とりあえず本の紹介

私が読んだ本で興味のあるものを紹介する.

アンナ・カヴァン『氷』改訳21

2006-11-28 12:24:53 | Weblog
                       第13章(承前)

 私たちが飛行機を降りると,それははるか遠くの国だった.その町を私は知らなかった.総督は重要な会議に出席するためにやって来たのだった.人びとは,最重要課題として,彼が来るのを待っていた.彼が私を残して急いで行こうとしているようには思えなかったので,私は彼を賞賛した.彼は言った.
 「あなたは辺りを観察するべきだ.ここは興味のある場所です」
 その町は責任者が変わったばかりだった.軍隊が町を破壊しなかったのかどうか尋ねた.答えが返ってきた.
 「我々の中には礼儀正しい人がいるのを忘れないでください」

 立派な制服を着て,彼は私と一緒に,黒と金色をした制服を着た護衛兵に伴われて散歩した.私は彼と一緒にいることが誇らしかった.彼は美しい容姿をしていて,あらゆる方法で,自分自身を最高の状態に保つように努力していた.全ての筋肉はアスリートのように鍛えられていたし,彼の知性やセンスは思慮深く鋭かった.彼は非常な優越性を示していた.その上,肉体的にも非常に活気に満ちていた.溢れる生命力があった.彼の力と成功のオーラが当りを満たしているように思われた.それは私のところまで広がってきているような気がした.小さな滝を通り過ぎて,そこから小川が流れ出ている,ゆりの花が咲いている小池にやって来た.巨大な柳の木から緑色の葉のついた枝が水中にまで垂れていて,緑色の葉で作られた涼しい,魅力的な洞窟のような木陰を作っていた.私たちは石に腰掛けて,カワセミが放物線を描いて,宝石を散りばめたように飛んでいるのを眺めた.あちこちの浅瀬に,英雄の像が影を作って立っていた.それは,私的で,平和な,田園の風景だった.暴力とは,まったく無縁の世界だった.この平和な美しさを楽しむことが許されていない可哀そうな民衆のことを思ったが,口に出しては言わなかった.彼は私の心を見通したかのように,話した.
 「決められた日にここは公開されていました.しかし,破壊されかる危険性があったので,公開は中止されました.軍隊が行わなかった破壊を,ならず者が行いました.彼らに芸術を鑑賞することを教えることは出来ない.彼らは人間ではありません」

 川の遠くの反対側に,ガゼルのような生き物の集団が水を飲みにやって来て,優雅な角を持った頭を上げ下げしていた.護衛兵は遠くに立っていた.彼と一緒にいて,以前にもまして,彼に親近感を覚えた.私たちは兄弟のようだった.一卵性双生児のようだった.かつてよりも一層彼に引き寄せられたので,私の感情を言葉にした.どんなに彼の親切に感謝しているのか,どんなに彼が友達であることを名誉に思っているのかを,彼に伝えた.何かが間違った.彼は微笑まずに,私の賛辞に感謝もせずに,急に立ち上がった.私もまた立ち上がった.反対岸の動物達は私たちの動きに驚いて逃げ去った.辺りの雰囲気は変わった.それは突然冷ややかになった.ちょうど,暖かい空気が氷の上を通り過ぎたかのようだった.私はこの突然の変化に,理解し難い恐怖を覚えた.それはちょうど,悪夢の中で何かが崩壊する直前にやってくる感覚に似ていた.

 彼が私の方を向いた瞬間,彼の眼はブルーに閃き,危険を感じさせた.
 「彼女はどこにいます?」
 彼の言葉は厳しく,ぶっきらぼうで,冷ややかだった.それは,彼は拳銃を取り出して,私に狙いをつけたかのようだった.私は恐ろしくなった.彼の感情が,ある感情からまったく別の感情へと突然変化して,混乱して,私はただ愚鈍にも口ごもっただけだった.
 「彼女はどこかへ去ったと思います」
 彼は私に冷たい一瞥を与えた.
 「あなたは知らないと?」
 彼の鋭い調子は凍りついていた.私はぞっとして答えることは出来なかった.

 護衛兵が近づいてきて,私たちを取り囲んだ.顔に陰を作り,表情を読み取られないようにするために,あるいは人を不安にさせるために,彼らは制服の一部としてひさしを被っていて,マスクのように顔の上部を被っていた.彼らは非常にタフで,暴漢や人殺しに鉄拳を下したが,彼らは主人への絶対的な忠誠のために裁かれることはない,ということを聞いたことがあるのを漠然と思い出した.

 「それでは,あなたは彼女を見捨てたんだ」
 ブルーの氷の矢が吹雪の中を飛んできたように,彼の視線は私を突き刺した.彼の眼はすぼめられ,私を射た.
 「あなたがそんなことをするとは思わなかった」
 彼の声に含まれる底知れない軽蔑に,私はたじろぎ,呟いた.
 「ご存知のように,彼女はいつも私に敵意を持っていました.彼女は私を追い出したのです」
 「あなたは彼女の扱い方を分かっていない」
 彼は冷ややかに言った.
 「私は彼女を育て上げた.彼女には訓練が必要だった.彼女は人生においても,ベッドにおいても,タフであるように教えなければならない」
 私は話をすることが出来ず,精神を集中することができなかった.私はショックから立ち直ることができないでいた.
 「あなたは彼女についてどんな計画を持っていましたか」
 と彼が聞いた時,私は何も言うことができなかった.彼の眼は始終激しい軽蔑とよそよそしさの表情を浮かべて私を見つめていた.それは私をあまりにも苦しくまた惨めにした.彼の眼のブルーの輝きのために,私は考えることができないように思われた.
 「それでは,私が彼女を連れ戻しましょうか?」
 この短い渇いた言葉の中に,彼は彼女の未来を自由にしようとする意志が読み取れた.そこに彼女の意志はなかった.

 この瞬間,私は彼に以前にも増して興味を持った.私たちは同じ血を分けた兄弟であるかのように,彼とつながっているように感じた.私は彼から疎遠にされることが耐えられなかった.
 「なぜあなたはそんなに怒っているのです?」
 私は彼に一歩近づき,袖に触れようとした.しかし,彼は私から体を離した.
 「それは彼女のためにだけですか?」
 私はこれが信じられなかった.彼と私の間にある絆はそれほど強いはずであった.それに比べると,彼女は私にとって何でもなかった.現実においてさえ何でもなかった.彼女を私たちの間で共有することも出来た.私はその種のことを言ってもよかった.彼の顔は石の彫刻のようであった.彼の冷たい声は鋼も切断できるほど十分硬かった.彼は数千マイルも遠くにいるかと思われた.
 「私に時間が出来ればすぐに,彼女を連れ戻しに行こう.そして,彼女を私のところに留めておこう.あなたは再び彼女に会うことはないでしょう」

 絆はなかった.かつてもなかった.それがあったのは,私の想像の中でだけだった.彼は私の友達ではなかったし,かつても決して私に近い人ではなかった.私と彼が同じ種類の人間であるというのは,幻想以外の何ものでもなかった.彼は私を軽蔑すべきものとして扱った.私は自分を取り戻すためのかすかな企てとして,私は彼女を助けようと努力したと言った.彼は恐ろしく険しくブルーの眼で私を見つめた.私はほとんど彼の眼を見ることができなかった.彼の顔は石像のように,変化しなかった.私は勇気を奮い立たせて,彼の顔を見つめ続けた.ものを言うために,彼の口だけが動いた.
 「それが可能なら,彼女は救われるだろう.しかし,それはあなたによってではない」
 それから向きを変えて,金の肩章をつけた威厳のある制服を着た彼は,あたりをぶらついた.数歩歩くと立ち止まって,私に背を向けたまま煙草に火をつけ,私に一瞥もせずに,またぶらつき始めた.私は,彼が手を上げて,護衛兵に何かサインを送るのを見た.

 マスクをつけた顔が無表情なまま,彼らは近づいてきた.私はゴム製の棍棒で突かれて,急所を蹴られた.私は頭から倒れ,座石の所で頭を打ち,気を失った.これは私にとって幸運だった.意識のない体を殴っても,楽しくないだろうからである.正気に戻った時,彼らがいる兆しはなかった.頭はずきずき傷み,ガンガン鳴り,眼を開けるのにも恐ろしく努力を要した.体のあらゆるところが痛かったが,骨は折れていなかった.痛みで頭が混乱し,何が起こったのか分からなかった.長い時間が経過し,いろんな出来事が起こっていた.私は混乱して,こんなに軽い処置で解放されたのが理解できなかったが,護衛兵たちは仕事を続けるためにやってきた.彼らは放置したところと同じところで私を見つけたけれども,私がほとんど動けなかったので,私を引きずって川の下まで引っ張って行った.全てのものが私の回りで揺れていた.川の流れに落とされた.私はしばらくの間顔を泥まみれにして横になっていた.

 遠くで音がした時,ほとんど暗かくなっていた.遠くから半円をした黒い影が,何かを探しているように,ゆっくりと近づいてきた.恐怖を覚えた.私を探しているのだと思って,動かなかった.しかし,それらは放牧されている動物に違いなかった.というのは,私が顔を上げた時,いなかったからである.ショックが私を現実に戻してくれた.私は体を動かした.私は這って,川べりまできて,川の流れに負傷している頭をつけ,頬骨のところの深い傷を洗い,体についている血と泥も洗い落とした.

 冷たい水が私を生き返らせた.とにかく,何とか,私は公園の門のところまで辿り着き,通りに沿って歩き始めたが,少し行ったら,倒れた.騒々しい若者で満杯の車が祝祭から戻ってくる途中に,私が道路に横たわっているのを見つけて,何ごとかと車を止めた.彼らは,私を祝祭で酔いつぶれた一人だと思っていたのだった.私は彼らに病院に連れて行ってくれるように頼んだ.そこで,医者に診てもらった.傷の出来た原因を何とかでっち上げて,救急病棟のベッドに寝かせてもらった.私は2,3時間くらい眠った.勤務交代のベルが鳴るのを聞いて,目覚めた.担架を運ぶ人が重い足どりで入ってきた.動くことは非常に困難で,まだ,横になって眠り続けていたかった.しかし,それは危険すぎるのが分かっていた.これ以上,留まるつもりはなかった.

 夜間勤務者が到着した時,私は横のドアから暗い廊下へすべるように出て,病院を立ち去った.
(第13章終り)