marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(218回目)ローマ人への手紙(9章6節~13節)

2016-12-30 16:03:10 | 日記
先の回で、第9章に入るとパウロが解放されるような普遍的な論説から急にユダヤ人という自民族特有の内向きの論説を言い始めることに対して、僕は閉口すると書いた。そもそも、イエスご自身、あのサマリアの女に向かって「救いはユダヤ人からくる。」(ヨハネ伝;4章22節)と言われたことに対して、初めて読む人は、いや、今でもおそらくかなりの人は、ひっかかりを覚えながらも無視するか、あまり気にも留めないように読み飛ばすのではないかと思われる。なぜって、イエスは全世界の人々に福音を述べ伝えよ。・・・今や普遍的な世界宗教の一つになったのだからとの思いの方が先に来るであろうからです。
◆しかし、このパウロは迫害を受けてもローマのユダヤ人、その旧来の歴史を知っている人々に対して、いかにもそのことを、つまり神の与えし律法を無視してよいというような表現で自分が訴えていることに対して、神の言葉が無効になったという訳では決してないのだ(9:6a)と論説していく必要が何としてもあった訳です。
◇それは、聖書(今の旧約聖書)に神が普遍性を持って、後に全世界に私の名が知らしめられる、それは信ずる人すべてが私(神)のもと(パラダイスに)に帰還するのだという(これは極端な書き方をしましたが)神の言葉、代々預言者を通して、語られていることは、私の訴えていることなのだと、古来からのユダヤ神学者への疑問を解決するように神の言葉の実現が起こりつつあるのだと熱意を込めて聖書を引用しつつ語り続けて行くのです。
◇さて、それでは異邦人である僕らはどう考えたらいいのだろう。それには、神は、生き、動き、かつ働いていることに対して、そのことを優先して知らしめるためにそれは歴史をもって示されてきた、となるだろう。何もそれ(一つの考えなりが永遠の普遍性を持って現実的に今もこの地上で我々の生活で見て、手で触れて確認できるという事実に至るまで)は、宗教というものから離れたとしても考えてみると推察できるのではないかと思う。イデオロギーや思想、哲学などでもそれは、考えであって、その結果としての現象として普遍性を持つことがかつて一つもありはしなかっただろう。一時的に共産主義国ができたとしても。
◇しかし、彼ら(ユダヤ人)はかたくなに守って今もある歴史がある。また、そこから派生してきたあまりに多くの人間に関して利することが、政治、哲学、社会学・・・などに多く貢献されてきた事実がある。まず、そのことをどうしても認めなくてはならない事実があるのだ。彼らは常にその中の歴史のいずこかにいた。この今、僕らが存在するこの地上の上に現在、共に地球上に立っているという事実である。このことは架空の観念的な話ではないことを忘れてはいけない。
◆イエスの復活の顕現、そしてその事実が、死をも越えてのパウロにとっての言動の礎となって、それ以降の本来の人間のあるべき姿に訴えかけて来た事実があるのである。つまり、復活して天に帰られたイエスは代わりに「聖霊として信じる者に対して助け主を送り続けてきた」という事実があるのである。そのことを忘れてはいけない。
◇それが、とぎれぬようにパウロは今も(このときも)我々に、”絶えず祈れ”と言い続けているのである。・・・
(13節に関してはひとこと言いたいことがあるので次回) 

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