とりあえず本の紹介

私が読んだ本で興味のあるものを紹介する.

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アンナ・カヴァン『氷』改訳を終了して

2006-12-11 12:12:29 | Weblog
                アンナ・カヴァン『氷』の改訳を終了して


(1)翻訳の経緯
 アンナ・カヴァン『氷』につては,今年2月ごろ,古本で,原書を手に入れて,一読.私の好きな作品だが,現実と幻想が錯綜して,よく分からない.それが,翻訳してみようと思うようになった,動機です.どうせ翻訳するなら,ブログで掲載しようと思い,ブログ開催となった.5月末のゴールデン・ウィーク明けごろから翻訳を始めた.そして,翻訳していていて,よく分からないところ,変だな,と思ったところがあったが,とりあえず,前に進むのが重要と,翻訳を進めた.8月末に,一応,翻訳を終了し,9月は休んで,10月から気にかかったところを読み直し,改訳をはじめて,12月5日に終了した.変だなと思ったところは,大体,私の読み間違いだった.あと,日本語として,直訳過ぎるところを直した.改訳に際して,全文を逐一検討したわけではないので,間違っているところ,思い違いしているところは,まだあるとは思う.しかし,一応,『氷』については,これで終了としたい.ともあれ,ブログという形式がなければ,ここまでがんばれなかったと思う.思えば,今年1年の私の自由時間は,『氷』の翻訳で終始したように思う.少数ではあるが,興味を持っていただいた方に感謝したい.『氷』の翻訳は近々出版されるらしいので,そちらを期待しましょう(もちろん,私の翻訳ではありません).

(2)『氷』を読んでの感想
 この小説は,アンナ・カヴァンがヘロイン中毒で死に,死の間際に書いた遺作であるということを抜きにしては,語れない作品だと思う.それだけの特異性を考慮しなければ,存在しえない,作品であろう.しかしながら,ヘロイン中毒になったから,これだけ孤独な作品がかけたのか,孤独だったからこそ,ヘロイン中毒になったのかと言えば,おそらく後者であろう.つまり,彼女にとって,ヘロイン中毒になったのは,偶然ではなく,必然だったのである.だからこそ,ヘロイン中毒を抜きにしては語れない作品なのである.
 結局,彼女はどうしようもなく,孤独だったのだ思う.そのため彼女は自殺するように,ヘロイン中毒になり,その中で,現実とも幻想ともつかぬ情景が彼女には見え(現れ),それを書き綴ったのが,『氷』とう小説だったのだったのだと思う.だから,これはある意味で,彼女の現実そのものだということが出来るだろう.
 さて,ではそれは,これを読んだ人にとっての意味はなにか.それは各自異なるのであって,一般的に語ることは無意味である.そこで,私にとっての『氷』について,簡単に語りたい.
 では,『氷』は私に対して,どのような現実を告知したのか.精神的な意味では,おそらく<氷>はすぐそこまでやって来ている,あるいはもうやって来てしまっているのかも知れない.ほとんど毎日と言っていいほど,繰り返される殺人事件.それも異常な殺人事件.親が子供を虐待し,子供がたいした理由もなく,親を殺す.そして,いじめ.いじめに対しても,学校側も県の教育関係者も,文部科学省のお役人も,責任回避に終始する世の中.ある意味で,それは<氷>の世界ではあるだろう.現代の日本社会は,ある意味で,すでに家庭や学校のクラスというコミュニティが崩壊しているのであるかもしれない.あるいは,近い将来,決定的な狂気が人類を襲う前触れであるのかも,知れない.人類は,あるいは先進国文明は,すでに狂気への第一歩を,それも後戻りできぬ第一歩を,既に踏み出しているのかも知れない.あるいは<氷>は精神的な意味だけでなく,物理的にもそうであるのかも知れない.たとえば,世界の破滅を描いた映画「The Day after Tommorow]は,ペンタゴンから流出されたレポートに基づいて制作されたという.そのレポートによると,破滅は決定的である.問題はいつかということである,と言われる.これが本当なら,比喩でもなんでもなく,<氷>はそこまでやって来ているのである.
 しかし,そのことよりも,私に考えさせられたのは,現実とは,本当は<夢でしかあり得ない>のではないか,という疑問である.現実が時として夢に思えるのではない.そのような経験なら,誰しも思い描いたことがあろう.だが,私が言いたいのは,そうではない.そうではなく,<私たちが生きているこの世界は,本当は夢でしかないのに,なぜ現実だと思ってしまうのだろう?>という逆説的なことである.私は,『氷』を読んでいて強くそのことを感じさせられ,また,そのことを強く感じながら,この小説を翻訳していた.この世界は夢でしかないのだ.しかしながら,それを現実として生きるほかない.この現実から逃れるすべはない.この現実こそ,夢を現実にしてしまう力こそ,『氷』の正体だ,そう,アンナ・カヴァンは言いたかったのではないだろうか.だから,<氷>がやってくるのではない.この現実こそ<氷>の只中にある,<氷>に取り囲まれた世界なのだ,そうアンナ・カヴァンは感じていたのだろう.そして,その光景をヘロイン中毒の中で,彼女は見ていた,その見ていたままを『氷』で描いたのだ,と私には思えるのだ.

 ともあれ,私のアンナ・カヴァンの『氷』は,これで終わりたい.
 私の翻訳に興味を持ってくださった,少数のかたがた,本当にありがとうございました.
 来年は,SFを控えて,もう1つの趣味である哲学の方に,努力を移したい.素人の哲学論文が学会誌に掲載されるのは,不可能に近いけれど,来年はそれに挑戦して,運良く掲載されることがあれば,ブログにも掲載するつもりです.

 では,良いお年をお迎えください.

                      野作正也

 
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アンナ・カヴァン『氷』改訳25

2006-12-05 12:44:23 | Weblog
                        第15章(承前)

 外は真っ暗だった.ベランダで一休みして,眼が暗闇に慣れるのを待った.雪が降っているのが,次第に,見えるようになった.雪は燐光のようにチラチラと微光を放っていた.風のうつろなうめき声が,静寂の中で,断続的に,破裂するように,起こった.雪片が気が狂ったように,あらゆる方向に舞っていた.夜は空虚な混沌に満たされていた.私は心の中に,それと同じ熱に浮かされたような混沌を感じていた.私の中で何かが,闇雲にあちこちへ突き進んでいた.狂ったように舞う雪片は,私の人生全体を象徴していた.彼女のイメージは過去のものとなり,銀色の流れるような髪は,混乱の中へと消え去った.錯乱したダンスの中では,どちらが暴力者でどちらが犠牲者か,区別するのが不可能だった.とにかく,死のダンスの下では,区別することは無意味だった.すべてのダンサーは無の淵にまで来ていたのだから.

 処刑が近づきつつあるのだという思いが次第に強くなってきた.遠くには何ものかが存在しているという想像に私はよく捕らえられていた.しかし,今では,それが突然,私のところまで広がってきて,私のすぐそばまでやって来て,もはや想像ではなくて,現実のものとなり,それはまさに起こらんとしていた.私は衝撃を受け,みぞおちの辺りが本当に痛くなった.過去は消え去り,無と化した.未来も,すべてが絶滅した無と化し,もはや考えることが不可能になった.存在するものは,たゆまなく縮み続ける,今と呼ばれる,時の断片だけだった.

 頭上では,月が冷たく光る暗青色の空が真夜中に広がっているのを,足下では,虹を作り出している氷壁が大海を移動し,地球上のあらゆるところへ広がっているのを思っていた.青白い崖がぼんやりと現れ,死のように冷たい光を放射していて,幽霊のような復讐者が,人類を絶滅させようとやって来ていた.氷が私たちの所まで来ていることが分かっていた.私自身には不吉な動く壁が見えていた.一瞬ごとに,氷は近づいてきていた.すべての生命が絶滅するまで,氷が前進し続けるだろうことは,分かっていた.

 私は部屋に残してきた少女のことを思った.子供っぽい,大人になりきっていない,ガラスのように壊れやすい少女.彼女は何も見ていなかったし,何も理解していなかった.彼女はただ自分が運命から逃れようのないということを知っていた.彼女の運命がどのようなもので,それに対してどのように立ち向かえばよいのかを知らなかった.誰も彼女に独力で生きていくことを教えなかった.ホテルのオーナーの息子は,特に信頼できるとも,安心できるも思えなかった.むしろ,彼女を支えるのは無理であり,能力がないように思われた.危機がやって来たときに,彼が彼女を守ることが出来るとは信じられなかった.私は,破壊し尽くす氷山の真ん中で,彼女が誰にも見守られずに,怯えて立ちすくんでいる姿を想像した.崩壊する轟音と雷鳴に混じって,彼女のか弱い哀しげな叫びが聞こえるのが想像出来た.私は自分がなすべきことを知ってながら,彼女をひとりで,助けのないところに,残しておくことは出来なかった.彼女があまりにも多くの苦しみを受けることになるだろうことは確実だった.

 私は戻って,部屋に入った.彼女は動いたようには見えなかったが,私が部屋に入ったとき,彼女は辺りを見回し,私に気づいて,体をねじって逃れようとした.彼女は泣き叫び,私に見られないように,顔を隠した.私はベッドに近より,彼女に触れないで,そこに立った.彼女は悲しみと寒さで震えていた.彼女の肌は,貝のように,かすかに藤色をしていた.彼女を傷つけることはあまりに容易だった.私は静かに言った.
 「あなたに尋ねなければなりません.どれほど多くの人とあなたは寝たかは,気にしない.それはどうでもいいことです.私はあなたが何故私を先ほどひどく侮辱したのかを知りたいのです.何故,あなたは,私が到着してからずっと,私を侮辱しようとしていたのですか?」
 彼女は顔を上げようとしなかった.答えるつもりがないのだ,と思った.しかし,そのとき,彼女は切れ切れにことばを吐き出した.
 「私は,私...自身の...戻って...来て...欲しい...」
私は異議を唱えた.
 「しかし,何のために? 私はちょうどここにいました.私はあなたに何もしませんでした」

 「私は知っていました...」
 涙声で,訴えるように話すのを聞くために,私は彼女の上に屈まなければならなかった.
 「あなたに会うといつも,あなたは私を苦しめる...私をけったり,...私を奴隷のように扱ったり,...一度ならず,一時間も二時間も,次の日も...あなたは確かに...いつもする...」
 私は驚き,ほとんど衝撃を受けた.それらの言葉は,自分でも認めたくない私の願望を示していた.私は急いで話題を変えた.
 「あなたはベランダで誰を待っていたのです? ホテルの仲間でないとすれば」
 またもや予期しない返事が返ってきて,私を困惑させた.
 「あなたを...車の音が聞こえた...思った...分からなかった...」
 私は仰天し,信じられなかった.
 「しかし,それは本当ではあり得ない.あなたがそのように言った後では.その上,あなたは,私がやって来ることを知らなかったのだから.私はそれを信じることは出来ない」

 彼女は体を荒々しくねじって起き上がった.青白い髪の塊が背後へと揺れ動いた.彼女の顔は,索漠とした犠牲者の顔だった.泣き崩れた顔.傷ついた黒い眼.
 「本当です.あなたが信じようと,信じまいと! 何故だか分からない...あなたはいつも私を怖がらせる...私は待っているのを,私だけが知っている...あなたは戻ってこないのではないかと思った.あなたは何の伝言もくれなかった...しかし,私はいつもあなたを待っていた...ここに留まって.他の人たちが去って行った後でも.あなたが私を見つけることが出来るように...」
彼女は一人の絶望しきった子供だった.すすり泣きながら真実を告白した.しかし,まだ彼女の言ったことは信じられなかったので,私は言った.
 「それは不可能です.それは本当ではあり得ない」
 顔は痙攣し,涙で咽び,声は喘いだ.
 「まだ十分じゃないの?まだいじめるのを止めることが出来ないの?」

 突然,私は恥ずかしくなり,呟いた.
 「ごめんなさい...」
 私は今までに言ったことと行なったことを取り消したかった.彼女は再び,顔をベッドに伏せて倒れ込んだ.私は立ったまま,彼女を見つめた.何を言っていいのか分からなかった.何を言っても,彼女を慰めることは出来ないと思われた.やっと,私はただ次のように言うことができるだけだった.
 「私はこのような質問をするためにだけ,戻ってきたのではないのです.分かっているでしょう」
 反応はまったくなかった.彼女は私の言葉を聞いていたのかどうかさえ分からなかった.私は,彼女が啜り泣くのを止めるまで,待った.彼女の首がぴくぴくと引きつるのが分かった.そして,それが早くなりだした.私は手を差し出し,そっと,指先をそこに当てた.それから,手の平で触れた.白いサテンのような肌だった.髪は月光のように輝いていた.

 ゆっくりと,彼女は頭を私の方に向けた.一言もことばを発しなかった.彼女の口が,輝く髪の中から現れ,それから,濡れた明るい眼が,現れた,長いまつげの間で煌いていた.今や,彼女は泣き止んでいた.しかし,時折,身を震わせ,声を出さずに嗚咽し,息が出来なくなってむせいだ.まだ心の中では,泣きじゃくっているようだった.彼女は何も言わなかった.私は待った.時が過ぎて行った.私はもはや待てなくなって,そっと尋ねた.
 「私と一緒に来ませんか? あなたをこれ以上いじめないと約束します」
 彼女は答えなかった.しばらくして,やむを得ず付け加えた.
 「それとも,私に出て行って欲しいですか?」
 急に,彼女は姿勢を正して座り,取り乱したような動作をした.しかし,まだ何も話さなかった.私は再び待った.手を差し出してみた.長い沈黙の時間が過ぎた.その間,手は差し出したままだった.とうとう,彼女は私に手をとらせた.私はそれにキスした.髪にキスして,彼女をベッドから抱き上げた.

 彼女が準備をしている間,私は窓際で,雪の降る外を眺めていた.彼女に,私が見た災厄,海を渡って近づいてくる氷壁について話すべきかどうか迷った.さらに,私たちを,すべての生きものを,最後には死滅に追いやることを,話すべきかどうか迷った.私の思いは混乱し,決心できなかった.私は結論を引き延ばすことにした

 彼女は準備が出来たと言って,ドアの方へ向かった.そこで立ち止まり,振り返って,部屋を眺めた.彼女は心が傷ついた表情を浮かべていた.極端に傷つき,言葉にならない恐怖を浮かべていた.この小さな部屋はくつろげて,安心できる彼女の唯一の場所だった.彼女にとって,部屋の外にあるすべてのものは恐ろしく,不可解な存在だった.巨大な異邦の夜,雪,破壊する厳寒,脅かす未知の未来がそこにはあった.彼女の眼は,私の方を見て,私の顔を探した.憂鬱で,疑わしげな,非難するような表情をしていた.同時に,訴えるような,質したいような表情を浮かべていた.私は,彼女を悩ますもう一つ別な存在だった.彼女が私を絶対的に信頼する理由はなにもなかった.私は微笑み,手を取った.彼女の唇はかすかに動いた.別の環境でならば,それは,微笑みになったかもしれないような動きだった.

 私たちは一緒に外に出て,大量の雪の中を,真っ白に渦巻く雪の中を,逃げ出す幽霊のように漂った.明かりはなく,雪のかすかな燐光のような輝きの中で,道を見つけるのは難しかった.背後から吹きつける風でさえも,歩くのを重労働にした.車までは予想外に遠かった.彼女の腕を掴んで,歩くのを助けた.彼女がよろめくと,腕を体に回し,しっかりと支えた.厚手の防水コートを着ていても,彼女の体は氷のように冷えていた.彼女の手は,私の分厚い手袋を通してでも,凍っているのが分かるほどだった.手をこすって暖めた.しばらくの間,彼女は私にもたれかかって休んだ.彼女の顔は,暗闇の中で月長石のように輝いていた.まつげの先端が雪で白かった.彼女は再び歩き始めた.私は,彼女を元気づけ,励まし,腕で腰を支え,車までの道を歩んだ.

 車の中に入った時,真っ先にヒーターをつけた.内部は一分も立たないうちに暖かくなったが,彼女は体を硬くして,私のそばに黙って座り,緊張していた.彼女が横から疑惑の目で私を見ているのに気づいて,私はまだ非難されているのを感じた.私が今まで彼女に対して行ったことを考えると,彼女が疑っているのはまったくもっともだった.今では彼女に親切にすることに,私が喜びを見出してることを,彼女が知るはずがなかった.お腹がすいていないかと尋ねた.彼女はうなずいた.私はチョコレートを食物袋から取り出し,差し出した.長い間,民衆にはチョコレートは手に入らなかった.彼女がある銘柄のチョコレートが好きだったのを思い出した.彼女は疑わしそうにそれを見つめて,断ろうとするように見えた.それから突然リラックスして,それを手に取り,おずおずとありがとうといって,かすかに微笑を浮かべた.彼女に親切にするのに,何故こんなにも長い間かかったのか不思議だった.もうほとんど遅すぎた.私は最終的な運命についても,氷壁がすぐそこまで近づいてきていることも,何も語らなかった.その代わりに,私たちが赤道に到着する前に,氷は接近してくるのをやめるだろうと話した.私たちは,そこで安全な場所を見つけることが出来るだろうと話した.私はわずかの可能性もあるとはは思わなかったが,彼女が私の言ったことを信じたかどうかも分からなかった.終末がどのようにして来ようとも,私たちは一緒にいるべきだった.私は少なくとも,それを早めることが出来たし,彼女にとってそれが楽しいものにすることが出来たのだった.

 厳寒の夜中,大きな車でドライブしていて,私は幸福だった.私は,これとは違った世界を切望していて,それを失うことになったけれども,後悔はしていなかった.私の世界は,今では雪と氷の中で終わろうとしていた.残されるものは何もなかった.人間の生活は終わりを告げ,宇宙飛行士は氷の重さによって大地に埋められ,科学者たちは別の災厄によってこの世界からいなくなった.生きているのは私たち二人だけになったので,大吹雪の中を車を走らせながら,浮かれていた.

 外の景色が次第に見え難くなっていった.窓にできる氷花が拭いされる度に,次にできる氷花はより透明なもになっていき,最後には完全に透明になり,降り続ける雪しか見えなくなってしまった.無限の雪片が蝶の幽霊のように,いずこから来て,いずこへ立ち去るのでもなく,舞い続けていた.

 世界は既に死滅しているように思われた.しかし,それは問題ではなかった.車の中が私たちの世界だった.狭いけれども,明るく,暖かい部屋だった.私たちの家は,広大無辺で,無関心な,凍りついた宇宙の只中にあった.私たちの身体によって生み出された暖かさを失わないように,私たちは互いにしっかりと身を寄せあった.彼女はもはや緊張もせず疑ってもいなく,私の方に身をもたれかけさせていた.

 氷と死の恐ろしいほどの冷たい世界が,私たちの生の世界に取って代わった.外部では,氷河時代の荒涼とした寒さの凍てつく空間が,広がっていた.生命は無機物の結晶体に還元されてしまった.しかし,この明るい私たちの部屋では,私たちは安全だったし,暖かかった.私は彼女の顔を見つめ,微笑んだが,触れなかった.恐怖はなかった.悲しみも,ここには,今は,なかった.彼女は微笑み,私にしっかりと体を押しつけてきた.私たちは自分たちの家にいた.

 私は全速力で車を駆った.逃れるかのように,あるいは逃れることができる振りをするかのように.氷から,あるいは,時間は残り少なくなり私たちを閉じ込めようとしていることから,逃亡することが,不可能なのは,分かっていた.私は一瞬一瞬を最大限生きようとした.数マイルと数分が過ぎ去った.ポケットの中の拳銃の重さが私を安心させた.
(『氷』完)

 
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アンナ・カヴァン『氷』改訳24

2006-12-04 11:55:27 | Weblog
                            第15章

 外に出ると,氷のように冷たい空気の流れが体を包んだ.夕闇が帳を下ろし,風のため,凍りついた雪は平らになっていた.私は近道を探さがさずに,海岸へ通じるすでに知っている小道を選んだ.以前は育っていた外国産の植物は,霜にやられて枯れていた.やしの葉がしなびて,枯れかかり,黒ずみ,閉じられた傘のようにしっかりと折りたたまれていた.私は気候の変化に慣れていたはずだったが,私はまた日常生活から逸れてしまい,非日常的な奇妙な地域へと移ったように感じた.このすべてが現実であり,それは現実に起こったことだった.しかし,まったく現実ではないような気がした.それはまったく奇妙なことが起こったことによって生じた異様な現実だった.

 雪は激しく降り始め,私の顔には極寒の風が吹きつけてきた.寒さのために皮膚は凍傷になり,息は凍りついた.雪が眼に入るのを防ぐために,私は重いヘルメットを被った.雪が縁にくっつき凍りつき,ヘルメットはさらに重くなったが,そのうちに,海岸が見えてきた.白い雪のカーテンを通して前方に家がぼんやりと現れた.しかし,その向こうに氷群が広がっているかどうかは分からなかった.風に逆らって,そこへ辿りつくのは困難だった.雪は厚く積もり,激しく降っていた.死滅しつつある世界の表面を,すべてを不毛にする白い雪が広がって,覆っていた.暴力とその犠牲者をもろとも巨大な墓の中に埋め尽くし,人類とその功績の最後の足跡を消した.

 突然,撹乱している白い風景を通して,少女が私から氷の方へ逃げ去るのが見えた.私は叫んだ.
 「待って!戻って!」
 しかし,極寒の空気に喉がやられ,声はかすれ,風にかき消された.雪の粉が霧のように私の周りに吹きつけてきた.私は彼女を追いかけた.彼女の姿はほとんど見えなかった.彼女が視界から消えてしまった.私は一旦休み,眼球にくっついている氷の結晶体を苦労して取り除いた.それからまた追いかけた.殺人的な強風のために,私は後ろに飛ばされた.雪は白い丘のように積もり,火山のようにそこから雪煙が立ち昇って,その先が見えなくなった.恐ろしいほどの死の冷たさの中で,よろめき,ふらつき,躓き,滑りながら,感覚のない手で彼女を掴んだ.

 遅すぎた.私にはチャンスがないのがすぐに分かった.辺りに聳え立つ蜃気楼のような極寒の輝き,超自然の,この世のものと思えぬ氷の建造物.巨大な胸壁や虹橋が空に満ちていた.私たちは丸い壁,幽霊のような処刑執行者によって閉じ込められた.それは,私たちを破滅させるために,ゆっくりと,しかし情け容赦なく,前進してきた.私は動くことが出来ず,考えることも出来なかった.処刑執行者の吐く息は脳を麻痺させ,愚鈍にした.これ以上ないほどの冷たい氷が私に触れ,雷鳴が轟き,まばゆいエメラルド色の光を放って氷壁は2つに分裂した.頭上高くでは,氷河がブーンと言う音を立てて振動し,今まさに崩壊せんとしていた.霜が彼女の肩の上で輝き,彼女の顔は蒼白で,長いまつげが彼女の頬を撫でた.私は彼女を抱きしめ,山のような氷の塊が落ちてくるのを彼女が見なくてすむように,彼女を私の胸にしっかりと押し付けた.

 厚手の防水布で出来た灰色のコートを着て,ビーチハウスを囲んでいるベランダに立って,誰かを待っていた.最初,彼女は,私がやってくるのを待っているのだ,と思った.それから,彼女の視線は別の道を見ているのに気づいた.私は立ち止まって,彼女を見つめた.彼女が待っているのが誰なのかを確かめたかった.ホテルマンは,私がここにいるのを知っているので,今やって来るとは思えなかった.彼女は今や孤独ではないように感じられた.彼女は辺りを見回し始め,私を見つけた.私は,彼女の顔のなかで眼を大きくまた黒く見せている,大きく見開いた瞳を見分けるほどには,近くにはいなかった.しかし,私は彼女の鋭い叫びを聞き,彼女が向きを変えたとき,髪が渦巻き,輝いたのを見た.コートについているフードを頭の上に引っ張り上げ,海岸の方へ走っていった.彼女がベランダから出て行ってしまうと,彼女を見えなくなった.彼女は雪の中に身を隠そうとしたのだった.突然,恐怖が彼女を襲った.魔術的な力をふるって,彼女から意志を奪い取り,彼女を幻覚と恐怖の中に投げ込む,氷のように冷たくブルーの眼をした男の姿が,彼女の頭をよぎったのだった.いつも彼女と共にあり,日常生活の背後に潜んでいる恐怖が彼によって呼び出されたのだった.彼にはもう一人の人が結びつられていた.彼らは同じ仲間だった.あるいは彼らは同じ人間だと言ってよかった.

 彼らは二人とも彼女を迫害した.彼女にはその理由が理解できなかった.しかし,彼女は,起こったすべとのことを受け入れてきたように,彼女はこの事実をも受け入れた.彼女には分かっていた.彼女は,未知の力かまたは人間の力によって,手荒く扱われ,犠牲者とされ,最後には破滅させられるのを知っていた.彼女の誕生以来,運命がいつも彼女を待ちかまえていた. 愛のみが彼女を運命から救い出すことが出来た.しかし,彼女は決して愛を求めなかった.彼女は耐えることを選んだ.そのことのみが彼女が知っていたことであり,受け入れることができることだったからであった.運命は彼女に忍従を強いた.彼女には分かっていた.彼女は誕生以前から既に打ちのめされていたのを.

 彼女が数歩も行かないうちに,私は彼女に追いつき,ベランダに連れ戻した.顔から雪を払い落としながら,彼女は叫んだ.
 「あなたなの?」
 驚いて私を見つめた.
 「誰だと思ったんです?」
 私は制服を着ていたのを思い出した.
 「とにかく,この服は私のではない.借りものです」
 彼女から不安が消え,ほっとした表情を浮かべた.彼女の態度は変わり,落ち着きを取り戻した.人々や環境が彼女にとって安全だと分かったとき,彼女は自信と独立心のある態度をとるのを知っていた.ホテルで若い男は彼女のためにそのような環境を作ったに違いなかった.
 「早く中に入りましょう.何故ここに立っているの?」
 彼女は普通に,私が戻ってくるのは予定されていて,予期されていたかのような口調で,言った.この状況に,変わったところは何もないというかのように.その言い方が私を悩ませた.結局,私はずうっとそれで悩んでいたのだった.彼女の言い方は,私がとるに足らぬ人物であるという口調だった.

 彼女はドアの方へ行き,私を社交的な態度で招き入れた.小さな部屋には何もなく寒かった.流行遅れの暖防具がかろうじて部屋から冷たさを取り除いていた.しかし,部屋はきれいに掃除されていて,片付けられていた.細部まで注意が行き届いているのが分かった.海岸から拾ってきた流木や貝殻から出来た飾りものが置いてあった.
 「居心地が悪いのではと,心配です.あなたの基準からすると,粗末な住まいです」
 彼女は私をからかうような言い方をした.私は何も言わなかった.彼女はコートを脱がなければ,フードをとって髪を自由にすらしなかった.髪は長くて,生きもののように輝き揺れていた.コートの下には,高価そうな灰色のスーツを着ていた.私はそれを彼女が着ているのを,今まで見たこともなかったが,それは,彼女を品よく見せていた.彼女はお金を持っているはずがなかった.彼女の魅力的な様子が,また,彼女の着ている高価なドレスが,また私を悩ませた.

 彼女はホステスのような口調で話した.
 「いろいろな旅行から戻ってきて,居場所があるなんて素敵でしょう」
 私は彼女を見つめた.私は彼女を見つけるためにはるばるやってきたのだった.多くの死者や,多くの危険や,多くの困難に出会いながら.今やついに,私は彼女のところにたどり着いたのだった.そして,彼女は私に,未知の他人のように話しかけた.それはひどすぎた.私は傷つき,後悔した.彼女の無作法な態度や,私の到着を無意味なものにする態度に憤慨して,私は威厳を保って言った.
 「何故あなたはこのような態度をとるのですか? 私は行きずりの訪問者として扱われるために,はるばるやって来たのではありません」

 「あなたは私に赤じゅうたんを敷いて迎えろとでも言うのですか?」
 彼女は苛立って,からかい気味の返事をした.私の中で怒りが爆発した.もはや,自分をコントロールできなかった.また,からかい気味に,気のない調子で,私が何をしていたのかをたずねたとき,私は冷ややかに答えた.
 「私はあなたのご存知の方と一緒にいました」
 そう言って,意味ありげな難しい顔をしてじぃっと彼女を見つめた.彼女は直ちに理解した.彼女からわざとらしさがなくなり,不安な表情が浮かんだ.
 「私が最初あなたを見た時...私は思った...彼かと...彼がここにやって来るなんて,なんて恐ろしい」
 「彼はすぐにでもここにやって来るでしょう.それを言いに,私は来ました.他に計画をお持ちならば,あなたに警告するために.彼はあなたを連れ戻すつもりです」
 彼女は私を中断した.
 「いいえ.決して!」
 彼女は激しく首を振ったので,髪がフードから,水しぶきのように輝いて流れ出たほどだった.私は言った.
 「それでは,あなたは直ちに立ち去らねばなりません.彼がやってくる前に」

 「ここを立ち去る?」
 それは残酷だった.彼女は困惑して辺りを見回した.彼女が飾りつけた家を見回した.海から持ってきた貝殻が飾られた小さな部屋は,彼女をほっとさせ,安心させる,地球上での唯一の場所だった.ここでは,彼女は自分自身を取り戻すことが出来たのだった.
 「しかし,何故? 彼は決して私を見つけることができない...」
 彼女のもの欲しそうな,哀願するような声も,私の心を動かさなかった.私は毅然として,冷ややかに言った.
 「何故,見つけられないんです? 私はあなたを見つけました」
 「そうです.しかし,あなたは知っていました....」
 彼女は私を疑惑の目で見つめた.私は信用されていなかった.
 「あなたは彼に教えなかったんでしょう.そうですよね?」
 「もちろんですとも.私はあなたが私と一緒に来て欲しいのです」

 突然,彼女は自信を回復し,以前の人を見くびるような態度に戻った.私を嘲笑的な視線で眺めた.
 「あなたと一緒に? だめです! 私たちはやり直すことはまったく出来ません」
 当てこするように言って,大きな眼で上目遣いをした.彼女はわざと侮辱したのだった.私は頭にきた.彼女の見くびった調子のおかげで,彼女のところにやって来るための命がけの努力が無駄になってしまった.彼女のために耐えてきたすべてのことが馬鹿馬鹿しくなってしまった.突然,激しい怒りがこみあげてきて,私は彼女を荒々しく掴み,激しく揺すぶった.
 「やめなさい.なにを言うのですか! これ以上耐えられない! こんなにひどく侮辱するのは止めてください.私はあなたのために地獄のような経験をしてやってきたんですよ.ひどい状況の中を数百マイルも旅をしたんですよ.想像もつかない危険の中を通り抜けてきたんですよ.私はほとんど殺されかかったこともあります.あなたにはほんの少しの評価の気持ちも見られない...感謝の一言も...あなたは私を普通に見られる...丁重にさえ扱わない...私はただ安っぽい冷笑を受けただけ...見事な感謝! 見事な振る舞い!」
 彼女は一言も口を利かないで,じっと私を見つめていた.彼女の眼は,ほとんど黒い瞳ばかりになった.怒りはまだ少しも収まらなかった.
 「今でさえ,あなたは謝ろうという礼儀さえ持っていない」

 まだ怒りが収まらず,私は彼女に悪態をつき続けた.彼女を,高慢ちきな,無礼な,横柄な,無作法な女だとののしった.
 「いつか,あなたは,親切にしてくれる人に感謝することのできる一人前の市民になるかもしれない.親切にしてくれる人を笑うような思い上がった無作法さを示す代わりにね」
 彼女は打ちのめされ,押し黙っていた.私の前で,頭を垂れて,黙って立っていた.自信の痕跡は跡形もなくなっていた.ついには,彼女は,大人の偏見によって傷つけられ,意気消沈した,怯えた,不幸な子供ようにになった.

 彼女の首根っこがぴくぴくしだした.何かが皮膚の下から逃げ出そうとしているかのように,激しく脈打ちだした.以前にも,彼女が怯えたとき,同じようなことが起こったのを知っていた.私は大声で言った.
 「なんて馬鹿なことを,あなたを悩ますようなことを言ったんだろう.私がいなくなるとすぐに,ボーイフレンドのところに移り住んだと思ったものだから」
彼女はすばやく私を見上げて,不安げに口ごもった.
 「それはどういう意味ですか」
 「あなたは理解できない振りしている.なんて腹立たしい」
 私の声は攻撃的になり,喋るほどに大きくなった.
 「もちろん,家のオーナーのことですよ.あなたが一緒に住んでいる仲間.私が来たとき,べランダで待っていた人です」
 自分の声が大きいのが分かった.大声が彼女を怖がらせた.彼女は震え始め,口はぴくぴくしだした.
 「私は彼を待ってはいませんでした」
 彼女は話を中断して,私がしていることを見た.
 「ドアの鍵を閉めないで...」
 私は既に鍵を閉めていた.私の中ですべてが,鉄のように硬くなった.氷になった.硬く冷たく,しかし燃えるような渇望になった.私は彼女の肩を掴み,私の方へ引き寄せた.彼女は抵抗し,叫び声を上げた.
 「私から離れて!」
 彼女は蹴り,もがき,鉢から飾りつけられていた形の良い貝殻を引き剥がして,投げつけた,床にあたって粉々になった.私たちの足がそれを踏みつけ,それは色とりどりの粉になった.私は彼女を押し倒して,血塗れた上着の中に押し込んだ.制服のベルトの鋭いバックルで彼女の腕が切れ,やわらかい白い肌の上を血が流れ落ちていたのだった.私の口の中で,血の鉄分の味がした.

 彼女は黙って横になったまま動かなかった.私を避けるために,顔を壁の方に向けていた.多分,私は彼女の顔を見えなかったために,彼女が私の知らない人のような気がした.私は彼女に何の感情も抱かなかった.彼女に対するすべての感情が消え去っていた.これ以上耐えられない,と彼女に言った.それは本当だった.私は続けることが出来なかった.それはあまりにも屈辱的であり,あまりにも苦痛だった.私は彼女とのこれまでの関係を終わらせたかった.しかし,今までそうすることは出来ないでいた.今こそがその瞬間だった.この私が行っている惨めなこと全体を終わらせるために,今や,立ち上がって,去っていくべき時であった.私はあまりにも長い間同じことを繰り返していた.いつも苦痛で報われなかった.私が立ち上がった時にも,彼女は動かなかった.私たちのどちらも一言も口をきかなかった.私たちは偶然に同じ部屋にいる,見知らぬ他人同士のようだった.私は考えていなかった.私が欲しているすべてのことは,車に乗って,ここでのすべての事を忘れてしまえるほど,はるか遠くまで,ドライブを続けることだけだった.私は彼女を見ることなく,声をかけることもなく,部屋を去って,極寒の外に出た.
(第15章続く)
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アンナ・カヴァン『氷』改訳23

2006-11-30 12:47:50 | Weblog
                        第14章(承前)

 町外れの関門所で車を止められた.爆弾が付近に落ちていた.事態は混乱していて,護衛兵が尋問する余裕はなかった.私はでたらめを言って,車を走らせた.彼らが私の答えに満足していないで,疑っているのは分かっていた.しかし,彼らは忙しすぎて,私に関わっていられないだろうと思った.私は間違っていた.2,3マイル走行すると,サーチライトが私の車を照らし出し,背後から強力なオートバイのうなる音が聞こえた.ライダーの一人が,私に止まるようにに命じながら追い抜いていった.ちょうど私の前にきて,激しくブレーキをかけ,道路の真ん中で,またがったまま止まり,銃を私に向けた.銃弾が飛び出してきて,あられのように道路で弾んだ.私はスピードを上げ,真正面に突っ込んだ.背後を見やると,暗い影がオートバイのハンドルを越えてもんどりうち,もう一台が横転し,その後ろの二台が横滑りして,破損し,折り重なるのが見えた.射撃が少しの間続いたが,誰も追いかけてこなかった.負傷しなかった護衛兵は,暴動を一掃するためにそこに留まり,私に車を走らせる時間を与えてくれるのを期待した.雨は止み,戦いの音は治まった.私はリラックスし始めた.しばらくすると,私の車のヘッドライトが,急いで道路から離れていく制服姿の男を捉えた.パトロールカーがそこに止まっていた.誰かが前もって電話したのに違いなかった.私は,何故,これらの人々が追いかけるほど私が重要人物とみなされているのか,不思議だった.重要人物が車に乗って逃走しているという情報を,彼らは得ているのだろうと,推測した.彼らは発砲し始めたので,私はアクセルを踏んで加速した.総督が車が障害物をティッシュペーパーのように破壊して,国境を突破したという物語をぼんやりと思い出していた.さらに多くの射撃が後ろからなされたが当たらなかった.まもなく射撃は止み,静かになった.道路を走っているのは私の車だけになり,もはや追ってくる兆しはなかった.私がそれから30分後に国境を越えたとき,私がまったく安全になったのを知った.

 追跡をかわすことができて,私はさわやかな気持ちになった.独力で私に対して行われた軍隊組織の攻撃を打ち破ったのだった. 私はスリリングで興奮を掻き立てるゲームに勝ったかのように興奮した.興奮が静まると,私は正常な状態に戻ったが,私はもはや今までの私ではなかった.もはや助けを必要とする絶望的に弱い旅行者ではなくなり,強くて独力でことをなすことのできる,能力のある人間に変わった.私は,機械が持っているような力を所有し,制御することが出来るようになったのだった.私は車を止めて,調べた.いくつかの凹みと擦り傷があったが,それらを除いて,車はどこも不具合なところはなかった.ガソリンはタンクに4分の3ほど残っていた.トランクにはガソリンの缶が数多く詰められていて,私が目的地に着いてもあまるほどだった.私は食物の入った大きな袋を見つけた.ビスケット,チーズ,卵,チョコレート,りんご,それにラム酒のビンが1本入っていた.私は食物やガソリンを得るために悩む必要はなくなった.

 突然,私は旅の最後の周回にいることがわかった.成就不能と思われた困難にも拘らず,私の目的はほとんどゴールに近づいていた.私は成功を喜び,そのようなことを成し遂げることができた自分自身に喜んだ.私は殺されるとは思わなかった.私が別様に行動していたならば,私はここに辿りつくことはできなかったであろう.とにかく,死が迫っていることがかすかではあるが予期され,まもなく,すべての生き物は死滅するだろうと思われた.世界全体が死へと向かっていた.すでに,氷は数百万の人を埋め尽くしていた.生き残っている者も気の狂ったように戦争や破壊活動を行っていた.しかし,私たちはいつも分かっていたのだ.眼に見えぬ敵が進行しつつあり,私たちがどこへ逃げようとも,氷はそこへやって来て,最後には征服者になるということを.私たちに残された唯一のことは,瞬間瞬間に,できるだけ多くの満足を人生から引き出すということだけだった.私はこの強力な車で夜中を疾走して,浮かれた気分になっていた.また,私は自分の運転テクニックを楽しんでいた.興奮と危機感を同時に感じていた.私は疲れたときに,車を道端に寄せて1時間かそこら眠った.

 寒さで夜明けに眼が覚めた.夜中,凍りついた星々が,地球めがけて凍りついた光線で集中砲撃していた.それは地表を貫き,薄い地表の下に貯蔵された.亜熱帯地域でも,大地が霜で覆われ白くなり,足元が凍りつくようになり,例年では考えられない異常現象が生じているという印象を人々は受けた.私は朝食を手早く食べ,ギアを入れてエンジンを動かし,水平線の方へと,海の方へと,急いだ.道路が良かったので,時速90マイルのスピードで運転して,荒廃している地域を,たまに,家や村が残っていたが,疾走した.私は誰にも会わなかったが,瓦礫の中から私を見ている眼を感じていた.人々は軍の車を見ると,音を立てないようにして姿を隠していたのだった.彼らは,隠れている方が安全なのを経験から学んでいたのだった.

 徐々に寒くなり,空は暗くなっていった.背後の山々の向こうの方では,不吉な黒々とした雲の塊が,海の上に集まっていた.私はそれらの雲を見て,その意味が理解できた.黒々とした雲の集まりの下では,厳寒の死が広がっているのだった.それは一つのことだけを意味していた.氷河はすぐそこまで来ているということを意味していた.まもなく,私たちの世界に代わって,氷の,雪の,死の,静寂の世界がやってくるだろう.もはや暴力はなく,戦争もなく,犠牲もなく,凍てつく沈黙以外には何もない,生命の欠如した世界.人類の究極の到達点が,自己破壊ではなく,生命全体の破壊だった.生命の世界から死滅した惑星へと変わるのだった.

 雲ひとつなく,燃えるような青い空の中に,薄暗く巨大な災厄の前触れの雲が,無表情に,ただ不吉に,人を怯えさせるように集まっていた.それはちょうど破局の前触れとしての巨大な崩壊が,途方もない頭上から垂れ下がっているようであった.氷の結晶体がフロントガラスの上で花のような形を取り始めた.私は,自然の不思議さに,迫り来る破局の冷ややかさに,頭上につるされている崩壊の前兆に,これまで起こったことの破壊行為に,これまで私たちが犯してきた罪の重さに,圧倒され,憂鬱になった.恐るべき犯罪が,自然に対して,宇宙に対して,生命に対して,行われてきたのだった.生命を殺戮することによって,太古からの秩序を破壊し,世界を破壊し,今やあらゆるものが,崩壊の中に墜落せんとしているのであった.

 かもめが,近くを飛び,鳴いていた.私は海に辿りついたのだった.塩の匂いをかき,水平線まで広がる暗い波を見渡し,氷壁がないのを確かめた.しかし,空気は死のような氷の冷たさに満ちていて,氷壁はそれほど遠くではないことを感じさせた.何もない荒涼とした地域を50マイルほど疾走して,町へと向かった.そこでも,雲が低く垂れ込め,いっそう暗くなり,いっそう不吉さをまして,私が来るのを待っていた.寒さのために私は震えた.おそらく,それはすでにそこに来ていた.人々がかつて夜中踊っていた町に入っていった時,これが同じ陽気な町だったとは,ほとんど信じられなかった.町はまったく荒廃していて静かだった.車も,花も,音楽も,明かりもなかった.港には難破船が停泊していた.建物が破壊されて,店やホテルは閉められていた.明かりは暗くて寒々としていて,気候はこれまでとは全く異なっていた.もはや別世界だった.いたるところに,新氷河時代の切迫した脅威が感じられた.

 私は視界に入るものを眺めた.すると,少女が見えた.彼女の姿はいつも私と一緒だった.それは財布の中にもあったし,私の想像の中にもあった.今や,彼女の姿は私の視界のいたるところに現れた.彼女の青白い,血の気の失せた顔が,2つの大きな瞳と,邪悪な雲の下での松明の火のように,色素を失って青白く輝く髪が,いたるところに現れ,磁石のように私の眼を引きつけた.彼女は崩壊のただ中で,輝いていた.彼女の髪は,暗い日中で光っていた.いじめられ怯えた子供のような彼女の大きな眼は,破壊された窓の黒い穴から私を非難するように見つめていた.誤解された子供のように,彼女は走り去って,大きな眼で私に懇願した.私は彼女の苦しむ姿を眺める楽しみを味わった.それは,私の願望の最悪のイメージだった.彼女の顔が幽霊のようにかすかに光り,私を影の中へと誘った.彼女の髪は光る雲であった.しかし,私が彼女に近づくにしたがって,彼女は向きを変え,逃げた.肩の上の銀色をした髪が突然月光で煌く滝にように映った.

 道路上にバリケードの残骸が積まれていたので,以前泊まっていたホテルの入り口へ車で行くことはできなかった.私は車を降りて,歩いて行かなければならなかった.残酷なほど冷たくて強い風のために,氷の破片が私の方へとまっすぐに吹き飛んできて,私は息をするのも困難なほどだった.濃い灰色をした海を一瞥して,氷がまだやって来ていないのを確かめた.ホテルの一階の外観は変わっていなかったが,上の階の方では壁のあちこちに大きな裂け目や穴があいていて,天井は陥没していた.私は中に入った.冷たくて暗く,暖かさも明かりもなかく,そこはカフェーであったのか,破損した椅子やテーブルが,並べられていた.金箔で飾られた破損物が瓦礫の真ん中に残っていたけれども,私はそこがどこか見分けることができなかった.

 調子の乱れた足音と杖のこつこつという音が聞こえ,見覚えのある誰かが近づいてきた.若い男は漠然とした親しみの表情を浮かべていたが,最初,暗がりの中では,誰か分からなかった.私たちが握手しているとき,突然記憶が蘇えった.
「もちろん,あなたはオーナーの息子さんですね」
彼の足が不自由になっていたので,私はいやな気持ちになった.彼はうなずいた.
「私の両親は死にました.爆撃にやられたんです.公には,私もまた,死んだことになっています」
私は何が起こったのか尋ねた.彼はしかめ面をして,足をさすった.
「それは避難中に起こりました.そして,すべての負傷者は後に残されました.私は殺されたと報告されたと聞いたとき,否定しようとは思いませんでした...」
彼は話を中断して,神経質な目つきで私を見た.
「一体全体,なんのためにあなたは戻ってきたんですか.あなたはここに宿泊することはできません.お分かりのように.私たちは直接的な危険地域にいます.すべての人が避難するように言われています.ただ私たちのような古くからの居住者が少数残っているだけです」

 私は彼を見つめた.彼が何故私に神経質になっているのか理解できなかった.私がかつてここで会ったことのある人々はほとんど随分前に出て行った,彼はと言った.
 「戦争が起こる前に,彼らのほとんどは出て行きました」
 私は少女に会うためにやってきたのだと言った.
 「しかし,私は少女が出て行ったことに気づくべきでした」
 私は彼が総督について何か話してくれるのを期待した.しかし,彼はそうしないで,彼は話し始める前に,臆病な,躊躇するような態度を示した.
 「実際,彼女は出て行かなかった非常に数少ない人々の一人です」
 私はそれを聞いて,数秒の間感情が乱された.動揺を隠して,また私の安心が間違っていないことを確かめたくて,彼女について問い合わせがあったかどうか訊いた.
 「いいえ」
 彼は無表情に答えたが,それは本当のことを言っているように思われた.
 「彼女はまだここにいますか?」
 「いいえ」
 再び同じ答えが返ってきた.彼は続けた.
 「われわれはここをレストランとして使用しています.しかし,建物全体は安全ではありません.ここを修理できる人はここには残っていません.とにかく,それに,何の利益があるのです?」
 私は,氷の接近が,そのようなすべての活動を無効にしていることに同意した.しかし,私はただ少女にのみ関心を抱いていた.
 「彼女は今どこにいるのですか?」
 彼は躊躇しているような様子だった.そしてその様子が長引くほど,躊躇していることが明らかになっていった.彼は質問に明らかに困惑していた.しかしとうとう彼が答えが,そのとき直ぐに,私は困惑の意味が分かった.
 「まったく近くにいます.海岸の家に」
 私は彼を見つめた.
 「そうですか」
 今やすべてが明らかになった.私はその家を思い出した.それは彼の家だった.彼はそこに両親と住んでいたのだった.彼は不愉快そうに話を続けた.
 「彼女にとって,その方が都合が良かったのです.彼女はここで仕事をしていているのです」
 「本当に?どんな仕事をです?」
 私は不思議に思った.
 「レストランの補助ですよ」
 それは漠然とした言い逃れの答えだった.
 「ここで客の給仕をしていると言うのですか?」
 「そうです.時々ダンスもします...」
 話題を避けるように,彼は言った.
 「彼女が他の人たちと同じように安全な場所へ避難しなかったのは,まことに残念なことでした.それはまだ可能なのですが.彼女には彼女を連れて行ってくれる友達がいました」
 私は返事した.
 「明らかに,彼女には友達がいました.でも彼女はここに残る方を選んだのです」
 私は彼をじっと見つめた.しかし,彼の背中がかすかな明かりを隠していたために,彼の顔は陰に隠れ,彼の表情を読み取ることができなかった.

 突然,私はいらだった.私はすでに多くの時間を彼と過ごしすぎた.彼女こそが私が話しかけなければならない唯一の人だった.ドアの方へ向かいながら,私は尋ねた.
 「私はどこで彼女に会うことが出来ますか?」
 「彼女は彼女の部屋にいると思います.ここでの仕事は後ほどですから」
 彼は足を引きずり,杖をつきながら私の後をついてきた.
 「庭を横切って行く近道を教えましょう」
 私は彼が時間を稼ごうとしているように思えた.
 「大いに感謝します.でも,私は自分で道を見つけられると思います」
 私はドアを開けて外へ出た.彼が何かを言う間もなく,私たちの間のドアを閉めた.
(第14章終り)
 いよいよ残すところ,あと1章です.後2回の掲載で,改訳は終了です.12月4(月),5(火)の予定.

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アンナ・カヴァン『氷』改訳22

2006-11-29 13:23:20 | Weblog
                         第14章

 頭痛がして,あらゆることが私の内部で混乱していた.私には日が明ける前に,町を出なければならないということだけは,分かっていた.私は考えることが出来なかった.一瞬の迷いが次の現実を失うことになるのだった.狭い小道を通って,高い家々の間の道一杯を占めて,車はすさまじい勢いで私をひき殺そうと走ってきた.私は,指の関節から血を流しながら,ドアからドアへとよろめいた.ドアには鍵がかかっていた.轢かれかかった瞬間に,ドアを体当たりして破り,中へ入った.制服に身を包み,堂々とした容貌をした総督が,彼の大きな黒い車に乗って通り過ぎて行った.少女が彼と一緒だった.彼女の髪は,雪の上の木陰のように,ちらちら光っていた.彼らは一緒に雪の中を,白い毛皮の絨毯のような下をドライブしていたのだった.それは部屋のように広く,雪の吹き溜まりのように深く,ルビーで縁取られたようだった.

 凍りついた火が輝いているようなオーロラの下で,彼らは,氷山の間を歩いていた.極寒の猛吹雪が吹雪いて,辺りは真っ白だったが,北極星の下で,彼の骨白色の額と氷柱のような眼と,彼女の氷花がつき霜で覆われたようになっている銀色の髪が見えた.氷山の中で雷鳴が轟いた.彼は北極熊と戦い,手で絞め殺した.彼女をタフにするために,すばらしくよく切れるナイフで皮をはぎとることを教えた.それが終わると,彼女は暖をとるためにその中に入った.巨大な獣の皮は彼ら二人を多い,長く白い毛の先には血がこびりついていた.雪のように白い毛皮が彼ら二人の姿が隠し,獣の分厚い皮の先から血が滴り落ち.雪を赤く染めた.

 彼女が夢見るような眼をして,松明の明かりに照らされて立っていた.私は彼女を見た.彼女が欲しかった.彼女を連れ去りたかった.しかし,別の人が彼女を所有していた.彼女の白い少女のような体が,くすぶる松明の煙の中を.彼の膝の間に倒れこんだ.私は彼女を捜しに外に出た.略奪者が町を略奪していた.私はいたるところ探し回ったが,彼女を見つけることはできなかった.瓦礫の中で彼女に躓いた.彼女の頭は曲がっていた.大気は煙と誇りに満ちていたが,それを通して彼女の白い肌が汚らしい瓦礫の上に見えた.血は最初は白い肌の上で赤かったが次第に黒ずんでいった.髪が引っ張られているために彼女の頭は横向きに捩れ,ほっそりした首は折れていた.子供時代に受けつづけた迫害のために,彼女にとって,迫害を運命として受け入れることは容易だった.私が何をしようとしまいと,彼女に降りかかる運命は変わらなかったであろう.彼女をそこに放置しておくのもひとつのやり方ではある.彼女をあの男にゆだねるのも,また別のひとつのやり方である.しかし,そのいずれも私にはできない選択だった.

 彼が到着する前に,彼女のところへ行かねばならなかった.しかしそれは困難極まりないことだった.交通手段が存在しないために,賄賂を使ってなんとかするしか方法はなかった.あるいはもっと悪い方法であるが,騙すしかなかった.氷は海を渡って,いろんな島へと,地図上で確認したわけではないが,特にこの島へと向かってきているところを想像した.私たちがいろんな方向から彼女に近づきつつあった時,彼女は島の中心にいるだろうと思っていた.彼女が取り囲まれているのを知らなかった.私はある方向から彼女に近づき,彼は別の方向から近づき,そして氷がまた別の方向から彼女に近づいていたのだった.私が最初に彼女に到達する可能性はほとんどないように思われた.1マイルごとに,近づくのが遅くなり,困難になっていった.彼は,その気になりさえすれば,飛行機を使って,たった2,3時間で到達することができただろう.私は,彼が例の重要な会議に今なお出席していて,さらに他の軍事上の重要な懸案が彼を引きとどめてくれるのを願うことができるだけだった.しかし,私は楽観的にはなれなかった.

 頭の負傷や顔の切り傷は直り始めていたが,正常に戻りつつあるとは思えなかった.頭痛はまだ四六時中続いたし,恐ろしい幻覚に悩まされた.それは,爆発する災厄のために世界は暴力的な死に向かい,宇宙が破滅する幻覚だった.私は処刑されに行くようなものだった.私自身の死が重大事だったけれども,私は生きていたし,仕事をしていたし,世界で起こることを見ていた.私は年老い,知性を失い,そして体力が落ちるのを恐れた.私は,彼女にもう一度会いたいという脅迫的な衝動に駆られていた.彼女のところに最初に到達するのは,私でなければならなかった.

 私は非常に長い距離を旅行しなければならなかった.私はあからさまに国境を横切る危険を侵すことができなかったので,二日かけて,徒歩で,荒れ果てた地域を通過しなければならなかった.身を守るものも,食物も水もなしにであった.その後で,ヘリコプターであるところまで連れて行ってもらえるチャンスに恵まれた.そのヘリコプターの側面には,等身大の裸の女性が天然色で描かれていた.戦争の真っ最中のポップアートだった.それを描いた人は処分された.私は同乗するチャンスを失うつもりはなかった.幸運が続くはずがなかったから.狂気のようになって,私は射殺された死骸を探した.絵の具の塗られた顔が私に向かって瓦礫の間でにたにた笑っていた.頬にはピンクの丸い輪が描かれ,黒い眼は描かれた人形のように澄み切っていた.

 戦争中の田舎で,私は戦争から遠ざかっていようと努力した.トラックに満杯になって乗っている軍隊や労働者が,騒いでいたけれども,それを除けば,私がやって来た町は静かだった.どんよりした曇った日に,どんよりした灰色の町で,弱々しい女性たちが汚い洗物を平たい石のうえに無気力にたたきつけていた.私は疲れきっていて,元気をなくし始めていた.ある種の輸送がなければ,私の旅は終わることができなかった.ここでは元気づけてくれるようなものは何もなかった.私が通行人を見ると,彼らは眼をそらした.彼らは外国人に対して疑い深かった.私は,疲れた表情をし,着古した,破れた,泥まみれのゲリラの服装をしていたので,彼らは私を見ると不安になった.私は話のできる誰かを探そうとしたが,そのような人は見つからなかった.私はガソリンスタンドのオーナーに話しかけ,お金を渡して,テレスコープつきで外国製の新品のライフルを手に入れたいといったら,彼は警察を呼ぶぞと私を脅した.

 たそがれ時に雨が降り始め,夜になるにしたがって,雨足は強くなった.禁止令が公布されていて,家からは明かりが見えず,通りには人影はなかった.私は危険を覚悟して野宿したが,気をつける元気すらなかった.遠くでサイレンが鳴り響き,すさまじい音がした.それが一定時間続きその後銃声がするといったことを繰り返しながら,それが次第に近づいてきた.雨が一面に降りしきり,道路は川のようになっていた.アーチが上を覆っている道路に非難し,震えていた.何をすべきかを考えることすらできずに,気持ち悪くて,頭は麻痺していた.私は絶望てきになり,自暴自棄になっていた.

 大きな軍の車が音を立てて疾走してきて,道路の反対側に止まった.鋼鉄のヘルメットを被り,オーバーコートと長靴に身を包んで,がっしりした運転手が降りてきて,家に入っていった.緩慢な砲撃はまだ続いていた.静かにしている必要はなかった.私は,捨て鉢になって,花崗岩の丸石を持ち上げ,それを一階の窓めがけて投げつけ,手を中へいれ,窓を押し上げ,窓敷居の上へと体を押し込んだ.足が床に着く前に,部屋のドアが開き,車に乗っていた人と顔が合った.突然大きな爆発音が起こり,すべてのものが揺れ動き,暗い部屋は激しい炎に包まれ,頬骨や眼球が熱くなった.男は負傷し,倒れ,血がほとばしり,暗い川のように流れた.私は負傷者の服をはがし,私のぼろぼろの衣服を着せた.幸運なことに,われわれは大体同じ背格好だった.私は急いで壊れた部屋に行って,家具を投げ飛ばし,鏡を壊し,引き出しを開き,絵をナイフで引き裂き,略奪者がそれらを壊し,家の主人に撃ち殺されたように見せかけた.私が被るには金属製のヘルメットは重すぎたので,それを手に持ち,制服を着て外に出たて,軍の車に乗り込み,去った.私は制服から血を完全には拭うことは出来なかったが,毛皮で縁取られたコートには汚れこびりついたので,分からなかった.
(第14章続く)
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アンナ・カヴァン『氷』改訳21

2006-11-28 12:24:53 | Weblog
                       第13章(承前)

 私たちが飛行機を降りると,それははるか遠くの国だった.その町を私は知らなかった.総督は重要な会議に出席するためにやって来たのだった.人びとは,最重要課題として,彼が来るのを待っていた.彼が私を残して急いで行こうとしているようには思えなかったので,私は彼を賞賛した.彼は言った.
 「あなたは辺りを観察するべきだ.ここは興味のある場所です」
 その町は責任者が変わったばかりだった.軍隊が町を破壊しなかったのかどうか尋ねた.答えが返ってきた.
 「我々の中には礼儀正しい人がいるのを忘れないでください」

 立派な制服を着て,彼は私と一緒に,黒と金色をした制服を着た護衛兵に伴われて散歩した.私は彼と一緒にいることが誇らしかった.彼は美しい容姿をしていて,あらゆる方法で,自分自身を最高の状態に保つように努力していた.全ての筋肉はアスリートのように鍛えられていたし,彼の知性やセンスは思慮深く鋭かった.彼は非常な優越性を示していた.その上,肉体的にも非常に活気に満ちていた.溢れる生命力があった.彼の力と成功のオーラが当りを満たしているように思われた.それは私のところまで広がってきているような気がした.小さな滝を通り過ぎて,そこから小川が流れ出ている,ゆりの花が咲いている小池にやって来た.巨大な柳の木から緑色の葉のついた枝が水中にまで垂れていて,緑色の葉で作られた涼しい,魅力的な洞窟のような木陰を作っていた.私たちは石に腰掛けて,カワセミが放物線を描いて,宝石を散りばめたように飛んでいるのを眺めた.あちこちの浅瀬に,英雄の像が影を作って立っていた.それは,私的で,平和な,田園の風景だった.暴力とは,まったく無縁の世界だった.この平和な美しさを楽しむことが許されていない可哀そうな民衆のことを思ったが,口に出しては言わなかった.彼は私の心を見通したかのように,話した.
 「決められた日にここは公開されていました.しかし,破壊されかる危険性があったので,公開は中止されました.軍隊が行わなかった破壊を,ならず者が行いました.彼らに芸術を鑑賞することを教えることは出来ない.彼らは人間ではありません」

 川の遠くの反対側に,ガゼルのような生き物の集団が水を飲みにやって来て,優雅な角を持った頭を上げ下げしていた.護衛兵は遠くに立っていた.彼と一緒にいて,以前にもまして,彼に親近感を覚えた.私たちは兄弟のようだった.一卵性双生児のようだった.かつてよりも一層彼に引き寄せられたので,私の感情を言葉にした.どんなに彼の親切に感謝しているのか,どんなに彼が友達であることを名誉に思っているのかを,彼に伝えた.何かが間違った.彼は微笑まずに,私の賛辞に感謝もせずに,急に立ち上がった.私もまた立ち上がった.反対岸の動物達は私たちの動きに驚いて逃げ去った.辺りの雰囲気は変わった.それは突然冷ややかになった.ちょうど,暖かい空気が氷の上を通り過ぎたかのようだった.私はこの突然の変化に,理解し難い恐怖を覚えた.それはちょうど,悪夢の中で何かが崩壊する直前にやってくる感覚に似ていた.

 彼が私の方を向いた瞬間,彼の眼はブルーに閃き,危険を感じさせた.
 「彼女はどこにいます?」
 彼の言葉は厳しく,ぶっきらぼうで,冷ややかだった.それは,彼は拳銃を取り出して,私に狙いをつけたかのようだった.私は恐ろしくなった.彼の感情が,ある感情からまったく別の感情へと突然変化して,混乱して,私はただ愚鈍にも口ごもっただけだった.
 「彼女はどこかへ去ったと思います」
 彼は私に冷たい一瞥を与えた.
 「あなたは知らないと?」
 彼の鋭い調子は凍りついていた.私はぞっとして答えることは出来なかった.

 護衛兵が近づいてきて,私たちを取り囲んだ.顔に陰を作り,表情を読み取られないようにするために,あるいは人を不安にさせるために,彼らは制服の一部としてひさしを被っていて,マスクのように顔の上部を被っていた.彼らは非常にタフで,暴漢や人殺しに鉄拳を下したが,彼らは主人への絶対的な忠誠のために裁かれることはない,ということを聞いたことがあるのを漠然と思い出した.

 「それでは,あなたは彼女を見捨てたんだ」
 ブルーの氷の矢が吹雪の中を飛んできたように,彼の視線は私を突き刺した.彼の眼はすぼめられ,私を射た.
 「あなたがそんなことをするとは思わなかった」
 彼の声に含まれる底知れない軽蔑に,私はたじろぎ,呟いた.
 「ご存知のように,彼女はいつも私に敵意を持っていました.彼女は私を追い出したのです」
 「あなたは彼女の扱い方を分かっていない」
 彼は冷ややかに言った.
 「私は彼女を育て上げた.彼女には訓練が必要だった.彼女は人生においても,ベッドにおいても,タフであるように教えなければならない」
 私は話をすることが出来ず,精神を集中することができなかった.私はショックから立ち直ることができないでいた.
 「あなたは彼女についてどんな計画を持っていましたか」
 と彼が聞いた時,私は何も言うことができなかった.彼の眼は始終激しい軽蔑とよそよそしさの表情を浮かべて私を見つめていた.それは私をあまりにも苦しくまた惨めにした.彼の眼のブルーの輝きのために,私は考えることができないように思われた.
 「それでは,私が彼女を連れ戻しましょうか?」
 この短い渇いた言葉の中に,彼は彼女の未来を自由にしようとする意志が読み取れた.そこに彼女の意志はなかった.

 この瞬間,私は彼に以前にも増して興味を持った.私たちは同じ血を分けた兄弟であるかのように,彼とつながっているように感じた.私は彼から疎遠にされることが耐えられなかった.
 「なぜあなたはそんなに怒っているのです?」
 私は彼に一歩近づき,袖に触れようとした.しかし,彼は私から体を離した.
 「それは彼女のためにだけですか?」
 私はこれが信じられなかった.彼と私の間にある絆はそれほど強いはずであった.それに比べると,彼女は私にとって何でもなかった.現実においてさえ何でもなかった.彼女を私たちの間で共有することも出来た.私はその種のことを言ってもよかった.彼の顔は石の彫刻のようであった.彼の冷たい声は鋼も切断できるほど十分硬かった.彼は数千マイルも遠くにいるかと思われた.
 「私に時間が出来ればすぐに,彼女を連れ戻しに行こう.そして,彼女を私のところに留めておこう.あなたは再び彼女に会うことはないでしょう」

 絆はなかった.かつてもなかった.それがあったのは,私の想像の中でだけだった.彼は私の友達ではなかったし,かつても決して私に近い人ではなかった.私と彼が同じ種類の人間であるというのは,幻想以外の何ものでもなかった.彼は私を軽蔑すべきものとして扱った.私は自分を取り戻すためのかすかな企てとして,私は彼女を助けようと努力したと言った.彼は恐ろしく険しくブルーの眼で私を見つめた.私はほとんど彼の眼を見ることができなかった.彼の顔は石像のように,変化しなかった.私は勇気を奮い立たせて,彼の顔を見つめ続けた.ものを言うために,彼の口だけが動いた.
 「それが可能なら,彼女は救われるだろう.しかし,それはあなたによってではない」
 それから向きを変えて,金の肩章をつけた威厳のある制服を着た彼は,あたりをぶらついた.数歩歩くと立ち止まって,私に背を向けたまま煙草に火をつけ,私に一瞥もせずに,またぶらつき始めた.私は,彼が手を上げて,護衛兵に何かサインを送るのを見た.

 マスクをつけた顔が無表情なまま,彼らは近づいてきた.私はゴム製の棍棒で突かれて,急所を蹴られた.私は頭から倒れ,座石の所で頭を打ち,気を失った.これは私にとって幸運だった.意識のない体を殴っても,楽しくないだろうからである.正気に戻った時,彼らがいる兆しはなかった.頭はずきずき傷み,ガンガン鳴り,眼を開けるのにも恐ろしく努力を要した.体のあらゆるところが痛かったが,骨は折れていなかった.痛みで頭が混乱し,何が起こったのか分からなかった.長い時間が経過し,いろんな出来事が起こっていた.私は混乱して,こんなに軽い処置で解放されたのが理解できなかったが,護衛兵たちは仕事を続けるためにやってきた.彼らは放置したところと同じところで私を見つけたけれども,私がほとんど動けなかったので,私を引きずって川の下まで引っ張って行った.全てのものが私の回りで揺れていた.川の流れに落とされた.私はしばらくの間顔を泥まみれにして横になっていた.

 遠くで音がした時,ほとんど暗かくなっていた.遠くから半円をした黒い影が,何かを探しているように,ゆっくりと近づいてきた.恐怖を覚えた.私を探しているのだと思って,動かなかった.しかし,それらは放牧されている動物に違いなかった.というのは,私が顔を上げた時,いなかったからである.ショックが私を現実に戻してくれた.私は体を動かした.私は這って,川べりまできて,川の流れに負傷している頭をつけ,頬骨のところの深い傷を洗い,体についている血と泥も洗い落とした.

 冷たい水が私を生き返らせた.とにかく,何とか,私は公園の門のところまで辿り着き,通りに沿って歩き始めたが,少し行ったら,倒れた.騒々しい若者で満杯の車が祝祭から戻ってくる途中に,私が道路に横たわっているのを見つけて,何ごとかと車を止めた.彼らは,私を祝祭で酔いつぶれた一人だと思っていたのだった.私は彼らに病院に連れて行ってくれるように頼んだ.そこで,医者に診てもらった.傷の出来た原因を何とかでっち上げて,救急病棟のベッドに寝かせてもらった.私は2,3時間くらい眠った.勤務交代のベルが鳴るのを聞いて,目覚めた.担架を運ぶ人が重い足どりで入ってきた.動くことは非常に困難で,まだ,横になって眠り続けていたかった.しかし,それは危険すぎるのが分かっていた.これ以上,留まるつもりはなかった.

 夜間勤務者が到着した時,私は横のドアから暗い廊下へすべるように出て,病院を立ち去った.
(第13章終り)
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アンナ・カヴァン『氷』改訳20

2006-11-27 11:05:18 | Weblog

                          第13章

 本部は戦場から遠く離れたところに建てられていた.それは,大きくてきれいな新築の建物で,大きくてきれいな旗がはためいていた.石とコンクリートで出来ており,屋根の低い,古びて,壊れそうな木造の家々の間にあって,頑丈で,嵩高く,高価で,破壊不能な外見をしていた.正門の歩哨兵を別にすると,戦争を連想させるものは何もなかった.他に護衛兵はいなかった.内部では,安全性のための警備がなされているようにはまったく見えなかった.私は指揮官の酔っ払った時の言葉を思い出した.多分,彼らは戦争するには優しすぎる.最高の技術力を持っており,また国が大きくて,豊かなために,彼らは現実に戦うことで自らの手を汚す必要がないと思っている.そのためにはより劣った人々を雇えばいいのだから.

 私は真っ直ぐに総督の部屋に向かった.その場所は空調が聞いていた.エレベーターは揺れもなく,音もしないで,速いスピードで上がっていった.分厚い絨毯が広い廊下の端から端まで敷かれていた.私が住んでいるむさくるしく居心地の悪いところと比べると,ここは贅沢なホテルのようだった.外ではまだ太陽が輝いていたにもかかわらず,明かりがつけられ,部屋全体は隅々まで照らし出されていた.窓は密閉されていて,開かなかった.そのため少しばかり現実とは思えない雰囲気を醸し出していた.

 制服を着た女性の秘書が,総督は人に会うことが出来ないと告げた.彼は査察の旅行に出ようとしており,数日は帰ってこないとのことだった.私は言った.
 「彼が出かける前に,お会いしなければなりません.緊急の用件です.特別に,はるばるやって来たのです.一分もかかりません」
 彼女は口をすぼめて,首を振った.
 「絶対に駄目です.彼は重要書類にサインをしているところですし,誰も部屋に入れないように言われています」
 彼女の整った顔は頑固で,事情を理解しない様子だった.それは私を悩ました,
 「ちくしょう! 私は彼に会わなければならない! これは個人的な問題です.分かりませんか?」
 私は彼女をゆすぶり,人間としての感情を顔に出させたかったが,そうする代わりに,声を低くして言った.
 「少なくとも,彼に私が来たと伝えてください.彼が私に会うかどうか尋ねてください」
 私が,ポケットの中を探して身分証明書取り出し,メモ用紙に名前を書いているとき,陸軍大佐が出て来た.秘書はそちらへ行って,彼にささやいた.話が終ると,彼は彼自身がメッセージを伝えようと言い,名前を書いた紙をとって,今出てきたのと同じドアを通って,部屋に入って行った.彼が総督にメッセージを伝える気はないのが分かっていた.行動をためらったら,彼に会えないだろう.直ぐに行動しないと間に合わない.

 「あのドアはどこに通じていますか?」
 秘書に部屋のもう一方の端にあるドアを指差して聞いた.
 「ああ,それは個人用のドアです.そこへ入ることできません.それは禁じられています」
 彼女は冷静沈着さを失い,どぎまぎし出した.彼女はまっすぐに問いただしてくる人に対してどのように対応しら良いのかが分からなかった.そのような訓練は受けていなかったのだった.私は言った.
 「じゃ,私はそこから入ります」ドアの方に近づいた.
 「駄目です!」
 彼女はドアの前に跳んできて立ち,私の通路の邪魔をした.彼女の国は力の論理で物事を解決することができると信じていたので,国民は,それがどんなに小さなことであっても,人が実際とは反対のことをするということに慣れていなかった.私は微笑して,彼女を脇へ押しやった.彼女は私の衣服を掴んで引っ張り戻そうとした.ちょっとした小競り合いが起こった.私は,ドアの直ぐ向うから聞き覚えのある声を聞いた.
 「そこで何をしている?」
 私は中へ入って行った.
 「おう!あなたか?」
 彼は特に驚いているようには思えなかった.秘書は入口ではや口で弁明し,誤っていた.彼は彼女に向うへ行くように手を振った.ドアは閉められた.私は言った.
 「お話があります」

 豪華な部屋には,私たちだけだった.寄木細工の床にはペルシャ絨毯が敷き詰められ,時代物の家具が設置され,壁には有名な画家によって描かれた,彼自身の等身大の肖像画が飾られていた.私の着古した安っぽいアイロンのかかっていない制服とは対照的であり,彼の上品で,壮麗な姿が一層強調された.袖口と肩には金の記章が,胸元にはいろんな順位のリボンがつけられていた.彼は立ち上がった.彼がそんなに背が高いとは思わなかった.彼がいつも身につけている堂々たる態度は,私がこの前に会った時よりも一層目立つようになっていた.私は不安になった,私はいつものように彼に圧倒された.私たちの間に,それほどはっきりした違いがあったので,漠然としてはいるが,彼に接触するという考えは不適切であるようなきがして,困惑した.
 「ここでは,あなたのやり方は通用しませんよ.私はちょうど出て行くところなんです」
 と彼は冷ややかに言ったとき,私は戸惑い,ただ繰り返すことが出来ただけだった.
 「私は先ずあなたに話さなければなりません」
 「不可能です.もう遅すぎます」
 彼は腕時計を一瞥して,ドアの方へ進んだ.
 「ほんの少し待ってください!」
 不安になって,急いで彼の前に出た.私はもっと良く彼の事を知っているべきだった.彼の眼はきらりと光り,表情は怒りに変わった.私はチャンスを投げ出してしまったのだった.私は自分の馬鹿さかげんを呪った.多分,彼は私の意気消沈した姿を面白がったのであろう.ともかく,彼の態度は突然変わった.彼は半ば微笑みながら言った.
 「私はあなたと話をするために,戦争を止めるわけにはいかない.話したいことがあるなら,私と一緒に来なさい」
 私は嬉しかった.
 「いいんですか? 素晴らしい!」
 私は大げさに感謝し,突然笑い出した.

 彼が車で通り過ぎるとき,空港への道路は,彼を一目見ようと人で人垣ができていた.人々は道端に立ったり,庭や窓やバルコニーや木の上や板塀の上や電柱柱から覗いていた.長い間待っていた人々もいた.私は彼の民衆への直接の影響力の大きさに感心した.

 飛行機の中で彼の傍に座っていると,他の同乗者の好奇の視線を感じた.空から下を見て,地球を眺めるのは不思議な感じだった.平でもなく,緩やかなカーブを描いていたわけでもないが,視界は球体の一部だった.海は明るいブルーで,大陸は黄緑色であった.頭上は,暗いブルーの夜であった.飲み物が持ってこられ,カチャカチャ音のするコップを手渡された.
 「氷だ!なんと言う贅沢!」
 彼は私のぼろぼろの制服を眺めて,しかめ面をした.
 「英雄になりたいのなら,贅沢を諦めなければならない」
 彼は私をからかい,魅力のある微笑を浮かべた.彼は私に親しみを感じ,興味を持ったらしかった.
 「あなたは,なぜ突然,我々の英雄的戦闘者の一人になろうとしたのですか?」
 私は仕事について話すべきなのは分かっていた,しかし,そうしないで,他の理由を説明した.私のうつ病を治すために,なにか劇的なことをしなければならなかったということを彼に話した.
 「おかしな治療方法だ.あなたを殺した方がもっとよかったのに」
 「多分,それが私が欲していたことだったのでしょう」
 「いいや,あなたは自殺するタイプではない.とにかく,なぜ悩むのです? 翌週にでも,われわれ全部が殺されようとしているというのに?」
 「すぐに?」
 「文字通りではありません.しかし,確かに間もなくですよ」
 彼の眼が瞬きしたので,私は彼が罠にかけているのだと分かった.明るいブルーの瞳が眩い青い光を反射したかのように,閃いた.それは,何か重要なことが言われていないというサインだった.もちろん,彼は秘密の情報を持っている.彼はいつも他の誰よりも先に情報を得ていたのだった.

 豪華な食事が出された.それはあまりにも多すぎて,私は半分も食べることが出来なかった.私は豪華な食事をするのをやめた.しばらくして,私はやってきた目的を言おうとしたが,適切な文章を頭の中で組み立てることが出来なかった.私は彼について考えると,私が来たことにほとんど驚かなかったことに気づいた.
 「あなたがやって来るだろうと思っていましたよ」
 彼の表現は奇妙だった.
 「あなたは,何ごとかが起こる直前にやって来る」
 彼は全く真面目に話していた.
 「あなたは一週間かそこらで,破局がやってくると思っているのですか?」
 「そうだと思いますよ」

 窓のブラインドは閉められ,空は見えなくなった.映画が上映された.彼は私の耳もとでささやいた.
 「スクリーンに出てくる次のお知らせまで待ってください.そのとき,私はあなたにもっと興味深いことを教えましょう.それは秘密ですよ」
 私は好奇心を持って待った.私たちは席を静かに立って,ドアを通り,ブラインドの開いている窓に向かった.私の中で時間が混乱した.頭上全体は夜だった.しかし,下ではまだ昼だった.雲はなかった.私は海に散らばる小島を眺めた.それは何の変哲もない空から見た光景だった.しかし,何か異常なものが世界に現れていた.虹を作りだしている氷の壁が,海から突き出し,空中を横切って水の分水嶺を上方へ押し上げていた.あたかも青く平たい海の表面が,巻き上げられた絨毯のようだった.それは不吉ではあるが,しかし,魅惑的な光景だった.それは見てはならぬもののように思われた.私はそれを見ていたが,同時に他のものも見ていた.氷は世界を被って,広がっていた.氷の山のような壁が少女を囲んでいた.月光のもとで,彼女の肌は月のように白く,髪はダイヤモンドのように輝いていた.死滅した月の眼が,世界の死を見つめていた.
(第13章続く)
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アンナ・カヴァン『氷』改訳19

2006-11-21 12:32:33 | Weblog
                            第12章

 飛行機の中でニュースを聞いて,私は,予想した最悪の事態が起こったことを確信した.世界はいまや最終局面に入っているように思われた.私自身の故国も含めて,多くの国々が消滅した.そのため,残った大国は軍国主義となるのを誰も止めることが出来なかった.小国は分割され,大国の属国になった.2つの大国の指導者は,相手を死滅させるに十分な殺傷力の何倍もの核兵器を所有した.そのため,恐怖のバランスが表面上保たれた.しかし,小国の中にも熱核反応の兵器を所有している国があるということだったが,所有しているのがどの国かは分からなかった.この不確かさのために,緊張が高まり,危機が増大し,最終的な破壊がより早まるように思われた.さらに,死や破壊を求める気違いじみた衝動が群衆の間に発生し,これが人類の滅亡への2番目の可能性になりかねなかった.最初の可能性がまだ起こっていなかったけれども.私は心のそこから落胆し,何か恐ろしいことが起こるのを,一種の大量殺戮が起こるのを,私たちはただ待っているだけのような気がしていた.

 私は自然界を観察してみた.すると,自然界は,迫り来る運命から逃れようとすることは虚しい試みであるという私の思いを共有していると思われた.海は荒れて,波は水平線の方に向かって無秩序に広がっており,海鳥やイルカやトビウオは狂ったように空中を飛び跳ねていた.島はざわめき,透明になり,水蒸気のように海面から上昇して,空中に消えていこうとしているかのようだった.しかし,逃亡は不可能だった.防御を持たぬ大地は破局がやってくるのをただ待っているだけであった.氷の到来による破局か,あるいは爆発が連鎖的に起こり,空を星雲のように被い,全てのものが木っ端微塵になる破局か,そのいずれであるかは分からなかったけれども.

 私は,インドリを探しに,ただ一人で森を抜けて行った.その魔術的な力が,私たちを襲う死の圧力を少しは軽くしてくれるかも知れないと思った.私はインドリを実際に見たのか,それとも夢で見たのかは分からなかったが,どちらでも良かった.その日は暑くてむしむししており,太陽の狂ったように強い光が赤道上に位置する全てのものの上に降り注いでいた.頭痛がひどくなり,体力を消耗しつくした.私は,もはや太陽の燃えるような暑さに耐えられなかった.木陰で横になり眼をつぶった.

 突然キツネザルが近くにいる気配を感じた.あるいは,それらが近くにいるために,絶望や不安の感覚が私から消えたのだろうか? 私は,別の世界からの希望のメッセージを受け取ったような気持ちになった.その世界では,暴力や残忍さは存在しない,絶望とは無縁な世界だった.私は何度そのような場所を夢見たことだったろうか.そこでの生活は地球上の生活の何千倍も感動的で価値あるものだった.今では,そこで生活している生きものが私の傍にいるような気がした.それは私に微笑みかけ,私の手に触れ,私の名前を呼んだ.その顔は穏やかで,公明正大で,時を越えて知的で,善意に満ちて,誠実な表情をしていた.

 その生きものは時空間という存在が幻想であることや過去と未来が融合し,すべてが現在になるということを話してくれた.そのため,私たちは全ての時代を往来することが出来る.その生きものは,私が望むならば,私をその世界へ連れていこうと言ってくれた.そこに住んでいる生きものは,地球の終末を,すなわち,人類の終末を既に知っていた.人類は死に瀕していた.民衆の中には死の願望が広がっていた.自己破壊へ向かう致命的な衝動が人々の中に広がっていた.しかし,生命が生き残る可能性はあった.地球上での生命は終わりを告げた.しかし,生命は異なった場所に移って生きつづけることができた.私たちがそれを選択しさえすれば,私たちはより偉大な生命の一部となって生き続けるのだった.

 私は理解しようと努力した.その生きものは,ある意味で人間だった.いや,人間以上の存在だった.その生きものは,私とは本質的に異なった存在だった.その生きものは,究極の真理である優れた知識を所有していた.その生きものは,その世界だけに存在する自由を私に経験させてくれた.それは私の最奥の自我が切望しているものだった.私は想像すらしたこともなかった経験に興奮した.人間が破滅し,死滅する運命にある世界から,別の,新しい,永遠に生き続ける,無限の能力を持つ世界を垣間見た気がした.ほんのしばらくの間であるけれども,そのすばらしい世界で,より高度なレベルの存在となっていき続けることが出来ると信じた.しかし,私は少女のことや総督のことや地球を覆いつつある氷や戦争や殺戮について考えると,その世界は私の能力をはるか超えたところであるのが分かった.私はこの世界の一部であり,地球上の出来事や人々にどうしようもなく巻き込まれているのだった.私の心の最も奥深いところで欲していることをあきらめることは,心が張り裂けるような思いだった.しかし,私のいるところはこの場所であり,死の宣告を受けた世界であるということを,私は知っていた.しかも,ここに留まって,終末を見届けるようになるであろうことも分かっていた.

 これが白昼夢であろうと,幻覚であろうと,あるいは,実際に起こったことであろうと,いずれであっても,それは今後の私に強い影響を与えた.私はそれを忘れることができなかった.最高の知性と夢みるような高潔な風貌を忘れることが出来なかった.私は虚しさと喪失の思いの中に取り残された.私は貴重な何かを理解したかのように思えた.しかし,私はそれを頭から振り払った.

 私が現在行っていることは重要であるとは思わなかった.私は暴力に加担していたし,自分のやり方を変えることは出来なかった.私は何とか島の中心部へと辿り着いた.そこではゲリラ戦が行われていた.彼らは,西洋の貨幣で支払われる報酬のために参加しており,あらゆることに無関心だった.われわれは,沼地の,潮の満ち引きする川のデルタ地帯で数ヶ月戦った.いつもほとんど,腿の辺りまで泥に埋まっていて,敵に撃たれて死ぬよりも多くの人が,泥の中で死んでいった.結局,われわれは退却した.敵と戦うよりも氷と戦っているようなものだった.氷は確実に近づいてきていたし,死の沈黙で世界を被いつつあった.それは恐るべき真っ白な死滅した平和の光景だった.われわれは,戦争をしていることによって,生きることの証しを求めていたのであったし,地表を這うように迫ってくる氷の死と戦っているような気になっていたのだった.

 私は何か恐るべきことが起こるの前の,奇妙な一時休止の状態に入っているような気がしていた.感情障害が起こっていた.私は私の中に私とは別の人間がいるような感じをしていた.食物を求めて起こす暴動を鎮圧するために,われわれは,機関銃で暴動者と無害な歩行者を無差別に撃ち殺した.私はそれについて特別な感情を持たなかったし,他の人たちに無関心だった.人びとは見物人のように傍観していて,負傷者を看護さえしなかった.私は,しばらくの間,同僚5人と眠るためのテントを共有しなければならなかった.彼らは想像を絶するほどの勇気を持っており,命を危険に晒すという考えや死ぬという考えを持ち合わせていないとさえ思えるほどだった.彼らは肉とジャガイモからなる暖かい食事に毎日ありつけさえすれば,満足していた.私は彼らと話することは出来なかった.オーバーコートを衝立のようにつるし,その背後で眠らずに横になっていた.

 私は総督がまた何かアナウンスし始めたのを聞いた.彼は西の方角の本部にいて,重要なポストについていた.私は彼が大きな権力を持つ国と協力したがっていたことを思い出し,彼が希望を成就した事を賛嘆した.しかし,彼の事を考えると不安になった.私の最後の日々を雇用兵として過ごしているのは馬鹿げているように思われた.私は彼にもっと希望のもてる仕事を世話してくれるように頼みに行こうと思った.問題は彼にどうしたら近づくことができるかだった.われわれの上司は,もっと高い識見のある人に直接接触できる唯一の人だったが,彼は私の頼みを断った.彼は自分の昇進しか関心がなかった.数日間,われわれは,強力な防御体制を持つ建物を攻撃していた.そこには秘密文書があるという噂だった.彼は応援を求めずに,助力なしでその場所を占領して,信頼を勝ち得ようと目論んでいた.私は,ちょっとした策を弄して,彼が建物を占領できるようにし,文書を本部に送れるようにした.そのために,彼は私を非常に賞賛した.

 私の才能に感心して,彼は私を飲みに誘い,昇進を約束してくれた.翌日,彼は私のために個人的報告書を書くつもりだと言った.私は昇進よりも,本部へ連れて行ってくれる方が言い,と言った.彼は私を連れて行く余地がないと言った.私は彼に酒をおごり,彼は半ば酔っ払っていたので,わざと,彼が酔いつぶれるまで飲ませた.朝になって,彼が出発しようとした時,連れて行ってくれるのを彼が約束した振りをして,私は彼の車に飛び乗った.前日の夜は酔いつぶれていたので,彼が言ったことを忘れているだろうと期待してのことだった.それは卑劣な瞬間だった.彼ははっきりと疑っていた.しかし,彼は私を車から放り出すことはしなかった.私は彼と一緒に本部へとドライブしたが,私たちのどちらも,道中一言も喋らなかった.
(第12章終り)

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アンナ・カヴァン『氷』改訳18

2006-11-20 11:02:22 | Weblog
                         第11章

 陽気で破壊を受けていない町.光で眩く,色彩豊かで,自由で,危険がなく,暖かい陽差しに満ちた町.人々の顔は幸福で輝いていた.逃亡は成功し,満足感で一杯だった.過去は忘れられた.長く,困難な,危険に満ちた航海と,それに先立つ悪夢は,記憶から消えた.それが続いている間は,悪夢だけが現実であるような気がしていて,それ以外の世界は失われて,それこそが幻想か夢であるかのような気がしていた.世界は,いまや回復されて,ここに,確かな現実として存在した.劇場があり,映画館があった.レストランがあり,ホテルがあった.あらゆる商品が揃った店があり,自由に買えた.クーポンは必要なかった.その対照は驚異的だった.この変化に圧倒された.ギャップは大きすぎた.一種の興奮状態が生じ,気狂いみたいに陽気になった.人々は通りで歌ったり踊ったりして,見知らぬ人たちがお互いに抱き合っていた.町全体が,祭典が来たかのように飾られた.いたるところに花があり,東洋のちょうちんや豆電球が木につるされた.建物には煌煌と明かりがつき,公園や庭には,色とりどりの明かりがきれいに飾られていた.ダンス音楽のリズムが途絶えることなく鳴っていた.毎夜,花火大会が催され,夜通し,星型の花火やロケット花火が夜空に打ち上げられ,暗い港を照らしながら海に落ちていった.お祭り気分が続いた.お祭り,花合戦,球技,ボートレース,コンサート,行進などが連日催された.誰も他の国で起こったことを忘れたがった.外部からやって来る噂は,法律と秩序を維持する責任ある人以外には,領事の命令によって秘密にされた. 現状維持が最重要課題だった.破局の話をすることは,新しい規則では罪になった.規則は人々に知らせないという選択をしたのだった.

 後になって私がどのようにして過去を忘れたがっていたかを振り返ってみると,盲目的な幸福状態が強制的に作り出されていたのが分かった.私は大多数の人々が喜んだ催しに参加しなかった.私は陽気にはなれなかった.私はダンスをしたり,花火を見学したりして時を過ごしたいとは思わなかった.まもなく,遊んでいる一団やきらびやかなドレスを身にまとっている人たちを見るのが嫌になった.少女は陽気なことはなんでも愛した.彼女は変わってしまった.彼女の生活は奇跡といってよいほど全く新しくなった.彼女からは,弱々しさや頼りのなさが消え去り,彼女は店に走っていって,衣服や化粧品を買いまくり,美容院へ行ったりした.彼女は全く別人になった.もはや内気ではなくなり,私の知らない多くの人たちと友達になり,彼らが彼女の周りに集まってくるので自信をもち,一人で色々なことをし,朗らかになった.私は彼女のかつての面影をほとんど見ることはなかった.彼女は私の処へ,ただお金をせびりにだけやって来たが,私はいつも彼女の要求に応じた.私はそれが不満だった.それが終わることを願っていた.

 私は世界の他の場所で起きていることに無関心でいることはできなかった.私はこの星の運命に巻き込まれていた.私は起こっているどんな事件にも積極的に関心を持ち,積極的に行動した.ここでの終わりのない祝祭にはうんざりし,何か不吉な予感さえした.それは,ペスト流行の始まりを思い出させた.その当時と同様,今では,人々は自分自身を欺いていた.わがままで身勝手な考えによって,安全だと思いこんでいたのだった.彼らが実際に災厄からの逃亡に成功するとは信じられなかった.

 私は気候を注意深く観察した.晴れて,暖かい日が続いたが,暖かさは十分ではなかった.特に,日没後の気候の変化に注目すると,日没後には寒さが増した.それは悪い徴候だった.そのことを話すと,寒い季節に向かっているからだと聞かされた.同様に,日差しはもっと強くなければならないはずだった.辺りを観察して見ると,他にも気候の異常な変化の兆しを見つけた.熱帯庭園の植物が病気になり始めたので,そこで働いている人に理由を尋ねた.彼は疑惑の眼差しで私を眺め,いい加減な答えを呟いた.なおもしつこく質問すると,上司に聞くために呼びにいく振りをして,逃げて行った.私は,変わったもので身を包んで歩いている町の人たちに,私が観察した夕方の冷え込みについて話した.彼らはこの穏和な寒さに対しても慣れてはいずに,適当な衣服を持ち合わせていなかったのだった.彼らは返答に困り,驚いて私を見た.彼らは私を新体制における囮と考えたらしかった.

 私の知識は,政府によって公式に採用されて,飛行機の給油は取りやめることになった.私は政府の代表に会って,他に何か変わったことが起こっていないかと質問した.彼は話そうとはしなかった.私には理由が分かったので,無理強いはしなかった.彼は私の身元を確認できなかったからであった.誤りは避けねばならなかった.絶対的な信頼が必要だった.軽率な発言は避けなければならなかった.いったん誤解が生じれば訂正は不可能だった.ともかく不承不承ではあるが,彼は彼が群島のいずれかの島にいく時には,私を同乗させると約束してくれた.私は地図を見てみると,インドリが住んでいる島はここから遠くはなかった.私は元の職業に戻ろうと思っていたけれども,軍事活動の現場に行く前に,キツネザルのいる島へ小旅行を企てようと決心した.

 私は少女に計画を知らせに行った.早朝,通りの交差点で,行進が通り過ぎていくのを待っていた.彼女は行進の先頭にいた.彼女は先頭を走るニオイスミレで飾られた大きなオープンカーの運転手の傍に立っていたのだった.彼女は私の方を見なかった.見る理由もなかった.彼女の髪は陽射しで青白い炎のように輝いていた.彼女は微笑み,スミレを群集にばら撒いていた.彼女が私と一緒に旅をした少女であるとは信じられなかった.私が彼女の部屋に入って行ったとき,彼女はまだスミレで飾られたドレスを着ていた.繊細な色彩のドレスは彼女の壊れそうな青白い姿に似合っていた.彼女は非常に魅力的な姿をしていた.銀とスミレに飾られた彼女の髪は輝きを放っていて,色合いに調和が取れていて,ほっそりした幻想的な雰囲気が特に魅力的だった.

 後で開けるようにと言って,彼女に,欲しがっていたブレスレットの入った小さな包みをプレゼントした.
 「私はあなたによい知らせを持ってきました.私はさようならを言いに来ました」
 彼女はまごついて,それがどういう意味かを尋ねた.
 「私は今晩出発するつもりです.飛行機で.嬉しくありませんか?」
 彼女はただ黙って見つめていたので,私は続けた.
 「あなたはいつも私がいなくなればよいと言っていたでしょう.私はとうとう行ってしまうので,あなたは嬉しいに違いない」
 一瞬の間のあとで,彼女の声は冷ややかで,腹を立てていた.
 「あなたは私になんて言って欲しいの?」
 私は彼女の言い草に困惑した.彼女は私を冷ややかに眺め続け,突然,痛烈に言った.
 「あなたは自分がどんな人間だと思っているの?」
 皮肉な調子だった.
 「なぜ私があなたを信用しないか,分かったでしょう.あなたはいつも私を裏切るのが分かっていたから.今度もまた...行ってちょうだい.私を残して.前にもそうしたように」
 私は抗議した.
 「それはまったくフェアじゃない.私が行くからといって非難するのは間違っている.あなたがそう言ったのだ.あなたが私と一緒にいようとしないのははっきりしている.ここに来てから,私はほとんどあなたに会っていない」
 「あー!」
 嫌悪の叫び声を上げて,彼女は私に背を剥けて,数歩離れた.

 スカート全体が渦を描き,月光がスミレの花を照らしたように,絹がちらちら光り,嵩のある髪が揺れ,スミレの花に光が当たったようにきらめいた.私は追いかけていき,指先で髪に触れると,命がさざなみをうっていた.彼女の腕は柔らかく,つややかで,光沢があった.肌は滑らかで,かすかな香がした.ほっそりした手首にはスミレが輪を作っていた.私は背後から彼女を抱き,首筋にキスをした.否や,彼女の全身は硬直して,激しく抵抗し,彼女は体を捻って逃げた.
 「私に障らないで! どんな神経しているの...」
 彼女の声は泣きだしそうになりながら泣かずに,かすかな声で言った.
 「あなたは一体何を望んでいるの? なぜ行かないの? 今度は戻ってこないで.二度とあなたに会いたくない.思い出すのもいや!」
 彼女は私が贈った時計と指輪をはずして,私の方へ投げつけた.ネックレスを外そうとして手を首の後に回そうとして腕を上げた姿は,現実には存在し得ないようななまめかしさがあった.彼女を再び抱きしめたいという欲望を努力して抑え,哀願した.
 「怒らないで.このような別れ方をしたくない.いつも私はあなたにどんな感情を持っていたのか分かって欲しい.どんなに苦労して,私はいつもあなたの後を追いかけていたか.また,どんなに苦労して,あなたを強制的に連れてきたのか,あなたは知っている.しかし,あなたはいつも私を憎いと言っていた.私と一緒にいたくないと言っていた.結局,私はそれを信じるほかなくなった」
私は半ばしか真実に言わなかったが,それは分かっていた.私は遠慮がちに彼女の手を取った.手は硬く無反応だったが,引っ込めようとはしなかった.彼女は私にされるがままになりながら,私をじっと見つめた.疑惑や非難や責めの表情が彼女の眼にあった....真剣な,無垢な,陰りのある眼をしていた.きらめく髪とスミレの香が私の手のすぐ近くにあった.威厳のある声で,彼女は言った.
 「もし私がそのようなことを言わなかったら,あなたは私と一緒に留まってくれましたか?」

 この時,残りの真実を話さなければならないと私は思った.しかし,私には何が真実であるのか分からなかった.ただ確かなことは次の言葉だけのように思われた.
 「分からない」

 彼女は怒りを爆発させて,私から手を引き離した.もう一方の手でネックレスを引きちぎると,ビーズが床に飛び散った.
 「あなたはどうしてそんなに薄情になれるのですか? そしてそんなに厚かましく! 誰もあなたほど恥ずべき人はいない....だけど,あなたは...あなたは感情を持っているふりさえさえしない...恐ろしすぎる,憎たらしい...人間とは思えない!」
 私は謝った.彼女を傷つけたくはなかった.私は彼女の憤怒が,理解できなかった.私は何も言うことができないように思われた.しかし,私の沈黙がさらに彼女を怒らせた.
 「向うへ行って! 出て行って! 行って!」
 彼女は突然私に襲いかかり,予期しない力で私を押した.私は後ろによろめいて,肘をドアにぶつけ,痛みが走った.いらだって,私は尋ねた.
 「なぜそんなに私に部屋から出て行って欲しいのです? 誰か他の人が来るんですか? あなたが乗っていたオープンカーの持主が?」
 「なにを言うの.あなたなんか嫌い.軽蔑するわ! 何を知っているの!」
 彼女は私をまた押した.
 「出ていって,なぜ出て行かないの? 行って,行って,行って!」
 彼女は大きく息を吸い込み,私を突いた.私の胸をこぶしで連打した.彼女はあまりに力を入れすぎたので,疲れてしまい,直ぐにあきらめて,壁にもたれかかり,頭を垂れた.彼女の陰になった顔には,傷つけられた感情が現れたが,直ぐに輝く髪が垂れ下がり,顔を隠した.一時の静寂が訪れた.しかし,それは,冷ややかな感情が私に戻ってくるのには十分すぎる長さだった.彼女のいない人生の虚しさ,失望...

 不愉快な感情を追い払うためには,行動しなければならなかった.私はドアのノブに手をかけて,言った.
 「分かりました.今,出て行きます」
 この瞬間でも,半ば引き止められることを期待していた.彼女は動かなかったし,口もきかなかった.何の兆候もなかった.ただ,私がドアを開けた時,かすかな音が彼女の喉からもれた.すするような,むせるような,咳き込むような音が聞こえたが,そのいずれかは分からなかった.私は通りへ出た.ドアを閉めて足早に去って,私の部屋に戻った.

 まだ時間は少し残されていた.スコッチの瓶をとってきて,座って飲んだ.私は自分自身が2つに分裂したかのように不安な気持ちになった.鞄はすでに荷造りされ,階下に運んであった.数分後には,行かなければならないだろう....私が計画を変更しない限りは.結局ここに留まることになるだろう....私はさようならを言っていないのを思い出した.戻るべきかどうか決心がつかなかった.いかなければならない時間がきてもなお,決心がつかなかった.

 飛行場へ行くためには彼女の家の前を通らなければならなかった.私は彼女の家の前で数分間躊躇した.それから彼飛行場へ急いだ.もちろん,私は出発した.狂人のみが,出発するこのほとんど奇跡的なチャンスを無駄にすることが出来ただろう.私にはそれ以外の選択肢はなかった.
(第11章終り)

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アンナ・カヴァン『氷』改訳17

2006-11-18 11:52:11 | Weblog
                      第10章(承前)

 待つことは困難だったけれども,私は数日間待った.時は過ぎた.大規模な災厄が到来するので,時間を無駄にすることは出来なかった.政府は事態を隠そうとしていたにもかかわらず,情報はリークされていた.扇動的な活動が突然,町に広まった.窓から外を見ると,若い男が家から家へと,恐怖のメッセージを手渡しながら,走っていた.瞬く間に,ほんの数分の間に,通りは,鞄や荷物の束を持った人々で一杯になった.人びとは恐怖の表情を浮かべて,ばらばらに,大急ぎで,出発した.ある人はある道を通って,またある人は別の道を通って,出発した.彼らはどこへ行くかという具体的なプランを持っている訳ではなそうだった.ただ,急いで町から出なければという思いだけだった.私は政府が何も手を打たないのに驚いた.効果的な避難計画を作成することができなかったのに違いなかった.そのために,事態を成り行きに任せることにしたのだった.無秩序な集団移動を観察していると,不安になった.今まさにパニックが起こらんばかりだった.避難の準備をしないで,軽食堂に座っているなんて,狂気の沙汰だと人々は思っているに違いなかった.彼らの恐怖は伝染した.破局が切迫しているという雰囲気が私を不安にした.私は望みのある内容のメッセージを得ていたのを感謝した.船が間もなく氷の向うの港の外に停泊するだろうということだった.これが立ち寄る最の船だった.一時間だけ,停泊するということだった.

 私は少女のところへ行き,これが最後のチャンスだということを,だから彼女は行かなければならないことを話した.彼女は拒否した.立ち上がることを拒否した.
 「私はあなたと一緒にはどこへも行かない.あなたなんか信じない.私はここに留まるわ.私の自由よ」
 「何のための自由? 飢えるための?凍えて,死ぬための?」
 私は彼女の体を椅子から持ち上げて離し,脚で立たせた.
 「私は行きたくない.強制しないで」
 彼女は後ずさりして,眼を見開き,壁を背にして立った.彼女を助けてくれる誰か,あるいは何かを待っているかのように立っていた.私は忍耐力を失い,彼女を強引に建物から連れ出し,腕を掴んで,歩き続けた.私は彼女を引っ張るようにして連れて行かねばならなかった.

 通りの反対側が見えないほど雪が激しく降っていた.荒涼とした,真っ白な,死のような,北極の光景だった.極寒の風がおびただしい雪を巻き上げ,羽のように,私たちの傍を通っていった.歩くのが困難になり,吹雪のため,雪が容赦なく顔にぶつかった.あらゆる方向から雪はぶつかってきて,私たちの周りで,狂ったように螺旋の輪を描いた..全てのものが靄で包まれ,ぼんやりとして,あいまいだった.人の姿は見られなかった.突然6人の警察が,吹雪の中から馬に乗って現れたが,ひづめの音もくつわの音も聞こえなかった.
 「助けて!」
 彼らを見て,少女は叫んだ.彼女は彼らが助けて,自由にしてくるだろうと思って,懇願するように,自由な方の手を振った.私は彼女をしっかりと掴み,ぴったりと体を寄せていた.警察たちは笑いながら通りすぎるとき,私たちに向かって口笛を吹き,ふきつける白い風の中に消えていった.彼女は泣き出した.

 ベルが鳴っているのが聞こえた.その音はゆっくりと近づいてきた.年老いた司祭が曲がり角をのろのろ歩いていた.黒い僧侶の帽子を被り,体を二つに折り曲げて,風に向かって歩いていた.集団を引き連れていた.ベルは校庭から子供たちを呼び寄せるためのものと同じだった.彼は歩きながら,それを弱々しく鳴らし続けていた.腕が疲れると,しばらくベルの音は止んだが,震え声で叫んだ.
 「壊滅!」
 彼の後ろから何人かの人が続いて叫び,葬送歌のように繰り返した.ドアのところへ来ると,通り過ぎる前に,1,2分たたずみ,ドアをどんどん叩いた.いくつかの家から,何人かの人々が集団に加わるために,這い出してきた.私は彼らがどこへ行こうとしているのか不思議に思った.彼らが遠くへ行けるとは思えなかった.彼らは皆年老いており,弱々しくよぼよぼだった.若くて体力のある者たちは,彼らを残してはるか先の方に行ってしまっていた.彼ら行列を作ってよろめきながら,弱々しくよたよた歩いて進んだ.彼らの動作はばらばらで,彼らの皺の被い顔は吹雪のため赤らんでいた.

 今では,少女は深い雪の中でよろめいていた.私も息ができないほどだったけれど,彼女を半ば運ぶようにして連れていかなければならなかった.雪の冷たさのために,ほとんど息ができなかくて,息をするためには立ち止まらなければならなかった.吐く息は凍りつき,襟のところで氷柱となった.鼻の粘膜が凍りつき,鼻は氷で詰まった.口いっぱいに極寒の空気を吸うたびに,咳き込み,喘いだ.港に着くには数時間かかると思われた.ボートを見え出すと,彼女は再び弱々しくもがき始め,叫んだ.
 「私は行かない...」
 私は彼女をボートに押し込み,彼女に続いて乗り込んだ.オールを掴み,ぐいと押して,全力を振り絞ってこぎ始めた.

 背後から人々の悲鳴が聞こえたが,私は無視した.彼女のことだけを考えていた.水路はかなり狭かった.両側は凍りついており,氷の壁を作っていた.異常な大声やものが壊れる音や銃音や雷鳴のような音が,分厚い氷に覆われた港から聞こえてきた.顔はひりひりし,手は真っ青になり,寒さのために凍傷になっていたが,船に向かってこぎ続けた.ブリザードで舞い上がる雪の中を通って,舞い上がる飛沫の中を通って,音の反響する氷の中を通って,金切り声やぶつかって壊れる音や血の流れるところを通って,ひたすら船に向かって進んだ.私たちの近くで小さなボートが沈んだ.半狂乱になってもがく手足が水を打つたびに,水面が大きく波打った.溺れる指で,船の側面を引っ掻いたが,私は彼らを追い払った.恋人同士が浮かんでいた.凍える腕でしっかりと抱き合い,浮き沈みしながら水の中を必死に泳いで通り過ぎて行った.突然ボートが激しく傾いた.私はよろめき,連発銃がはずれた.何が起こったのかは分かっていた.私の背後で,人が船の側面を登ってきたのだった.私は撃った.彼は水の中に沈んでいき,水面が赤く染まった.船の側面が私たちの頭上に絶壁のようにぼんやりと姿を現した.

 非常な努力をして,なんとか,私は少女を木の階段に押し上げた.彼女の後から私は階段を昇っていき,彼女をデッキに押し上げた.私たちは乗船することが許された.他には誰も許可されなかった.船は直ちに出港した.成功した.

 私たちは船から船へと移って旅をした.彼女は厳しい寒さに耐えられなかった.彼女は震え続けていて,ベネチアンガラスのように粉々になるかと思われた.バラバラになるのが想像された.彼女は一層やせ細り,一層青白く,一層透き通るようになり,さながら幽霊のようだった.私は興味深く彼女を見つめた.彼女は必要な時以外には全く動かなくなった.彼女の手足はあまりに脆いので,使いものにならないように思われた.季節は移り変わるのを止めた.永遠の冬がやってきた.氷の絶壁が輪郭の不確かな姿を現し,雷鳴が鳴り響いた.それは,時の静止した,輝く,この世のものとも思えない,氷の悪夢だった.日中の陽光は氷山で反射されて,身の毛のよだつような輝きを放っていた.蜃気楼を見ているかのようだった.片腕で,彼女を暖め,支えた.もう一方の手は処刑者の手だった.

 寒さがほんの少し和らいだ.私たちは岸に上がって,別の船を待った.その国は戦争中で,町は甚大な被害を受けていた.使える施設はなかった.ホテルが一つだけ再建されていて,まだ一階だけが使用できるようになっているだけで,部屋は満室だった.私は,宿泊するために,頼み込むことも,賄賂を使うこともできなかった.旅行者は嫌われており,望みはなかったが,そういった状況では仕方のないことだった.町のはずれに作られた外人用の一種のセンターに滞在することができると教えられたので,破滅した郊外を通り抜けて,車で,そこへ向かった.景色からは,木々や庭などのの跡はまったく消えてしまっていて,全てが平らになっていた.立っているものは何もなかった.その向うはかつては戦場だったが,今では荒野になっていて,残骸に覆われていた.

 かつては農場だった場所に,私たちは連れて行かれた.見渡すところが名状し難いほどごちゃごちゃしていた.運搬車やトラクターや乗用車や機械の壊れた破片があたりに放置されていて,古タイヤやわけの分からない器具や粉々に壊れた武器や戦争のための使用品の残骸が散らばっていた.私たちを連れてきた人は用心深く歩き,爆発していない地雷に気をつけるようにと言った.建物の内部も,あらゆる残骸の破片で散らかっていて,原型を想像することが不可能なくらい潰されていた.彼らは私たちをある部屋に連れて行ったが,そこは,床が地面であり,家具は何もなく,壁には穴が空いていて,屋根には板が張られているだけだった.人が3人いて,地面に座り,壁にもたれていた.彼らは黙ったまま,動かず,ほとんど生気がなかった.彼らに話しかけても気にすらしなかった.後になって,彼らは耳が聞こえないのを知った.彼らの鼓膜は破れていたのだった.この国ではいたるところにそのような人々がいた.命を奪うほどの烈風によって,彼らの顔は歪み,唇は裂けていた.重病人が薄い毛布を被って横になっていたが,髪の毛の大きな房が抜け落ち,手と顔の皮膚が剥がれていた.咳き込む度に,櫛の歯が抜けたように歯の抜けた口をがたがた言わせて,どす黒い血の塊を吐き出した.彼は咳き込み,うめき,血反吐を吐き続けた.衰弱した猫たちが出たり入ったりして,うろつき,小さなピンクの舌で血を舐めた.

 私たちは船が来るまでここに泊まらねばならなかった.私は何か集中できるものを探した.外にも内にも何もなかった.野原も,家も,道路にも,何もなかった.ただ巨大な石と残骸と死んだ動物の骨があるばかりだった.あらゆる形をした,あらゆる大きさの石が,あらゆるところに転がり,地面は2,3フィートの下に埋まっていた.石が丘の上を被い,大きな山のようになっているところもあった.私は何とか馬を一頭手に入れて,島の奥10マイルほどの所へ行ってみた.しかし,恐ろしく何もない景色が広がっているばかりだった.あらゆる方向に,石のような残骸が,広い範囲に広がっていた.生命や水が存在する徴候は見られなかった.国全体が生命のない灰色の石で出来ているかのようだった.丘はすべて石で埋まっていた.自然の外形さえもが,戦争によって破壊されていたのだった.

 少女は旅行で疲れ果ててしまい,消耗しきっていた.彼女は旅行を続けることを欲しなかった.彼女は休ませて欲しいといい続けていて,私に,彼女を残して,ひとりで旅を続けてくれるようにと頼み続けた.
 「これ以上私を引っ張りまわさないでちょうだい!」
 彼女の声は怒りに震えていた.
 「あなたは私を苦しめるためにだけ旅をしているのよ」
 私は,あなたを救おうとしているのだと返事した.彼女の眼には怒りが顕になった.
 「あなたがそういうから.私は馬鹿だから,初めはそれを信じたわ」
 私は彼女を喜ばせるために,あらゆる手を尽くしたにもかかわらず,彼女は私を裏切り者とみなすことをやめなかった.これまで,私は彼女を慰めたり,理解しようとしたことはなかった.今では,彼女の長い間持ち続けた敵意のために,私はかなり疲労していた.私は彼女に続いて小さな船室に入って行った.彼女は努力したが,彼女の占める余地はなかった.小船は揺れ,彼女は寝台から落ちた.彼女は肩を床に打ちつけ,柔らかい皮膚は裂けた.彼女は叫んだ.
 「けだもの! あなたはけだものよ! あなたを憎むわ!」
 私を打とうとして,もがいた.私は彼女を下に押さえつけて,硬くて冷たいところに押しとどめた.彼女は叫んだ.
 「殺してやる!」
 すすり泣き,ヒステリックにもがき始めた.私は彼女の頬を平手でぴしゃりと叩いた.

 彼女は私を恐れていたが,彼女の敵意は変わらなかった.彼女の白い,強情な,怯えた,子供のような顔をみると,私はいらついた.気候は,少しずつ暖かくなっていたけれども,彼女はまだ寒がっていた.彼女は私のコートを着るのを拒んだ.そのため,私はいつも彼女が震えているのを見る羽目になった.

 彼女は衰弱していった.肉が溶けて,骨が現れるのではないかと思われるほどだった.髪は輝きを失い,髪さえも彼女には重たくなりすぎ,彼女は頭を垂れるようになった.彼女は俯いて,私を見ようとはしなかった.元気なく,隅っこに隠れて,私を避けていた.船の中をよろめくようにうろつき,躓いた.彼女の弱い脚では,バランスが取れないのだった.私はもはや欲望を感じなかった.彼女に話しかけるのを諦めた.総督の沈黙を真似た.話しかけないことが,どれほど悪意に満ちたことであるのかは,分かっていたが,それしか私の選択がないように思われた.私はそこからいくらかの満足を引き出していた.

 私たちの旅は終わろうとしていた.
(第10章終り)

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