赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💥💥 相変わらず続く【高岡市のウソ】 ⇒【義経記】では「勧進帳の場面のモデル」は「五位庄二位の渡し」の事。しかし、新聞の記事では、高岡市は性懲りも無く、市の予算で新たに設置し直すと云う。

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■【お粗末な高岡市の教育レベル、観光振興政策】
「高岡市」では、市長や教育委員会がでっち上げた「義経記」の「二位の渡し・如意の渡し」に無駄な税金を投下し続けている。この実際の場所は、富山県高岡市福岡町赤丸の「延喜式内社赤丸浅井神社」・「赤丸浅井城」の前に在った舟乗場だが、「小矢部川の伏木河口がその場所だ」と主張して公費をかけて「観光地」をでっち上げた。真実は「義経記」そのものを読めば自ずから明らかで在る。
(※小矢部川は鎌倉時代には西山の麓に沿って流れていた。高岡市の水道公園にはその説明版が在る。)
平成29年には、この【贋の渡し場】に設置されていた巨大な「義経・弁慶の銅像」を再び、公費をかけて伏木駅前に動かしたと云う。この様に、市民の税金が高岡市長、議員、教育委員会・地元有力者の「悪趣味」の為に私的に浪費されて、高岡市財政は破綻した。
(※関係者はこの有名な「義経記」すら読んだ事も無い【エセ知識人】!!)





■小矢部川河口には巨費を投じて巨大な「義経・弁慶の銅像」が設置されている。




■この場所は、「元正天皇の二宮が創建された赤丸浅井神社前の二位の渡し(※二宮)」での出来事だが、加賀藩士が書いた「越中志徴」で、「元正天皇は女帝で子供が無い事からこの浅井神社由緒は間違いだ」とし、伏木の「古国府城」の近くに守護町があるから、「場所は伏木河口か?」と記載した為に、伏木の人達は「五位庄の出来事」とも知らず、「守護町」が南北朝の斯波氏が数年館を構えたに過ぎない事も知らずに、小矢部川河口に「如意の渡し」と言う観光地を佐藤高岡市長がでっち上げた。?
しかも、この小矢部川河口は「二上庄」と言う地域で、「五位庄」とは全く違う場所だ。
元正天皇は文武天皇の妹で、文武天皇が若くして亡く成った為に文武天皇の中宮に擬制されて女帝と成り、幼い聖武天皇の母代わりに成られた。『赤丸浅井神社』は「続日本紀」にも記載されるが、この聖武天皇の義弟で在り、実在の人物の「石川朝臣広成」の創建であり、万葉集にもこの人物の歌三首が掲載されており、大伴家持、利波臣志留志と同時代の人物だ。「赤丸浅井神社三社記」にはこの人物が浅井神社を中興されたとされている。
(※元正天皇は「継嗣令」を発布して「全て天皇の子供は親王とする」とされた。)
高岡市の観光は誰でも知っている歴史を偽造して、正確な歴史も知らずに作り上げられており、正に厚顔無知と言える。

●江戸時代の享保年間に作成された「養老律令」の解説書「令義解」には「養老律令継嗣令」の解説が遺されている。





●「義経記」に登場する場所は、「義経記」では「おいのしょう(五位庄)」となっているが、実際は南北朝時代末期迄は皇室庄園の「越中吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸周辺)と呼ばれており、「義経主従」が奥州に向けて落ち延びた時には、「義経」を庇護していたとされる「後白河上皇」の庄園(※後院領)で在った。「義経記」では、この場所は「おいのしょう」と記されるが、これは「後院領」が「御いの庄」、「おいのしょう」と転化したもので、「足利義満」が「相国寺」の庄園として寄進した時には、明確に「五位庄」として記載されており、東寺百合文書では「後院領」が変化した経過が分かる。
(※「東寺百合文書」、「万山編年精要」)

■「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」



■「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当は門跡寺院聖護院派の「川人山鞍馬寺」で在り、「川人山鞍馬寺三社縁起」にはその由緒が記されており、聖護院の初代門跡は後白河上皇の皇子が就任されている。































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