赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴 皇室庄園「越中吉岡庄」から「越中五位庄 」赤丸村への歴史⇒越中利波郡(トナミグン)の広大な皇室庄園 !!

2021-02-10 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
「延喜式内社 五位庄五十三ケ村総社 郷社 赤丸浅井神社」












『重要』⇒平成13年、赤丸村で古来から伝承されていた「吉岡庄」は、『国立歴史民俗博物館』の調査で正式に「福岡町を中心とした越中吉岡庄」として確認され、従来「新川郡」と註釈されていた部分も「砺波郡」と修正して「庄園データベース」に正式に登載された。
(※現在も、修正前のデーターに基づいて「新川郡」としている文献が多いが、これは修正前のデーターに基づくので誤り !!)

新川郡の合併前の富山市域に当たる太田保に、吉岡村が在る所から越中吉岡庄と混同されてきた。太田保の蜷川郷に蜷川城を構えた蜷川氏の中に吉岡と名乗った者が在り、蜷川村の郷土史には蜷川の本家が吉岡で在ったとされる。蜷川新右衛門に代表される蜷川氏は室町時代の足利義満の近臣として政所代に成り、新川郡と利波郡を統治したとされる事から、利波郡の吉岡庄を新川郡と混同したと見られる。⇒足利義満の頃には越中吉岡庄は越中五位庄に改名されている。「※東寺百合文書」桐箱100箱に収められた東寺の古文書)


国学者五十嵐小豊次の『郷庄考』では正確に「平範記」記載の元藤原頼長庄園の『越中吉岡庄』と『能登一青庄』を取り上げて「砺波郡吉岡庄」としている ❗





「越中吉岡庄図」と「五位庄」と改名された後醍醐天皇皇子宗良親王

■「五位庄」と「吉岡庄」
「五位庄」は、南北朝時代まで「越中吉岡庄」と呼ばれていた。「赤丸浅井神社」は「五位庄総社」とされ、その中核の神社で在った。五位庄は広大な範囲で有り、加賀藩士富田景周が書き記したと伝わる「加越能三州地理志稿」に拠れば、江戸時代の「五位庄」は「四日市、柴野、十日市、江道、境、山川、廣谷、勝木原、澤川、淵ケ谷、田名原、小野、六郎谷、花野(花尾)、栃谷、上栃谷、西明寺、上向田(鍛冶町・田ノ子・上野)、下向田、土屋、山岸、鳥倉、西、高畠、加茂、馬場、三日市(荒田町・大野島・大野)、赤丸(谷内・次兵衛島)、舞谷、石堤(谷内・六日市)、麻生谷、東石堤、渡、内島(池田・新屋敷)、蜂ケ島、大源寺、福田六家、六家、樋詰、柴野内島、立野町、中保、駒方、駒方新、小竹、下開発、上開発、今市、宮野腰、三ケ、後正寺、須田、壹歩貮歩(二歩)、下老子、笹川(荒又・出来野)、高田島(荒又・出来野)、福岡、四十萬、稗島、下蓑、荒屋敷、土田新、以上 五十七村属五位庄」が五位庄で在ったとされる。

しかし、越中吉岡庄の時代には、「赤丸浅井神社由緒」や「浅井神社は米一升を各戸から集めていた。」と伝わるその範囲から推定すると、五位庄の時代とは少し範囲は異なっていた様だ。「赤丸浅井神社」は「五十三ケ村総社」とされているが、加賀藩時代は「57ケ村」で在ったと伝わり、加賀藩時代には赤丸村の向野新村等の小矢部川河川敷きの村が新しく開発されている。しかし、小矢部川対岸の高岡市高田島地区には古来から「聖武天皇の祈願社の五位庄神社」が在り、藩政時代も赤丸領で在った事から、概ねその範囲は合致するが、吉岡庄の時代は小矢部市の宮島郷等の山間部も含んでいた様だ。「小矢部市史」に見られる神社の古記録に拠れば、赤丸浅井神社の川人神官(当時は山伏西宝院)が小矢部市の山間部の神社の神官も兼ねており、福岡町三乃神社の佐伯神官も小矢部市の延喜式内社比売神社等の山間部の神官を兼ねている。「赤丸浅井神社由緒」(※富山県立公文書館所蔵)に拠れば、浅井神社管轄の五十三ケ村は「五位庄二十五ケ村、国吉郷二十六ケ村、宮島郷二ケ村」で在ったとされており、これが概ね「越中吉岡庄」の範囲で在ったと見られる。⇒「五位庄」では「国吉郷」が範囲から外れて、福田郷周辺迄が含まれた様だ。「越中吉岡庄」は南北朝時代に後醍醐天皇皇子の宗良親王が赤丸浅井城に在城された時に「五位庄」に改名されたと加賀藩記録の「宝永誌」は伝えている。

■鎌倉時代「吾妻鏡」の「國吉名」についての記載。⇒「五十嵐氏の所有記録」
→《北条朝時の代理人小見左衛門尉親家 と五十嵐小豊次太郎惟重の裁判記録》
「延應元年(1239)五月小二日辛未。五十嵐小豊次太郎惟重与遠江守朝時祗候人小見左衛門尉親家。日來有相論事。今日。於前武州御亭遂一决。亭主御不例雖未快。相扶之令聞食其是非云々〔以綿結御額。被懸鶏足〕。匠作渡御。主計頭師員。駿河前司義村以下評定衆等列參。是越中國々吉名事也。惟重則當所爲承久勳功之賞拝領之處。親家押領之由訴之。親家亦。惟重知行分者全不可亘惣名。親家知行來之旨陳之。及究問答。親家依難遁其過。前武州殊有御氣色。於當座召侍所司金窪左衛門大夫行親。可令預守護親家之由被仰付。又其子細被仰遣遠州。遠州頗令恐申給云々。」
【『5月2日 辛未 』
五十嵐小豊次太郎惟重と遠江の守朝時の伺候人小見左衛門の尉親家と、日来相論の事有り。今日前の武州の御亭に於いて一決を遂ぐ。亭主の御不例未快と雖も、これを相扶けその是非を聞こし食さしむと(綿を以て御額に結び、鶏足を懸けらる)。匠作渡 御す。主計の頭師員・駿河の前司義村以下評定衆等列参す。これ越中の国国吉名の事なり。惟重則ち当所は承久勲功の賞として拝領するの処、親家押領するの由これを訴う。親家また惟重の知行分は、全く惣名に亘るべからず、親家知行し来たるの旨これを陳ぶ。各々の問答に及ぶ。親家その過を遁れ難きに依って、前の武州殊に御気色有り。当座に於いて侍所司金窪左衛門大夫行親を召し、親家を預かり守護せしむべきの由仰せ付けらる。またその子細遠州に仰せ遣わさると。遠州頗る恐れ申せしめ給う。
『5月3日 壬申 』
国吉名の事、惟重裁許の御下知状を賜うと。】









「赤丸浅井神社由緒」に見られる「越中吉岡庄」の範囲 !?




「宝永誌」(加賀藩記録)に記載される「越中吉岡庄」から「五位庄」への改名記録 ❗❗






■川合郷、越中吉岡庄、五位庄と変遷した赤丸村に鎮座する「延喜式内社赤丸浅井神社」※53ケ村総社、江戸時代は57ケ村総社












赤丸浅井神社宮司(西宝院の坊官)の家系の墓碑銘に残る古代に使用された「刀自」「郎女」の戒名のナゾ!!




■赤丸浅井神社の神社由緒に「元正天皇二宮御創建」と記載され、森田柿園は「越中志徴」の中で「元正天皇は女帝で子は無し」と記載し、浅井神社由緒は更に「先帝(文武天皇)の御子か」と記載している。天皇家の系図を調べると、この「二宮」は文武天皇の第二子の石川朝臣広成と考えられる。この皇子は文武天皇の第二子でありながら藤原不比等の陰謀で、母の蘇我氏末裔の石川刀自郎女(イシカワトジノイラツメ)と共に不義の罪を被せられ廃妃・臣籍降下させられ、不比等の孫の聖武天皇の家臣となり、内舎人という天皇の世話係をさせられていたようだ。後に「石川朝臣」となり、更に「高円朝臣」と賜姓されて(※「続日本紀」)身分も回復したようだが、赤丸浅井神社を創建したと伝わる人物だ。当初、赤丸村は蘇我氏と同族の(武内宿祢の子孫)利波臣志留志の所領だったようだが、その後、「石黒氏系図」によると「利波臣」は藤原氏の林氏と婚姻して「藤原氏」を名乗っている。藤原氏の勢力が強く、さしもの利波臣も婚姻政策で「藤原氏」を名乗り始めた様だ。この時点で神社創建の由緒から蘇我氏の創建という事実は覆い隠されたのかも知れない。その後、藤原氏全盛の時代には赤丸浅井神社に藤原道長の甥に当たる「一条天皇」が「勅使川原左京」(河原町の左京太夫=藤原道長か?)を遣わし、神前に左右一対の桜をお手植えしたと云う。この桜は昭和初期迄残っていた様で、赤丸浅井神社の拝殿に巨大な桜の写真が掛けられている。
平家全盛の時代には平家の重臣「越中次郎兵衛」が国吉名に居館を構え、能登と共に統治していた様だ。(※「国吉小史」「平家物語」)
その頃は「越中吉岡庄」と呼ばれて藤原氏長者の藤原頼長領であったが、「保元の乱」で勝利した後白河上皇は「越中吉岡庄」を没官して上皇領の「後院領」としている。源頼朝が全権を握ると、赤丸浅井城の麓に地頭「吉岡成佐」が居館を構えた事が「吾妻鏡」に記載されている。その後、後鳥羽上皇が領主となったが、「承久の乱」(※1221年)で敗れ、後鳥羽上皇は血涙を流して隠岐にに流されて亡くなった。その時、石黒氏は後鳥羽上皇に従って戦ったが敗れて北条氏の軍門に下った。その後、北条一門の名越氏が越中の領主として配置され、石黒氏はこの時に赤丸浅井城を去り、新川に逃れた事が「赤丸名勝誌」等に記載されている。その時点で赤丸浅井城には「中山氏」が城主として入城した様だ。

■「越中吉岡庄」は 後白河上皇により蓮華王院に寄進され、正応3年(1290年)には未だ蓮華王院領であった記載が「鎌倉遺文」に残されている。

(http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller)
【(正応3年?※1290年)8月晦日、濫妨候了、又知行分蓮華王院領越中国吉岡庄役夫工米者、自蓮華王院…】東大寺文書四ノ十二(※鎌倉遺文23━32)
※正応年間(1288年~1292年)→この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。



■「蓮華王院越中吉岡庄の記録」(※「東大寺文書」)
(※『訳』正応3年8月晦日の茜部荘地頭代迎蓮書状(東大寺文書)には,美濃国(岐阜県)東大寺領茜部【アカナベ】荘への伊勢大神宮内外宮役夫工米の宛課と神符使等の同荘への入部を停止・免除してもらうために美濃国市橋荘(岐阜県岐阜市内)・蓮華王院領越中国吉岡荘の事例を引き,「又知行分蓮華王院領越中国吉岡庄役夫工米者,白蓮華王院,去々年被奏聞 公家候て,被免除候了」と述べている。→[角川日本地名大辞典])

■上杉謙信は能登七尾城を攻略し、越中と能登の間の石動山の多くの寺院が焼かれ、越中の神保氏張、寺島牛助等は謙信の軍門に下った。七尾城は上杉受け入れ賛成派、反対派に分かれ、中には上杉を陰ながら支援する武将も有った。



■能登を攻略した上杉謙信は、元畠山氏家臣の高岡守山城城主神保氏張、五位庄柴野城城主寺嶋牛之助に対して「所領安堵」をおこなった。



 


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