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咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

岩槻の丸山記念総合病院付近にあった道

2017年06月25日 | 日記
明治35年の埼玉県営業便覧の岩槻町略図を見る。
明治13年の迅速測図を見る。
岩槻町略図に赤で示した道を明治13年の迅速測図に示すとこのようになると思う。
現在の地図ではこのようになると思う。
大正6年岩槻市街図にその道を示すとこのようになると思う。

2017年06月17日ブログで私はこのような道筋を綴った。丸山記念総合病院さんの近くを歩いた。
丸山記念総合病院さんのホームページで病院沿革を見ると “ 明治29年(1896年)12月 丸山醫院開設 ” とある。
岩槻市史の新聞史料に、明治44年9月1日『関東新報』の<岩槻商店評判調べ>というタイトルの記事が紹介されており、丸山医院さんはこのように触れられている。院長丸山五郎氏同町の名医とある。
また、明治45年2月5日『関東新報』には特設電話開通の記事が載った。医師丸山五郎氏の電話番号は五番で、「五郎さんは五番」覚えやすかったと思う。
ウィキペディア丸山五郎によれば、明治5年埼玉県北足立郡吹上村(現在の鴻巣市)で生まれ、丸山正吉の養子となった。
明治35年の岩槻町営業便覧を見ると、新町と新町横丁の三差路交差点近くに「醫士 丸山吉正」の名前がある。丸山正吉とよく似た名前である。

丸山記念総合病院さん近くの道を迅速測図で見ると2本(緑)ある。丸山医院はまだない。
丸山医院開設後の大正6年の地図を見るとこのようである。たくさんの道が出来た。
現在の地図にたくさんの道を真似して描いてみた。

天保時代の地図に先ほど赤で示した道を描くとこのようになると思う。
新町の下に寺院が三つある。左は彌勒密寺、右は眞浄寺で今もある
真ん中は「光明院」ではないかと思う。
岩槻大師ホームページの彌勒密寺略縁起を拝見すると、“ 当山を中心に古ヵ場地区に栄福寺、箕輪に智証院、渋江に東光寺、観音寺、新町に光明院、市宿に西光寺と数ヵ寺の本寺としてその偉容を示す。明治の廃仏毀釈の法難により現在は西光寺を残すのみとなる。” との記述があり、新町に光明院があったことがわかる。
光明院跡地は現在丸山記念総合病院さんの敷地の一部になっているのではないかと思う。
大正6年のこの道(緑)は迅速測図のこの道(緑)で光明院の参道だったかも知れない。
現在のこのあたり(太緑)だと思う。
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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (GEKI)
2017-06-26 09:38:48
万歩さん、こんにちは。

いつもながらすごい考察ですね。丸山病院近くにもう一つお寺があったなんて知らなかったです。
彌勒密寺は35年くらい前に子供が参加できるイベントがあって、夜泊まった経験があります。

また散策お願いします!
返信する
林間学校 (咲いた万歩)
2017-06-26 16:34:53
こんにちは。
私も小学生の頃、林間学校で山の麓にある大きなお寺に宿泊したことがあります。
記憶がなくなるほど遠い昔になりました。
返信する

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