ケニチのブログ

ケニチが日々のことを綴っています

サラステ+WDR響=ブラームス「交響曲全集」

2024-04-26 | 音楽 - その他
 先日買ったCDを聴き終えた.J.サラステ指揮+WDR交響楽団による,ブラームス・交響曲全集.

 どのナンバーも,やや遅めのテンポを採り,譜面を正確かつ細部まで念入りに再現した演奏で,サラステ率いるWDR響は,充実の技術とアンサンブル.また,ブラームスならではの力強さだけでなく,ロマンチックさ,旋律美もあり,セクション間の対比にも,よく傾注したもの.生き生きとしたリズムの伸縮もあるいっぽうで,楽想の変わり目でいくぶんもたつく感じも.録音は鮮明で,各プレイヤーとオーケストラ全体の様子とを,ともによく捉えたもの.残響は少なめ.両翼配置によるヴァイオリンのかけ合いが耳に楽しい.


JOHANNES BRAHMS (3CD)
WDR Sinfonieorchester,
Jukka-Pekka Saraste (conductor),
Profil Medien,PH18032

譜面どおりに演奏することの意味

2024-04-25 | 音楽 - 作曲
 クラシック音楽および,その後継である現代音楽の界隈では,とかく譜面に書かれたとおりに演奏することが求められる.コンサートへ出かけてみると,プレイヤーたちは,作曲家が書いた譜面をあらかじめ念入りに読み,それを持ち前のテクニックで,聴き手の前に再現してみせる.吉松氏は「彼らはただのテープレコーダー」などと皮肉っているが,クラシックが繁栄した時代,すなわちテープレコーダーなんかまだなかったころ,音楽というものは,人によっていちいち演奏されなければ成り立たなかったのであり,その仕事に求められるものの一つが,「いつも同じものを出力する」ことであったことは確かである.後れて出てきた音楽ジャンル,たとえばジャズやロック,ポップスなどには見られない,クラシックの特殊性であり,「書いてあることをやって何が面白いの?」とか,「楽譜がなければ何もできない人たち」などと,しばしば唾棄される急所でもある.

 どうして譜面どおりにしなければならないのか.確かに,そこには硬直的な譜面主義が存在し,ときにクラシック関係者の内部からも,この当然とも思える疑問が起こるのであるが,あいにく上述のいきさつは答にならないだろう.実際,今や録音という技術が台頭し,演奏家たちの仕事の意味も変わってきたにも係わらず,事態は改善していない.むしろ,記録に残るんだから,なおさら正確にしようという方向性である(話はちょいと大げさになるが,同じ時期に世界的な不況と混乱が起こり,人々が保守性を強めたことも拍車をかけたと思う).そこで僕はひそかに,この質問に答えることには意味がないと考えている.そうしなきゃいけないかと訊かれれば,別にそれだけが方法ではないし,自分のしたいようにすればいいのでは,というのが率直な意見だ.むしろ問題は,譜面どおりにするならするとして,その「しかた」についてであって,つまりは,ただ書かれたことに隷従すればいいのか,という点にある.

 日ごろ,演劇やオペラの現場に顔を出すと,そこではもう少し別の,クリエイティヴな意味での譜面主義が通用しているのを,感じることがある.たとえば,彼ら舞台人には,劇を作っていくうえでの基本的な手がかりとして,「台本」というアイテムがある.稽古中,あるシーンで,ある役者が放つセリフが,その心情や前後の繋がりにマッチしていないとき,演出家が「どうしてそこでその発言なのか」と問うたりする.もちろん役者にしてみれば,「台本にそう書いてあるから」というのが真実なのだが,それを言ったらおしまいだ.彼の演じるキャラクターが,そのとき何を感じて発言し,行動するのか,それら一連のことを,自分自身に起こる「リアル」として体験できていなければ,演技として,劇として,成立しないはずなのだ.自問し,相手役ともすり合わせながら,最終的にはお客を共感させ,楽しませる舞台が作られていく.「結果として台本どおりになる」.彼らは,劇中歌のスコアにも,やはり同じ態度で臨んでいるように思われるのだ―――このフレーズの音程は,どうしてその高さなのか?

 ほんらい,譜面どおりに演奏する,と言うとき,それは,プレイヤー自身の音楽の発露として,主体的な表現の結果として,譜面が実現されることだと,僕は思うのだ.だから,彼らは,「書いてあるとおりにしてますが?」なんて,軽々しく口にしてはいけないはずなのだ.それは,自分の演奏が,音楽としてちゃんと成り立っているのかチェックし,責任を持つことへの放棄である.

 あるとき,作曲の先生に,「フォルテと書くからフォルテになるんじゃないぞ」と言われたことがある.たとえフォルテと書かなかったとしても,プレイヤーがどうしてもフォルテで演奏したくなる必然性を,音楽自身が持っていて初めて,作曲者はフォルテと書き込んでいいのだ,との意味だった.毎度毎度,持参した書きかけの譜面を凝視しながら,教えられる側も教える側もほとんどを無言で過ごすというのが,作曲科のレッスンであるが,この日に受けた言葉少なな指摘は,僕のなかに痛烈に残る瞬間の一つだ.自分の書きたいものをよく吟味し,歌い,考え抜き,あるべき場所にあるべきものを書く,という根気と覚悟に欠けていることを,見抜かれたのだ.

 以来,たった一つのフレーズや指示を書くのに,僕は何日も費やすようになったし,作曲者としてはこう思う,揺るぎなくこう思う,というものだけを譜面にする.演奏家に願うことは,それを彼自身の音楽として読み,深めてくれることの一点であり,仮に書かれたものから逸脱しなければならないときは,堂々とそうしてほしいのだ.それが,自分の音楽であると信じるなら,そして聴き手の聴きたがっているものであるのなら,たとえ作者とケンカしてでもそうするべきだ.

 つくづく思うに,「このとおりにやればいいんでしょ」という突き放した態度を,譜面主義と呼ぶのであれば,それは大いに取り違えているし,「そうしなきゃいけないの?」という疑問は,今後も生まれ続けるのである.


外部リンク:
楽譜どおり!? - pianoplayer (2021.9.16)
https://note.com/pianoplayer/n/nc3c3dc1991f6

カジヒデキ「BEING PURE AT HEART」

2024-04-23 | 音楽 - カジヒデキ
 先日買ったCDを聴いた.カジヒデキのアルバム『BEING PURE AT HEART』.

 どのナンバーも,恋や日々の暮らしのあれこれを歌った,とことん明るいいつものカジポップ.その人懐っこさのなかに,別れ,失望にまつわるテキストが顔を出し,少しはっとするが,何事もなかったかのように,軽やかに通過していく.なお,テーマとなる季節や,アレンジのテイストが曲ごとにばらつき,アルバムの制作期間が長かったことを,改めて思わせる.


HIDEKI KAJI BEING PURE AT HEART ~ ありのままでいいんじゃない
BLUE BOYS CLUB,BBC-017

カジヒデキ「BEING PURE AT HEART TOUR APRIL」

2024-04-20 | 音楽 - カジヒデキ
 昼すぎ,KDハポンで行なわれた,カジヒデキのカフェライヴ『BEING PURE AT HEART TOUR APRIL』を聴いた.最新アルバムからのナンバーと,メインレパートリーとを往ったり来たりし,曲間のトークも盛りだくさんの90分超.また,アコースティックによる小編成ながら,とことん賑やかな選曲に,会場も熱心に聴き入り(珍しくちびっ子の歓声も!),直上をしきりに通るJRの走行音が,まったく気にならないほどだ.


HIDEKI KAJI BEING PURE AT HEART TOUR APRIL
【日時】2024.4.20 13:30-
【場所】K.D.ハポン

レオンスカヤ=モーツァルト「ピアノ ソナタ全集」

2024-04-15 | 音楽 - その他
 先日買ったCDを聴き終えた.E.レオンスカヤによる,モーツァルトのピアノ・ソナタ全集.

 どのナンバーも,やや遅めのテンポを採り,譜面を正確かつ細部まで念入りに再現した演奏.レオンスカヤのピアノは,僅かにラフなタッチもあるが安定した技術で,テヌートを主体とした穏やかさ.とはいえ,生き生きとしたリズムの伸縮や,即興的な装飾も出る.けっして暗くならない,親しみやすいモーツァルト像である.録音は鮮明だが,彼女の頻繁な唸り声をも大きく捉えており,鑑賞の妨げである.


モーツァルト: ピアノ・ソナタ全集 (6CD)
エリザーベト・レオンスカヤ (ピアノ),
ワーナーミュージック・ジャパン,9029.645782