赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴💥【義経記】の真実➡「高岡市・教育委員会」の誤った広報と「報道の誤り」を正し、正しい歴史認識を持て!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■デタラメの「高岡市」、「富山県」の歴史認識
.「高岡市」がでっち上げた「偽歴史」は地域の歴史の真実を甚だしく歪め、その影響は富山県の歴史にも暗い影を落としている。
あの有名な【義経記】の記載に在り、「勧進帳」の場面にも取り入れられている「二位の渡し事件」は、かつての「高岡市長」が先導して偽造された。

🔽高岡市が偽造した「如意の渡し像」に貼られた「高岡市長の作成した銘板」


🔽「義経記」には、「如意の城を後にして」と記載されるが、この城は「五位庄惣社赤丸浅井神社」の隣接に在った「赤丸浅井城」の事で在り、「五位の城を舟に召して・・・」と解説している諸本も在る。










■「高岡市と福岡町の合併意義を説明している記事」
当初は合併を推進する為に都合の良い宣伝が行われたが、表向きの合併の意義と高岡市の行政の実態は全く違う!!



■富山県、高岡市には様々な生涯学習の機会が在り、その中に平成18年の記事が出ており、「高岡市と福岡町の合併の意義」の記事が掲載されている。その中で筆者は「かつて、赤丸村に在った宗泉寺や総持寺は高岡市に動いており、ふたつの文化の融合が在る。」事を指摘されている。従って、この合併した両自治体は合併する事により、歴史的に意義が在ると強調されている。
しかし、現状はどうだろう。

■捏造された観光地「如意の渡し」!!
高岡市教育委員会と高岡市長は「義経記」に登場する「二位の渡し」、「如意の渡し」、「如意の城」を偽造して小矢部川河口に巨大な「如意の渡し像」(※「弁慶が義経を打擲している像」で、「勧進帳」のモデルに成ったシーン)を造り上げ、当時の高岡市長が銘板迄設置している。「義経記」では、このシーンは小矢部川上流の「おいのしょう(御位庄、五位庄)」の「二位の渡し」での出来事と記載しており、この場所は赤丸浅井神社の前に在った「二位の渡し」での出来事だ。
《※「おいのしょう」は後白河上皇の庄園「後院領」の転化したもの。室町幕府では「相国寺庄園五位庄」として登場する。》
赤丸浅井神社の創建が「元正天皇の二位の宮」とされる事から起こった名称の様だ。しかし、この「延喜式内社五位庄53ヶ村惣社赤丸浅井神社」についても、吉田神道高岡関野神社の作り事の【「石堤浅井神社」が実は延喜式内社】で在る等と吹聴して、「赤丸浅井神社は石堤浅井神社と共に論社で在る」と喧伝している。「石堤浅井神社」は「門跡寺院聖護院派 三社権現川人山鞍馬寺」の末社で在り、「赤丸浅井神社」がその本社で在る事は歴史的にも加賀藩が裁定しており、その記録は金沢市立図書館に保管されている。




(※実際には、鎌倉時代はこの庄園を「後白河上皇」の庄園の「後院領 吉岡庄」と呼んでいた。この庄園は南北朝時代の後醍醐天皇の時代迄天皇家庄園として続いた事が明らかで、その後、室町幕府の足利義満はこの庄園を接収して幕府御料所としていたが、室の業子が亡くなるとその追善供養として自らが創建した「相国寺」(金閣寺)の庄園として寄進した。⇒【義経記、兵範記、保元記、東寺百合文書、賀茂御祖神社神戸記、相国考記】)






■「小矢部川河口に設置された如意の渡し像」


■「富山県が喧伝する記事」








■高岡市教育委員会、高岡市生涯学習センターは、依然として「高岡市の総持寺は元々石堤村に在った」として、この合併時の公演内容に反撃する記載を続けている。又、新しい観光地として創造した「小矢部川河口の如意の渡し」には当時の佐藤高岡市長が銘版を設置して、「ここが義経記の如意の渡しだ」と巨大な「義経、弁慶像」を設置している。
しかし、本当に「義経記」を読んだ事がある人は恐らく誰もが違和感を持っているだろう。「小学館版」や「岩波書店版」には丁寧に解説して「如意の渡しは五位の渡し」等と解説してある。又、「義経記」にはこの事件が起こったのは「五位庄」の事だと記載されており、これ等の書籍は日本国中で読まれている。
しかし、高岡市や富山県はこの場所が「六渡寺の渡し」の事だとして、この定説に反撃し続けている。しかし、「吾妻鏡」に拠るとこの小矢部川河口の地域は「二上庄」と云う庄園で在り、根拠にしている「守護の館が近ければ」と言う表現は「高岡市守護町が近いから」と解釈しているが、この辺りに守護館が造られたのは室町時代に斯波氏が短期間使用しただけで在る。この無知さ加減が「歴史のまちづくり」を標榜する高岡市の実態だ。

🔴室町時代に、越中守護畠山氏の本拠地で在った大阪府羽曳野市に遺る【畠山文書】の中に、室町時代の「越中絵図」が記載されている。それに拠ると、「赤丸浅井城」には後に「管領」にも成った「越中守護畠山持国」の名前が記載される。「赤丸浅井城」については、越中の初めての通史ともされる「肯搆泉達録」に、「赤丸浅井城には(養老年間の)元正天皇の二宮が在城された」と伝え、その後も源平の戦いの時に「石黒光景」が居城として、南北朝時代には「石黒重行」が後醍醐天皇の皇子「宗良親王」を迎えたと伝わる。「石黒光景」は「越中石黒系図」に「木船城」の「石黒光弘」の父親として記載されている。
又、「宗良親王」が浅井城に入られた時に酒席に「大ムカデ」が天井から落ちた事から「これぞ毘沙門天の化身」と言って親王が吉兆を喜ばれたと云う伝説も残っている。その後、「中山氏」が浅井城に入り上杉謙信の能登攻めの時に焼かれたとも伝わる越中の「古城」で在り、「奈良時代」以前から古代北陸道の要衝の古城で在ったと伝えられている。「義経記」は室町時代に記載されたと云われ、室町時代の畠山文書には「守護畠山持国」の名前が記載されている事から、「浅井城」は古代から戦国時代迄も続いた「古城」で在ったと見られる。
従って、「義経記」に「守護の館が近ければ・・・・」と記載されるのは、明らかに北陸道の「川人駅」に在った「赤丸浅井城」しか該当しない。
当時、「浅井城」の麓で小矢部川と庄川が合流して、「阿光渕」と云う水郷を形成しており、そこに「二位の渡し」と云う舟乗り場が在れば、「義経記」の記載内容と全てが合致する。

🔻福岡小学生達が苦心して編集し、福岡町教育委員会がかつて発行した「赤丸浅井城と後醍醐天皇皇子宗良親王の伝説」(抜粋)
➡合併後の高岡市教育委員会は尽く福岡町の歴史を否定して全く子供達の苦心を踏みにじり、根拠の無い「歴史」を喧伝して、我田引水の「観光地の偽造」を推進している。高岡市はこれを【歴史創造都市】と言って喧伝しているにも関わらず誰一人として「異議を唱える者も居ない」のだから、正に【高岡市教育委員会の正体見たり】で在る。


















🔽「赤丸浅井神社古蹟図」(※石川県立図書館蔵)に記載される「阿光渕」


🔽「畠山文書」の「赤丸浅井城」には「守護畠山持国」と記載される。






🔽「赤丸浅井城城主中山直治由緒」(※敦賀市立博物館蔵)


■近年、学者の定説では「如意の渡し」、「二位の渡し」は福岡町赤丸村の後の「五位の渡し」の事だと解説している。
しかし、この「二位の渡し」が「赤丸浅井神社縁起」から来ており、浅井神社の創建が「元正天皇が親代わりをされた聖武天皇の腹違いの弟⇒即ち二宮が浅井神社を創建された」と言う所から来ている事は良く知られていない。だが、「義経記」はこの事迄もが調べ尽くされている。「義経記」が「作り事」だとして一蹴し続け、一方ではこの場所は「六渡寺渡し」の事だと主張する半素人の「郷土史家」にはもう一度出直して学んで頂かねばならない。(※「川人山鞍馬寺三社記」福岡町史)
「続日本紀」を読まれた歴史家なら、この人物は、実際は早逝された文武天皇の二宮で在り、聖武天皇の祖父の「藤原不比等」によって皇族から追われた「石川刀自娘」の子供である事は御存じだろう。この人物は、叔母に当たる元正天皇から「天皇の子供は全て親王とする」とする勅令で身分を保証されて、「恭仁京」での「内舎人」から、後には「高円朝臣広世」と賜姓されている。この人物の歌の三首が「万葉集」に掲載されている。この親子が朝廷から追われた陰謀事件は「藤原不比等のヘンチュツ事件」(貶める事)として歴史的にも有名な事件で、「続日本紀」には詳しくその経過を掲載している。
(※「令義解」律令の解説書・「続日本紀」)

何れも歴史を学んだ人なら、良く知る事件で在り、近年の研究にはこの系図も頻繁に掲載されている。
しかし、富山県や高岡市のホームページでは以前として「如意の渡し」は「六渡寺の渡し」と強調している。なんと言う不遜さだろう。
井波町に秘蔵されていた小矢部川の古絵図にはこの「如意の渡し」が「六渡寺川舟渡し」と言う舟下りルートの事である事が記載されている。(※「福岡町史」)

この事から「二位の渡し」は「赤丸浅井神社の前の舟乗場」の事で在り、「如意の渡し」は「二位の渡し」から「六渡寺の乗場」迄の舟下りルートで在った事が分かる。「六渡寺川」は「小矢部川と庄川支流が合流した場所から下流の川幅が広くなっていた部分を六渡寺川と呼んだ」と古書には記載されている。
高岡市は合併の基本理念に立ち返り、真実の正しい歴史観に立ち、この合併後の高岡市の融合にも心を砕いて欲しいものだ。

■「元正天皇二位の宮」の系図
《※赤丸村には後醍醐天皇の第八皇子(第二皇子ともされる)「宗良親王」の歴史も在る。これが、「二宮」として混同された一因にもなっている。》


■「六渡寺川舟下り」の表示された古絵図
(※「福岡町史」井波町旧蔵)



■元富山県議会議員、医師、歴史家で在った「飛見丈繁氏」が【偽造】した高岡市総持寺の「国指定重要文化財木造千手観音座像」についての「国宝概説」(※昭和12年、国が発行した公文書で、国宝指定の理由を記載している。)(※「高岡市立図書館蔵書」)

🔻偽造された部分➡「赤丸村に在った」を「筆者云う。石堤村の誤り」と改竄されている。


「正規の国宝概説」には、「元赤丸村に在った総持寺」と記載される。




💢■「高岡市教育委員会」は何時まで歴史の偽造を続けるのか?
「総持寺は元々赤丸村に在った」とする官報の「国宝概説」を「元々、石堤村に在った」と偽造した高岡市の歴史家「飛見丈繁氏」の著作を踏襲して、「高岡市開町400年誌」(※高岡市教育委員会監修)では、改めてこの虚説を掲載している。



■現在、高岡駅南の高岡市関町には「衆徳山総持寺」が在る。この寺の「木造千手観音座像」は昭和12年に国宝に指定された。しかし高岡市石堤村の「石堤浅井神社」の神官や一部の石堤村の有力者はその指定された時の国の官報の「国宝概説」で、「この観音像は赤丸村に在った総持寺に伝わった」とする記載を否定して、この総持寺は「元々、現在の石堤長光寺の敷地に在った」とするデタラメの文書や絵図を作成して郷土史家の「飛見氏」に渡した。飛見氏はこの贋古文書を証拠だとして多くの著作にその説を展開した。飛見氏が高岡市選出の県会議員でも在った事から、このデタラメ話は当時編纂されていた「高岡市史」の編集者が採用する所に成り、この贋の古文書や絵図を根拠資料だとして「総持寺は元々、石堤村に在った。」とする説を展開した。このデタラメに怒った高岡市在住の歯科医の桜木成一氏は高岡市に対してその現物を求める等したが、証拠資料は全て隠されて何れかに消えたと云う。このデタラメの「高岡市史」に対して桜木氏は「ある贋作物語」、「続贋作物語」等を多数発刊して「指の無い有力者が書いた古文書」(※各々の記名捺印も無い文書)と酷評して論陣を張り、マスコミも之を取り上げて大騒ぎに成った。しかし、高岡市教育委員会はこのデタラメの「高岡市史」を憲法として現在も「総持寺は石堤村に在った」と市の広報誌で喧伝している。しかし、高岡市と福岡町が合併した後にこの総持寺の赤丸村の旧地「観音堂遺跡」は高岡市教育委員会が発掘調査されて報告書も発行されている。しかし、反動的な高岡市教育委員会の上部の者は近年発行された「高岡市政400周年記念誌」にも「総持寺は石堤村に在った」と記載している。
この原因は「前田利長教」とも云える「吉田神道高岡関野神社」の神社簒奪の動きに同調する高岡市の守旧派が現在も高岡市役所の中に蠢いているからだ。吉田神道は徳川幕府と組んで全国で修験道系の両部神道の神社を切り離して「唯一神道」に切り換え様とした。これは天皇家の伊勢神道、白川神道に対抗して、徳川の下に宗教を置く政策とも繋がり、その徳川政権の打倒の為に明治維新が行われたのではなかったか?
しかし、この吉田神道の流れは、現在も根強く神道会を牛耳っている。
(※「石堤村氏神の件一件」⇒金沢市立図書館には吉田神道の動きを封じ、赤丸浅井神社に軍配を上げた加賀藩の裁定記録が遺されている。)





■赤丸村には元の総持寺周辺の「古絵図」が残されており、この絵図は高岡市歴史民俗資料館の特別展示でも度々、公開されている。全国の学校で起こっている「イジメ問題」では、何処の教育委員会でも「事実」を軽視して隠蔽し、後に成って雁首並べて「御詫び」をしている。
教育の本山で在り、子供達の将来を担う教育委員会は何故、ここまで腐り果てたのか?
高岡市の幹部の中には「御車山会館の某館長」の様に、「高岡市の歴史に1600年以前の歴史は無い」と嘯く者すらいる。コレが又、頑強にそう信じ込んでいるのだから高岡市の歴史認識が変わる筈も無い。要は、今迄加賀藩に庇護されてきた事を商売のネタにして優位を保ってきた高岡商人の根性が、以前として高岡市の政治、文化、教育等に根強く蔓延っており、その歴史認識に同調しないものは排除すると云う悪習慣が現在も依然として続けられていると云う事だ。
「高岡市命名の由来」、「高岡市伏木」の「義経岩」や「如意の渡し」、「高岡御車山祭り」の由来、「国指定重要文化財高岡市総持寺木造千手観音像」の由来等、何れも歴史的事実も確認せずに「●●遺産」として喧伝される事に一部の高岡市民は冷ややかに見ている。何れも根拠無く創作、喧伝されているもので、「高岡市史」の「根拠資料」が何処かに秘匿され、或は、密かに処分されて、現在、その証拠資料を目にする機会も無い。極論すれば、これは歴史的的詐称にも当たる。嘗ては「教育レベルの高さ」を誇り、金沢市や富山市にも対抗しうる商業、産業が多く在った。しかし、「貧すれば鈍する」で、今やこの歴史在る都市も「依然として加賀藩に郷愁を抱き」、「良き時代を回顧している」内に、既に世界レベル、日本全国レベルでも回復困難な「日本のガラパゴス諸島」と化してしまっている。その上、財政迄が破綻寸前となれば、根本的な改革無しで回復を目指すのは困難だ。
シャッター街の高岡市中心部に豪華な高層マンションを再開発で建設して悦に入っている場合では無い。正にこの景色は「バベルの塔」で在り、高岡市壊滅のシンボルにならなければ良いと危惧せざるを得ない。再開発は、一旦誤った開発を手掛けると、都市の最も重要は場所に「ガレキのタワー」を造る事になる。この巨大なガレキは撤去費用も工面できずに、廃屋のシンボルになる恐れすら在る。巨額を投じても、ガレキの山は更にコストが掛かる。その時に、関係者は誰も居なくなり、遺された者達が重荷を背負う。本当に何が必要なのか、真実は何処かを追求する行政・市民の劇的な意識改革こそ、高岡市にとっての急務なのだ。

「歴史認識」は「事実認識」で在る。「事実」を隠蔽してデタラメの歴史を造り上げる高岡市教育委員会の愚考は早急に改善されるべき。こんなレベルの高岡市には新規企業の進出すら望めない。



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