■古来、赤丸村には「延喜式内社赤丸浅井神社」「浅井城祉」が在った。
「赤丸浅井城」は、古書によると「孝靈天皇の第三皇子彦刺肩別命の5世の孫、利波臣姓を賜りその後裔累世此処に居館せり」という。利波臣志留志は聖武天皇の奈良東大寺大仏の造営に際して米五千石(東大寺要録)を献上し外従五位下に叙せられた。
(※「続日本紀」の天平十九年九月乙亥条では利波臣志留志が米三千石を寄進したとある。天平十九年は大伴家持が越中国司として着任し一年を経た頃という。現在も尚、東大寺二月堂で執行される「お水取り」で「米五千石奉加せる利波志留の志 シルノサクワン」と読まれている。現在も続く石黒一族はこの利波臣志留志の末裔と云われる。)
養老元年(717年)元正天皇二宮(実は万葉集にも掲載されている文武天皇の二宮石川朝臣広成と推定されている。)により創建されたと伝わる五位庄五十三カ村の総鎮守として延喜式内社の「浅井神社」が赤丸村に鎮座してきた。(※「三州誌故墟考」)
「赤丸浅井神社」には東大寺荘園の一部が神田として寄進され(東大寺正倉院資料絵図)、いつの時代からか、五位庄(旧名 越中吉岡庄)五十三カ村の各戸から一升の米を奉納する事が定められていたという。
「赤丸浅井神社」の隣地の丘陵には元正天皇二宮が居城とされたと伝わる「浅井城」が在り、東大寺大仏造営に貢献した孝元天皇 の孫の武内宿禰の後裔とされる古代豪族利波氏が累代居城としたと伝わる「赤丸の浅井城」が在り、後に利波臣の後裔石黒氏が築城して南北朝時代迄石黒氏の居城で在ったが、後に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王の随臣で秩父平氏中山次郎重実の後裔の中山氏の居城となったと云うが、子孫は佐々成政の家臣として「能登末森城」で前田利家に敗れ、廃城にされたと云う。(※「赤丸名勝誌」)
(一説には鎌倉幕府北条氏の家臣中山氏が入城した時に石黒氏が越中新川郡に逃れたともされる。)
(※「肯構泉達録」、「赤丸浅井神社古記」、「赤丸名勝誌」、「中世城館調査報告書」)
【◆7代 孝靈天皇―8代孝元天皇ー彦太忍信命ー武内宿彌ーー利波臣 (※「古事記」 )】
■加賀藩の治世には「第十三代前田斉泰公」が[浅井神社]の掲額の書を書かれているが、加賀藩の所蔵文書の「森田文庫」の中には往時の隆盛を示す絵図も残されている。
(※「石川県立図書館蔵」)
「赤丸浅井城」は、古書によると「孝靈天皇の第三皇子彦刺肩別命の5世の孫、利波臣姓を賜りその後裔累世此処に居館せり」という。利波臣志留志は聖武天皇の奈良東大寺大仏の造営に際して米五千石(東大寺要録)を献上し外従五位下に叙せられた。
(※「続日本紀」の天平十九年九月乙亥条では利波臣志留志が米三千石を寄進したとある。天平十九年は大伴家持が越中国司として着任し一年を経た頃という。現在も尚、東大寺二月堂で執行される「お水取り」で「米五千石奉加せる利波志留の志 シルノサクワン」と読まれている。現在も続く石黒一族はこの利波臣志留志の末裔と云われる。)
養老元年(717年)元正天皇二宮(実は万葉集にも掲載されている文武天皇の二宮石川朝臣広成と推定されている。)により創建されたと伝わる五位庄五十三カ村の総鎮守として延喜式内社の「浅井神社」が赤丸村に鎮座してきた。(※「三州誌故墟考」)
「赤丸浅井神社」には東大寺荘園の一部が神田として寄進され(東大寺正倉院資料絵図)、いつの時代からか、五位庄(旧名 越中吉岡庄)五十三カ村の各戸から一升の米を奉納する事が定められていたという。
「赤丸浅井神社」の隣地の丘陵には元正天皇二宮が居城とされたと伝わる「浅井城」が在り、東大寺大仏造営に貢献した孝元天皇 の孫の武内宿禰の後裔とされる古代豪族利波氏が累代居城としたと伝わる「赤丸の浅井城」が在り、後に利波臣の後裔石黒氏が築城して南北朝時代迄石黒氏の居城で在ったが、後に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王の随臣で秩父平氏中山次郎重実の後裔の中山氏の居城となったと云うが、子孫は佐々成政の家臣として「能登末森城」で前田利家に敗れ、廃城にされたと云う。(※「赤丸名勝誌」)
(一説には鎌倉幕府北条氏の家臣中山氏が入城した時に石黒氏が越中新川郡に逃れたともされる。)
(※「肯構泉達録」、「赤丸浅井神社古記」、「赤丸名勝誌」、「中世城館調査報告書」)
【◆7代 孝靈天皇―8代孝元天皇ー彦太忍信命ー武内宿彌ーー利波臣 (※「古事記」 )】
■加賀藩の治世には「第十三代前田斉泰公」が[浅井神社]の掲額の書を書かれているが、加賀藩の所蔵文書の「森田文庫」の中には往時の隆盛を示す絵図も残されている。
(※「石川県立図書館蔵」)