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村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

モデルルームをつくる

2007年05月19日 | Weblog
夢とはいっても、ここでは現実に目に見える夢でなければならない。家具は一つ一つを見れば夢でも何でもなく、モノにしかすぎない。生活のイメージが、欠落しているのである。これにイメージを加えて、本来の商品価値を付加する方法はモデルルーム方式しかないのである。スイスのフィスターで私がとりつかれたものだ。

モデルルーム方式といっても、日本ではいまだに採用しているところははとんどないのでわかりにくいと思うが、簡単にいえば、すでに人がその家具を使用して暮しているような形に商品を配置してみせるというディスプレイであり、それもやたらに置くわけではなく、美的な規準に合わせて統一のとれた部屋づくりをするのである。

たとえば和家具売場では、六畳とか四畳半といったスペースに畳を敷く。座卓を置き、床の間には置物を配置し、掛軸をかける。照明も和風の螢光灯を使用するという形で和室をつくっていく。洋家具でも、仮にダイニングルームなら、台所設備をセットし、食器棚や冷蔵庫、食卓といったものをもっとも使いやすく美しい形で置いていく。寝室ならベッドだけでなく、壁紙から照明まで気を配り、場合によっては本棚に本を何十冊と入れたり、高級洋酒を置いたりするわけである。

こうしたモデルルームを何十、何百とつくつていくことによって、来店した人は、自分がどんな住まいづくりをしたらよいかというイメージがつかめるのである。ホームセンターの側からいえば、単品を売るのではなく、一つの部屋をトータルで売れるというメリットが生まれてくるのである。

開店当初、私はフィスターやゴールド・ブラッツを参考に二十近いモデルルームを自分でディスプレイした。私以外誰もできなかったから、しかたなく自分でやったのである。

モデルルーム方式の泣きどころは、日本にはディスプレイの専門家がいないということである。すぐれたモデルルームをつくるには、まず家具をはじめとする生活用品の完全な知識がなければならない。さらに大切なのは、空間をいかに使いやすく、美しく表現できるかという美術的なセンスである。生活空間は雨露をしのいで便利に使用するというはじめの目的が満たされれば、次はいかに美しくという問題になる。

現代の生活空間はすでに使用目的はほぼ達せられていて、いかに美しくという段階になっている。だからこそ、モデルルーム方式が消費者サイドからも要求される時代になりつつある、という判断ができるのだが、この美しい部屋づくりができる人間が一人もいないという点で、欧米との間に大きな差ができているのである。この分野で若いセンスのある専門家が育ってくれるのを待つばかりである。

さて、ホームセンターはモデルルームをつくってトータルなイメージを売るというわけだが、部屋のイメージをつくって家具を売るだけではない。それだけなら毛色の変った家具店にしかすぎない。家具だけでなく、モデルルームづくりに使った商品のすべてを売るのがホームセンターなのである。

床に敷いたカーペットにも正札がついている。壁紙も買える。壁に掛けた絵にも値段がついている。灰皿ひとつ、花びんひとつにも正札がついているわけである。ただ単なるムードづくりのための小道具ではなく、すべてが商品なのだ。一見、モデルルーム方式はスペースだけをとって、商品の中味が薄くなり坪当りの収益が落ちるようにも見えるが、けっしてそのようなことはない。家具だけでなく、いろいろな関連商品が売れることによって売場効率を高めることである。

ホームセンターは、いきなりモノを並べてさあ買ってくれという従来の商法に比べると展示会とか見本市といった色彩が強いのである。こんな製品をこんな風に使ったらどうですかという見本を売場に展示する。だから売場とはいってもショールームの連続といった感じで受け取られるのである。

それぞれタイプの違った小さなショールームをたくさん集めて見せれば、来店客は非常に楽しいはずである。展覧会で絵を見るとか動物園で象やパンダを見るように、そこからいろいろな住まいの知識を学びながら夢を描くことができる。自分の生活空間とモデルルームをダブらせて考えることができる。

そのときは買わないまでも、あそこにあったあの商品をうちに置きたいと思うはずである。あんな台所にしたい、あんな客間、あんな寝室という具体的なイメージがトータルで消費者にわかってもらえるのが、ホームセンターにおけるモデルルーム方式の最大の効果なのである。 次へ

重要なテナントの役割

2007年05月18日 | Weblog
ホームセンターは単なる家具店ではない。だから売れるものは何でも売るというのが村内の基本的な考え方である。モデルルーム以外のスペースで外車も売れば電気器具も売る。飛行機やヘリコプターも売ったことがあるが、これは客寄せのために購入したもめに買手がついたというだけである。

ルームアクセサリー的なものは、一風変わった商品でも取扱っていく。たとえば昭和四十八年に八王子店と府中店で売った岩手県の水車。もちろん本物だがインテリアとしてまもなく売れた。ブナの巨木の根を八十五万円で売ったこともある。

これらは民芸品としてまとめて扱った商品のひとつである。また、インテリアではないが仏壇や神棚といったものも住まいの必需品としてよく売れている。一セット四百八十五万円という、イタリア製手づくり応接セットを売って評判になったこともあった。

ホームセンターは住まいに関係あるものは何でも扱うのがたてまえである。しかし限界もある。家具専門店のスタッフが電気製品を扱ったり、楽器を扱うのは不可能に近い。これらはやはり専門家の手で売らなければ経営は成りたたないし、アフターサービスの技術がないとお客に迷惑をかける結果になる。

そこで、ホームセンターのオープンに先立って、私は高度の専門技術を必要とする分野はテナントにまかせて、それぞれの専門店にコーナーを貸して独立採算で営業してもらうのが良いのではないかと判断した。

現在、村内ホームセンターの各店には、寝具店、インテリア店、レストラン、仏具店、楽器店、電器店、ガソリンスタンド、時計貴金属店などがテナントとして入っている。それぞれ素人としてはちょっと手の出しにくい分野であり、専門技術者を社員として採用して手を拡げるのは外車とハウジングで精いっばいだったからである。

テナントとは、徹底した共存共栄という考え方で対応した。内部ではテナントでも、外から来た人にはホームセンターの一つの売場という感覚で受取られるから、バラバラに何かやっていては困るし、トラブルなど起こしたら店全体の信用にもかかわるからである。

テナントの各店と共存共栄していくシステムについては、いろいろ試行錯誤もあったが行きついたのは、村内家具店も含めて各店が協同組合を結成するというシステムだった。協同組合法に基づいて各店が出資金を持ち寄り、共同歩調をとって連帯心をはかっていくというシステムだ。本店の「村内ショッピングセンター協同組合」、立川店の「協同組合村内立川ショッピングセンター」の二つがそれである。

私が協同組合化まで考えて、テナントとの共存共栄に気を配ったのは、昭和四十五年に「ダイエー」の八王子店と立川店にテナントとして参加し、わずか十ヶ月あまりで撤退せざるを得なかった苦い経験があったからである。

ダイエー立川店に出店したことにより私はテナント側の立場がよくわかった。店側と全面的な協力体制ができていなければテナントは単なる軒借り商法であって、少しでも条件が悪化すれば成り立たなくなってしまうということがよくわかったのである。また、売り場を貸す側にしても、テナントがどんどんつぶれるようではイメージダウンである。せっかく宣伝をしても、こんなマイナスイメージが拡がったら、小売店としては大きな打撃を被るのである。ダイエー撤退のときも各紙に報じられたことによるダイエーのデメリットは、そうとうなものだったと推測できるのである。

これらの経験から、私はテナントとして他店に出店するのはよほどの信頼関係がないと無理だと判断すると同時に、村内ホームセンターのテナントとは、考えうる限りの良好な関係を持続させるべきだと思ったのである。

軒借り商法はけっして気楽なものでも、割のよいものでもなかった。協同組合をつくって、お互いに対等な立場で郊外ショッピングセンターを運営していかなければ、両方がうまくいかなくなるのである。商売はムードではなくシステムが一番大切なのだということなのである。 次へ

モノを売らないセールスマン

2007年05月17日 | Weblog
2.「まごころ商法」とはなにか

これまで述べてきたことは、商品、ディスプレイ、テナントなど、外から目に見える部分である。ホームセンターとは何かを外側から描写すれば、大まかなアウトラインは理解できるはずである。しかし、商売は外側から見える部分だけではない。モノを並べて売るだけだったら露店商法と変りはないし、郊外大型店がそれで成り立つわけはないのである。

村内ホームセンターがオープンし、順調に伸びているということを知って、全国からたくさんの業者が視察にきた。そして、あちこちに類似店、つまり郊外型のホームセンターがたくさんできた。その中でいまもうまくいっているところもあるが、多くの追従店がつぷれていった。

村内が成功し、そのマネをした店の多くがなぜつぶれたか、その中でうまくいっている店もあるのはなぜか。私は興味をもってしらべてみた。その結果わかったことは、村内ホームセンターを見て、その外観だけをマネした店のほとんどがつぶれ、システムまで学んでいった店は生き残っているということである。村内は常にさまぎまな商業戦略、戦術をシステム化していつもフルに回転させていることは、だんだんあきらかになっくると思うが、まずその中でも基本的な戦略のシステムの一つである「外渉」について説明しよう。

外渉というと、これも耳慣れない言葉だと思う。普通は外商と書き、洋風にいえばセールス。外交員が商品を売り歩くシステムである。しかし外渉とは字のごとく、外で商売をするのではなくPR活動をするだけなのである。

商売は店を開いて待っているだけではだめである。こちらから足を運んで顧客をつかむという積極さがなければどんな商売もうまくいかない。だが、セールスがいかに苦しい仕事かということを身をもって体験しているだけに、私は社員に「外へ行って商売してこい」とはいえなかった。

そこで私が考え出したのは「売らないセールスマン」のシステムだった。相手のところへでかけていって、モノを売り、納品して代金をもらうというセールスの仕事から、モノを売るという部門をはずしてしまったのである。

モノを売らないセールスマンとはなにか。その仕事の主なものは、情報の収集とお客様を店までつれてくることである。

システム的には、現在、ブライダル外渉とインテリア外渉の二つにわかれている。

まずブライダル外渉だが、この仕事の第一歩は、近く結婚する人に関する情報を集めることである。次にその相手を訪問し、婚礼家具を見に来店してはしいというアプローチを行なう。これを村内では「誘店活動」といっている。お客様を売り場まで連れてきたら、販売員にバトンタッチする。外渉の社員は原則的にはモノを売らないのである。

さて、たてまえは全社員が外渉活動を行なうということにはなっているが、現実に動く場合は店の戦略に従って五十人とか六十人といった外渉員が組織的に活動する。店のほうも「ご婚礼家具大予約会」とか「結婚展」といった、受け皿的な行事を定期的に行なっていくのである。

この外渉システムの有利なところは、社員に過大な負担を背負わせることなく営業活動ができるということである。モノを売って来なければならない、という心理的な圧迫感がないから、営業マンの動きは軽くなるし、落ちこぼれも少なくなる。

また、金銭上の問題が起こらないというメリットもある。外商の場合はセールスマンが現金を扱うのだから、長い間には必ず使い込むといったトラブルが起こってくる。しかし、村内の場合はそのようなケースは皆無である。金銭上のトラブルは社員の身を誤らせるだけでなく、対顧客の問題も含めて、店の信用を大きく傷つける場合が多い。 次へ

伸びるインテリア商品

2007年05月16日 | Weblog
ブライダル外渉は婚礼を主体にした販売戦略だが、もうひとつの柱であるインテリア外渉は新、増築などを柱とした販売活動である。これももちろん情報収集、誘店活動が具備的な仕事だが、ブライダルよりさらに「コンサルティングセールス」の色彩が強くなってくる。

つまり、相手に対して、どんな家具をどう配置したらよいか、室内装飾はどうしたらよいかということを、相手の希望に応じながら的確にアドバイスできる能力が要求されるのである。優秀な部屋づくりのコンサルタントであることが、インテリア外渉を行なう社員の第一条件になってくるのだ。

もちろん、コンサルティングができる社員の教育、養成といったことが、村内ホームセンターの大切な業務の一つなっているわけだが、ブライダル、インテリアの両面からの外渉制度こそ、村内成長の原動力になったのである。

さて、この外渉制度をどう有効に活用するかという問題も出てくるかと思うが、その一例をあげると、支店展開の際のPR活動がある。

村内ホームセンターは八王子本店のはかに府中、相模原、大月、立川の四支店を展開させたということは前にも述べた。この支店展開も、ただ店を作って、どうぞ来てくださいというのではたちまち赤字を出してしまうだろう。支店周辺地区の外渉活動は不可欠なのである。支店がオープンしてから外渉活動をはじめたのでは遅すぎる。

村内では、支店計画ができると、一年ぐらい前から現地に営業所を設けて、五人から十人の外渉部隊を常駐させる。外渉マンが支店の担当地域をしらみつぶしに歩き、「今度村内ホームセンターがオープンする」ということを個別にPRするのである。この活動を行なっておけば、実際に支店がオープンした時点では、すでに村内の存在は知れ渡っているわけだから、「開店しました」という大宣伝が、なお一層効果を出すのである。

支店進出について、「村内はうまい」とよくいわれるが、時間をかけて地味にPR活動を行なうだけであって、けっして奇をてらうといったことではないのである。村内は大資本ではない。もし支店進出に失敗したら、それこそ屋台骨まで危なくなってしまうのである。失敗は許されないという基本姿勢から出てきた戦略が、時間をかけた地味なPRであり、現象面でうまいといわれるゆえんなのである。

外渉システムは、店を構えて顧客を待つのではなく、こちらから出かけて、相手を店まで連れてくるシステムだといったが、これには送迎というもうひとつのシステムが付属している。

村内ホームセンターは配送用のトラックと、本店と八王子駅を結ぶマイクロバスを除いて、クラウン、セドリック、カローラ、サ二ーなど六十台以上の乗用車を保有している。これは普通の企業では考えられないような数字で、ヘタなタクシー会社よりはるかに多い台数である。

これらの乗用車は主に来店客の送迎用に使われているのである。外渉マンがお客様と来店の約束をすると、車で玄関先まで迎えに行き、帰りもまた自宅までお送りするのだ。この送迎システムの歴史は古く、加住の村内家具店時代の初期、昭和三十五年からはじまっている.そのときはドライバーも女性ということで評判になったものである。もちろんこんなシステムは日本中どこを探してもない新しい試みだったのである。

その後、規模も大きくなり、車もふえて女性ドライバーというわけにもいかなくなったが、送迎そのものはずっと続けられてきた。このシステムは一部には、過剰サービスとも受け取られがちだが、サービスという面は別として、外渉システムからはずすわけにはいかないのである。

というのは、外渉が来店の約束をとりつけても、何日の何時に来てくれなどと押しつけるわけにはいかない。いつ来店してくれるかわからないのである。これでは外渉活動の意味がなくなってしまう。どなたがどんな商品を求めているかということを知ったうえで適当な売場に案内し、商品の専門家である販売員にバトンタッチするというのが外渉である以上、送迎は営業上も絶対に必要なシステムなのである。 次へ

商売は売って喜び、買って喜ぶ

2007年05月15日 | Weblog
私はシステムを考えるとき、システムを動かすのは、そこに参加する人の心の問題ではなかろうかと思う。私はよく「真心商法」という言葉をつかう。お客様に対してウソをつかず、心の交流を大切にすることこそ商人道だというわけである。

ショッピングセンターの社長である私がこんなことをいうと、何か宣伝めいて聞えるかもしれないが、商売といえどもやはり、やはり心がすべてをきめてしまうのだから、まずは心の問題を解決してからでないとシステムは組み立てられないといいたいのである。

商売はすべてお客様の気持しだいである。いくらあいさつのしかたまでシステム化してその通りに実行しても、形式だけで心がこもっていなければたちまち見抜かれてしまう。

私が常に社員にいう「真心商法」とは儲かったから喜ぶという発想を捨てて、相手を喜ばせることができたから喜ぶという発想を自分のものにすることである。人間は誰でも他人を喜ばせることができれば、自分はもっとうれしいものである。簡単な発想でみんな知っていることだが、こと商売となるとすっかり忘れて、自分のことばかり考える商人が多い。するとその気持を見抜かれてしまって、商売はうまくいかなくなるのである。

相手を喜ばせるためには、できうる限り相手の利益を考えることが第一である。古今東西、良い品を安く売る店が繁盛しなかったためしはない。つまり、システムを組むときの基本姿勢に、それが消費者のためにどう役立つか、を考えていくことが大切であり、役立つシステムを実行すればやがて販売促進に結びつく。本気で相手の利益を考え、相手が喜ぶことで自分が喜べば商売は必ず成功するわけだ。

私はホームセンターオープン以来、ガソリン五リッター無料サービスを実行してきた。これはのちに公害問題で、ノーカー運動に反するという意味あいが出てきて中止したが、発想は「わざわざ車で来てくださったのだから往復のガソリン代ぐらいはこちらで持ちましょう」という考え方である。その分だけ商品を安くすればいいではないかといわれるかもしれないが、もともと価格はできる限り押えてある。

さらにその上五百円程度値引きしたところで、相手にこちらの気持が伝わらない。宣伝の一環ではあっても、誰のトクにもならない宣伝に金をかけるより、具体的に相手の利益になる方法を実行したほうがお互いによいのである。せっかく来店して下さったのだからガソリン五リッター差上げます、といって怒る人はいないはずである。

コーヒー、紅茶の無料サービスも同じ発想の上に行なわれている。加住の村内家具店の頃は商談室でお茶とお菓子を出していた。その基本を活かし発展させたのが、今のシステムである。

村内商法は百姓商法である。少しばかりドロ臭いかもしれないがスマートさ、簡略さを追求するより、人と人の心の交流を追求していったほうがよいということを、人里離れた家具店時代に学びつくしただけに、都会的などちらかといえば味気ないほどビジネスライクな商売はしたくないのである。

二宮尊徳先生は『凡て商売は売って喜び、買って喜ぶようにすべし。売って喜び、買って喜ばざるは、道に非ず』と教えておられる。

外渉にしても、テナント問題にしても、その他あらゆる販売戦略を考えるに際しても、基本にあるのは心であり、心だけが相手に通じる唯一のものではないかということなのだ。

ここで私が提言したいことは、戦後の日本は欧米の合理的精神をずっと学んできて、合理化することが最終目的のように思われてきた傾向が強い。だが、それで本当によかったのか、それで商売はうまくいったのか、企業は正しく運営されてきたのかということをもう一度考え直してみる必要があるめではないか。現代社会のあらゆる問題点は、ことによると、合理主義を一片の疑いもなく追求し続けたことによって生まれたのではないだろうか。

私の百姓商法-真心商法の提起を、検討していただける時代になりつつあるのではないか。 次へ

ネックは交通渋滞

2007年05月14日 | Weblog
3.商圏を考える

商業では商圏というものを常に考えていかなければならない。どの範囲から顧客が来てくれるかという「面」を設定し、その中心点に店舗を構える。地図上の面がすなわち商圏である。商圏の仮定は業種、規模などで違ってくるが、欧米の郊外型ショッピングセンターはおおむね半径二十キロ、三十キロといった大きな商圏を設定している。

しかし、商圏を設定する本当の目やすは距離ではなく、郊外型ショッピングセンターに限っていえば、自動車による所要時間である。村内ホームセンター八王子店を計画したとき、私はこれを最大片道三十分とみた。中央高速道路の八王子インターチェンジのすぐわきに出店することにこだわったのは、高速道路ぎわだと片道三十分の距離が東は新宿、西は山梨県の大月あたりまで延ばせるという考え方があったからだった。

また、中央高速に交差する国道十六号線ぎわということも大切であり、これで北は埼玉県川越市あたりまで、南は神奈川県厚木市あたりまでを限界として商圏が設定できたのである。

開店当初、この設定はほぼ正しかったし、その意味では八王子一店をさらに巨大化するという方式でもよいのではないかという気がしていた。ところが、広告戦略が予想以上の成功をおさめ、知名度が上ったにもかかわらず、商圏がどんどん縮小していくという現象が発生した。

原因は交通渋滞である。国道十六号線の渋滞が次第にひどくなり、中央高速から降りたとたんに渋滞に巻き込まれるといった状態が続いているのである。これでは川越、厚木どころではなく、道がすいていれば三十分で来るところでも、一時間とか一時間半かかってしまう。日本は遠からず欧米並みにモータリゼーションが発達するであろう、と予測したのは正しかったのだが、これほど早く交通事情が悪化するとは思わなかったのである。

村内ホームセンターに関する商圏については、大幅な手直しをせざるを得なくなった。あちこちに大型店ができて、交通事情が悪くなった分だけ地元店にシェアを喰われてしまうのである。

交通事情を考えたとき、点を中心にして十五キロから二十キロが商圏の限界であろうということがしだいに明らかになった。日本の道路事情ではその辺が妥当なのである。十五キロから二十キロでは八王子店の商圏は当初予定したものよりかなり小さな面になってしまう。支店の設定を考えなければならなくなったのだ。

結果的にいうと、まず東京と八王子の中間にある府中店、立川店、山梨方向に大月店、神奈川方面に相模原店を出店させた。いずれも八王子店をモデルにした郊外型のショッピングセンターである。また現時点ではオープンしていないが、町田から横浜方面を確保するために町田市郊外にも土地を購入した。

当初予定した商圏はすでに開店している四支店と、計画段階の一店で押えることになったのである。

各支店状況については次の項で述べるが、この作戦は各店がそれぞれ順調に伸びていることからみて正しかったようである。

支店の展開については、本店の影響力のない遠い場所に設置して、だんだん隙間を埋めていくというやり方もあるが、これはやはり資本にモノをいわせる大企業方式であろう。私のところのような中小企業では、本店の影響力の関連で少しずつ外側へ出ていくという戦略のほうが効果的であり、安全性も高いと思われる。

だから今後も支店網を拡大していく際には、すでに押えてある面のすぐ隣の地域に出していくという作戦をとらざるを得ないと思われる。

商圏という発想抜きに考えることはできないが、モータリゼーション時代の郊外型ショッピングセンターというこれまでわが国には存在しなかった業態で的確に商圏を設定するのはかなりむずかしかったといえるし、すぐに状況が変って、商圏が変化するといったことも予測しにくかった。しかしこの経験が、今後の支店展開に関して貴重なデーターになったことは確かである。 次へ

府中店オープン

2007年05月13日 | Weblog
商圏が縮小してきた以上、支店を設けなければならない。どこへ、どのようにということになった。都心方面に大型家具店が数多くできてテリトリーを確立しようとしている。こちらも、その方向を詰めておかなければ、将来に問題が出てくるのではないか。また人口を考えても、都心に向かった方向が有利であろうということになった。八王子と新宿の真中あたりといえば、調布市か府中市である。両市とも、私鉄京王線め沿線都市で、昭和三十年代に入ってベッドタウンとして急速に大きくなった地域である。

また、この両市は甲州街道つまり東京からの主要国道である二十号線沿いにある。郊外型ショッピングセンターという考え方からいえば最適地とみられた。ある程度駅に近いということも大切なのではないか、という考え方も取り入れてみた。

こんな条件で土地を探したところ、京王線東府中駅近くの甲州街道ぞいに土地を購入することかできた。昭和四十六年のことである。

着工は翌四十七年三月、同年十一月に開店であった。府中支店は八王子本店が六階建て、売場面積一万平方メートルに対して、五階建て八千三百平方メートルと少し小ぶりではあったが、本店とは双生児の兄弟といってもよいほど、同型の郊外型ホームセンターになった。

二番目の支店は翌四十八年の七月に、神奈川県の相模原市にオープンした。地図を見ていただければわかると思うが、八王子と府中を結ぶ線を底辺とすれば、三角形の頂点に当るのが相模原である。本店と同じく、国道十六号線に面した店である。

相模原店に関しては、当初、東京最大の新興ベッドタウンである町田市に近い、相模原市鵜野森の十六号線沿いに狙いを定めて進めていたのだが、相模原市の中心部官庁街のそばにあるボーリング場が売りに出ているという話が飛び込んできた。行ってみると、土地代だけで、建物はタダ同然の値段だった。

斜陽になったボーリング場の建物など普通なら使いものにならないから当然であるが、ホームセンターなら、改装すれば使えると思った。駐車場があるのもよかった。交渉がいつまでかかるかわからない土地の買収を待つより有利と判断して、私は二階建延べ三千三百平方メートルの売場の相模原店をオープンさせたのである。いささか狭いのが不満ではあったが、立地条件がよいから、将来は建て替えて大型化できるという判断だった。

ここまでは、一年に一店の割で支店展開ができた。だが三店目の大月店が開店したのはそれから二年後の昭和五十年十一月、第四店の立川店は翌五十一年の二月まで持ち越された。

支店展開が大幅に遅れた理由は、戦後最大の事件といわれているオイルショックの影響である。

オイルショックをどう乗りきり、第三、第四の支店展開を可能にしたかについては別の章に譲って詳しく述べるつもりなので、ここでは大月、立川店もオープンできたというにとどめたい。

昭和五十年の大月店は山梨県方面への布石である。場所は中央高速道路大月インターチェンジの隣接地。発想は八王子店と同じである。

大月店出店に関しては不況下の進出ということで注目を集めたが、村内としては別の意味でのテストケースでもあった。

八王子、府中、相模廉の三店はいずれも、東京の郊外都市に立地しているという特徴がある。人口も多いし、テリトリーもはっきり線を引けるはど明確ではない。

だが、大月市は中央高速で八王子からわずか三十分とはいっても、すでに東京の郊外都市ではなく、山梨県東部の中心にある地方都市という性格が強い。これまでのシステムとはまったく違うシステムを組まなければならない。郊外型システムがそのまま適用できないとすれば、再びゼロからの出発である。

一方、立川店は、これまでと同じ郊外型ショッピングセンターであり、手慣れた展開であった。大月、立川両店ともに斜陽のボーリング場の建物を借りてのオープンだったのは相模原店によく似たところがある。

しかし、内容については、異質な支店展開だった。大月店の地方都市型システムは現在もまだ確立途上といってもよく、これが完成すれば村内ホームセンターはさらに大きく伸びるはずである。

なお、今後の支店展開については、大型店による商圏の拡大という方針は変らないが、景気動向を読み切る必要があり、さらに、支店管理システムも巨大化するに従って欠陥が見えはじめたので、もう一度組み直さなければならないということがあり、急進的なスケジュールは組まないつもりである。

村内家具店時代から私は納得できるまで計画を練り上げ、九十パーセントまで大丈夫とわかってから行動を起こした。商売にはイチかバチかという賭けは禁物なのである。 次へ

集中配送システムの採用

2007年05月12日 | Weblog
支店網ができると、これをどう管理しなければならないかが問題になる。支店長に「そっちはそっちで勝手にやってくれ」というわけにはいかない。本店がすべての面で集中的に管理しないと現代の大型店は成り立たないのである。

この本社集中管理システムの中で、一番問題になってくるのは、物流システムである。とくに家具を中心とする住まいの商品は、物が大きい。支店で受注したものを支店で配達するほうがよいか、本店に伝票を回して本店での集中配送システムが良いか。

まず支店配達方式だが、これは、本店の管理は伝票処理などもっばら事務上の作業にとどめ、実際の商品の取扱いは支店サイドで行なうというものである。商品容量の小さいものならこの方式も可能といえるし、配送コストの切下げもできる。

しかし、商品ひとつひとつの容量が大きい場合は、各支店にかなりの規模の配送センターを併設しなければならなくなる。倉庫と商品の積み下しスペースと配送車の駐車スペースが必要なのだ。これを支店内に設けるぐらいなら、そのスペースを売り場にした方が効率的であるし、支店外の土地、建物を使用すればコストが非常に高くなる。

大型郊外ショッピングセンターには、絶対に商品集中管理センターが必要であるという結論に達したのである。

私は昭和四十五年、支店網展開の最初の計画段階で、将来の布石として、「村内家具流通センター」を建設し、このうちとくに配送部門を「村内サービスセンター」として、別会社にした。資本金五百万円、従業員七十人、配送車三十台の配送とアフターサービスの会社である。八王子の流通センターを基地に、各支店が受注した商品を配送会社が配達するというシステムである。

いま村内ホームセンターは日本一広い無料配達区域を持っていると自負している。地図上の直線距離で最大七十キロ。実際の走行距離では百キロを越す地域までが無料配達地域に含まれているのである。具体的には東京都全域、神奈川県全域。埼玉県は浦和市。大宮市、川越市はもちろんのこと岩槻市、越谷市周辺までこの区域に含まれている。また山梨県では甲府市の半分を無料配達地域にすることができた。静岡県の一部も無料である。

さて、この集中管理方式は、商品管理だけでなく、すべての業務に応用できるし、応用していかなければいけないものだ。

たとえばキャンペーンにしても、あちこち勝手にやっていたのでは効果も期待できないし、経営も大きくなる。常に本店が統一したシステムを流していくことによって、効果的でローコストな作戦が展開できるのである。

また、人事管理の面でも、集中管理方式は有効であり、上意下達式に支店長に人事面での教育、実践をすべて押しつけるという、旧来の管理方法では得られない効果を集中管理方式は持っている。つまり、教育及び実践のシステムを、本社レベルで集中して行なうことによって、戦力が短期に効果を発揮するようになるのである。 次へ

お客様に目で覚えていただく

2007年05月11日 | Weblog
商売の基本のひとつに、一人でも多くの人に来店してもらうというセオリーがある。「一人でも多くのお客様に」ではない。いわゆる商売上のお客様に限らず、遊びにくる人、見物にくる人、極端にいえば、近道をするために表から裏へ通り抜ける人であっても、積極的に迎えるのが現代の商法である。

昔はよく「通り抜けはご遠慮下さい」という張り紙をしている店を見かけた。しかし、最近では、地下鉄の出口付近にある商店など、まぎらわしい標識など出して、積極的に通行人を通り抜けさせようとしている店が多い。「ほこりっばくなる」「混雑する」などと考えるようでは商人失格なのだ。

人間は一度でも自分の目で見たものは忘れない。たとえ無意識に一暫しただけであっても、必ず記憶構造のどこかに情報として固定され、必要に応じて「ふと思い出す」という形で取り出される。三年後とか五年後とかいう長い時間がたったのちでも、「よい応接セットが欲しい」と思ったとき「そういえばあの店にあった」と思うのである。

また「応接セットがはしい」という欲求を育てるのも、この記憶構造の役割であろう。

この辺の事情を一番よく知り抜いているのはデパートである。デパートが切れ目なく屋上とか最上階の売場を使って催物を行なうのは「催物を開催すれば、来た人が何か買っていくだろう」などと短路した考え方で催物を行なっているわけではない。中にはついでに買物をする人もいるだろうが、ほとんどの人間は催物を見て帰る。経営者が短終思考の持主なら、「売上げにつながらない」という理由で催物はすぐ取りやめである。

しかし現実には、ここ何十年もデパートは年中催物を行なってきた。それも一階とか二階ではなくきまって最上階である。

催物を行なうに当ってのデパート側の期待は、来店した人が帰りについでに買物をしていってくれることであり、帰りにエレベーターでなく、階段とかエスカレーターを使って下へ降りてくれることである。下へ降りるのは楽だから、現実にも自分の足で降りる人は多いのである。

さて、自分の足で降りる人は当然多くの商品を目にとめ、記憶する。「ここにはこんなものも売っているのか」という単純な記憶から「あんなものが欲しい」「次に買いにこよう」という積極的な意欲まで、さまざまな心証を与えることができるのである。

デパートが最上階で催物を行なうのは、できるだけ多くの人に自分の店の具体的な知識を植えけるためにほかならない。

いささか、前置きが長くなったが、郊外型のショッピングセンターも、デパートの最上階と似たような面がある。チラシで商品広告をしても、店のイメージがなければなかなか来てもらえないのである。デパートにはまだエレベーターという便利なものがあるが、いかにモータリゼーションが発達しても、車はエレベーターほど便利ではない。郊外型ショッピングセンターは、エレべーターのないデパートの最上階の売場と同じなのである。

もうよくおわかりになったと思うが、郊外型ショッピングセンターは、商品を買う目的を持った人だけでなく、他の目的を持った人も積極的に招き、大切に扱わなければならないのである。

つまり、商品とは直接関係ない催物を常に行なうことで、遊びに来てもらう。遊びに来た人は「ついでだから」と売場もひと回りしてくれるはずである。

村内ホームセンターは日本ではじめてモデルルーム方式の展示を行なった店である。遊びに来てくれた人が、まるで動物園でも回るように、楽しく見て回れるようになっている。とてつもなく高価な欧州の家具まで、売れる売れないは別として展示してある。遊びに来た人は、ふとルイ十四世の居室やモーツァルトのピアノめある部屋に自分が立っているような錯覚さえ持ち得るはずである。

たとえば、子供たちを対象にした催物を開催したとしよう。子供たちは売物も遊び場も区別しない。彼らは店の隅々まで走り回りやがて帰っていく。家具を中心とする住まいの商品は比較的高額であり、地味なものだから、子供たちの発言は売り上げに結びつくことはほとんどない。短終発想なら、子供はじゃまだということになる。

だが、十五年、二十年という年月を考えたとき、催物につながる楽しい記憶がそう簡単に消え去ってしまうとは思えない。普通、子供の頃の楽しい思い出は、強く心の中に焼きついているはずである。やがて、その子供たちが成人し、結婚し、新築し、……さまざまな生活設計を考える時、きっと村内を思い出し、来店してくれるはずである。

たとえ通り抜けの人でもいい。一人でも多くの人が店に入ってくれるよう努力するのが、商売の大原則のひとつなのである。
               
村内ホームセンターは開店当日から、「買物をしないお客様」に対してキャンペーンを行ない続けてきた。村内は、買わないお客様もやはり神様なのだ、というはっきりした基本論を持っていた。一人でも多くの人に来店してもらい、村内ホームセンターを心の隅のどこかに記憶していてもらいたい。それが将来の村内の最も大きな財産になるだろうという発想なのである。 次へ

作戦変更のフランチャイズ方式

2007年05月10日 | Weblog
3章 これが現代の大型店戦略だ

1.オイルショックに負けるな大作戦

企業に安全保障はないとよくいわれる。経営ミス、体質の劣化、経済変動などあらゆるファクターによって、企業は常に危機状態に置かれているといってもよい。企業とはいっても郊外ショッピングセンター程度の規模であると、毎日毎日が台風の中の小舟のようなもので、いつ大波をくらつて沈没するかわからない。波にもいろいろあるが、オイルショックと、それに続く不況は村内ホームセンターにとって、とてつもない大波であった。

昭和四十八年のオイルショックまで、一応順調に伸びてきた。その頃、私はホームセンターのフランチャイズ化という計画を進めていた。私どもが開発したホームセンターのシステムを活かし、フランチャイズで展開しようとしていたのである。

このフランチャイズ計画の名称は「MU500」システムであった。MUは村内だが、500には多くのシンボル的な意味が込められていた。五百坪の売場に五百アイテムの商品で年間五億円の売上げを目標にし、五百店のフランチャイズを張りめぐらすことであった。

五百坪の売場といえば、ちょうど一般的なボーリング場の広さである。そして当時、斜陽化して閉鎖されたボーリング場は全国に無数にあった。この閉鎖ボーリング場の所有者に、ホームセンターのノウハウを与え、一挙に全国展開を図るのが私の計画だったのである。

相模原店はボーリング場を買収した店である。直営店ではあったが、この店を、MU500店のモデル店としたかった。

昭和四十八年の暮れ、MU500丸は出帆したばかりだった。将来は欧米のマクドナルドやデニーズのような大型フランチャイズに、という壮大な夢を描いて出帆したこの小舟は、沖合わずか数キロの地点で、オイルショックという超大型台風に直撃され、再び岸壁にもどらざるをえなかった。

オイルショックは残念ながら予測できなかった。東西の政治力学、中東紛争、国際石油資本などが複雑にからみあった末の、産油国による突然の廃油価格四倍値上げなどという大事件を予想しろといっても無理であった。半年なり三ヶ月前に可能性を予測できたのは、商社情報がフルに利用できる一部の大企業だけで、一般の国民と同様、一専門店経営者の私にはオイルショックはまさに寝耳に水だりたのである。

原油大幅値上げのニュースで私はMU500の計画を断念した。廃油が上れば、石油エネルギーを依存している世界経済はマヒするにちがいない。石油化学製品だけでなく、電力をはじめとする公共料金が上がり、公共料金が上れば一般的な商品価格も当然上る。トイレットペーパー探しに庶民が走り回る、といったパニック現象が起こるのも無理ない大事件だった。

郊外型ショッピングセンターにとって、オイルショックはもっと深刻な事態をもたらすであろうということは容易に推測できた。急上昇する物価に賃金が併行して上るなどということは考えられない。

そうなれば、皆がなるべく車を使わないように心がける。家具のような大型耐久消費財の購入もひかえるようになる。仕入価格も上るし、ガソリン値上げで配達コストも高くなる。これはどの悪材料が一挙に出てきたのだから、手をこまねいていては、間違いなく倒産であった。とてもフランチャイズ展開どころの話ではない。全力没球で防衛に回らなければならなくなったのだ。

いまになってみれば、ここ数十年の世界経済は中東の安い石油をエネルギーに使うことで成りたっていた。構造そのものが、石油抜きには考えられないところまできていたということがよく理解できる。

とにかく、防衛を考えなければならなかった。このとき多くの会社がまず経費の節減を考えた。三センチまで短くなった鉛筆を持っていかないと替りを出さないとか、不用な書類はすべてメモ用紙にといった、ドロナワ的でうまくいきそうもないような節減策を実行に移した会社が話題になったりした。 次へ