、英語のメサイアを聞いて
見事に吹き飛びました。 メサイアは素晴らしい曲ですから、
メロディーの美しさに感動することは日本語でも英語でも
あまり変わりません。


 けれども、歌い手も聞き手も日本人である以上、
内容をダイレクトに受け止め
て感動するには、やはり
日本語が一番なのですね。 きれいなだけでは
子守唄になりかねません。

 特にこれだけ心をこめて練り上げた歌詞ですから、
クリスチャンでもない私でさえ、感動して思わず涙が
出そうになりました。


 曲と言葉の両方に感動できるなんて、最高の贅沢
ですね! 日本語のメサイアに出会えたことを感謝
せずにはいられません。 …」 
                   (K.F.)





 「……メサイアをわれわれの母国語である日本語で、
且つこのように優れた歌詞で唄うことの最大の効果は、
単に聴衆が理解しやすい云々の問題ではなく、
唄い手が、歌詞を自らの言葉としてよりストレートに、
又、細やかに表現できるため、聴衆にインパクトを与える
ということだろう。


 …その瞬間、作品と唄い手と聞き手三者間の距離
一挙に縮められる。 そこに初めて、音楽を上回る
生きたメッセージが飛び交い、その空間はまさに
息づいているかのごとくである。

 ステージの上にいると、そのときの客席の
反応、集中、熱意は手にとるように感じられるのだ。


 そして聴衆に尋ねると予想以上に、それぞれが
何らかの精神的影響を受けとったことがわかる。
この類の音楽に馴れ親しんでいる人も、初めての人も
それぞれに。

 特に、原語メサイアを聴いたり唄ったりしている人は、
われわれのメサイアを聴いたときの新鮮な響き
感動をもって語ってくれた。


 …私は、この木曜会の日本語メサイアはすでに
独自のものとして存在し、日本の中においてはもはや
原語のそれを超えてしまったことを強く感じている。 …」                   
                   (H.M.)




   以上はすべて、1992年11月29日(日)青山学院講堂における、
















      第22回日本語メサイア公演 (三鷹木曜会合唱団版) の
            チラシに掲載されたものです。


 (続く)