放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

森田療法施設 京都 「三聖病院」閉院 以降

2017年05月26日 | 森田療法・宇佐療法・終焉

現実的には、東福寺の元三聖病院の跡地にできた「三聖モータープール」ができたおかげで、今熊野にある関与先を訪れるとき、便利になりました。

私が、宇佐晋一先生の元で、入院森田療法を受けたのが、19才の時でした。

たまたま、最近、日吉ヶ丘高等学校の同窓会のお知らせが来ていたので、思い出しました。

森田療法の原法に沿った入院療法については、すくなからずの入門書や解説書が出ているので、ここでは、あまり触れません。

 

当時は、まだ、現・京都森田療法研究所の岡本 重慶先生が来られる前で、高齢の精神科医が、宇佐先生のサポートをされていた。そのサポート医は、その診療が終わると、宇佐先生の診察室に一緒に行き、指示を仰ぐのが常でした。

とある日、いつもの通り、宇佐先生の診察室のドアを開いたところ、藤森中学の同窓生で、顔なじみのあるの方が、まさに、宇佐先生の診察を受けておられる事態に遭遇したのでした。

私は、見てはいけないものを見たような衝撃を受けたが、「そのまま」ずっと、こころに秘めていました。

その偶然的事態が、2回あったので、強く記憶に刻まれています。

確か、その方は勉強もできたし、ボランティアもされていたので、何か、その方は、ごく軽症な問題で来られているのだろうと思っていた。

また、ある意味では、「見るなの禁」をも連想されたものです。

当時は、私が、重篤であると思っていたので、それを知られてしまったことへの不安もありました。そのため、話しかけることもありませんでした。


それ以降、なんで、あのように立派な同窓生が、このような森田療法施設に来ていたのかは、ある種の「公案」として、心の片隅にありました。


日吉ヶ丘高等学校の同窓会の度に、そのことが連想されます。

 

私にとっての森田療法は、すでに何回か書いているが、正当な精神療法として、私自身のバックボーンのひとつになっているものです。

ただ、約3ヶ月の入院療法により、卒業してからは、44年間、一度も、三聖病院を訪れることはありませんでした。

 

亡父も、一時期、三聖病院の外来を利用させて頂きました。

当時の父は、一時期、仕事がうまくいかない時期があって、今で言う軽症の「うつ病」であったのだろうと思います。

 

宇佐晋一先生には、若い頃、大変お世話になり、ありがとうございました。