ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

さいたま市桜区の南端にある秋ケ瀬公園の雑木林で、冬鳥のシメたちに出会いました

2018年11月30日 | 季節の移ろい
 さいたま市桜区の南端にある秋ケ瀬公園の雑木林には、冬鳥のシメやアオジなどのさまざまな野鳥が観察できる時期になりました。

 秋ケ瀬公園は、さいたま市桜区を北西から南東に向かって斜めに流れている荒川沿いの北側部分にある広大な埼玉県立公園です。野球場やテニスコートなどに加えて、雑木林などが多数点在しています。

 秋ケ瀬公園の中には、背の高いメタセコイアの並木がいくつかあり、どのメタセコイアの木も葉の色が変わり、葉を落とし始めています。





 背の高いメタセコイアの木が葉を落とすと、その下の地面は黄銅色に染まります。



 雑木林の中にある広葉樹の木の中には美しく紅葉しているものがあります。



 雑木林の一郭にある、森陰の笹やぶには、アオジが出て来ました。



 ホオジロの仲間のアオジは、春には標高が高い山麓に上がり、夏には子育てをしています。そのアオジが晩秋になると、平野部に降りてきます。

 くちばしが大きいことが特徴のシメが数羽、やや森陰に出て来ました。シメは全長が約19センチメートルと、少し大きな冬鳥です。





 シメは、大きなくちばしを持っていて眼が鋭い感じのために、不思議ときつい表情に見える冬鳥です。





 シメは大きなくちばしで、硬い木の実を砕いて食べると考えられています。

 秋ケ瀬公園には「ルリビタキも飛来している」と、野鳥観察愛好家の方から教えていただきました。

 雑木林の一郭にある倒木には、オレンジ色のキノコが生えていました。



 約1カ月ぶりに、秋ケ瀬公園に野鳥観察に行ってみると、シメなどの冬鳥が飛び回っていました。晩秋の進みは早いものです。

 約1カ月前に、秋ケ瀬公園の雑木林の中で、シジュウカラやコゲラ、エナガなどの留鳥に出会った話は、弊ブログの2018年10月29日編をご参照してください。

長野県北佐久郡軽井沢町から見上げた浅間山は、晩秋風景の山頂でした。

2018年11月29日 | 旅行
 長野県北佐久郡軽井沢町長倉辺りから見上げた浅間山は、まだ冠雪前の晩秋風景の山頂のままでした。

 中軽井沢から国道18号線のバイパスに出る途中から、森の向こうにある浅間山(標高2568メートル)を見上げました。



 浅間山の山頂部は、赤茶けた火山風の荒れた景色です。



 実際には、山頂に何回か雪が降ったようなのですが、すぐに積雪が融けて元に戻っています。

 中軽井沢付近の森の上空では、トビが数羽、ある程度の距離をそれぞれ置いて、輪を描いて飛んでいます。



 見ている間は、このトビは急降下することなく悠然と飛び続けました。







 森の中には、ヒヨドリやムクドリ、シジュウカラなどがいくらか飛び回っています。

 枝先にヒヨドリが留まりました。森の中にいれば、猛禽類に対して安全なようです。



 軽井沢町から西南西方向に進み、佐久市新子田にある茨城牧場長野支場に到達しました。





 ここのカラマツ並木の葉は黄銅色になっています。

 佐久市新子田にある茨城牧場長野支場の北側に見える浅間山です。





 残念ながら、薄曇りの山頂です。

 さらに、西に向かって進みました。佐久荒船高原の西北側から見える浅間山です。



 この時は、浅間山の山頂部は明るく照らされています。

 浅間山の手前には、佐久荒船高原の物見山があり、浅間山の中腹などを隠しています。

 この物見山は、群馬県甘楽郡下仁田町南野牧の神津牧場の西端にある低山です。

 なお、浅間山は火山性地震が、2018年6月からやや少ない状態となり、現在は「噴火警戒レベル1」になっています。

長野県佐久市の東端にある佐久荒船高原は、朝には木々に見事な霧氷ができていました

2018年11月28日 | 佐久荒船高原便り
 長野県佐久市の東端にある佐久荒船高原では、朝晩が次第に寒くなり、ある朝には見事な霧氷ができていました。

 標高1100メートルから1200メートルある佐久荒船高原では、朝晩の寒さが一段と厳しくなっています。

 ある日の朝は、夜明け前から西側にある佐久市側から霧が上がって来て、標高が高い部分では、霧氷(むひょう)ができました。





 この霧氷は、佐久荒船高原の標高が高い部分にある森の木々が氷点下以下に冷やされている時に、濃霧が下から上がって来て、木の枝や葉に氷が付いて白くなりました。





 この霧氷は夜中によく晴れていて、佐久荒船高原の標高が高い部分にある森が冷やされた時に、良く起こる現象です。

 ただし、このように見える森一面が霧氷になることは珍しいことです。朝の濃霧が晴れ上がり、午前中から晴天になり、霧氷がよく見える事態になりました。

 午後も快晴で、気温が上がり、霧氷は融けて消えました。

 佐久荒船高原の中心部にある“コスモスの丘”には太陽光が良くあたっています。





 木々に巻き付いたツルウメモドキの実も、霧氷が融けて、綺麗に見えています。



 晴れているので、佐久荒船高原の西側にそびえている北八ヶ岳連山とその東側にある八ヶ岳連山が見えています。



 北八ヶ岳連山と八ヶ岳連山の山頂部は、まだ冠雪していません。

 佐久荒船高原の東側にそびえている妙義山系です。妙義山系の一番西側にある金洞山が見えているようです。



 佐久荒船高原の東側には北向き斜面があり、そこに育っている木々の枝には、早朝の霧氷時にできた氷の残りが枝についています。



 佐久荒船高原部分は、峠になっているために、早朝時に主に西側の佐久平から濃霧が上がって来ます。佐久荒船高原が氷点下に冷やされると、この濃霧が木々の霧氷となって氷ができます。

埼玉県川越市の郊外にある伊佐沼には、ヒドリガモなどがやって来て、エサを探しています

2018年11月27日 | 季節の移ろい
 埼玉県川越市の郊外にある伊佐沼では、冬鳥のカモ類のヒドリガモやコガモなどが飛来して、エサを探して浅瀬を動き回っています。

 伊佐沼は農業用水として水を蓄え、周囲の田んぼなどに水を供給する役割の池です。11月下旬の農閑期は、蓄えていた農業用水を大幅に減らしています。

 南北に細長い伊佐沼の北側にあるハス田の中に設けられた遊歩道の上から、南側を眺めた風景です。



 眼の前にある干潟は、9月までは水没していた部分です。

 西側部分を北側から南側に向かって散策しながら、伊佐沼の水辺を観察すると、ヒドリガモが岸の上にいたり、浅い水辺にいました。

 ヒドリガモは数匹ずつの群れで、互いに距離を置きながら点在し、浅瀬の岸辺付近でエサを探しています。



 浅瀬の水辺を進むヒドリガモのオスです。





 少し地味な羽根模様のヒドリガモのメスです。





 西側部分の水辺には、ヒドリガモは併せて20羽ほどが来ている様子でした。

 細長い伊佐沼の南側に広がる遠浅の浅瀬では、コガモが数匹ずつの群れごとに、浅瀬の中にくちばしを入れて、エサを探し続けています。





 遠浅の浅瀬を見渡した感じでは、20羽から30羽程度のコガモがエサを探し続けています。

 この伊佐沼の南側に広がる遠浅の浅瀬の内側では、小島部分にダイサギやコサギが数羽、休んでいます。

 伊佐沼の東側の浅瀬では、ダイサギがエサを探して移動中です。



 午後3時過ぎの西日に照らされて、逆光のためにシルエットになっています。

 北側の東側部分の干潟に、ヒドリガモの20数羽ほどの群れがいて、エサを探し続けていました。浅瀬を歩き回っています。

 急に、何かに驚いて、この群れは飛び上がりました。



 ヒドリガモの20数羽ほどの群れは、細長い伊佐沼の西側の木々の上空を旋回しています。



 さらに、上空に上がって、どこかに飛び去りました。



 伊佐沼には、越冬するカモ類などの水鳥が増え出し始めています。しかし、例年の冬に比べて、まだ、ここで過ごすカモ類の数は少ないままです。

 約7週間前の10月中旬に、川越市郊外の伊佐沼を訪れた話は、弊ブログの2018年10月17日編をご参照してください。

日本経済新聞紙に掲載された見出し「仏、譲れぬ『ゴーン後』」を拝読しました

2018年11月26日 | 日記
 2018年11月23日に発行された日本経済新聞紙の朝刊3面に掲載された見出し「仏、譲れぬ『ゴーン後』」を拝読しました。

 この記事に並べて掲載された別掲記事の見出し「『経営者ゴーン』の功罪」を複雑な気持ちで拝読しました。

 2018年11月20日に発行された日本経済新聞紙の朝刊一面などに掲載された見出し「ゴーン日産会長逮捕 金商法違反疑いで東京地検」から始まった一連の報道に戸惑っています。

 この別掲記事の見出し「『経営者ゴーン』の功罪」の解説記事は、「ゴーン元会長の日本での歩みの中で最大の衝撃を与えたものは、1999年10月に発表した「日産リバイバルプラン(NRP)」でした」という文章から始まります。

 日本経済新聞紙のWeb版である日本経済新聞 電子版では、この2018年11月23日の見出しは「『経営者ゴーン』の功罪」と同じです。



 1999年10月当時の日産自動車は、業績が長期にわたって低迷し、売れ筋の車種が少ない「日産は終わった」と自動車業界から見られていた時期でした。

 その危機を救ったのが、フランスのルノー社から送り込まれたゴーン氏でした。聖域無き再建計画として、日産自動車再建を目指す基本計画の「日産リバイバルプラン(NRP)」」を公表しました。

 日産自動車での工場閉鎖、人材削減、系列破壊などと、当時の日本企業では事実上できない改革を断行し、日産自動車の事業利益はV字回復します。

 中でも、“系列破壊”は、日本の鉄鋼メーカーや化学メーカーの再編を促す大変革を日本の産業界にもたらしました。

 日産自動車の新車開発では、利益を出す製品開発計画がないものが多かったという原因を明らかにし、しがらみを断ち切る事業改革を実践しました。

 この日産自動車の事業利益はV字回復は、2000年ごろのIT(情報技術)バブル崩壊後による日本企業の業績悪化の時期で、一時的な痛みを覚悟の上で、新規一転による事業改革を断行する日本企業が現れました。

 この解説記事は「今から振り返ると、ゴーン元会長が経営改革に専念していた2005年までが最も輝いていた時期かもしてない」と述べています。まったく同感です。

 この当時は、高度成長期後の低迷する日本企業に対して、グローバル企業としての企業改革のお手本をゴーン元会長は見せてくれた時期でした。

 現在までの、新聞報道などを読むと感じることは、どんな経営者も20年間と長期にわたって、ワンマン経営を続けると、心が腐ることがあるという事例です。
 
 そして、企業の事業の執行と経営の分離ができていない日本企業の問題がまだ内在していることの現れでもある事件です。

 欧米の先進国では、企業の事業の執行と経営の分離ができている大手企業が多く、今回の日産自動車の事件はありえないことです。

 日本企業はまだ欧米の先進国の大手企業から学ぶことがあります。

 この解説記事の後半には、気になる指摘があります。「コミットメント(必達目標)はゴーン経営の代名詞にもなった言葉だが、実は最近の中期計画はほとんどが未達になっている」と指摘します。2017年3月までの中期経営計画のほとんどが未達になっている。

 例えば、2017年3月までの6年間の計画の「日産パワー88」計画では、期間内に電気自動車を150万台販売する目標を掲げていましたが、実際には30万台前後にとどまっています。これはよくない前兆です。奧が深い経営改革です。