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■「衆徳山総持寺」の『国指定重要文化財木造千手観音座像』は多くの胎内名からほぼ関係者が明らかだが、「国宝指定」の時に行われたズサンな調査の為に誤って解説されており、公的に詳細が解明されないままに放置されている。
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■『願主 藤原浄円の系図』⇒「藤原浄円」の子の「斉藤清時」は「鎌倉将軍藤原頼経」の近臣!!
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■「河内金剛寺住持持仏に後醍醐天皇2粒、東寺長者文観3粒、合わせて5粒の仏舎利が施入された。この仏舎利は空海が唐から持ち帰った釈迦の骨80粒の内から、後醍醐天皇が勅封を解き施入されたもの。合わせて文観の持つ3粒も施入された。→(※通常は仏像一体に一粒が施入されたと言う。)」
⇒金剛寺関係者に調査していただいた所、現在、この仏像は金剛寺には無いと言う。総持寺の千手観音像の顔内部の胎内には「奉納仏舎利」と二ヵ所に記載されており、又、別の部分には南朝の護持僧とされる「禅恵」の署名と共に「摩尼徳丸」の署名がある。「摩尼」は住持の居処「摩尼院」を指し、「徳丸」は寺の雑事をこなす「童形」の従事者の事。⇒この千手観音像が住持の居処の摩尼院に祀られていた事を示すものと見られる。
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《「御成敗式目」起草者の「斉藤長定入道藤原浄円」⇒「沙彌 浄円」》
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■「鎌倉幕府歴代将軍」
⇒(※「藤原頼経将軍」の父の「藤原道家」は「小矢部市宮島郷」の庄園領主でもあった。「赤丸浅井神社由緒」に拠れば、宮島郷2ヶ村、国吉郷24ケ村を含む53ケ村が、往古の浅井神社神域とされ、各戸から米一升の初穂米を集める勅許を天皇から受けていたと云う。)
■高岡市の名刹「衆徳山総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」は河内金剛寺の南朝護持僧「禅恵」の胎内名があったとして昭和12年には「南北朝時代制作の仏像」として国宝に指定された。しかし、他の胎内名を調べると、その主要な顔部分の胎内名は鎌倉時代の人物である。「本願聖人金剛位理卿」は「後鳥羽上皇の法名」であり、「大壇那藤原浄園」は鎌倉幕府評定衆の「斉藤長定入道藤原浄円」である。又、「大仏師幸賀」は興福寺修理仏師の中に「慶派仏師」として見られる。「吾妻鏡」に拠れば、後鳥羽上皇は3月に隠岐で亡くなり、同年10月に藤原浄円も亡くなっている。又、「大壇那」として造仏資金を提供した「藤原浄円」の長男は鎌倉幕府引付衆であったが、藤原氏から出た頼朝の妹の系統の「九条頼経将軍」に近持していた事が、頼経追放の時の従者の中に見られる事から推定できる。九条家は、九条兼実(娘は後鳥羽上皇の中宮任子)→九条頼家→九条道家(小矢部市宮島郷の庄園領主)→九条頼経 と続く藤原摂関家の直系一族であり、九条兼実が創建した「東福寺」は氷見から新湊、高岡、小矢部市の海岸、西山一帯を庄園として、氷見の八代氏、同族の菊池氏が庄園の管理をしていた。藤原一門の菊池氏、八代氏の菩提寺でもある。(保元の乱以前は赤丸村を含む越中吉岡庄は藤原摂関家長者藤原頼朝長の庄園であったが、後白河上皇以後は上皇庄園の「後院領」となり、後醍醐天皇の時まで後院庁の管理下に在った。)
後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こして隠岐島に流罪となり、度々の申請にも関わらず終世、北条氏は後鳥羽院を島から帰す事はなかった。時の将軍藤原(九条)頼経は後鳥羽上皇の中宮の「任子」の子孫であり、同じ九条家の出でも在った。後鳥羽院が配流された時に他の妾は付き添いを許されたが、中宮の任子には許されなかった。任子は女子を一人産んだが男子に恵まれず自ら宮廷を出たと云う。代々、朝廷の中枢に仕えた藤原一門としては、後鳥羽院の帰還は悲願であったに違いない。頼経将軍に仕えた斉藤清時の父も藤原一門であり、秘かに幕府重役の藤原浄円が資金を出して、大仏師幸賀に「悲願成就」を願って「千手観音像」を造らせ、源氏一族が創建し、代々朝庭の人々が結縁を結んできた河内金剛寺の住職の持仏として住職の居宅でもあった「摩尼院」に安置されていたものだろう。南北朝の時に後鳥羽院と同じく足利幕府に手を焼き、後鳥羽院の時の天皇親政を目指した後醍醐天皇は、禅恵の師匠に当たる東寺長者文観に東寺の仏舎利(空海が唐から持ち帰った)の壺の中から、長者の壺から3粒、天皇管理の壺から2粒⇒合計5粒もの仏舎利をこの千手観音像に施入して、金剛寺の禅恵に指示して、後白河院以来の皇室庄園「越中吉岡庄」の総持寺に運ばせたものと考えられる。
この頃、「赤丸浅井城」は、同族で音にも聞こえた南朝の忠臣で越中の名門の「越中石黒氏」が居城としており、正にこの千手観音像を守る絶好 の場所で在った。
この貴重な観音像が詳細の調査も無く、現在に至っている事は、信仰の上からも、貴重な文化財としても非常に惜しい事だ。何よりも「歴史のまちづくり」を標榜する高岡市や富山県が「国指定重要文化財」で有りながら、放置している事は教育県として誇ってきた富山県を貶める行為でもある。一日も早く、再調査をされん事を切に願っている。
■鎌倉時代に作られた【御成敗式目】の起草者筆頭にある「沙彌浄円」は「斉藤長定」→入道して「藤原浄円」の事である。