がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

[がん共生時代]ブログの力(1)患者つながり仲間の輪

2011年06月26日 | Weblog
2011年06月22日 00時43分47秒

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「「よお、元気だった?」

 仲間と再会の握手を交わしながら、夕暮れのトラックをにぎやかに1周する。肺がん闘病中の三浦秀昭さん(55)(横浜市在住)は、今年も仲間と歩ける喜びをかみしめていた。

 5月14日、茨城県つくば市の公園で約600人が集まった「リレー・フォー・ライフ(RFL、命のリレー)」。がん患者が家族や支援者と歩いて連帯感を強め、がん対策に使う寄付金を集める。米国生まれのこのイベントを初めて日本で開催したのが、三浦さんだ。

 大手信販会社の社員だった三浦さんが肺がんと診断されたのは、2003年4月。新規事業を開拓する「戦略事業部」のリーダーになったばかりだった。

 抗がん剤と放射線治療を受けて復職を果たしたが、転移のために再び入院。2年後に仕事を辞め、自宅で抜け殻のようになっていた時、闘病の支えとなった患者のブログを思い出した。

 一般的にブログは、個人的な身辺雑記をつづる「インターネット上の日記」だが、患者たちのブログは新薬の必要性を訴えたり、禁煙運動に取り組んだり。患者自身が医療の環境を変えようと働きかける姿に、いつも鼓舞されてきた。

 「自分にも、まだできることがあるんじゃないか」

 05年4月、以前の職場名にがん戦略の意味を込め、ブログ「戦略事業部の挑戦」を開設。翌月、がん患者の集会で紹介された米国のRFLに感動し、日本での開催をブログで呼びかけた。

 その思いに揺さぶられ、共に国内開催の実現に奔走したのが、川崎市の中尾秀樹さん(57)夫妻だ。がんが進行していた妻の浩子さんは寝たきり状態だったが、「どうしても参加したい」とリハビリに励み、実行委員にもなった。

 「2人とも『がんでも、内にこもらずに表に出てつながろう』という三浦さんのメッセージに共感したんです。特にキャリアウーマンだった妻は、がんになっても社会に貢献できることに希望を感じたのでしょう」。中尾さんは振り返る。

 06年9月、つくば市で国内初の開催が実現した。当日、妻はトラック1周を歩き切った。自信を得たのか、その後一時復職もしたが、翌年春、息を引き取った。中尾さんはその後もRFLに参加し続け、全国に仲間ができた。

 「このつながりを大事にすることで、妻の命をつないでいる気がします」

 三浦さんは最近、新たな計画をブログで発信した。がん患者によるがん患者のための株式会社の設立だ。今度はどれほど仲間が集まるか。「戦略事業部」の挑戦は続く。(2011年6月10日 読売新聞)



情報プラス
 三浦秀昭さんのブログ「戦略事業部の挑戦 肺がんとの壮絶な闘い」は、こちら(http://plaza.rakuten.co.jp/senryaku/ )から、見ることができます。



 三浦さんは、医師との治療方針の相談を「戦略会議」と呼び、Ustream(ユーストリーム)という動画共有サービスを使って配信する動画を、「戦略ライブ」と呼んでいます。今、福島県立医大で、毎月入院しながら免疫療法を続けている三浦さんは、3月11日、病院内であの大地震を経験しました。その直後の様子を文章で発信したほか、「戦略ライブ」で院内の様子を実況中継しています。



 記事の最後に書いた株式会社「がん患者」の設立会議も、この戦略ライブで行っています。ぜひ皆さんも訪れてみてください。」



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[がん共生時代]ブログの力(2)家族で喜び・不安を共有



「5月の新緑がまぶしい東京都内の公園。バーベキューを楽しむ家族や友人約20人の輪の中心で、千葉県柏市の「マミー」こと中村美由紀さん(54)がビール片手に豪快に笑っていた。

 「家族で楽しむこんな時間が免疫力を上げるのよ」

 2008年7月、末期の卵巣がんと診断された。家族皆でカラオケに出かけ、「闘うぞー!」と替え歌で大合唱して励まし合った。

 ブログ「マミーとその家族が綴(つづ)る癌(がん)闘病日記」を始めたのは、その直後。美由紀さんが「生きた証しを残したい」と開設を相談し、おいの佐藤慶臣(よしおみ)さん(34)がブログの管理人を引き受けた。

 夫の宏之さん(58)、一人娘の真生(まい)さん(27)も「家族皆で書いちゃうか」と盛り上がり、「マミー編」「ファミリー編」の2本立ての闘病ブログが誕生した。

 横隔膜や肝臓に転移したがんは、切除できなかった。抗がん剤も効かなくなり、09年6月から無治療を選んだ。何度も落ち込んだが、明るく前向きな「マミーらしさ」は失われなかった。

 抗がん剤の副作用で髪が抜けた時は、慶臣さんが美由紀さんの頭に目を描いて遊んだ様子の写真や、かつらを吹っ飛ばして坊主頭でおどける動画も公開した。

 昨年は24時間テレビの中で特別に企画された「仮装大賞」に家族全員で出場。結婚した真生さんには昨年11月、長女が生まれ、皆で喜びをつづり合った。読者からの応援コメントも増え、家族皆で励まされた。

 一方、その間も病状は進み、美由紀さんが痛みやつらさを訴える日も増えた。ブログは、普段は明るく過ごす家族が、面と向かって言えない本音や不安を伝え合う場にもなった。

 「マミーがたまに、『マミーが死んだら…』って話をしてくる。ちゃんと聞いてあげなきゃいけないんだけど、目をそらしてしまう。怖いんだ」(真生さん)。

 「分かってるよ。マイがマミーが逝ってしまうのが怖いこと。伝えたいことは『楽しんで! 子育ても、夫婦関係も』。笑顔を見せていれば、きっとなんでもうまくいく。乗り越えられる!」(美由紀さん)。

 最近、美由紀さんは夫がブログに書いた文も読んだ。「頑張るしかない、マミーが一番頑張ってるからな。俺らも、頑張らないと」。口べたであまり感情を表に出さない夫の本心を知って、うれしかった。

 「妻は家族の中心で必要な存在です。いなくなると想像するだけで怖くて、真剣な話題は避けちゃう。でも、文章だと書けることもあるんです」と宏之さん。

 喜びも不安も共有する家族のブログが、家族の絆をますます深めていく。(2011年6月14日 読売新聞)


情報プラス
 中村美由紀さん一家の書く「マミーとその家族が綴る癌闘病日記」はこちら(http://www.mummys-life.com/ )から読めます。
 
 マミー編、ファミリー編、どちらを開いても、右脇にかつらを吹っ飛ばしておどけるマミーの動画が出てきます。こちらもぜひご覧下さい。」

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[がん共生時代]ブログの力(3)被災患者に確かな情報



「テレビで被災地の映像が流れる度、千葉県に住む乳がん治療中の女性(40)は胸が痛んだ。

 「被災地にいるがん患者のために何かできたら」

 4月中旬、被災地の患者に送るかつらや帽子の提供を呼びかけるブログを読み、これだ、と思った。自分も抗がん剤の副作用で髪が抜け、かつらを使っている。使わずにしまっていた別のかつらを急いで発送した。

 ブログを運営するのは、がん患者6団体のネットワーク「J―CAN」(事務局・東京)。普段は、抗がん剤の承認の遅れなど、共通して抱える問題の解決を目指して活動している。

 ブログでは、治療中の患者が気を付けることや、受け入れ可能な医療機関、放射線被曝(ひばく)の影響など、被災地の患者に役立つ情報を掲載する。かつらなど物資を被災地に送るプロジェクトも、その一つだった。

 女性は昨秋、左の乳房の全摘手術を受け、現在抗がん剤治療中だ。震災当日、都内の会社から帰宅できず、体育館に1泊。寒い中、大勢の人と雑魚寝し、被災した患者への思いが募った。

 「病気で体調が万全でないのに、こんな状況が続いたらどんなにつらいか」

 ブログには、かつらなしで避難所で暮らす患者のことが書かれていた。見た目を気にしながら過ごすつらさはよく分かる。「私も『命が助かったんだから見た目はどうでもいいじゃない』とよく言われますが、心はそんなに単純じゃない。患者だからこそ分かる痛みもあるから、直接届く支援がしたかった」と話す。

 その後、プロジェクトの独自のブログが開設され、受け取った患者の喜びの声も読んだ。「ブログのおかげで、距離は離れていてもつながることができた」と女性は喜ぶ。

 J―CANには当初からホームページがある。なぜ別にブログを作ったのか。

 震災直後、医師らはネット上で被災患者へのアドバイスをバラバラに発信していた。根拠のない医療情報もすでに出回っていた。それに気づいた卵巣がん患者会代表でJ―CAN事務局の片木美穂さん(37)らは、「確かな情報を集約して提供したい」と考えた。

 ホームページだと更新作業に時間と手間がかかる。更新が簡単なブログの方が緊急時には便利なのだ。片木さんらは、震災翌日には突貫工事でブログを開設。おかげで、全国のメンバーが、信頼できる詳しい情報を次々に更新できた。

 被災地では閲覧できない人も多い、との批判もあったが、「支援者が正しい情報を得る道具にもなる」と片木さん。この情報で転院先が見つかった患者が何人もいる。14日現在、掲載情報は91本に上っている。(2011年6月15日 読売新聞)



情報プラス
J―CAN
 J―CAN(Japan Cancer Action Network)のブログはこちら から見ることができます。 J―CANのHPはこちら 。



One world プロジェクト

 被災地のがん患者にかつらなどの支援物資を送るプロジェクト「One world プロジェクト」は、被災地の薬剤師からの支援を求める声を受けて、J―CANの一員でもあるNPO法人「HOPEプロジェクト」代表の桜井なおみさん(乳がんサバイバー)や医師ら有志が始めたプロジェクトです。同プロジェクトが独自に作ったブログはこちら から見ることができます。」




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[がん共生時代]ブログの力(4)家族も心の内吐き出す



「ブログは、がん患者だけでなく、患者の家族の支えとなることもある。

 川崎市に住む清水浩司さん(39)と同じ年の睦(むつみ)さんは、2009年3月に結婚した。翌月、妊娠が分かり喜びに包まれたが、5か月後、妻にリンパ節にまで転移した直腸がんが見つかった。

 3週間後に帝王切開で長男を出産し、抗がん剤と放射線治療に入った。その手術前日、夫婦で始めたのが、浩司さん発案のブログ「がんフーフー日記」だった。

 友人たちに日々の状況を伝えられるし、同じ経験をしている誰かの参考になるかもしれない。何より、浩司さん自身が一つ残らず記録したいと思った。「絶対忘れちゃいけないことが目の前で起きている」。そんな感覚が常にあった。

 息子へのあふれる愛情、妻の実家のある福島県いわき市で、友人らが内緒で用意してくれた手作りの結婚式。輝きが増す日々をブログに刻む間も病状は進み、書き手は夫だけになった。

 仕事と看護で疲れ、むずかる息子を窓の外に放り出したくなった夜のこと。死の恐れに沈む妻に、かける言葉が見つからないこと。

 病状が悪化した昨年5月には、看護する側の葛藤もありのままにつづった。

 個室を勧められたのに、費用のことを考えて妻に切り出せなかった。今後の治療をいわき市に移した場合、自分の雑誌編集の職や育児はどうするかを相談した看護師から、仕事を辞めるという選択肢を提案され、迷った。妻のために何でもしてあげたいのに、決心できない自分を責めた。

《自分に失望するのは、もういやだ。しかし、どこまで捧(ささ)げれば許されるのだろう?》(ブログより)
 「後で友人から、妻が読んで落ち込んでいたと聞きました。それでも書かずにはいられなかった。つらい時は書くことで衝撃を和らげ、その時々をしのいできた」と浩司さんは言う。

 転院した妻を追っていわき市に行く。そう決めて辞表を出した直後の昨年7月、妻は38歳でこの世を去った。その後もブログは続けた。死の実感がわかなかったからだ。震災直後には、ブログや電話で福島の友人に安否を問いかけた。いつの間にか、友達思いだった妻のように行動していた。

 それまでのブログをまとめ、今年4月、「川崎フーフ」の筆名で「がんフーフー日記」(小学館)を出版。後書きにはこう書いた。

《彼女の死は愛する人の中で発酵し、芽吹き、新たなカタチとなって生まれ変わり生き続けようとしています。物語は終わりません。》
 今後の育児、本から生まれた新たな出会い、そのすべてに妻がいる。当分ブログはやめられそうにない。

(2011年6月16日 読売新聞)


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 ブログ「がんフーフー日記」はこちら(http://ameblo.jp/gan22/ )から読めます。



このブログをまとめた本「がんフーフー日記」(川崎フーフ著、小学館)は、本が大好きで、結婚前に書店員として働いていた睦さんのために、浩司さんが「最高の墓を」という思いを込めて作りました。


 本のHP(http://www.shogakukan.co.jp/pr/fuufuu/ )から、浩司さん自身による前書きの朗読も聞くことができます。背景に流れる画像は、友人たちが内緒で用意してくれた結婚式の写真です。


 ブログで夫婦の毎日を追い、二人の気持ちを共有してきた友達だからこそ、こんな最高のサプライズを仕掛けることができたのでしょう。式の間中、ずっと泣いていた妻を見つめていた浩司さんは、「人の人生が報われる瞬間って、見たことがありますか?」とブログに書いています。


 ヨメ、ダンナと互いを呼びながら綴ったブログ。ヨメ・睦さんが書いたのは最初の方の数回のみでした。しかし、本には、睦さんが浩司さんに送ったメールや、手紙も収録されています。浩司さんは、妻の死の実感がないまま、9月に一度ブログをしめたのですが、その後うつを発症した時の様子を、本の後書き「それからのそれから」に書いています。「ヨメはもういない。ヨメは死んだんだ」と強い喪失感に襲われた浩司さんを救ったのは、睦さんの残した手紙でした。


 ここではその内容は書きませんので、ぜひ本を読んでください。」



http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=42383



[がん共生時代]ブログの力(5)「主」亡き後も大勢に希望



「ブログの主の死から半年たった今も、がん闘病のジャンルで人気1位の座を守るブログがある。「若年性乳がんになっちゃった! ペコの闘病日記」だ。

 「ここからです、ここから! ここから、ペコの奇跡の物語を皆様にお見せできればと思います」

 札幌市の藤谷ペコさん(筆名)がブログでこう書いたのは2008年12月。がんが心臓にも転移し、余命半年と告げられた直後だった。宣言通り、新たに投与した抗がん剤が効果を見せたものの、いつ心臓が止まってもおかしくない。医師は反対したが、夫(40)と香港旅行を決行し、その後も海外旅行を繰り返した。

 「妻の生きる力になったのは、がんであっても毎日を楽しむ気持ちと、『怒り』でした」と夫は語る。

 結婚1年目の07年3月、右胸の乳がんと診断された。34歳の時だ。母親を卵巣がんで亡くし、乳がん検診を毎年受けていたが、既にリンパ節に転移していた。

 全摘手術直前に始めたブログで、若い世代で見落としの可能性が高い乳がん検診の問題を何度も訴えた。

 手術から8か月後の08年7月、骨とリンパ節に再発。ホルモン療法や、分子標的薬という新しい薬が効かない乳がんのため、抗がん剤で命をつなぐしかない。保険で使える抗がん剤はすべて試したが、次々と効かなくなっていった。

 脳や甲状腺にも転移が広がった10年秋にはテレビ出演し、海外で広く使われている薬が日本で使えない「ドラッグ・ラグ」の解決を訴えた。「日本でなければもっと治療できるのに!」と何度も悔しがった。

 その番組でペコさんを知った乳がん闘病中のまつこさん(40)(筆名、北海道在住)はブログを見て驚いた。

 「こんなに具合が悪いのに旅行に行っちゃうの? 何でこんなに前向きなの?」

 昨年末に再発がわかったまつこさんも、抗がん剤が命綱となる同じタイプの乳がんだ。「薬がなくなり体が弱っても、ペコさんの気持ちは決して弱くならなかった。励まされました」

 今年1月、「ペコの奇跡の物語が終わりました」と夫がブログで報告した。読者の声350件以上が寄せられ、38歳の死を悼んだ。

 まつこさんはその後も度々ブログを訪れる。ペコさんが臨床試験でしか使えなかった抗がん剤が、保険で使えるようになったニュースもコメントで入れた。

 「少しでも思いを継ぎたいから」と、4月には自身のブログを開設、ドラッグ・ラグやがん検診について発信を始めた。ブログが、人から人へ生きる希望をつないでいる。(岩永直子)

(2011年6月17日 読売新聞)


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 ブログ「若年性乳がんになっちゃった!ペコの闘病日記」はこちら(http://pecochan.at.webry.info/ )から読めます。


 今年1月19日、このブログをまとめた本「若年性乳がんになっちゃった!ペコの闘病日記」(藤谷ペコ著、北海道新聞社)も出版されました。ずっと作家になることを夢見ていたペコさんは、病院のベッドの上でこの本を手に取って、とても喜んだそうです。奇跡の物語が終わる、わずか二日前のことでした。


 大学は芸術学部に進み、演劇の脚本を書いていたペコさんは書くことがずっと好きだったそうです。ブログを書くことで、多くの人を励ましていましたが、全身に転移し、使える抗がん剤が尽きてしまったころは、夫のポコさん(ブログ内でペコさんはご主人をポコさんと読んでいました)に「痛い、苦しい」「早く病院に来て」と弱音をはくことも増えたといいます。


 それでも、ブログの中のペコさんは、いつも明るく前向きでした。「もちろん常に本音を書いてはいたのですが、同じように病を抱えて苦しい思いをしている人やそのご家族に希望を持ってもらえるように、言葉遣いには注意を払っていました」とポコさんは振り返ります。


 ペコさんが旅立った後、ブログはポコさんが引き継ぎました。パスワードは直前まで教えてもらえず、1月に入ってからようやく教えてくれた時、ペコさんは「ブログを守ってね」とポコさんに言ったそうです。


 ポコさんは、残された夫の思いのほか、「妻のようには書けないけれど、妻が書き残したことを、ずっと隣にいた者として書いていかなければ」と、闘病生活で気付いたことも綴り始めています。病人にとって、入院生活で一番の楽しみとなる病院食の味が残念ながら微妙なこと、QOLにとってペインコントロールが非常に大事であること、ドラッグ・ラグのこと・・・。「治療法は日進月歩で変わっていくと思いますが、病気に向き合う患者の気持ちは変わらないこともあります。妻と心の中で話し合いながら、思いを継ぐためにこのブログを生かしていきたい」と話しています。


 また、まつこさんのブログ「負けず嫌いのまつこの乳がん闘病日記です」はこちら(http://yaplog.jp/matsuko0201/ )から読むことができます。まつこさんは、ペコさんのブログでもこの筆名でコメントを投稿しています。」



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