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咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

岩槻無線受信所の果たした役割

2017年06月01日 | 日記
彩の国デジタルアーカイブ写真検索で岩槻無線受信所の写真資料を3枚見る。
1. 東京無線電信局岩槻受信所全景(昭和初期)
2. 東京無線電信局岩槻受信所(昭和3年)
3. 岩槻無線受信所開所25年記念祝賀式(1951=昭和26年)

昭和4年頃の地図を見るとここ(赤丸)に地図記号の電波塔が描いてあり、岩槻受信所とある。
東京無線電信局岩槻受信所はここだと思う。

この岩槻受信所が脚光を浴びていた時代があった。
『岩槻市史 新聞史料』に掲載の昭和5年10月の東京朝日新聞の記事。
これに先立つ昭和5年6月の大阪朝日新聞の記事(新聞記事文庫より)。

『岩槻市史 通史編』の記述2-1、記述2-2
記述2-1の冒頭に、大正12年8月7日付『東京日日新聞』について触れられているが、それは『岩槻市史 新聞史料』に掲載されている。

岩槻無線受信所の建物は大正14年1月に竣工したが、開局したのは大正15年4月1日だった。
開局を直前に控えた大正15年3月の新聞史料2-1、新聞史料2-2

昭和62年発行『岩槻・城と町まちの歴史』には、 “ 昭和4年に来日したドイツの大型飛行船「ツェッペリン号」との交信、同7年のロサンゼルス・オリンピックの全国中継放送、戦後は、南極観測船「宗谷」、「ふじ」からの受信を引き受けていたが、都市化の波の中で、電波障害のため、交信が難しくなり、昭和43年には、銚子市へ移転が決定された ” と記述されている。

昭和55年の地図岩槻受信所のあたりを見ると電々公社無線通信所がある。
現在の地図で見るとこのあたり(赤丸)になると思う。拡大すると情報通信エンジニアリング協会東日本研修センタさんがある。
情報通信エンジニアリング協会さんのサイトから東日本研修センタ概要を拝見すると、施設の沿革の冒頭に “ 昭和38年11月6日 創立 「岩槻訓練所」として開所(無線受信所跡地借用) 基礎訓練開始 ” とある。無線受信所跡地借用と明記してある。
昭和55年の地図には電々公社無線通信所の表示があった。訓練所は昭和38年創立だから電々公社に隣接して存在していたと思う。
現在の研修センタに隣接するNTT岩槻無線中継所が電々公社無線通信所の現在の姿ではないだろうか。
2015年11月21日ブログのNTTドコモ岩槻無線中継所。ここも岩槻無線受信所の跡地だと思う。
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7 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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RE:岩槻無線受信所の果たした役割 (shige)
2017-06-01 21:49:24
万歩さんこんにちは。

岩槻の話題となるとつい反応してしまうというか、忘れていた昔を思い出してしまいます。これを歳を取ったというのでしょうか。

さて、岩槻受信所、後年の廃墟時代は残念でありましたが、この受信所のおかげかどうか、岩槻はアマチュア無線マニアが比較的多い土地柄でした。スマホ時代の現在ではアマチュア無線など過去の遺物かもしれませんが、昭和の時代は個人が外国とつながる夢の世界でもあったのです。

そんな環境もあり自分も小学生時代からアマチュア無線に夢中となり、途中BCLブームなどもあり、わずかなバイト代を全て自作ラジオやら無線に継ぎ込んだ日々を思い出します。当時、岩槻には専門雑誌で名を知られた素晴らしい先輩方がたくさんおられ、その後ろ姿を必死に追っておりました。かのラオックスが朝日無線という社名時代、事業早期にまだ田舎の岩槻の開業したのも、岩槻のコアな無線マニアによるものがあったと聞いています。

近年、無線の大先輩達の多くが鬼籍に入られ、日本有数の岩槻受信所についても地元でさえ忘れられて行く中、万歩さんに取り上げて頂いた事に心から感謝いたします。
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加倉駅の場所について (戸田市のあひる)
2017-06-01 23:36:56
万歩さん shigeさん はじめまして。地図と歴史のウォーキングブログ、興味深く拝読しております。戸田市のあひると申します。友人と、武州鉄道を調べているうちに、野田線の加倉駅跡の場所が気になりました。ネットなどでは加倉2丁目にあった、とありますが、先日、現地に行くと、やはり加倉1丁目のセブンイレブンの前の気がします。埼玉文書館で米軍の昭和24年1月22日の写真や埼玉ふるさと散歩を見ても1丁目のようですが。1丁目としての他の文献ご存じありませんか。
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アマチュア無線 (咲いた万歩)
2017-06-02 07:22:00
shigeさん、おはようございます。
私はアマチュア無線とは無縁な人生を送ってきましたが、昭和50年代に同僚のアマチュア無線装備自動車で遠出した時、同僚は所々で無線仲間と交信し、道案内をしていただいたおりました。同僚は「地図はいらない」とも話していました。突然英語での交信が始まり、私には無理だと思いました。
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野田線加倉駅跡 (咲いた万歩)
2017-06-02 07:28:25
戸田市のあひるさん、おはようございます。
加倉2丁目というと、東北道の西側ということになりますね。
昭和59年岩槻市役所市史編さん室発行『岩槻市史』には “ 加倉駅は、太平洋戦争中まで存続しており、場所は現在の東北自動車道と東武野田線の交わる手前あたりで、今の踏切あたりだったという。加倉駅といっても大袈裟なものではなく、ベンチと雨よけがあるぐらいで駅員は居らず、切符は車中で売り、車掌が乗降客の世話をした。” と記述されております。
加倉1丁目にあったと思われます。
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加倉駅の場所について (戸田市のあひる)
2017-06-02 17:14:28
返信ありがとうございます。「岩槻市史」ですか。機会のある時図書館へ行こうと思います、ご紹介ありがとうございました。「岩槻市史」ですので、岩槻側からみての、「東北自動車道と野田線の交わる手前の踏切」ということになりますね。
いろいろ教えていただき、ありがとうございました。
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岩槻市史 (咲いた万歩)
2017-06-02 17:41:04
図書館で確認なさるのなら413頁です。念のため。
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RE 岩槻市史 (戸田市のあひる)
2017-06-02 22:06:43
ご丁寧にありがとうございます。明日都内で、一緒に調べている先の友人と会いますので、その友人も喜ぶと思います。
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