ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

社会を正気に保つ学びとは? powered by masaharu's own brand of life style!

ことばが生まれる源泉に触れる旅へ(「ホリスティックな知を育む学校・図書館をつくる」第3回)

2013年01月16日 | メディア

 

 昨年の秋から続けている連続セミナー「ホリスティック(総合的)な知を育む学校・図書館をつくる」の第3回は2月11日(祝)に「東京賢治の学校 自由ヴァルドルフシューレ」で演劇の指導をしておられる高田豪さんを講師にお迎えして「からだ・こえ・ことばのつながりを探るレッスン」をおこなう。高田さんは、竹内敏晴さんの指導を受けて竹内演劇研究所「からだとことばの教室」のスタッフとなり、その後、人間にとっての表現の意味と可能性を探るレッスンをつづけてこられた方である。(詳細はチラシをダウンロードしてご覧ください)

(ことばは)まず何よりも話しことばであり、話しことばは人間の発するこえが分節化され整理され記号化されたものである。そしてこえとことばに本源的な活動をあたえているのは、まさに人間のからだの生命行為そのものである(竹内敏晴著『ことばが劈(ひら)かれるとき』p. 135、ちくま文庫、1988)

 「劈く」とは、刃物で喉を裂いて開くさまをあらわす。耳が不自由で発声も不明確であった竹内さんにとって、ことばを発することは苦行であった。障害をもっているというコンプレックスのために周囲の人を避けるようになり、コミュニケーションは、ますます困難になる。竹内さんは、やがて演劇と出会い、演技する場をそれまで閉ざされていた可能性をひらく場として、自らのことばを劈いてゆく。『ことばが劈(ひら)かれるとき』の初版は、1975年に思想の科学社から出版されている。この本は、70年安保を経て、戦後日本がよりどころとしてきた価値や制度や枠組みが大きく問いなおされた時期にあって、自らの教師としてのあり方を問いなおし、新たな生き方を摸索していたわたしに具体的な方向と方法を示してくれた。

 40年ほど前のことだが、英語教授法の研究会でわたしがおこなった公開授業を竹内さんがみてくださった。舞台演出家であった竹内さんは、授業の中身や進め方ではなく、授業中のわたしの姿勢と声との関係に触れて、その場で実際に指導をしてくださった。わたしの声は子どもたちに届いていたか。声の大小や滑舌の問題ではない。わたしの声が子どもたちの裡にどのように響き、子どもたちをどのように動かしたか。それは、ことばになる以前のからだの動きの問題であり、からだをとおした子どもたちとのかかわり方の問題でもあった。それ以来、わたしはコミュニケーションの原点としての「からだ・こえ・ことば」のつながりに関心をもつようになった。

 わたしたちのからだと精神は、まわりの世界と交わりながら育まれ、観念も情動もことばも、からだと世界が交わるところから生まれてくる。いま、わたしたちがよりよく生きるために必要としているのは、世界と直接ふれあうことのできる開かれたからだではないか。そのからだの動き(=生命行為)によって、わたしたちは、手で相手の方に触れたり、一緒に車を引いたり、あるいはキスを交わしたり殴り合ったりするのと同じように、他者に働きかけて他者を変え、そのことによって自分も変えてゆく力のあることばを劈くことができる。そのことを、わたしは竹内さんのレッスンから学んだ。

 今回のセミナーは、わたしたちが成長とともにことばを身につけてきたプロセスを振り返ってみる機会にもなるかもしれません。ゆっくり温泉につかって日常生活で疲れたからだを癒すように、ことばが生まれる源泉に触れて身も心も回復する旅に出てみませんか?

 なお、今回のレッスンを受けるにあたっては、あらかじめ『ことばが劈(ひら)かれるとき』のほかに、雑誌『環vol.14』(藤原書店、2003)の特集『「読む」とは何か』に掲載されている竹内敏晴さんと松居直さんの対談も一読しておかれることをお勧めします。そして、さらに関心のある方は、以下の2冊も古い本で絶版になっているかもしれませんが、なんとかして見つけてお読みになることをお勧めします。

(1) 林義男著『こえとことばの科学』(鳳鳴堂書店1957、改訂版1979)

(2) つるまきさちこ著、安高純代(イラスト)『からだぐるみのかしこさを‐新たな人間関係の創出へ向けて』(野草社1980、新泉社1981)

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房

ついでに下記の本もお読みくだされば、このブログ記事の背景が書かれています。
Here Comes Everybody 足立正治の個人史を通して考える教育的人間関係と学校図書館の可能性

 

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「虹の民」よ、ふたたび! サラダボウルからジャムへ(ノルウェーの連続テロ事件と日本の多文化政策)

2012年05月04日 | メディア

 

 今日のタイトルに戸惑われた方が多いと思います。ごめんなさい!

 4月27日、先週の金曜日のことだった。原発再稼働、放射能汚染、小沢判決、無謀運転による痛ましい事故などで埋め尽くされたメディアの片隅に、ふと目についた見出しが気になってしかたがなかった。

4万人「平和の歌」で抗議 ノルウェー連続テロ被告に (河北新報)
ノルウェー連続テロ被告に4万人の歌声で対抗…被告嫌悪の童謡で揺さぶり (msn産経ニュース)
平和と共存の歌でテロ被告に対抗、首都で大合唱集会 ノルウェー (CNN.co.jp)

 昨年の7月にノルウェーで死者77人を出した連続テロ事件ことなど、もう日本人の記憶には残っていないかもしれない。ノルウェーが進めている多文化主義と寛容な移民政策、とりわけ、その結果、イスラム系移民が増えていることに危機感を抱いたアンネシュ・ブレイビク被告による単独の犯行だったとされている。その公判が行われているノルウェーの首都オスロで約4万人の市民らが犠牲になった人たちの追悼集会を開き、被告が嫌悪しているといわれている子どもの歌を合唱したというニュースである。CNNによると、集会は2人の女性が交流サイトのフェイスブックを通じて呼びかけた。参加者は数十人程度を予想していたが、4000人が同サイトで呼びかけに応え、当日の参加者はそのさらに10倍の4万人に膨れ上がったという。

 ぼくが気になったのは、いったい、どんな歌だったのか。ネットで探したら集会の様子がyoutubeにアップロードされていた。

Thousands of Norwegians in Youngstorget Square singing Pete Seeger's "My Rainbow Race"

 集会に参加した人たちが唄っていたのは、ノルウェー語で“Barn av regnbuen”(barn 子供, regnbuenb 虹)「虹の子どもたち」と題された歌で、それは、まぎれもなく(ぼくにとってはすごく懐かしい)あのピート・シーガーの“My Rainbow Race”(虹の民)ではないか。日本でも1970年前後に環境保護や核廃絶の集会などで盛んに唄われたアメリカのフォークソングが、いまノルウェーでは、子どもの歌として幼稚園や小学校で唄われているという。「虹」は肌の色の異なるさまざまな人種を象徴していて、連続テロの犯人は、この歌を嫌悪していたという。「虹の民」は、価値観(文化・生活様式)のちがいによる対立と排除ではなく、多様な人たちが暮らす、かけがえのないひとつの地球(環境)を共に守っていこうという内容の歌である。「虹の子どもたち」では「姉妹も兄弟もみんな一緒に暮らす世界、虹の小さな子どもたちのように」と唄っているらしい。連続テロの犯人は、この歌を嫌悪していたという。

 報道によると、被告はノルウェーの多文化主義への嫌悪を表明する一方で、日本と韓国のことを「単一文化が保たれている完全な社会」で「より人々の調和が取れている」と称賛しているという。なんだか複雑な想いだが、その背景を知るには同志社大学の二人の教授による以下の対談が参考になる。

・ノルウェー連続テロ事件の背景を探る(CISMOR Interviews)

内藤正典(同志社大学グローバル・スタディーズ研究科教授)
小原克博(同志社大学神学部教授、CISMORセンター長)

 対談は「豊かな国であり、外国人に対して寛容なノルウェーに極右(一国ナショナリズム)はありうるのか?」という問いから始まり、やがてブレイビク被告が評価しているといわれる日本の排他的な移民政策へと及ぶ。「いろんな人がいて多様な価値観を持って同じ社会にいてもいい」という日本の「多文化共生」は、権利だけ与えて不干渉というもので、結局「無関心の壁を作って、どうぞご自由にやってください。私は私、あなたはあなた」というもので「在日差別は現存するし、今後、ムスリムの流入が多くなると、将来、きびしい衝突が起こる可能性がある」と指摘しておられる。

 これを聞いて、かつて読んだ『アメリカ多文化教育の再構築 文化多元主義から多文化主義へ』(明石書店、2007)を思い出した。著者の松尾知明さんは、今日のアメリカ社会と教育の課題を多文化という視点からとらえて、さまざまな野菜が美しく配置されている「サラダボウル」にたとえられる「文化多元主義」から、異質なパートが混ざり合って全体として美しい響きを奏でる「ジャズ」(私の愛用語でいえば「ジャム」)にたとえられる「多文化主義」への移行過程を記述・分析している。とりわけ、多文化共生社会の実現を阻んでいる権力作用を明らかにしながら、西洋中心の教育内容を脱中心化していくプロセスに関する記述は示唆に富む。

 今後、日本が極端な一国一民族のナショナリズムに走るとは想像しにくいが、多様な人々の文化や伝統に触れて衝突が起きる機会が多くなってくるなか、「郷に入れば、郷に従え」という態度から、お互いに「異文化の懐に飛び込んで学び、その上で議論をする」態度への転換が求められる時期にきているのではないか。「サラダボウルからジャムへ」。人種・民族のみならず、さまざまな価値やライフスタイルをもつ多様な集団を擁するアメリカ社会の葛藤のプロセスは、わが国における多様性を尊重する社会や教育のあり方を考えるうえで参考になるにちがいない。

PS

ピート・シーガーのMy Rainbow Raceを紹介しておこう。

ピート・シーガー自身の唄

以下が原詩です。(「意味は?」もし、自分で解読できなければ、ぼくの「やり直し英語教室」で一緒に考えませんか?)

MY RAINBOW RACE

Chorus:
One blue sky above us
One ocean lapping all our shore
One earth so green and round
Who could ask for more
And because I love you
I'll give it one more try
To show my rainbow race
It's too soon to die.

1. Some folks want to be like an ostrich,
Bury their heads in the sand.
Some hope that plastic dreams
Can unclench all those greedy hands.
Some hope to take the easy way:
Poisons, bombs. They think we need 'em.
Don't you know you can't kill all the unbelievers?
There's no shortcut to freedom.
(Repeat chorus)

2. Go tell, go tell all the little children.
Tell all the mothers and fathers too.
Now's our last chance to learn to share
What's been given to me and you.
(Repeat chorus one and a half times)

Words and Music by Pete Seeger (1967)
(c) 1970 by Sanga Music Inc.

 私自身は、レコード以外に古川豪さんや中川五郎さんが片桐ユズルさんの訳詩で歌っておられるのを聞いていた。

  ♪ ひとつの青空
  ♪ ひとつの青い海
  ♪ ひとつの地球
  ♪ かけがえのない
  ♪ 愛しているなら
  ♪ もう一度やってみよう
  ♪ 虹の民よ 滅びぬよう

 ピート・シーガーは、1939年にハーバード大学を中退、フォークソング研究家アラン・ロマックスの助手として国会図書館の民謡資料室でフォークソングの収集、整理に携わっていたが、ウディ・ガスリーに誘われて一緒に旅に出たのがきっかけでフォークの歌い手になったという。

虹の民におくる歌―『花はどこへいった』日本語版(ピート・シーガー著、矢沢寛監訳、社会思想社2000)

 

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公平で公正な思考力を育む(日隅一雄さんのメディア・リテラシー講座)

2012年05月02日 | メディア

 

 政府や東電はパニックを恐れて情報を隠していたのではないか? そもそも、彼らも正確な情報を把握できていなかったのではないか? メディアの報道姿勢に問題があるのではないか?  ・・・ 311以降、政府や東電、専門家、そしてメディアにたいする私たちの信頼が大きく揺らいでいる。ということは、情報の受け手である私たち自身が、メディアが提供する情報をどのように評価し、どのような情報を選択して自らの判断と行動に活かしていくかが問われている。マスコミは信頼できないといいながら、知らないうちに自分たちの判断や行動がマスコミの報道や論調に影響されていることはないか? 自分の気に入ったメディアが大きく取り上げていることに関心を寄せ、ほとんど報道されない出来事は取るに足らないことだと思ってしまっていないか? 世の中の出来事を公平・公正な立場に立って考えたいと思うなら、少なくともメディアの報道や専門家の言説を批判的に読み解く術を身につけておくべきだろう。報道にたいして、まず自分の日常的な生活感覚をもとに率直な疑問をもつこと。そして、どのような前提や立場から情報が収集され編集されているのか、その結果、記事や映像が、どのような含意を含むものになっているのかを見抜くことである。その上で、自分自身にたいしても、何を根拠にして、どのような前提や立場に立って判断しようとしているのかを問うてみなくてはならない。

 一例をあげる。4月26日に東京地裁で小沢一郎元民主党代表の裁判で無罪判決が出た。これにたいする新聞やテレビの論調は「限りなくクロに近い灰色」とか「疑惑は残る」とするものが圧倒的に多い。街頭インタビューやアンケート調査でも同様の判断をしている人がほとんどである。その一方で「刑事裁判の良識をまもった」「八方美人的判決」といった評価や、検察審査会制度の問題点や検察による石川さんの調書のねつ造を問題視する意見もある。田代検事及びその上司が市民団体によって刑事告発されていることを、どれくらいの人が知っているだろう? (「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」)だが、そういった動きは、小沢さんの国会での証人喚問や疑惑を説明する責任があるという圧倒的な意見の陰に隠れてしまっているようだ。

 「これまでもずっと疑惑があるといわれてきた人だから今回の件もクロに違いない」「政治家の金権体質の象徴、裏の権力者と言われてきた小沢さんは、法の目をかいくぐって裏で何をやっているか分からい」。そんな前提にとらわれているかぎり、検察庁が起訴しなかったり、検察審査会の強制起訴によって行われた裁判で無罪判決がでても、依然として「疑惑」は残る。「有罪」の証拠が出るまでは、とうてい納得できないということになる。先入見にとらわれていると、それに合わない目の前の事実さえ見えなくなることがある。いったん自らの前提を棚上げにして事実を吟味するのが公平な姿勢というものだ。

 ジャーナリストで弁護士の日隅一雄さんは、ご自身のブログの中で今回の判決を報じるNHK のニュースを取り上げて、この報道を読み解くための問題を読者にたいして出しておられる。

(引用開始)

2012/04/27

小沢さん無罪報道であなたのメディアリテラシー度をチェック!~ニュースをつくると自負するNHKを例に

【無罪判決 小沢氏違法認識と言えず】 というタイトルのニュース(※1)です。

※1 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120426/k10014745551000.html

NHKのニュースの本文(一部のみ引用)は、次のとおり。

【26日の判決で、東京地方裁判所の大善文男裁判長は、「元秘書らは、小沢元代表の巨額の資産や金の出どころが明らかになると、政治活動に不利益になると考えた」と指摘し、元秘書らが収支報告書にうその記載をしたことを認めました。

また、小沢元代表と元秘書らとの日頃の関係などから、「元代表は、4億円を記載しないことなどについて、報告を受けて了承していた」と認めました。

一方で、小沢元代表が元秘書らと共謀したかどうかについては、「共謀があったことを疑う、それなりの根拠はあるが、元代表が具体的な事情を知らなかった可能性があり、違法だと認識していたとは言えない」と指摘し、小沢元代表に無罪を言い渡しました。】

さて、上記部分、私がデスクなら、突き返したと思う。あまりにも、タイトルにふさわしくない内容だからだ。そして、実は、各局の報道も同じ誤りを足並みそろえて行っている。こうなると、誤りなのか、故意なのか、わからないが…。

どこがひどいのか、ニュースだけ読んでいてもわからないかもしれないので、判決要旨を新聞各紙で確認してほしい。ネットでも紹介されているが、一部省略されており、ヒントにならないものが多いようだ。

(引用終了)

 日隅さんは、その日のうちに「回答編」も書いておられるので、各自で参照していただきたい。裁判所による判決要旨も公開されているので、該当箇所を参照しながら日隅さんの回答が妥当かどうかをチェックされることをお勧めします。その後、日隅さんは、この裁判について、さらに詳しい説明を加えておられる。

2012/04/29

東京地裁判決は小沢さん無罪をこのように説明している~判決批判する前に読んでほしい!

「小沢さん無罪判決について、テレビは、「判決が、石川秘書から小沢さんが収支報告書に嘘の記載をすることの説明を受けていたと認定している」にもかかわらず、「判決が、この記載が違法であることについて認識していなかった可能性がある」としたのは、まったく変で、限りなく黒に近い、などと批判しているが、これがまったく間違いであることを、裁判所がマスコミに配布した判決要旨全文を引用して説明します。」

そして、憲法記念日を明日に控えた5月2日の今日、日隅一雄さんは【メディアリテラシー講座】の第2弾を出して、新たなテーマを提起しておられる。

憲法記念日の社説にアメリカの9条改憲要求は説明されるだろうか?

「米軍再編の見直しが行われたばかりのタイミングで迎える憲法記念日、自民党が改憲案を発表していることもあり、各紙は、社説で、安全保障問題に触れるだろう。その際、どういうところに注目する必要があると皆さんはお考えですか? 北のミサイル、中国の台頭、普天間基地の固定化…。私は、米国による9条改訂要求をきちんと踏まえたものとなっているかどうかに着目したい」

 安全保障問題やアメリカの9条愛犬要求といった日隅さんが提起されたテーマに関して新聞各紙がどのような論議をするか、私たちは、明日の朝、その結果を見ることができるだろう。それは、自分の予測や状況判断が正しかったかどうかについて喜んだり反省したりするようなことではない。各紙の出した結果を踏まえて新たな状況の展開に向けた模索を始める、その出発点に立つことになるのである。

「主権者」は誰か――原発事故から考える (岩波ブックレット)
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岩波書店
検証 福島原発事故・記者会見――東電・政府は何を隠したのか
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岩波書店

 

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2011年3月11日の経験を未来にどう伝えるか

2012年03月11日 | メディア

 

 未曾有の災害から1年目の3月11日。14時46分を迎えて、黙祷。一分間の沈黙のなかに、万感の想いが、あふれる。

 このところ、多くのメディアがさまざまな角度から3.11を振り返り、検証し、今後の復興の展望を語るなか、ひときわ注目を集めているテレビ番組がある。3月1日に放送されたBBCのドキュメンタリー番組「津波の子供たち」"Japan's children of the tsunami"(58分26秒)である(現時点でのYouTubeのアクセス回数は、156,011)。

 被災地の子どもたちと親へのインタビューを淡々とつづったシンプルな番組だが、視聴者にさまざまなことを考えさせる力強さがある。その理由の一端を、上智大教授、碓井広義さん(メディア論)が日刊ゲンダイ(2012.03.06)に寄せたコメントが的確に語っている。

 「子どもたちの素直な感想やリラックスした表情で話している場面が出てきます。取材する側とされる側にきちんと信頼関係が築かれている。ポッと行ってマイクを向けてもこうはならない。たっぷりと時間をかけて、丁寧に話を聞き出したのでしょう。番組に出演した子供たちが、行方不明となった友人との最後のやりとりや、ふたたび地震が来るのが嫌だから津波の話はしないなど、率直かつ明晰に語っているのが印象的です」

 子どもたちの命を守り、その未来を約束するために最善を尽くすのが大人の責任であることは言うまでもない。それと同時に、子どもたちもまた、やがて、災害を乗り越え、これからの社会を創っていく責任を担うことになる。そんな子どもたちが現実と向き合い、自らの経験について語り、考えることを促し、その声にじっくりと耳を傾けることもまた大人の役割である。学校教育や教師の在り方についても、考えさせられる貴重な番組である。

 今日は、まもなく16時から16時50分までEテレで放映される「シンサイミライ学校 いのちを守る特別授業 「釜石の奇跡」に学ぶ」にも注目したい。和歌山県田辺市の中学校で片田敏孝さん(群馬大学大学院教授)が行った防災特別授業の記録である。子どもたちの意識と行動を変える授業は、どのように展開されるのか?

 

原発事故を検証する書籍では・・・先日紹介した日隅一雄・木野龍逸著『検証 福島原発事故・記者会見 東電・政府は何を隠したのか』(岩波書店、2012/1)に加えて以下の二冊にも注目したい。

朝日新聞特別報道部編『プロメテウスの罠: 明かされなかった福島原発事故の真実』(学研パブリッシング、2012/2)

朝日新聞のルポルタージュ連載記事の書籍化。福島原発事故による放射能汚染は、なぜこれほど多くの被害者を生んだのか。政府、官僚、東京電力、そして住民を克明に取材し、官僚・政治・東電の責任を問う。

プロメテウスの罠: 明かされなかった福島原発事故の真実
クリエーター情報なし
学研パブリッシング

福島原発事故独立検証委員会編『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2012/3)

2012年2月28日に発表された「福島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)が独自にすすめていた調査・検証報告書。福島第一原発の中で働いた作業員の方の体験談、事故・被害の経緯、官邸の事故対応、原子力ムラの構造に踏み込んでいく歴史的・構造的要因の分析、国際協力の枠組みなどを独自の観点からまとめた。東電サイドの聞き取りができずに抜け落ちている。

福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書
クリエーター情報なし
ディスカヴァー・トゥエンティワン

  

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「5月23日の小さな希望」(議会が小出裕章・後藤政志・石橋克彦・孫正義の意見を聞いた日の記録)

2011年12月10日 | メディア

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小出裕章・後藤政志・石橋克彦・孫正義『意見陳述 2011523日参議院行政監視委員会会議録』(亜紀書房)127日に出版された。

意見陳述――2011年5月23日参議院行政監視委員会会議録
クリエーター情報なし
亜紀書房

 2011523日、末松信介委員長が議長をつとめる参議院行政監視委員会は、「原発事故と行政監視システムの在り方」について4人の参考人から意見を聴取した。小出裕章さんは原子力工学者として、後藤政志さんは元原子炉格納容器設計者として、石橋克彦さんは地震学者として事故前から原子力の危険を警告してきた人たちであり、孫正義さんは実業家として原発に代わる再生可能エネルギーによる発電を推進しようとしておられる。

 

「取り返しのつかない事態に至ってしまった311日から二カ月を超した時点ではあっても、何故この人たちは原子力の危険を警告してきたのか、あるいは、なぜ原子力以外のエネルギー選択肢を提案するのか、議会としてはおそらく初めて正面から意見を聞く。そのことには、大きな現実の意味があった」(中尾ハジメさんの「523日の小さな希望‐まえがきにかえて」)

 

しかし、その内容を取り上げたマスメディアはほとんどなかった。委員会の様子はインターネットで中継され、今も参議院インターネット審議中継で閲覧することができる。だが、大きな意味をもつ委員会が開かれたことさえ知らないで、ネットにアクセスして行政監視委員会の記録を探しあて、約3時間23分にも及ぶこの日の映像を見た人はどれくらいいるのだろう? 容易にネットにアクセスできない人もまだまだ多い現状では、その記録が本として出版されて書店に並び、図書館に配架されることには大きな意義がある。より多くの人の目にとまるようになったというだけではない。この本を手にした人が、マスメディアが重要な現実的問題から私たちの目をそらせていたことに気づくことが大切なのである。本書に寄せた523日の小さな希望‐まえがきにかえて」のなかで、中尾ハジメさんは次のように書いている。

 

「(この行政監視委員会が開かれたのと)同じ523日、衆議院では東日本大震災復興特別委員会があり、福島第一での、ありもしなかった海水注入中断の責任を追及するという、まったくおろかとしか言いようのない質疑なるものが行われていた。安倍晋三議員発信のメールマガジンに端を発する、官邸の指示による海水注入中断こそは初期対応の重大な誤りであるという、まことしやかな主張に、国民を代表しているはずの人々が、見るからに勇んで飛びついたのである。そして新聞は、この馬鹿馬鹿しくも狡猾な「管おろし」のための一幕を、ただ垂れ流すために、大きな紙面をさき、この国の言論は、人々がこうむる原発災害の現実にも、原発の内在的危険の本質にも、エネルギー経済危機解決の道筋にも、まったく近づくことはなく、遠ざかるばかりだったのだ」(pp.3-4)

 

私たちは、メディアを介さないで何かを知ることはできない。だが、報道にいたるプロセスやマスメディアの制約に気づかないまま、新聞やテレビの記事や映像を読み解き、情報の正確さを求めても、マスメディアが用意した囲いの外にはでられない。ニュースを追って現実に起きている事態に向き合おうとしない私たちの心性の落とし穴について、中尾ハジメさんは『スリーマイル島』(野草社、1981でも次のように警告している。

 

「私たちの報道こそ,私たちの思考に阻止的にはたらいている力だ,と考えることは,はやとちり,飛躍といわれるかもしれない。が,報道こそくせものだということを,諸刃の剣だということを忘れずに強調しておきたい。

簡単なことだ,くどくどいうまでもない。私が現地につくまで聞いたことと聞かなかったこと,そして現地で聞いたことと聞かなかったこと,そこにはあまりにも歴然とした差がある。ことこの出来事についていえば,私たちが報道によって世界を測っているかぎり,私たちは世界に適合していないということがわかる。ようするに私たちはうかつだったのだ,という答えも無邪気にすぎるだろう。

いや報道と現地の差は,抽象的で要約されていることと具体的で詳細であることの差ではないのか,と一般論に説明をもとめる人がいるかもしれない。私たちは個別なことがらの詳細をただ収集し,その分量に鼻の穴をひろげるだけが能ではなく,そこから原理をひきだし方針をたどるという心づよい特性があるゆえに,この反論は一応もっともなのだ。しかし,これはやはり大うそである。

単純にいって,そこから原理をひきだすはずの具体的な,なまの混沌にも,その詳細にも,私たちの報道はむかいあわなかった,というべきだ。おそらくは最良の記者たちでさえ,彼らがむかいあったのは事態そのものではなく,技術陣の物理的危機への対応,識者のコメントだった。それ以外どういう取材があるというのだろうか,と疑わせるほど事態は,そのなりたちも,処理のされかたも,平均的人間からすでに疎遠なのだ。そう,記者がそのなかへとニュースをもって帰る人びとの側に,ニュースにではなく事態にむかいあおうとする意志がはたらいていないとき,この間接的取材の閉鎖回路は自動的に完全になるということも,つけくわえておかなくてはならない」(Ⅹ)

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カタログハウスのCMはなぜ放映を拒否されたのか(天野祐吉さんのコラムから)

2011年11月25日 | メディア

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毎週水曜日の朝日新聞朝刊に掲載されている天野祐吉さんのコラム「CM天気図」を楽しみにしている。CMに反映された現代社会の諸相を軽妙な語り口で読み解いてみせてくれる天野さんのコラムは、ユーモアが効いているだけでなく、批評精神がつらぬかれていることで、読んだ後に考えさせる何かが残る。ときには辛辣な批判が自分に突き刺さってくることもあれば、洒脱なことばの裏に感じ取れる筆者の憤りに強い共感を覚えることもある。20111123日に掲載された「異見広告」もそのうちのひとつだ。

 

 黒い画面に白い文字の文章があらわれ、それを読む大滝秀治さんの声が流れる。

 「原発、いつ、やめるのか、それともいつ、再開するのか。それを決めるのは、電力会社でも役所でも政治家でもなくて、私たち国民一人一人。通販生活秋冬号の巻頭特集は、『原発国民投票』」

 

 実際のCMは、以下のYouTubeで見られる。

 ・通販生活 2011年秋冬号 巻頭特集「原発国民投票」
 ・
天野祐吉のあんころじい

 

 そんなカタログハウスのCMがテレビ局に放送を断られたという。内容が公序良俗に反するわけでもなく、偏った意見を主張しているわけでもない。原発の問題を特集した雑誌の広告がどうして放映を断られるのか、その理由がわからない。

明確な根拠が示されないまま「やはり、それはまずいだろう」という、得体のしれない判断(規制)をマスコミが行っているとしたら、なんだか背筋が寒くなる。ふと、学校現場にもそんな風土がないだろうか、という思いがよぎる。「何を放映すべきか(放映してはならないか)」とか「何を教えるべきか(教えてはならないか)」ということにばかりうつつをぬかしていると、肝心の私たちが「知るべきこと」や子どもたちが「学ぶべきこと」といった視点がぬけおちてしまうことになりかねない。

天野さんがこのコラムで取り上げた出来事には、たかがCMといって見過ごしてしまうことのできない問題がひそんでいるように思えてならない。

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『原子力の腹の中で』私たちはどう生きるか(中尾ハジメさん)

2011年10月20日 | メディア

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立教大学の情報リテラシーに関する連続講座に第一回目の講師としてお招きした中尾ハジメさんが『原子力の腹のなかで 福島第一原発事故のあとを、私たちはどう生きるか』(編集グループSURE、2011年10月)を出版された。ハジメさんは原子力の専門家ではないが、いまから30年前にスリーマイル島で原発事故が起きたとき、現地を歩いて、さまざまな人と出会い、生活者の視点で見聞したことをもとに『スリーマイル島』(野草社、1981年)を書いておられる。そのハジメさんが、いま、福島第一原発の事故を目の当たりにして何を語ってくれるのか。『スリーマイル島』の読者なら誰もが抱いていただろう思いに編集グループSUREの皆さんが応えてくださった。

5月22日、SUREの事務所に仲間が集い、ハジメさんを囲んで交わされた対話は11時間以上におよんだ。この本は、そのときの記録である。専門的知識や脱原発の論理を伝えるために整理され、推敲を重ねた本ではない。そのおかげで、対話の流れに読者も加わって一緒に考えをめぐらすことができる。複雑に入り組んだこの国の社会システムの中で、さまざまな矛盾を抱えながら生きている一人の生活者として私たちは、日々、報道される情報から福島第一原発の事故とその影響をどのように認識し、何を選択し、決断しながら暮らしていけばいいのか。それは、けっして単一の視点から理路整然と語れるような問題ではない。そんな私たちに、ハジメさんは、多様な情報源を駆使して原子力の腹のなかを垣間見せてくれる。 

『スリーマイル島』の冒頭でハジメさんは、原発事故の初期報道におけるかたよりを「原子力発電という、まるで巨大な機械装置のような社会制度に最初から組み込まれているかたよりではないのか」と看破している。その構造は今も変わっていない。そのことを福島第一原発事故後の報道のかたよりが見せてくれた。この状況をハジメさんと編集グループSUREの人たちは、まるで「原子力という巨大な魚の腹にのみ込まれた」(SUREのHPより)ようだと考えて、書名を『原子力の腹の中で』とした。「大きな魚に飲み込まれる」というメタファーは、旧約聖書(ヨナ記、第1章―第2章)の話が下敷きになっているのだろう。神に背いたヨナが罰として大きな魚に飲み込まれて、その腹のなかで3日間暮らしたという話だが、英語国では、「大きな魚」がいつのまにか「鯨」になって、ピノキオやガリバー旅行記にも鯨の腹の中に飲み込まれる話が出てくる。

ジョージ・オーウェルも、ヘンリー・ミラーの小説『北回帰線』について「鯨の腹の中で」(1940年)という評論を書いている(『新装版オーウェル評論集3鯨の腹のなかで』所収、川端康雄編、平凡社691、2009)。あらためてオーウェルの「鯨の腹のなかで」とハジメさんの『原子力の腹の中で』を読み比べてみると、時代を隔てて重なり合う問題が浮き彫りになってくる。ヨナは「大きな魚の腹のなか」から逃げ出したいと思っていたにちがいないが、オーウェルによれば、第2次世界大戦前の恐怖と専制と統制の時代にあってミラーは、いわば鯨の腹のなかに閉じ込められている状態を自ら受け入れたというのである。そうすることで、外界の変化に翻弄されることなく、気楽に楽しく、ぬくぬくと生きられる。オーウェルは、そんなミラーを「完全に否定的な、非建設的な、非道徳的な作家であり、ただのヨナ、悪を受動的に受け入れる人、しかばねの間に置かれたホイットマンみたいな人物である」と評している。だが、その一方で、だからといって、じっとしてないで積極的で建設的な行動を起こすべきだという流れに無批判に乗っていくことにたいしても警戒心を募らせている。社会改革を謳う理論や運動のなかにも全体主義が入り込み、思想の自由が奪われて無意味な抽象概念となり、自律的な個人が抹殺されていく歴史的事実をオーウェルは目の当たりにしているのだ。(そのことを題材にしてオーウェルは『動物農場』や『1984年』といった小説を書いている)。いま、原子力の腹の中に閉じ込められている私たちもまさに、このジレンマのなかにあって、自らの生き方が問われているといえないだろうか。

私たちは、重大な局面に立たされている。今回の福島第一原発の事故をとおして、私たちは、原子力発電の構造や放射線が人体に及ぼす影響に関する知識ばかりでなく、核兵器の開発や人類の未来とむすびつく社会的、政治的な意味についても、いかに無知であったかを思い知らされた。東電や政府の情報開示、メディアの報道ばかりでなく、原発を選択する意思決定の過程においても、隠ぺいというかたちで民主主義の精神が無視されていることも明らかになった。では、どうすれば、この原子力の腹の中から脱出できるのか。まずは、沈黙しないで、地球や市民社会が壊されていくことへの危機感を共有するところからはじめようと思う。そのために『原子力の腹の中で』は、ひとつの手掛かりになるだろう。 

だが、残念ながら、この本もまた一般の書店やアマゾンなどのネット書店などでは買えない。ISBNも付されていないし、電子出版でもない。だが、ただ売ることを目的としないのなら、口コミやネットで、求める人には、たやすく手に入るのだから、とくに不都合はない。出版の多様化の時代にあって私たちに求められるのは、安易に流行や権威に依存したり、商業的な宣伝によって選択肢が与えられるのを待つのではなく、いま自分が必要とする本や情報を自ら探し出すことのできるセンスと技術を身につけておくことであり、信頼できる人々とのつながりをもっておくことであろう。

 

なお、左右社のサイトに中川六平さんが、この本についてエッセイ風の書評を書いておられるので、こちらもご覧ください。中川さんは、べ平連から岩国の喫茶店「ほびっと」の店主、その後、晶文社の編集者という経歴をもつ方で、『ほびっと戦争をとめた喫茶店』(講談社、2009)などの著書があります。

中川六平「ぶらぶらと東京にたたずむ」

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災害と学校図書館

2011年03月25日 | メディア

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東日本大震災の救援活動が進むなか、学校図書館関係者の間でも、さまざまな支援活動が行われるだろう。2004年10月の新潟中越地震のときには、阪神淡路大震災の経験をふまえて、現地の学校図書館を支援する大規模なボランティア活動が行われた。今回も、すでに、被災した子どもたちに本を届ける活動が始まったようだし、図書館関係者にかぎらず現地の非難所などに赴いて読み聞かせを行っている人たちもいると聞く。被害の少なかった学校では、新学期に向けて学校図書館の機能を回復するための支援活動も行われるだろう。 

 

 こうした被災地の子どもたちや学校図書館の支援とともに大切なことは、被災をまぬがれた学校における図書館活動であろう。東日本で起こったことを子どもたちが理解するのに役立つ知識と情報を提供することを通して、子どもたちが被災した地域や人々への共感を高め、自分たちにできることを考えるきっかけにもなるだろうし、地震、津波、原発にたいする認識を深めることは防災教育にもつながるだろう。また、災害時に役立つメディアや情報のリテラシーを身につけておくことも大切だ。災害が起こったあと、危機的状況を生き延びるためにも、適切な支援活動を行うためにも、可能なかぎり信頼できるメディアや情報を求め、それを手掛かりに的確な判断と行動ができることが必要だ。その他にも、さまざまな活動が考えられるが、3.11東日本大地震に関して何らかの取り組みを行っておられる学校図書館があれば、ぜひご連絡ください!

 

 2005年1月初めに日本の学校図書館視察団がカナダのアルバータ州の学校を訪問したとき、Sir Charles Tupper Secondary Schoolの図書館では、その10日ほど前(2004年12月26日)にスマトラ島沖のインド洋で起こった震度9.3の地震にともなう津波の被害を取り上げた授業を行っていたそうだ。その時に生徒に配布された以下の3つの資料を私が訳したものが『カナダ・アメリカに見る学校図書館を中核とする教育の展開』(全国学校図書館協議会、2006, pp.50-53)に掲載されている。

【資料3】心的外傷を伴う出来事が起こったときの援助の方法:家族と友人のための資料

【資料4】災害時のTAO(TAOとは、中国の道教で「道」とか「道理」を意味する言葉だが、この資料では災害による喪失によって心的外傷を受けた子どもたちのケアに必要な3つの要素、時間(Time)、愛情(Affection)、楽観主義(Optimism)の頭文字の組み合わせと掛けている。)

【資料5】インド洋津波に関するデブリーフィング(デブリーフィングとは、災害時の体験や感情を話し合う心理療法のひとつのことである。)

カナダ・アメリカに見る学校図書館を中核とする教育の展開
クリエーター情報なし
全国学校図書館協議会

 

 今回の東日本大地震についても、アメリカの学校図書館に関するメーリングリストSchool Library Media & Network Communicationsで活発な情報交換が行われた。以下は、地震発生から4日後の3月15日までに提供された生徒・教師向けのネット上のリソースの一部である

CNNステューデント・ニューズ

ニューヨークタイムズ・ラーニングネットワーク

・ニューヨーク・タイムズ(原子炉)

ニューヨーク・タイムズ(日本の地震関連地図)

・ニューヨーク・タイムズ(日本の地震・津波による被災地図)

ABCニュース(同じ場所のビフォー・アフターが見られる)

スコラスティック・ニュース

「自然が闘いを挑む」地震と津波に関する児童生徒向けリソース

 原子力エネルギー協議会(NEI)の東日本大震災と福島第一原発に関するウェブページ

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原発災害をどう評価するか(内田樹さんが提案する西日本への「疎開」)

2011年03月17日 | メディア

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 東北大地震が発生して一週間が経とうとしているが、災害は今も続いている。福島第一原発の状態は、政府の発表やメディアの報道を聞くかぎり、一進一退を繰り返しながら日を追って深刻になっていくように見える。微量ではあっても放射線の空気中への拡散は続いていることはたしかだが、この状況をどう評価するかは意見の分かれるところである。たとえば、住民の退避勧告の範囲にたいする日本政府とアメリカ政府の見解は大きく異なっている。英国や韓国も自国民にたいしてアメリカと同じ80キロと設定しているが、各野党も予防的な避難地域の拡大などの大胆な政治決断を政府にたいして申し入れているという。超党派で早急に検討してもらいたいと思う。

 この点について、内田樹さん(神戸女学院大教授)も今朝(2011年3月17日)のasahi.comで、メディアで放射能の影響を過小評価する解説をしている専門家や、避難を促す専門家の発言を抑圧しているメディアの姿勢を批判しておられる。「危機的状況では、リスクを過小評価するよりは過大評価する方が生き延びる確率は高い」という指摘は分かりやすい。その上で、内田さんは、被災地の妊婦、幼児、病人、児童生徒、学生などに「疎開」を呼びかけて西日本で受け入れる準備を進めようと提案しておられる。被災地に近く、実際に余震や計画停電などの影響を受けている首都圏は、被災者の避難先としては適切ではないだろう。人々の気分や街の雰囲気も関西とはずいぶん違っているらしい。個人レベルだけでなく、政府や自治体が主導して早急に西日本における「疎開」受け入れの体制づくりが望まれる。
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原発事故を知るために必要な情報とは

2011年03月16日 | メディア

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 いま福島第一原発で起こっていることを私たちはどのように捉えて、これからの判断や行動につなげていけばよいのか。状況を的確に判断するには幅広い情報が必要だが、専門的な事柄については、その情報を読み解き、評価する手がかりも必要である。テレビに登場する専門家にたいして、私は昨日のブログで「人類の生存にもかかわる大問題を憂慮し、科学者・専門家としての責任をふまえて、私たちの安全を第一に考えた発言を望みたい」と書いた。この点で私が信頼を寄せる専門家の一人に小出裕章さん(京都大学原子炉実験所)がおられる。この数日間の小出さんの発言は、下記のサイトで知ることができる。

2011年3月12日
 NPO
法人「環境市民」のホームページに、メーリングリストへの小出さんの投稿が紹介されている。

2011年3月14日
2011年3月15日
 2日ともFM797
京都三条ラジオカフェが行っている震災特別番組のなかでの電話インタビュー。ここには京都精華大学の細川弘明さんも登場して、政府やテレビなどのマスメディアによってもたらされる情報にたいして私たちはどのような姿勢で臨めばいいかを考える手がかりを示してくださっている。とりわけ、人々の不安をあおらないという名目で意図的に語られているメッセージが見逃している視点や放射能の安全性に関する誤解を生む表現などを指摘しておられる。たとえば、放射線の人体への影響について即座に直接的な健康被害がないことを強調する一方で、今後、広範囲におよぶ可能性のある長期的な影響について触れないし、事故の規模についてもチェルノブイリとは比べ物にならないほど軽度だと強調するが予想される被害の程度については触れない。被ばく線量をレントゲンやCTスキャンと比較することがリスク選択の視点を無視した議論であることは、冷静に考えてみれば誰にもわかることだろう。
 情報に振り回されないで、いま起こっていることを的確に受け止めるために、私たちは、まず自分が何のためにどのような情報を求めているのかを、自らの立ち位置や価値観とともに、はっきりさせておく必要があるだろう。その上で、多様なメディアから得られる情報を批判的に(片寄り、誇張、欠落などを)読み解くことが大切だ。人類の危機に直面している今こそ、私たち一人ひとりのメディアリテラシーが問われているのである。

【関連推奨サイト】
広瀬隆「破局は避けられるかー福島原発事故の真相」ダイヤモンド社のビジネス情報サイトDiamond Online特別レポート(第140回、2011年3月16日)
 中尾ハジメ「科学にあざむかれた住民たち」弘中奈都子,小椋美恵子編著『放射能の流れた町』阿吽社、1988より)、中尾ハジメ・ウェブサイト

 また、今回の事故は起こるべくして起こったともいえる。その可能性については、原子力発電の原理を理解していれば誰でも想像できることで、これまでの原発を巡る議論でも繰り返し指摘されてきた。要するに核燃料を閉じ込めて冷却し続けることができれば問題はないのだが、スリーマイル島でもチェルノブイリでもそれができなかった。しかも昨年の6月には、福島第一原発の2号機でも発電機の故障で原子炉に冷却水を補給できずに水位が低下するという事故が起こっていた。このときは非常用のディーゼル発電機が起動して事なきをえたが、「結果が良ければすべて良し」としないで、この時の経験を活かしてさらに万全の対策が立てられなかったものだろうか

 以下は、2010年6月18日付、毎日新聞福島版の記事である。(この記事は、現在、ネット上からは削除されているので、安渓遊地さんのAnkei’s Active Homeから採った。)


福島第1原発:2号機トラブル 原子炉水位が低下 11年半ぶり自動停止 /福島
 運転中の福島第1原発2号機(大熊町)が17日、発電機の故障で自動停止したトラブルは、原発を安全に停止するために必要な外部からの代替電力の供給が行えず、原子炉の水位が約2メートル低下する深刻な事態だった。東京電力は同日、県と原子力安全・保安院にトラブルを報告したが、復旧のめどは立っていない。
 東電によると、同日午後2時50分ごろ、タービン建屋内の主発電機を制御する「界磁遮断機」が故障し、発電機とタービンが停止。タービンを回す蒸気の発生を止めるため、原子炉も停止した。原子炉本体に問題はなく、放射能漏れなど外部への影響はないという。同原発の自動停止は98年11月の3号機以来、約11年半ぶりだった。
 原子炉が止まった場合、外部の送電線から発電所内の電力を供給するが、切り替え装置が機能せず、2号機全体が停電。このため、原子炉内に冷却水を給水するポンプが動かなくなった。十数分後に非常用のディーゼル発電機が起動し、代替ポンプで水位を回復させた。
 水位の低下は炉心の燃料棒を露出させ、原発にとって最も危険な空だき状態を引き起こす恐れがある。原子炉は停止しても、停止直後の燃料棒には熱が残っているため、重大な事故になる可能性がある。今回も水位の低下が止まらなければ、緊急炉心冷却装置が作動していた。【関雄輔】

【関連記事】
 
東京電力:福島第1原発で原子炉緊急停止、放射能漏れなし
 福島第1原発:2号機が緊急停止
 プルサーマル計画:反対3団体が集会 「核のゴミ捨て場」 /福島
 福島第1原発:部品固定のボルト外れる /福島
 福島第1原発:県、4町立ち入り調査--プルサーマルへ燃料健全性など /福島
 毎日新聞 2010年6月18日 地方版

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想定外!?

2011年03月14日 | メディア

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 東日本で起きた地震とそれに伴う被害は、私たちが神戸で経験したものとは比べものにならないくらい大きく、広範囲に及ぶものであった。まさに、想像を絶する状況であり、何もかもが想定外だった。現実が私たちの想定を超えることは日常生活でよく経験することで、私たちは、そのことをある程度まで想定して生きている。だが、人命にかかわる災害となると、そんな達観など無用である。過去の経験と現状を的確に分析し、それにもとづいて最悪の事態を想定した対策を立てておくべきだし、そのように努力してきたことも事実であろう。だが、今回は、その努力さえ裏切られた。人智を尽くしても、なお、それを上回る想定外のことが起こりうるということを覚悟して私たちは生きなくてなならないのだろうか。想定外の出来事にたいしては基準もマニュアルも準備されていない。その場で起こっている状況をいち早く感知し、それに応じた判断と行動ができるかどうか。はなはだ心もとないかぎりだが、一瞬の判断と行動が明暗を分けることもある。そのためには、少なくとも想定外のことが起こったらどんなことになるのかという想像力くらいは持ち合わせておくべきだろう。足元が突然揺れたら、波が防波堤を越えてきたら、ライフラインが途絶えたら、交通機関や通信網がマヒしたら・・・
 では、
原子力発電所の安全装置が機能しなくなったら、どうなるか? 原発を引き受けた地域の人たちは、いま起こっていることを想像できただろうか。チェルノブイリのときとはちがって福島第一原発の場合は安全装置が働いて原子炉の運転は無事に停止したという。だが、冷却装置が働かなったために高熱を発して炉心溶融(メルトダウン)の可能性が高まっているらしい。原発を推進し研究してきた人たちは、当然そのことを想像できたはずだが、それが地元の人たちに共有され、万が一の覚悟を決めておられるのだろうか? もちろん、いたずらに人々の不安をあおることは慎むべきだし、私たちも正確な知識と情報にもとづいて冷静に判断し、行動することが求められる。その一方で、安心ばかりでなく、いま起こりつつ状況にたいして相応の危機感をもって備えておくことも必要だろう。だからこそ、政府や専門家、電力会社から一方向的に提供されるコントロールされた情報だけでなく、私たちが本当に知りたい情報が得られることが大切なのである。だが、テレビで報じられる専門家の説明が、抑制的で技術的側面に終始し、弁明にしか聞こえないことに苛立ちを覚えることも多い。人類の生存にもかかわる大問題を憂慮し、科学者・専門家としての責任をふまえて、私たちの安全を第一に考えた発言を望みたい。
 
原子炉にたいする操作が思うようにはかどらず、メルトダウンの危険さえはらんだ現場で身を挺して苦闘しておられる作業員の皆さんのことを想うと心が痛む。ひとまず、いま起こっていることへの対応と経過を注視しながら、これ以上の大事に至らないことを祈るばかりである。

 いま福島第一原発で起こっているメルトダウンンの危機は、かつてアメリカのスリーマイル島で起こった原発事故と類似している。スリーマイル島で起こったことについては、京都精華大学で環境ジャーナリズムを教えておられる中尾ハジメさんが自ら調査して書かれた『スリーマイル島』(新泉社、1981)は秀逸である。もちろん原発を巡る現在の状況は多くの点で当時のスリーマイル島とは異なるだろう。だが、原発事故が何をもたらし、私たちは何を知る必要があり、メディアをどのように受け止め、どのように行動すべきか、といったことについて考えさせられることが多い。その内容は、ご自身の中尾ハジメ・ウェブサイトで読むことができる。

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本とインターネットをめぐる最近の議論

2010年07月12日 | メディア

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 本とインターネットをめぐる論争に関して、7月10日のニューヨークタイムズ紙はオピニオン蘭に「メディアはメディアである」(
The Medium Is the Medium)と題するデイビッド・ブルックス氏(David Brooks)論評を掲載している。リテラシー教育とテクノロジーの活用は、AASLを中心にアメリカの学校図書館が取り組んできた課題であり、オバマ政権が進める教育改革の重点事項にもなっている。記事は、私たちが必要な情報を入手し、最新の動向を知り、教養を身につけて、しっかりとした思索をするのに役立つメディアのありようを考える一つの視点を提供している。以下は、その要約である。


 リチャード・アリントン(Richard Allington)らが、恵まれない児童生徒853名にたいして、学年末に自分で選んだ12冊の本を家に持って帰らせることを3年間続け、読解力テストの得点を観察したところ、他の生徒よりも有意に高い結果を得た。低所得層の児童生徒にみられる休暇中の成績低下もなく、夏季講習に出席するのと同様の効果があった。これまでにも、27カ国で行われた調査で、500冊の本がある家庭に育った子どもたちは長期間にわたって学校教育を受け、成績もいいという結果が出ている。また、インターネットの利用に関してノースカロライナ州の5年生から8年生まで50万人を対象とした調査によると、家庭用コンピュータと高速インターネット接続の普及が数学と読解力の得点の低下と関連していることが分かった。ツイッターやフェイスブックが始まる前の2003年から2005年までのデータによるものである。
 これらの調査は、ニコラス・カー(Nicholas Carr)の著書“The Shallows”(『浅はかな者たち』)をめぐる議論と関わってくる。カーによれば、インターネットは移り気で飽きっぽい文化をもたらすという。彼は、幾重にも気をそらす仕組みになっているハイパーリンクの世界が深い思索や真剣な熟慮を行う能力を低下させるという調査を数多く引用している。これに対して、コンピュータゲームやインターネット検索によって情報処理能力や注意集中力が向上することを示す証拠を挙げて、学校はインターネットの恩恵をうけているという議論もある。

恵まれない子どもたちに本を提供している慈善活動家によると、物理的に本が存在することよりも、生徒が家庭で書斎をつくるときに自分にたいする見方が変わることが大きな影響をあたえているという。自分たちのことを読書家という、これまでとは違ったグループの一員と見るというのだ。

インターネットvs.書籍の論争は、メディアはメッセージであるという仮定にもとづいているが、メディアはメディアにすぎない場合もある。大切なのは、2つの活動を行っている人たちが自分のことをどう思うかである。文筆の世界は、古典的な文学作品から漫読にいたる階層的宇宙を形成している。この世界に入った新人は、時間をかけて偉大な作家や学者の作品を学んでいく。読書家は、恒久的な知恵を得るために奥深い世界に浸り、その知恵を伝える作家に敬意を払う。これにたいして、現代のアメリカを舞台とするインターネット文化は、平等主義であり、階層を打破し、敬意を問題にしない。そういうことには老人よりも若者のほうが熟練している。新しいメディアは、古いメディアより良いとされ、そこでは、束縛を受けず、礼儀を重んじることもない、反権威主義的な議論が行われている。

異なる文化は、異なるタイプの学びを育む。エセイストのJoseph Epstein(ジョセフ・エスタイン)は、情報通であることと、トレンディであることと、教養があることとを区別した。インターネットは、情報通になること、つまり新しい出来事や議論、重要な流行を知るのに役立つ。それは、トレンディであること、すなわちエプスタインのいう「退屈なメインストリームの外側のイキイキとした水域で」起こっていることを知るのにも役立つ。しかし、教養を身につけ、恒久的な意味をもつ事柄を学ぶには、文筆の世界が役立つ。それには、自分より偉大な知性に従わなくてはならない。時間をかけて偉大な作家の世界に浸らなければならないし、教師の権威を尊重しなければならない。今のところ、文筆の世界は、このようなアイデンティティを助長することに優れている。インターネット文化は、面白い話ができる人間を生み出すかもしれないが、文筆文化のほうが、優秀な生徒を生み出す。重要なものと重要でないものとを区別し、重要なものをさらに磨きをかけるのにも適している。

今後、おそらく、この状況は変化するだろう。すでにウェブ上には「昔風の」前哨基地が広がりつつある。これから本当に議論すべきは、書籍かインターネットかではなく、人々を真摯な学びに誘いこむインターネット上の対抗文化をいかに構築するかであろう。

ニコラス・カーの『浅はかなる者たち:インターネットは我々の脳に何を起こそうとしているか』は、6月に発売されたばかりだが、アメリカで大きな反響を呼んでいる。(邦訳は『ネット・バカ』というタイトルで青土社から出版されている。)9月には、続編『浅はかなる者たち:インターネットは私たちの思考と読書と記憶の方法をどのように変えようとしているか』の出版が予定されている。

The Shallows: What the Internet Is Doing to Our Brains
クリエーター情報なし
W W Norton & Co Inc

The Shallows: How the Internet is Changing the Way We Think, Read and Remember
クリエーター情報なし
Atlantic Books


邦訳『ネット・バカ』(青土社)

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること
ニコラス・G・カー
青土社


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ぼくは、あなたが期待しているその場所にはいません。

2008年05月03日 | メディア

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 ボブ・ディランを描いたという、4月26日に公開されたばかりの映画「アイム・ノット・ゼア(I’m Not There)」を見た。一つの基準では捉え切れないディランの多様な側面を6人の登場人物に託して見せる。黒人少年のマーカス・カール・フランクリン、女性であるケイト・ブランシェット、リチャード・ギアなどが演じる、いかにもディランらしい語り口や仕草には、パロディを見ているようで思わず噴き出しそうになる場面もあったが、あえて時系列や前後の脈絡を無視したシュールな展開は、ディランを知らない人たちにとっては、かなり難解ではないだろうか。だからといって、事実を描いた伝記映画を作ったとしても、陳腐なものになってしまってディランをよく知るアメリカ人はだれも見に行かないだろう。

 大恐慌時代のアメリカにあってThis Machine Kills Fascistsと書かれた一本のギターを武器にして権力や資本家と戦ってきたウディ・ガスリーに影響を受け、「ウディの子どもたち」の一人としてアメリカ人に親しまれてきたディランの詩作(思索)はノーベル文学賞にもノミネートされるほどで、この4月にもピューリツァー賞を受賞するなど、デビュー以来50年間にわたって常に話題のエンターテイナーである。若い頃のぼくは、自分があこがれてきたアメリカ民衆文化の継承者として、また時代の変化を鋭く感じ取りながら社会と自らの変革を追求し続けるディランに惹かれた。

 自分と同じ1941年生まれでありながら、同時代を全く異なる文化圏で生きてきたディランに巡り会ったのは、1963年のアルバム「フリー・ホイーリン・ボブ・ディラン」を手にしたときだった。一曲目の「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」、戦争を食い物にする人間たちを批判した「戦争の親玉(Masters of War)、核戦争を歌った「激しい雨が降る(A Hard Rain's A-Gonna Fall)」など、最後の自由への強い意志を唄った「アイ・シャル・ビー・フリー(I Shall Be Free)」にいたるまで13曲すべてが、60年安保など当時の社会の不条理を感じて生きていた自分(たち)の気持ちを代弁してくれているようで、たちまちファンになった。よく通る声で聞き手に訴える他のフォークソング歌手とは違って、耳障りなしわがれ声で、ひとりつぶやくようなディランの唄声は、なぜか、いつまでも耳にこびりついて離れず、そのメッセージは肌身にしみこんでいくようだった。

 だが、その後次々と発表されるアルバムは、必ずしもぼく(たち)の求めているものではなかった。とりわけ、当時は斬新だったフォーク・ロックの強烈なエレキ・ギターの響きには耳を覆いたくなった。ディランは、他の多くのエンターテイナーのようにファンの期待に応えるために唄うことはしない。自らの感受性の赴くままに詩をつくり歌った。けっして苔むすことなく「転がる石のように」生きていく。そのメッセージは、1964年の「時代は変る(The Times They Are A-Changin)」や1965年の「ライク・ア・ローリング・ストーン」にこめられていた。こうして、時代の空気を敏感に察知しながら、社会の不条理や固定観念にとらわれる人間の心のありようを暴き出すディランの批判精神は、歳とともに形を変えてますます深みを増していく。1973年には映画「ビリー・ザ・キッド(Pat Garrett and Billy the Kid)」の音楽を担当して、時代や世間の悪や不正に立ち向かうアウトローに共感を示したかと思えば、1980年の「セイヴド(Saved) 」では、一転してキリスト教に救いを求める。「アイム・ノット・ゼア(I’m Not There)」は、そのあたりまでの軌跡を題材にしてボブ・ディランの多様な側面を描いている。

 ディランは、若いシンガー・ソング・ライターには流行を追うことより、ジョン・キーツやメルヴィルを読むことを勧める一方で、自らは伝統的な民衆の音楽を継承しながら、その後も変化し続け、2006年には「モダン・タイムズ(Modern Times)」を発表したかと思うと、アルバムの中のSomeday Babyは、たちまち全米ヒットチャートのトップになり、65歳にしてグラミー賞を受賞してしまう。だが、ディランの詩は、フランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーにも匹敵するほど難解だといわれる。そのことは、したり顔をした批評家の分析や解説を拒絶する一方で、聞く者一人ひとりの思索と生き方に重ね合わせて、かぎりなく自由な解釈を許す。

 今、ここで起こっていることに感受性を全開にして、それを、できるだけ生のまま表現するには、永遠の旅人、吟遊詩人であり続けることが必要なのだろう。「成熟を拒否し、大地に根を張らず、何者でもない者であり続ける」(朝日新聞評)ことは、ぼく自身の心情でもあり、ボブ・ディランに共感する所以である。

<参考資料>

ボブ・ディランを知るには、何よりも聞いてみるしかないが、現在のボブディランの活動の一端を知るには、インターネット上に次のサイトがある。

Theme Time Radio Hour

ボブ・ディランが音楽を担当し、自らも端役で出演している映画『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯』はお勧め。

ビリー・ザ・キッド 21才の生涯 特別版

ワーナー・ホーム・ビデオ

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ボブ・ディランに影響を与えたウディ・ガスリーを知るには、次の資料がある。

・『ギターをとって弦をはれ』ウディ・ガスリー著、中村稔・吉田迪子翻訳、晶文社、1975

ギターをとって弦をはれ (1975年)
ウディ・ガスリー
晶文社

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映画『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』1976年に製作された映画が2006年にDVDとして発売されている。

ウディ・ガスリー わが心のふるさと

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そして、なぜか『たびのなかま』(はらだたけひで作・絵、すえもりブックス、1993)が、ふと頭をよぎりました。

たびのなかま
はらだ たけひで
すえもりブックス

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今、論じることとは

2008年01月14日 | メディア

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 113日付朝日新聞の「耕論」に作家の高橋源一郎と音楽評論家の渋谷陽一との対話「今、論じることとは」が掲載されていた。メディアや言葉をめぐる二人の発言に共感するところが多かったので、いくつかランダムに拾ってみた。発言の脈絡については本紙を参照していただきたい。

リベラルは「いい加減」!

高橋:米国では「いい加減」という悪いニュアンスがあるけれど、ぼくはリベラルは逆に「いい加減」でこそいいと思う。吉本隆明さんの対談本に「だいたいで、いいんじゃない。」というのがあります。・・・あらゆる論争は厳密さを求めて戦ってきたのに、「だいたいで、いいんじゃない」というのはまさにリベラル。

高橋:(憲法9条と自衛隊との矛盾について)60年間、矛盾はいけない、どうするか、を議論してきた。でも「矛盾しているからいいんだ、だから日本は戦争できないんだ」という論が内田樹さんから出た。60年の論議が全部パーになる論理です。ぼくは、真の意味で原理的な思考は「リベラル」で現実的だと思っています。

(厳密さを追い求める人のまなざしにやさしさを感じることはない。割り切れないものを割り切ろうとする姿勢には暴力性が宿っていると感じてしまう。可能な限り情報を集めて考えつくしたつもりでも、いつも何かを置き去りにしてきたのではないかと気にかかる。問題を解決しても、すぐに「本当にこれでよかったのか」と思ってしまう。そもそも人間の所業は不条理で矛盾に満ちていて論理で解明しつくそうとすることには無理がある。そう考えることから出発してみてはどうだろう。だからこそ一時の結論に安住しないで、絶え間ない思索と言語化をつづけているのだ。そして、ある程度まで考え抜いたら、「まあ、いいか。今日はこれぐらいにしといたろ」と、ひと休みしてみよう。ふっと力を抜いて非合理な自分に身を任せていると、自分がここに存在することの幸せがふつふつと湧き上がってくる。そのうちに、どこからともなく元気(統一感)がみなぎってくるから不思議だ。)

「リアル」とは?

高橋:リアルということの意味の一つは、具体的ということ。それは自分の肉体と頭脳を通して考えることだと思います。自分にとって具体的でないものは、他人にとっても具体的なわけがないし、伝わらない。

ことば

高橋:権力がわかりやすいことばを使ってきたときは注意しないといけない。それなのに、権力と戦う側が相変わらずの政治的な方言を使っていたんでは負けてしまう。対抗できる言葉を持っていないと、メディアは権力にやられてしまうんじゃないか。

渋谷:古い体制へのアレルギーの気持ちを持っている人間はたくさんいるはずなのに、それが出てこない。言語化できないでいる。

プロとアマ

高橋:プロがその権力を維持できたのは、その手段や情報を独占していたからです。しかし、その独占は崩れ始めた。それは論壇やジャーナリズム、あるいは文学といったものだけではありません。その中で、なおかつプロの側がプロであろうとするなら、アマが発信しているものを超えるものでなければならない。

活字媒体の未来

高橋:インターネットだって表現の手段は言葉なんですから。むしろ、ネット時代を、言葉への依存度は深まっている。たとえば若者たちが依存している「メール」です。一年中手紙を書いているのと同じです。かつては、「電子時代は文字から離れる」と思われていました。けれど、それは誤解でした。言葉で他者と交通したいという欲望は衰えていないというか、より激しくなっています。

渋谷:・・・ライブはネットでは手に入らない。音楽だって、紙媒体だって、コンテンツさえあればお金になるし、やれることは、いっぱいあります。

(メディアの選択は一人ひとりに任されるべきである。豊かな環境を整えることは大切だが、教育という名の下に大人が描く偏狭な世界観に子どもたちを押し込めようとしてはならない。今も昔も子どもや若者の読書やメディア環境を危惧する大人がいる。かつてはマンガやテレビに向けられた批判が、最近はゲームや携帯に向けられている。だが印刷メディアはなくなるどころか、みごとに共存しているではないか。そのバランスは、紙(森林)やレアメタルなど資源の問題とも絡めて考えなければならないだろう。技術革新によってもたらされる新しいメディアの可能性に向き合うことも必要だ。心がけなければならないことは、商業主義にとらわれたり、ふりまわされたりしないことである。過去の経験をもとに現在を評価し、未知の世界に向かって正気で生きるために、私たち一人ひとりが自分の力で的確な情報を見きわめ、手に入れる術を持つことが求められている。)

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「父親たちの星条旗」

2006年10月29日 | メディア
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 一般公開を待ちかねて、クリント・イーストウッド監督による映画「父親たちの星条旗」を見た。第二次世界大戦の終盤、硫黄島における日米両軍の攻防で摺鉢山に星条旗を立てた6人のアメリカ軍兵士の闘いと、生き残って帰還した3人のその後の人生と苦悩を描く。その兵士の一人の息子が父親の死後、真実を知って書いたドキュメンタリー『硫黄島の星条旗』(ジェイムズ・ブラッドリー/ロン・パワーズ 著/島田三蔵訳、文春文庫)を映画化したものである。自らの経験や心情と絡めて、さまざまな思いが交錯する。これは、戦争の悲惨さや戦争が人間の心にもたらすものを表層的に訴えかける、ただそれだけの映画ではない。イーストウッド監督は、むしろ感動を効果的に演出することを拒否することで、より深い思考と感情へと私たちを導いてくれる。映画の終盤から終わりのタイトルにかけてピアノとギターのソロで何度も繰り返されるテーマ曲の単純な旋律も印象的だ。イーストウッド監督の作曲らしいが、兵士たちの悲しみに寄り添いながら見るものの心を落ち着け、この映画に描かれた事実とそれに対する自分の思いを静かに振り返らせてくれる。

 土曜日の午後であったが、ざっと見渡したところ4-50人の観客は「すべて」高齢者だった。筆者自身も1941年生まれ、この映画で描かれている兵士たちの息子世代である。この種の映画は、現代の若者には受けないのであろうか。それではすまないような気がする。観客層にこんなに偏りがあっていいのだろうか。

 この映画が、世代を問わずに現代的な意味を持つとすれば、反戦とか人間を見つめるまなざしとか、歴史的の一面を明らかにしたとかいうことだけでなくて、それを描くためにクリティカル・シンキング、メディア・リテラシーの視点が貫かれていることであろう。一枚の写真が、その文脈から切り離されて一人歩きし、まったく別の文脈で伝えられるとき、どのような危険があるか。帰国後、英雄扱いされることになった兵士たちは、現実とのギャップに苦悩し、その人生を翻弄されることになった。目に見えるもの、現実から切り取られた表現から、その背後にある目に見えない文脈や現実を探ろうとする態度と想像力、それはマスコミの報道、政治や商業で用いられることばや映像を解釈するときにも身につけておかなければならないだろう。戦場の現実と切り離されて、不本意ながら「英雄」に仕立て上げられ、戦争の資金集めに利用されて苦悩する兵士たち。奇しくも10月28日付朝日新聞の朝刊に掲載された、シンポジウム「山田洋二監督が大学生と考える日本」の報告のなかで、山田監督は、自ら脚本を書いた人間魚雷回天を描いた映画「出口のない海」について次のように語っている。根っこはイーストウッド監督と共通していないか。

・・・愛する人、国のために、にっこり笑って死んでいくのは、いかにもよく見える。しかし、事実を調べるとそうではない。怖くなってやめたら、銃殺される。最後には麻薬で興奮させられたり、半ば発狂状態になったり、明日死ななければいけない20歳前後の若者がどんなに苦しく、混乱したか。無理やり自分をどう納得させたのかと考えるだけで胸が痛くなる。
 多くの若者が不条理な、説明のつかない死に追いやられたつらさをきちんと描くことが大事だと思ったのです。あんな悲惨なことは絶対再びあってはならない。だから、英霊として美化するのは、あの青年たちに対して僕は申し訳ないことだと思っています。

硫黄島の星条旗

文藝春秋

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HERE COMES EVERYBODY (HCE From Finnegans Wake by James Joyce)

いま、ここに生きているあなたと私は、これまでに生きたすべての人、いま生きているすべての人、これまでに起きたすべての事象、いま起きているすべての事象とつながっていることを忘れずにいたいと思います。そんな私が気まぐれに書き綴ったメッセージをお読みくださって、何かを感じたり、考えたり、行動してみようと思われたら、コメントを書いてくださるか、個人的にメッセージを送ってくだされば嬉しいです。

正気に生きる知恵

すべてがつながり、複雑に絡み合った世界(環境)にあって、できるだけ混乱を避け、問題状況を適切に打開し、思考の袋小路に迷い込まずに正気で生きていくためには、問題の背景や文脈に目を向け、新たな情報を取り入れながら、結果が及ぼす影響にも想像力を働かせて、考え、行動することが大切です。そのために私は、世界(環境)を認識し、価値判断をし、世界(環境)に働きかけるための拠り所(媒介)としている言葉や記号、感じたり考えたりしていることを「現地の位置関係を表す地図」にたとえて、次の3つの基本を忘れないように心がけています。 ・地図は現地ではない。 (言葉や記号やモデルはそれが表わそうとしている、そのものではない。私が感じたり考えたりしているのは世界そのものではない。私が見ている世界は私の心の内にあるものの反映ではないか。) ・地図は現地のすべてを表すわけではない。 (地図や記号やモデルでは表わされていないものがある。私が感じたり考えたりしていることから漏れ落ちているものがある。) ・地図の地図を作ることができる。 (言葉や記号やモデルについて、私が感じたり考えたりしていることについて考えたり語ったりできる。)