●足利一族の『越中蜷川氏』と伊勢平氏「伊勢氏」の室町幕府での繁栄 ⇒ 「蜷川氏」は室町幕府三代将軍足利義満の母の「月海夫人」を輩出し、名門の伊勢平氏「伊勢氏」とも縁組して室町幕府の要職「政所代」を歴任している。蜷川氏は越中の「砺波郡」、「射水郡」を統治した。(※「蜷川の郷土史」には越中二郡を統治したとされ、それを新川郡と砺波郡」としているが、実際に「蜷川家文書」(※東京大学資料編纂所)には「射水郡」の統治資料が多く残り、蜷川氏が統治したのは近代の「射水郡」と「新川郡」、「砺波郡」だったと思われる。室町時代には「五位庄」が国吉郷から南砺市福野の野尻郷迄の砺波郡の大半を含んでいたが、この「五位庄」は「足利義満」が室の業子の追善供養の為に「相国寺」(※金閣寺)に寄進した庄園で在った。
■伊勢平氏の「伊勢氏」は、源氏の棟梁足利氏の歴代将軍の養育係を勤め、「政所執事」を歴任した。その縁者の「蜷川氏 」は「政所代」を勤め、この二氏は室町幕府の要職を歴任している。応仁の乱が起こった頃、「伊勢貞親」は「足利義政」(※慈照院殿・銀閣寺を創建)の養育係、政所執事として活躍して、その子「伊勢貞国の室」には「蜷川新右衛門の妹」が嫁いでいる。蜷川氏は旧の富山藩域に相当する「太田保」を領し、その中の「蜷川郷」に『蜷川館』を築いていた。この場所は富山インターチェンジの南方に在る蜷川氏菩提寺の「最勝寺」の一帯だったと云う。
「蜷川新右衛門」は 、幕府の要職を勤める傍ら、「宗祇」の高弟として連歌に通じ多くの歌を残し、退任後には臨済宗の高僧の「一休宗純」との親交を深めたと言う。
「越中五位庄」は、南北朝の合一が成った後、「室町幕府三代将軍足利義満」の時に、義満の室の追膳料として義満が創建した「相国寺」(※金閣寺)に寄進され、引続きその後も足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園として続いた。蜷川新右衛門と親交が在った連歌の師の「宗祇」は、この時に五位庄に滞在して歌を残している。連歌の宗祇を慕った五位庄の地元民はその後も「宗祇塚」を作り、現在も尚、「舞句」と言う名前でその文化を伝えている。
■徳川時代の文政五年に発行された「足利武鑑」には、諸大名として、「越中守護 斯波高経」や、「高師直」、「畠山基国」、「越前 桃井」、「駿河 今川」、「播磨 赤松」、「肥後 菊池武光」、「薩摩 島津」、「加賀 富樫介高家」 等の諸将が記載され、 管領には「畠山持国」、「畠山政長」等、「奉行」、「神社家奉行」、「評定衆」、「四職」、「御相伴衆」、「御供衆」、「御番衆」等が列記されている。
(※「伊勢平氏」からは「北条」、「熊谷」、「織田」等が出ている。)