たたかう!?たかちゃん!行動日誌

たかちゃんの小さな小さな行動をはじめとした、様々な活動の記録です。

阪神・淡路大震災と春闘の思い出

2015年01月18日 08時42分13秒 | その他
昨日は「阪神・淡路大震災」から20年ということで、
メディアでも様々な特集が組まれていました。

いまから思いおこせば1995年は、
いろんなことのターニングポイントの年だったと思います。
「震災」「サリン事件」「消費税の5%化」「新時代の『日本的経営』発表」など…

20年前の私は、某私鉄労組の青年部役員でした。
社青同の同盟員でもなく社民党の党員でもありませんでした。

震災のその日、労組青年・婦人部のスキー交流会で
尾瀬戸倉スキー場にいたと記憶しています。
前夜の深夜にわたる交流の眠い目に映ったのは
震災で被害を受けた街の映像でした。
それを見た先輩が「春闘がたいへんなことになるな」と
ぼそっと言ったことをよく覚えています。

その頃の私鉄春闘の大手は「大手中央集団交渉(以下:中央集交)」という方式を
その他にも「地域集団交渉」という方式が取られていて、
春闘の理念でもある企業の業績を賃金に持ち込ませないという、
産別統一闘争という形が貫徹されていました。

大手ではちょうど、京成労組が中央集交に復帰した頃で、
12社12組合での交渉が行われていたと記憶しています。
その他にも2組合が対角線交渉を展開し、
1組合が統一闘争不参加というのが毎年のパターンでした。

95春闘では緊急避難措置ということで、
東西ブロック交渉となりましたが、妥結内容には差はなかったと記憶しています。
しかし、この春闘期間中にとても印象的なことがありました。
青年・婦人部で私鉄総連激励行動に行ったところ、
ある組合からの檄布の中に「地震で崩れる私鉄の団結…」という文言がありました。

まさか…とは思いましたが、
その後、資本側の攻勢に押されるとともに情勢の変化の中で、
中央集交はブロック交渉へ変わり個別交渉へとなっていきました。
そして、わかりやすかった妥結内容はよくわからないものになり、
大手間でも回答に格差が出るようにもなっているようです。
大手から中小・地方への波及効果も薄まっていったように感じます。

今は、私鉄の組合員ではありませんが、
阪神・淡路大震災から20年。思い出したことをかいてみました。


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