12月22日ブログで見た『与野市史』所載の昭和4年ごろの上落合を見ると北に「渡辺製糸」、南に「松本ひも工場」と表示されたところがある。
『与野市史』に “ 与野町には、明治44年(1911)渡辺製糸、昭和3年(1928)ゴム紐製造の松本産業と二大工場が上落合に進出しており、工業化の萌芽は上落合地区から起こったといえる。昭和初期の上落合地区は田・畑・山林が大部分を占める純農村地帯であったが、昭和4年からの耕地整理により道路が整備され、特に昭和9年に新国道(現国道17号)が開通してからは、沿道には大小の工場が設立されていった。” という記述がある。
昭和9年大宮鳥瞰図で大宮駅の南を見る。
上落合付近を拡大する。
「渡辺組大宮製糸工場」の南、「大宮操車場」の西に新国道をはさんで工場のようなところが描かれている。
そこが私は難波鉄工所と松本産業ではないかと思う。難波鉄工所は12月22日ブログで触れた。
『与野の歴史散歩』には昭和59年11月15日号(国道17号をゆく)で、“ 道路の右側には市内でもっとも高いビル、24階建ての与野ハウスが天高くそびえています。ここは、もと松本産業株式会社与野工場があった場所で、与野市の近代産業の発祥地ともいえるところです。昭和3年(1928)創業の同工場は、ドイツから輸入した最新式の機械で織物やメリヤスなどを製造し、国内はもとよりアメリカ、カナダ、インドネシア、インド、パキスタンなど外国にも広く輸出していました。” との記述がある。
『松本産業七十五年史』によれば、創業当時工場前面は一帯にさつま畑で人家は全くなく、電線がなかったため駅から工場までの電柱を寄付してようやく電力を得た。駅寄りはくぬぎ林で浮浪者のたまり場所であったという。
昭和3年創業当時はまだ個人工場で、法人化は昭和8年の(株)松本鉄治郎商店の設立からになる。本社は東京市浅草区、支店は大阪市と上海、工場は浦和、与野、東京市蒲田にあった。
昭和15年に松本産業(株)に社名変更した。
昭和20年3月10日東京が空襲に遭い、東京本社は戦災焼失してしまい、一時期本社を与野工場に移したこともあったようである。
昭和9年の写真。
昭和33年の写真。
松本産業与野工場全景を見ると工場の棟群が前に一つ、後ろに二つある。棟群に番号を付けた。
昭和36年の空中写真にその棟群番号を付けるとこのようになると思う。
①②と③の間に道路(赤)がある。この道路は現在のどこにあたるのだろうか?
昭和36年の空中写真を縮小してその道路を左右に延ばす。
現在の地図にその道路を描くとこのようになると思う。
グーグルアースではこのようである。
ところで松本産業与野工場の跡地に建った与野ハウスについて、ウィキペディア超高層マンションに “ その後、1976年(昭和51年)に住友不動産が埼玉県与野市(現在のさいたま市中央区)に21階建て、高さ66mの分譲マンション 「与野ハウス」を竣工させ、これが日本における高層マンションの第1号とされる。” との記述がある。
昭和57年頃の鳥瞰写真で与野ハウスと昭和43年度建築の県営高層団地(写真右)を見る。
平成13年にはこのようになっていた。
『与野市史』に “ 与野町には、明治44年(1911)渡辺製糸、昭和3年(1928)ゴム紐製造の松本産業と二大工場が上落合に進出しており、工業化の萌芽は上落合地区から起こったといえる。昭和初期の上落合地区は田・畑・山林が大部分を占める純農村地帯であったが、昭和4年からの耕地整理により道路が整備され、特に昭和9年に新国道(現国道17号)が開通してからは、沿道には大小の工場が設立されていった。” という記述がある。
昭和9年大宮鳥瞰図で大宮駅の南を見る。
上落合付近を拡大する。
「渡辺組大宮製糸工場」の南、「大宮操車場」の西に新国道をはさんで工場のようなところが描かれている。
そこが私は難波鉄工所と松本産業ではないかと思う。難波鉄工所は12月22日ブログで触れた。
『与野の歴史散歩』には昭和59年11月15日号(国道17号をゆく)で、“ 道路の右側には市内でもっとも高いビル、24階建ての与野ハウスが天高くそびえています。ここは、もと松本産業株式会社与野工場があった場所で、与野市の近代産業の発祥地ともいえるところです。昭和3年(1928)創業の同工場は、ドイツから輸入した最新式の機械で織物やメリヤスなどを製造し、国内はもとよりアメリカ、カナダ、インドネシア、インド、パキスタンなど外国にも広く輸出していました。” との記述がある。
『松本産業七十五年史』によれば、創業当時工場前面は一帯にさつま畑で人家は全くなく、電線がなかったため駅から工場までの電柱を寄付してようやく電力を得た。駅寄りはくぬぎ林で浮浪者のたまり場所であったという。
昭和3年創業当時はまだ個人工場で、法人化は昭和8年の(株)松本鉄治郎商店の設立からになる。本社は東京市浅草区、支店は大阪市と上海、工場は浦和、与野、東京市蒲田にあった。
昭和15年に松本産業(株)に社名変更した。
昭和20年3月10日東京が空襲に遭い、東京本社は戦災焼失してしまい、一時期本社を与野工場に移したこともあったようである。
昭和9年の写真。
昭和33年の写真。
松本産業与野工場全景を見ると工場の棟群が前に一つ、後ろに二つある。棟群に番号を付けた。
昭和36年の空中写真にその棟群番号を付けるとこのようになると思う。
①②と③の間に道路(赤)がある。この道路は現在のどこにあたるのだろうか?
昭和36年の空中写真を縮小してその道路を左右に延ばす。
現在の地図にその道路を描くとこのようになると思う。
グーグルアースではこのようである。
ところで松本産業与野工場の跡地に建った与野ハウスについて、ウィキペディア超高層マンションに “ その後、1976年(昭和51年)に住友不動産が埼玉県与野市(現在のさいたま市中央区)に21階建て、高さ66mの分譲マンション 「与野ハウス」を竣工させ、これが日本における高層マンションの第1号とされる。” との記述がある。
昭和57年頃の鳥瞰写真で与野ハウスと昭和43年度建築の県営高層団地(写真右)を見る。
平成13年にはこのようになっていた。
昭和末期の武州・大宮の高い建物から、南方を見ると与野ハウスさんは66mの高さゆえに、ランドマーク的な建物だったのを、まだ幼かった私の記憶にあります。
なかでも、国電(当時)京浜東北線の青い電車に乗って、右側のマド越しに見える大宮操車場駅の、バラエティーに富んだ貨車群を見つつ、背景にある与野ハウスさんの建物は、とってもよく目立ってたのを、今なお忘れられないです。
それはさておき、私が幼稚園児だった1976年に住友不動産さんの手でできた与野ハウスさん、できた当初は交通の利便性では少し不自由だったけど、通勤新線の埼京線ができて北与野駅(仮称・通10)が開設した事や、さらにはさいたま新都心駅(南大宮)が開設と、ずいぶん良くなったのではないかと感じます。
以上をもちまして、私はこの辺にて失礼します。
昔、国道17号で戸田橋を渡って北進し、大宮に近付くと、まず県営高層団地が目に入り、続いて与野ハウスが圧倒的な高さで見えてきました。
その後、北与野駅が開設され、周辺に30階クラスのタワーマンションが建ったりして、以前のような存在感はなくなってしまいました。
では、失礼します。