marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(191回目)ローマ人への手紙(第3章1節から2節)

2016-12-03 12:45:43 | 日記
今回は、少し難しいかも・・・。
◆(口語訳)「(3:1)では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。(3:2)それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言(ことば)が彼らにゆだねられたことである。」
さて、少し難しい書き方をするとパウロさんのローマ人への手紙の書き方は、まず異邦人にも分かるような普遍的な人類(人間一般について)への実際に現状確認をさせ(このためには天地創造来の今の僕らでも分かるような、目で見て確認できるようなことから)話をしていき、それから離散して異邦人(異教)との混在の中に住むユダヤ人(彼らは先祖伝来の神認識、律法を与えられ、少なくともそれを遵守しようと生きてきた先理解のある神認識をもつ)たちへであった。つまり、周辺から核心へということであった。
◆それから、選ばれしユダヤ人の役割、歴史的にも、伝統的にも、しっかりその役目を果たせと叱咤激励のような話の進め方をする。そしてこうだ。最後に完成形、つまり一人一人が地上における神からの離反状態からの完全なる回復として一人の完全なる人間、イエスを神は登場させられたのであるとする。命ある者が、古来それが創造されし時から、そのことを忘れぬようにと完全なる命を持つ肉を代償として神の前に犠牲として捧げ、その犠牲故に神は、残された肉成る不完全となったものを許容されてきたということになるが、ここでイエスは、完全なるまことの人なる者であり、その犠牲故に残されし我々も神からの許しを得ているという理屈になる。残るは我々がそのことを信じて生きるかどうかとなる訳です。これが信仰義認です。
◆ここでパウロは、天地創造、つまり万物の創世来の地点にしっかり立って動かないのである。例え、ギリシャからの哲学がどれほどすぐれ耳に聞こえよくとも。ここがパウロのローマ人への手紙を読む時の重要なポイントとなるのです。僕らは今までの学校の勉強など、そして巷に販売されている諸々の書籍により、あれやこれやとただそのことをのみ話してもねぇなどと思うものであるが、極論をたとえて言えば、いろいろないい話もあろう、様々な宗教もあろう、しかし、それらは地球が滅びるときに一体役にたつのか、いずれ我等は地上の生涯を終えるではないか、地上も破滅に貧していくではないか。究極のこれというものはここにしかないという、天地創造来のその神の基(パラダイス)へすべての生き物は帰還しなければならない・・・そういう宇宙大のイメージがパウロの思想の背後にはしっかりあるのである。この視点があってパウロは普遍的に人間一般について述べていくのです。誰にでも当てはまるであろう一般論を展開する時、このことを先に踏まえてパウロの手紙を読まないと、すこし、当時のすぐれたる哲学の世界を行き来した人々にはパウロは何らかのユダヤ人が旧来から信じているとやらの神を盲信しているだけだと思われるに違いない。
◆そこでだ。はじめに戻り(3:1-2) ユダヤ人には、全人類の課題が神から与えられているのであるというこれまた核心に迫って、”その自覚無くて、また、いまの実態でよいのか”という展開をしていくのである。パウロは、世界の道はローマへ続くのそのピンポイントの都市ローマに向けて手紙を書いたように、目的の達成のためのピンポイントへのユダヤ人への覚醒を促すのである。それは、核心から周囲にまた影響はおよんでいくであろうとの潜在意識があって。
◆さらに、天地創造来の背景、その帰還への準備は、またその最終のステップとして最後のアダムであるイエスを到来させ、不完全なる肉なる我々は実にこの方をその犠牲から天国への関門を通過するパスポートとして信じつつ生きるのである。アルファ点(アダム)から始まり、天地創造の宇宙大の(全地球の被造物の)キリスト・イエスなるオメガ点へ収斂していくという展開を進めているのです。・・・